大帝国劇場の高い屋根よりもさらに高く月が昇り、月光がガラス窓を通り抜けて部屋を訪れる頃、アイリスの部屋で一つの影が動き始めた。 それは愛らしい熊のぬいぐるみ、アイリスの親友ジャン・ポール。 月の光を受けてジャン・ポールの身体が小刻みに震え始めたと見る内に、その背に一筋の裂け目が口を開けもう一つの影が姿を現した。 手が長く足と胴は異様に短い。 やがて月明かりに照らし出された姿は立派な髭を蓄えた一人のドワーフであった。 ドワーフは一つ伸びをすると音もなく床に降り立ち扉を開けるとサロンへと向かう。 大神の夜回りが終わった後、こうしてサロンでくつろぐのが彼の日課であった。 いつものように、サロンに腰を下ろすと誰かが忘れていったウヰスキーのボトルを開ける。側にはグラスがあった。グラスに琥珀色の液体を注ぎまずは一気に呷る。 焼けるような刺激が喉を通り胃に落ちて行った。 「ふう〜。生き返るぜ」 ドワーフはそう呟くと、今度は椅子の足元を探る。と、そこにはやはりタバコが落ちていた。 近くにあったマッチでタバコに火を付けると薄紫の煙が立ち上る。 その煙の中でドワーフは想いの海に身を沈めていった。 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ 思えばもう何年になるだろうか。 こうして熊のぬいぐるみに入り込み、アイリスを見守り慰めるようになってから。 ドワーフが初めてアイリスを見たのはソローニュの古城、幽閉された部屋であった。 地下で金を掘り、細工物をするのを生業とするドワーフの耳に不思議な声が聞こえるようになったのは、彼の地に移ってからまだ間もない頃であった。 その声は哀しく澄んでいた。 決して暗くいじけたものはその中には含まれてはいない。 哀しみと寂しさが純粋に結晶したような声だった。 そしてその声は普通の人間には聞こえない種類の声でもあったことが元々人里にはほとんど出ないドワーフの重い腰を上げさせた。 幽閉と言っても両親にアイリスへの愛情がなかったわけではないので、空に向けては窓が大きく開いていた。 そしてその窓からドワーフは見たのだ。 金の髪のあどけない美少女が熊や犬のぬいぐるを相手に一人遊びをしているのを。 一見楽しそうに見える少女のその心の裏側はしかし哀しみに満ちていた。 両親を悲しませないように楽しそうに振る舞っているその健気な姿にドワーフはほとんど恋をしたと言っても良いほどの愛おしさを感じた。 その時にドワーフは自らの運命をこの少女を守り慰めることに費やすことを決めたのだ。 少女が眠りにつくと、その小柄な身体をいかして部屋に侵入すると少女の一番のお気に入りである熊のぬいぐるみの中に潜り込む。 ぬいぐるみの中からドワーフは少女にむけて慈愛の波動を放ち続ける。少女の心が耐えられない哀しみに満ちるときには、こころからの愛おしみの波動を放つのだ。 少女は確かにそれを感じていたと思う。 ドワーフが中に入ってから少女はますます熊のぬいぐるみを手元から離さなくなったのだ。 幸せだった。 自分が少女の心を守り慰めているということが何よりも嬉しかった。 だがドワーフと少女の運命は一人の女性によって大きく変転する。アイリスとドワーフにとっての運命の女性、それが藤枝あやめであった。あやめもまたアイリスの心と力を理解し、それを外に向けて解放させようとした。 ドワーフはその醜怪な外見に似ず知的な種族である。あやめが心からアイリスのためを思っていることが分かった。だから二人だけの閉じた関係を壊されることになってもあえて運命に逆らうことはしなかった。 だがそれからの日々、愛らしい少女は戦いの修羅の中に投げ込まれることになったのだ。 ドワーフは後悔した。こんなことになるのなら、なんとしてもアイリスを城から出すのではなかったと。 だがしかし、アイリスの心はその戦闘の修羅の中でも輝きを失っていなかった。いや、むしろその黄金の心はより強い輝きを放つようになっていたのだ。 その理由はおおよそ分かる。アイリスの仲間達、そして大神という男。 彼らがアイリスの心から哀しみの影を少しずつ拭っていったのだ。それは喜ばしいことではあったが、しかし一抹の寂しさを感じずにはいられなかった。 もうアイリスは自分だけのものではない。それがドワーフの胸をしめつける。だが、城にいるときとは違い、夜中にうなされるようなこともなく眠るアイリスを見つめる内にそんな想いは消えていく。 今だけは、少なくとも今だけは自分が一番アイリスの近くにいるのだ。 それからドワーフは戦闘においても自分の力を最大限に揮い始めたのだ。 すなわち、アイリスの回復技、それは冶金や金属細工に長けたドワーフの卓越した修復技術をアイリスの霊力にのせて発揮する物なのだ。 もちろんアイリスの中に誰かを守りたいという意識がないとなしえない技ではあったが、それはつまるところアイリスとドワーフの共同作業なのだ。 ドワーフにはそれが嬉しかった。アイリスと共に戦うことが、そしてアイリスとともにアイリスの仲間達を守ることが。 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ ふと気が付くと、いつしかタバコの火は中程にまで達し先端に白い灰が揺れている。 灰皿にタバコを置くと、ドワーフはグラスに残ったウヰスキーを再び一気に呷る。 「ふふ、いつの間にか俺もここに馴染んじまった。いつの間にか俺が守るのはアイリスだけじゃなくなっちまってる。俺はお人好しのここの奴ら全員を守りたくなっちまってる。ま、どっちが守られてるのかは分からんがな」 花組の面々は知っていた。ジャン・ポールの中に何かがいることを。幼い頃からずっと一緒だったアイリスが違和感を覚えないのは無理もない。だが、花組の中でも特に霊力に敏感なすみれやレニにはジャン・ポールの中に何かがいることが分かっていたのだ。もちろん夜中にその何かがこっそり抜け出して息抜きをすることも知っている。大神が寝んだ後も加山達月組は動き続けているのだ。 だからみんなはドワーフの好きな酒やタバコや料理などを「うっかり」と残して行くのだ。アイリスを、自分たちを守ってくれている存在に対する感謝の気持ちを込めて。 そしてそれはドワーフにもよく分かっていた。そうでなければこう毎晩、しかも大神が見回りをしているにも関わらず酒やタバコが残っているわけがない。 ドワーフはここの連中は人間にしては悪くないと思うようになっている。 こいつらを守ってやろう、いつか命の尽きるまで。 さもないと、この真っ直ぐ過ぎるお人好しどもはいつか命を落とすだろう。 「ふっ、好きになっちまっちゃあ負けだわなぁ」 そう小声で呟くとドワーフはタバコの火を灰皿に押しつけると席を立った。 その言葉とは裏腹にドワーフの醜怪な面にはひどく優しい微笑が浮かんでいる。 やがてサロンには芳醇なウヰスキーの香りと薄紫の煙、そして穏やかな微笑の名残の空気だけが残された。 (了)
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