扉を開けると香ばしいにおいがふわっと鼻をくすぐる。 大神一郎は、後ろ手でドアを閉めながら口の中に唾液がわき出すのを感じてにやりと笑った。 「ふふふ、今宵のコテッチャンは飢えて居る。コテッ!コテッ!コテッ!コテッ!コテッチャァアン!キビシーっ!」 何やら近藤勇が聞いたらがっかりするようなことを呟きながらも今日の大神は気合い十分であった。 今日は特別な日。 大神は両手で頬をパシンと叩いて更に気合いを入れると階段を下りて厨房へと向かった。 ********************************************************** 事の起こりは帝撃恒例の宴会だった。 料理の準備をするマリアを手伝って作ったボルシチを、味見のため食べたマリアが浮かべた表情がひと月たった今でも大神の脳裏に焼き付き離れない。 「10点というところですね。………どうしてこんなことになってしまったの」 そう呟くマリアの碧の瞳には深い絶望と哀しみの色が浮かんでいたのだ。 「女の子にあんな表情させちゃいけない。今度こそマリアに旨いボルシチを食べさせてやるぞ!」 そう心に誓った大神は、夜の見回りが終わると同時に厨房に籠もり特訓を重ねた。 そんなある日。 「ダメだっ!人参がどうしても上手く切れない!」 まな板の上に顔を埋めて己のふがいなさに肩を震わせる大神の耳に突如としてギターの音色が響く。 ♪ジャラジャラジャラジャラリ〜ン 「♪きぃたぐぅにぃいのぉ〜、たぁあびのぉそおらぁ〜、ながれぇるぅくぅもぉいぃずぅこぉ〜………」 ハッとして大神が顔を上げるとそこには純白のタキシードに赤影のような仮面、頭にはシェフ帽というかなり怪しい出で立ちの男が、やはり真っ白なギターをかき鳴らしながらやや調子っぱずれの甲高い声で歌いながら立っていた。 「な、何だねチミはっ!ここは部外者立ち入り禁止だぞ!」 「何だねチミはってかっ?!そうです、私が変なおじさんです!」 「渡り鳥か変なおじさんが一つにしてくれ!キャラ混じりまくってるぞ! …ってそうじゃなくて、一体どうやってここに入ってきたんだ? ここはかなり警戒が厳重なはずだけど、その警戒網をかいくぐってくるとは貴様ただ者じゃないな?まさか降魔?」 「ふっふっふっ、君の悩みを解決してあげようとして来たのに子馬扱いはないんじゃないか?私は立派に成人しておる」 「俺の悩み?」 「貴様今私のボケを軽く流しおったな(ToT)。 …まあいい、お前は今ボルシチが上手く作れなくて悩んでいるのだろう?」 「な、なぜそれを?」 「ふふふ、私を甘く見てもらっては困る。ボルシチ一筋30年。厚木慕瑠七とは私のことだ!」 「あんたどう見ても30歳以上には見えないぞ。いかにも偽名臭い名前だが、要するにボルシチの作り方教えてくれるって事ですか?」 「そういうことだ」 「じゃお願いします」 「いやにあっさりしてるな。まあいい。思い切りのいいことは良いことだ。早速始めるとするか」 怪しい男はまな板の前に立つと包丁を手に取った。 「ボルシチ作りの極意その1!人参は金土に切るべし!♪ちゅらちゅらちゅらちゅらちゅらちゅらら〜、ちゅらちゅらちゅらちゅーりゃーりゃー」 そう言って男は人参を切る。 目にも留まらぬ包丁さばきが残したものは見事に同じ厚さに切られた人参だった。 「す、すごい!でも何故金曜と土曜に?」 「そうすることによって均等に切れるからだ」 「なるほど!そうだったのかっ」 「幸い今日は金曜の深夜。絶好の人参日和だ」 「よし!やってみるぞ」 張り切って人参を切り始めた大神の包丁さばきが残したものはやはり大きさの不揃いな人参の切れっぱしだった。 「な!金曜に切ってるのに全然駄目じゃないですか!あんた騙したなっ!」 「騙したとは人聞きの悪い。ちょっとコツを言い忘れただけじゃないか」 「コツがあるんなら、サッサと言って下さいよ」 「うむ、すまんすまん。コツはチャーシュー麺だ」 「は?」 「チャー・シュー・麺と言いながら切ると均等に切れるのだ」 「あんた、まさか向太陽か。それにしては体型が違うしな。…ん?待てよ、それと金土に切るのと何の関係が在るんだ?!」 「ま、細かいことはいいじゃないか。要するに人参がうまく切れればいいんだろ」 「それもそうですね。よしやるぞっ!」 立ち直りの早いのが大神のいいところである。 この切り替えの早さが彼を帝国華撃団花組の隊長たらしめている最大の理由であった。 頭の固い陸軍軍人などがその任に当たったなら三日で胃に穴があくであろう。 妖精のようにきまぐれなうら若き乙女たちとつきあうのはそれほど大変と言うことである。 いずれにせよ再び気合いを入れた大神は包丁を握ってまな板の前に立つ。 「狼虎滅却ぅ〜・『チャー、シュー、麺!』」 白き霊光ほとばしり見事人参は均等に切られていた。 「やった!やったぞ!ついに人参が綺麗に切れた!ん?!」 確かに人参は均等に切られてはいた。しかしその大きさたるやとても食べやすい大きさとは言えない。要するに切る回数が少ないために一個々々の切れっぱしが大きすぎるのだ。 「これじゃ駄目だ。こんな大きさじゃ火が通らない」 「はっはっはっ、そんなときはチャーシュー麺を頼むときのことを思い出せばいいんだ。 お前、確かネギが好きだったな。そして麺は固茹でが好みだっただろう?」 「そうか!分かったぞっ!」 「狼虎滅却ぅ〜、『チャー・シュー・麺・ネギ・大・麺・固・めっ!」』」 めくるめく光が薄れた後には見事に食べやすい大きさにそろえて切られた人参が残った。 「見事だっ!では第二段階だな。ボルシチ作りの極意その2!味付けはお絵かきデートでやれ!」 「ボルシチの味付けにこじつけてデートができるとは!まさに一石二鳥!」 「はやまるな、猛り狂う青春の奔馬を鎮めよ若人よ!残念ながらそういうことではない」 「ま、また騙したなっ!」 「だ、騙したって…お前が勝手に間違えただけだろう!いいかよく聞け。 ボルシチの味付けに使う調味料は トマトペースト、あぶらみ、ワインヴィネガー、トマトケチャップ、塩こしょう だ。この順番さえ覚えておけば後は分量の数字を覚えるだけでバッチリだ」 「そんな複雑なこと無理だ」 「ふふふ、だからこそお絵かきデートなのだよ。いいか、よく聞けよ。 ぺースト、あぶらみ、酢(ヴィネガー)、ケチャップ、塩こしょう、の頭だけつなげるとペアスケッチしようになるだろう! 「な、なるほどっ!」 「よし納得したところで味付けの比率を言うぞ。トマトペースト大さじ3、あぶらみ大さじ2、ワインヴィネガー大さじ1、トマトケチャップ大さじ2、塩こしょう1ふり」 「32123、サニー兄さんだな」 「まずトマトペーストだ」 「ペーストは1番目だから大さじ3杯だ」 「次にあぶらみを入れよう」 「あぶらみは…2番目だから大さじ2杯だな」 「よし、次はトマトケチャップだ」 「ケチャップは…4番目だから大さじ2杯だな」 「塩こしょうはどうだ?」 「塩は5番目だから1ふりだ」 「最後にワインヴィネガーだ」 「酢は3番目だから大さじ1杯だ」 「ふっ、見事だ若者よ。では最終段階だな。ボルシチ作りの極意その3!火加減は度胸!」 「ふふふ、あやめさんのシャワーを覗いたこともある俺です。度胸なら誰にも負けませんよ」 「ふっふっふっ、甘いな。その度胸じゃない。度胸とはこれだ! 『なんみょーほーれんげーきょー、なんみょーほーれんげーきょー』」 「それは読経やろが!文字でしか分からんボケするな!それにお経が何の関係があるってえのよ!?」 「火加減はお経のリズムで調整するよろし!お経にあわせて指を動かせばよろし! 微調整はマリアさんの顔色を窺うよろし!目が点になったらお経を早め、 くわっと目を剥いたらペースを下げるよろし!これが度胸いうことあるよ」 「なんでいきなり中国人?それに人の顔色窺うののどこが度胸なんだよ!」 「中華料理は炎の料理ある!ゆえに炎を征する者は中国人でなければならんあるよ! でもマリアさんは炎より怖いある。 『あマリアさんが怒ってる、どうきよう』なんつってあるよ」 「なるほど!ちゃんと理由があったんですねっ!よしそうと分かれば煮込むぞ!」 大神は煮込みの間中ひたすら法華経の題目を唱え続けた。 「よし出来上がったようだな。味見をしてみよう」 二人は出来上がったボルシチをお玉にとってズズっとすすり上げた。 「♪きみぃのかぁたにぃい哀しみぃがあぁ、雪のよおにつぅもるぅ夜にはぁ…」 「♪だぁれぇもがあぁ、って、それは浜省やろがっ!違うだろ、ハラショーだよハラショー!」 「うむ、そんな細かいことはどうだっていい。それより完璧な味付けだっ!」 「やった!」 「89点と言うところだな」 「ぐわっ、それのどこが完璧なんだぁっ!」 「ふっ、まだまだ青いな。100点満点のボルシチは確かに旨い。だがそれだけだ。 決定的に足りないものがあるんだよ」 「足りないもの?」 「ふ、それは熱さだ!満点は飽和!飽和即ち停滞! 停滞するものに熱さはない!熱さとは無限に上昇しようとする意思なのだっ! 俺の作るのは熱いボルシチだ!だから満点でないことが完璧なのだっ!」 「なるほどっ!しかしそれなら99点でも良いのでは?」 「ふむ、成長したな。99点でなくて89点であらねばならない理由はちゃんとあるのだよ。だがそれは自分で考えるが良い。俺が教えることはもうない。後は決戦の日まで精進せよ」 「ありがとうございましたっ!」 「はっはっはっ、なんのなんの。お前の役に立てて俺は幸せだなぁ。さらばだ、とおっ」 そう言って怪しい男は窓から姿を消した。 「しかし今の声、昔どこかで聞いたことがあるような気がするんだが…」 近い将来もう一度この男と再会することになることを今はまだ知る由もない大神であった。 「まっ、いいかっ!もう一度味見だ」 そう言って大神は再びボルシチをすすり始めた。 妙に食が進む。次々と大神の口の中に消えていくボルシチ。 「ん………まさか89点の意味とは!」 ************************* 暗転 ************************* 「えぇ〜っ、今回のポイントは89点ですぅ。なぜ、慕瑠七は89点が最高だと言ったのでしょうっかっ。ヒントは直上の私の行動です。解答はこのあとすぐ。大神一郎でした」 ********************************************************** 「隊長、こんなところに呼び出して何かご用ですか?」 「実はマリアに是非味わってもらいたいものがあるんだ。まあそこに座って待っててよ」 つい先ほどまでピロシキを揚げていたマリアを再び厨房に呼び出した大神はそう言うと手早くエプロンをつけ包丁を握った。 「狼虎滅却ぅ〜、『チャー・シュー・麺・ネギ・大・麺・固・めっ!」』」 すぱぱぱぱあぁん 「す、すごい」 「マリア!今日のボルシチの味付けは?!」 「え?トマトペースト大さじ2、あぶらみ大さじ3、ワインヴィネガー大さじ3、トマトケチャップ大さじ2、塩こしょう1ふり、です」 「よし!ペアスケッチしよう、兄さんさぶいだなっ!」 しぱしぱしぱっ! 「なんみょーほーれんげーきょー、なんみょーほーれんげーきょー………」 ぽくぽくぽく、ちぃ〜ん! 「よし!完成だ!マリア!俺の作ったボルシチ食べてみてくれ!」 大神は出来立ての熱いボルシチをマリアの前に置くと自分は隣に腰かけてマリアを見守る。 「あ、ありがとうございます。では食べさせていただきます ………♪この街のぉ Main Street わずかすぅひゃくめぇとるぅう〜! はっ、私ったらなんだか心が熱くなって思わず浜省を歌ってしまったわ。 でもハラショー!隊長!とっても美味しいわ!89点というところですね! 惜しい!あと1点でご褒美画像だったのに!」 そう言いながらもマリアはボルシチをぱくぱく食べている。 「いや89点でいいんだよ」 「え?なぜですか?………あら?隊長…不思議です!このボルシチを食べるとなんだかとても元気が出ます!それにこんなにぱくぱく食べられるボルシチって初めてだわ」 「まさにその通りなのさ。89点くらいのボルシチが一番よく食べられるんだよ。 そう、ぱく(89)ぱくってね。たくさん食べて元気になってくれる方が嬉しいのさ。 この前俺は君に哀しい思いをさせた。だからどうしても俺の料理を食べて君に笑って欲しかったんだよ。 このボルシチにはそういう俺の熱い心が込められているのさ。 だからご褒美画像なんていらない。君がハラショーって言ってくれたときの顔だけで俺には十分だよ」 「た、隊長。私なんかのために」 スプーンを置いたマリアの手と大神の手が重なる。 マリアの頬に薔薇が咲く。 「今日は月が綺麗だ。少し散歩でもしようか」 「はい」 二人のシルエットが寄り添い厨房を出て行く。 明かりの消えた厨房の暗闇には、きれいに平らげられたボルシチの残り香だけがふわふわと漂っていた。 (了)
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