唯物論的時間


唯物論の立場での時間と存在

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作成日 1998/1/16

唯物論の立場で「時間」と「存在」について述べる。
「存在」は「現存(現在の存在)」のみで、「時間」は脳内にのみある。どのようにあるか
というと、「脳内における増加する情報」の「順序」と「順序を維持しつつ増加していく
という方向性」としてある。脳外には「時間」は無い。すべて「存在」は「常に現在のみ」
においてあり、その状態は「動いている」状態である。未来は無く、過去は、ことごとく
消滅する。残るのは「現存するデータ(記憶、光なども含む)」のみである。「常に現在のみ」
ということは、「時間」が無いことと等しいといえる。


「過去の存在」は「感覚」を生み出さない。「感覚」は「現存」のみで事が足りる。
「過去の存在」が客観的実在であったとすれば、その記憶のあるなしにかかわらず、
それは実在する。つまり、記憶は「過去の存在」の実在根拠ではない。したがって、
記憶があるから、「過去の存在」があるとはいえない。主観(脳、その他)は「現存」
のみで事が足りる。


ここで、仮説を立てたい。


仮説:唯物論は正しい。そして、存在(空間、主観=(脳・その他)を有する人間、も含む)
は、すべて現存のみである。存在すなわち現存、現存すなわち存在、存在=現存
である。現存とは、「現在の存在」という意味である。それでは、「現在の存在」とは
どういうものかというと、「実際に存在し、動いている」というものである。


この仮説を覆すことができるだろうか。一方、もう一つ仮説を立ててみる。


仮説:唯物論は正しい。そして、存在(空間、主観=(脳・その他)を有する人間、も含む)
には、過去の存在、現在の存在、の二形態ある。


この場合、「存在」は「実際に存在しているもの」という程度の意味だから、過去の存在、
現在の存在、はそれぞれの時刻において絶対静止の状態で、実際に存在している。
それぞれの時刻の時間間隔はゼロである。ゼロが無限個、集まってもゼロだから、無限の
過去の存在と現在の存在が、ゼロつまり無の中にあるということになる。つまり、この仮説
は矛盾している。




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