「おやじの三種の神器」: | 駄洒落、下ネタ、説教。ただしサクラBBS周辺では下ネタ、説教は封印している。
|
「完全無欠の卑怯者」: | いついかなる局面でも卑怯に徹する人。何事にも徹する人にはある種の敬意に近いものを抱かされる。
|
「ないしょ」: | といっても仕方ないか。実はすみれさんが一番好き。 次点はマリア、レニ、織姫。
|
「議論」 | 武臨はアナログ人間である。
よって感情の交じらない議論が成立するとは信じていない。つまり人間同士が議論を行うと必ず感情的な反応を引き起こすと思っていると言うことである。 自分の意見を否定されるようなことを他人から指摘されれば例え理屈では相手の言うことが正しいと思っても感情が納得しない。よって屁理屈でも難癖でもつけて相手を否定しようという気持ちが芽生える。この負の感情がトラブルの元である。
その結果、最もクールに論理重視の話し合いをする場であるべき大学などの機関に於いてさえ、学問的立場の違いが結局は感情的な揚げ足の取り合いに堕してしまう。
そんな例をいくつか身近に見てきた私は感情の交じらない冷静そのものの議論はバルカン星人以外には不可能であると考えるに至った。
そしてそんな負の結果しかもたらさないような議論なら、しない方が有益であるという考えを持つことになったのだ。お互いに良い結果を得たいと思うなら相手の感情をも納得させられる「論理」を示すべきだろう。ここでいう「論理」とは純粋な論理のことではない。相手の感情的反応をも計算に入れた論理である。したがって純論理的には最上と言うわけではない場合もあるだろう。一つには「譲歩」という手法がある。自分の主張と相手の主張の妥協点を探るという作業である。残念ながらこれが出来ない人の方が多いようだ。例え最初はそう言う態度で議論に望んでいても少しの感情的なもつれからたちまちメッキが矧がれてしまうことが多い。
非ネットの直接接触を伴う議論でもこの有様である。これがネット世界の場合になるともっと悲惨な結末になることが多いようだ。
一つにはネット世界では各人が匿名性に守られて攻撃性が増すからと言えるだろう。
そしてもう一つには現時点でのネット世界における議論は文字だけに頼っているからと言えるだろう。
例えば普段何気なく喋っていることでも文字におこしてみると、とんでもなくキツくなっているのが分かる。
人間の情報源は視覚がその大部分を占めると言われているから普段の会話の場合、相手の表情、仕草などからの視覚情報があるために言葉の内容そのものの意味が薄められている。
だから文字に起こしてその意味だけを抽出されるようになるとキツくなるのは無理もないことだ。
この事から考えると、感情的にならないように、ケンカにならないようにとしようとすれば言葉の使い方に常に注意して柔らかい表現にするしかない。皮肉な表現を用いるなどもってのほかである。しかし現実にはネット論客達にはなぜか皮肉な口調で書き込みをする人が多い。(皮肉なやりとりを楽しめるような可能性があるのは大人民族であるイギリス人くらいのもんだろうと個人的には思う。漢民族も大人だとは思うが彼らの場合はもっと茫洋としてつかみ所がない。)
穏やかな表現で感情的な対立を少しでも和らげることは議論をしようとする場合の最低条件だと思う。これが徹底できれば「論理的な」話し合いもある程度はできるようになるかもしれない。
しかし私が今まで見た中では「議論」が白熱して感情的なもつれが出てくると件の皮肉な口調が顔を出し始め(これは劣勢な方が出し始めることが多い)、相手もそれに引っ張られる形で泥沼へというのがパターンである。
見ていてウンザリである。しかもお互いにとっても不幸である。しかもネット上では間接接触だからタイムラグがあるため一度もつれ始めた感情がさらにもつれる時間は十分にあるのだ。だからストレスがたまる。こういうわけで私はせめてネット上ではそういう当事者にはなりたくないのだ。
どうせイヤな思いをするなら、せめて議論やケンカは物理的に相手と面つきあわせてまたは拳を交えて行いたい。
アナログな武臨にはそうでないと手応えが感じられないのである。
|
「猫かぶり」: | 武臨は傲慢な人間である。
これは私に直接会ったことのある人なら分かるであろう。
私はネット上でより実物の方が遙かにガラが悪い。相手が初対面に近い人でも年上でも上司でもタメ口である。
たとえ言葉は丁寧語でも態度がタメである。
いわゆるウタダ状態だ。あれをそのままネット上に持ってくるととんでもないことになってしまう。
だからこそネット上では巨大な猫をかぶっている。
|