「ガドルフの百合」と賢治の「愛」


 宮沢賢治は生涯孤独を通しました。  宮沢賢治の女性関係?については、若い時に肥厚性鼻炎で入院した病院の看護婦・ 高橋ミネに対する一途な(一方的な)想いが父親の猛烈な反対にあって終わって以来、 全て自分のほうから拒否しているような節があります。

 これは、恋愛感情を「ある個人」に対してではなく、「全ての人」に対して持つもの (宗教愛)として昇華していこうとしたのではないかとも思えます。そして、「ガドルフ の百合」はその過程をあらわしたものではないか?との説があります。
以下、この作品のあらすじです。

 旅を続けるガドルフ。すぐ近くと言われた町はまだ見えてこない。 夕方になり急に降り始めた大雨を避けるために、ガドルフは無人の家に入る。
 窓の外には10本ほどの白い百合の花が咲き、雨風に翻弄されている。 (おれの恋は、いまあの百合の花なのだ。砕けるなよ。)という願いも空しく、ガドルフの百合の花の一本は折れてしまう。
 (おれの恋は砕けたのだ)と気力を失い、眠りに落ちるガドルフ。 二人の男が格闘する夢を見て目を覚ましたガドルフは、嵐が過ぎ去ったのを知る。
 1本は折れたものの、残りの百合の花は嵐に負けないで咲いていた。ガドルフは「おれの百合は勝ったのだ」と知り、次の町へ向けて出発する。


 この作品は、一人の女性への恋愛と挫折、そして宗教愛への昇華の過程を示したものとして読むこともできます。 ガドルフが立ち寄る無人の家についても、その描写から「病院・療養所」の様にも思えることから、 そこに咲く(後に嵐で折れてしまう)百合は高橋ミネへの想いを暗喩しているのかも知れません。
 一見唐突に思える「二人の男が格闘する夢」にも、「恋愛から宗教愛への変革における自己の内面の葛藤」 (若しくは「父親との対立」?)という理由付けができます。

 しかし、「おれの方から妻にしたいと思う人間がいないから独身でいる」という(それが冗談半分か本心かどうかは不明ですが)話をしていた、 とか「性欲の乱費は良い仕事を生まない」と話していたという記録も残っており、結局よくわかりません。(^_^;)

 しかし、「結婚する」「子供を持つ」という経験をすることで、誰もがそれまでとは違う何かを得ることができる筈で、 それを経験せずに亡くなったのはやはり惜しいことだったと感じずにはいれません。

(ちなみに、生誕100年時に作られた映像作品「宮沢賢治その愛」は、こういった賢治の女性関係「だけ」に着目した異色作です。)


*この文章は、以前掲示板「ポランの広場」に記載したものを再編したものです。 内容については、研究資料・評論等を参考に私感を交えて纏めたもので、絶対的なものではありません。 本作品については他の解釈(例:天沢氏「死への旅程を意味している」等)も多数あります。


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