運動論と「不動の矢」


運動の矛盾

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作成日 2015/2/18

運動とは何か?

物体の位置が時間とともに変化すること。物体の運動を表わすには,物体の各点の位置を時間の関数として与えればよい。物体の任意の運動は,その各点が代表点と平行に動く並進運動と,その代表点のまわりの回転運動との合成運動とみなせる。

そんなところか。

ところで、この運動は矛盾に満ちている。

現代における一般的常識的客観的「運動」のとらえ方は「客観的点時刻表示」である。この「客観的点時刻表示」、非常に矛盾している。「客観的点時刻表示」の「時刻(時点)」の時間間隔は厳密に正確に言うと、「0(ゼロ)」である。時間間隔がゼロになってしまうとおかしなことになる。 ゼロと言うのは「無」である。つまり、「時刻」における「世界」は「無」に収まっていることになる。世界とは有だ。これは明白だ。だが、有である世界がゼロつまり無の中に収まっていることになり矛盾する訳だ。

さらに、ゼノンのパラドックスで「不動の矢」というものがある。

飛んでいる矢のどの瞬間を取っても矢は静止しているはずだから、つまり、矢が飛んでいる間の全ての瞬間に矢は静止しているのだから、矢は運動しているとは言えないという議論だ。

ウィキペディアには、このような記述がある。

「哲学的には、数学的な前提に立った場合のように、このパラドックスは「間違っている」とは見なされない。極限や収束をどう理解するかと、特に「仮に有限を無限の回数の加算の結果と『見なしうる』ということから、現にそうした無限個の『加算されたもの』から『構成されている』と言っていいかどうか」が、このパラドックスでは問題になる。 つまり確かにパラドックスの結論は不合理なもののように見えるが、それは「不連続な複数の単位から構成される連続という(原子論者の考えたような『多』の)立場を前提にすると不条理に陥る、ゆえにこの『多』という仮定が間違っており、連続は『一』が基底的な属性であって、より基底的な『多』から「一」が構成されているとはいえない」という背理法の論法なのである。 それが「無限に切り分けられる」ことと「無限に足し合わせられたものからなっている」ことは、一見同じことのように見えるが違う。そして現実の運動連続について、前者は言えるが、後者はいえない。 「線を無限に分割して、無限にたくさんの点を見い出せる」ことから「線が無限にたくさんの点からなっている」とは言えない。ゼノンやエレア派的にいえば、無をいくら足しても有にはならない。有がある以上、どこかに有の起源が無ければならない。長さゼロの点から長さ一の線を作る事は出来ない。ゼロをいくら加算してもにはならない。しかし線と線の交点として点を定義する事は出来る。 これは不動の矢のパラドックスにおいてより根本的に現れており、いわゆるこの動かない動く矢は、あくまでも運動の或る瞬間の概念的切片であって、現実に特定の瞬間に特定の位置を占めているそうした要素的断片が実在的に「存在」し、その加算として運動があるわけではない。連続がまずあって、それを切片に切って把握することができるのであって、要素的な断片がまずあって、それが合わさって連続が構成されているのではない。(ピュタゴラス派的「数字」や「点」の議論)運動という連続は「多」からなっているわけではない。 さらにいえば「パラパラマンガやアニメのようなものとして、現実の連続性を理解することはできない」ことが、このパラドックスの、そしてエレア派の問題にしていることなのである。」

とまあ、かなり苦しい。明らかに不条理で矛盾している。「連続」、『ー』、「基底的な属性」とは何?なんら根本的な解決になっていないのでは。むしろ、混迷の度を深めているといえそうだ。 物体の位置が、主観外の動いている物体の中心に実在し、それが糸を引いているとでもいうのだろうか。そもそも、運動というのは主観的とらえ方であって、 動いている物体自体ではない。位置も座標軸も主観的なもので、主観外の客観的外界に実在するものではない。そう考えてもまだ不条理、矛盾を感じざる負えない、 まだ納得がいかないと思う方は結構おられるかもしれない。何故か?思うに、物体が在る。そして、それが動く。物体がまず在って、それが動く。という固定概念に 囚われているからなのだろう。

「在る」ということは、「動いている、動く」ということと違うことだろうか?両者は同じことではないのか?在るということは動いているということであり、 動いているということは存在しているということなのだ。運動というとらえ方には、物体の基本的根源的な状態が「静止」であるという固定概念が見られる。 つまり、物体が動くととらえる。だが、そうではない。物体、存在の基本的根源的状態は「動」であり、「静」ではない。「在る」ということと「動いている」 ということは同じことなのだ。どんなに少なくとも、「動いている」ということは「存在する」ということに含まれる。物体、存在の基本的根源的状態が「静」 であるという思いは、人間の日常的レベルの「相対静止」に根差していると考えられる。客観的外界には、基本的根源的状態が「動」である物体、存在があり、 そこには、未来も過去もない、しいていえば現在のみ。さらに、時間の概念も取り払えば、単に、躍動する存在が位置の糸を引かずに混沌としてある。ただそれだけ。




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