Boorin's All Works On Sacra-BBS

「巴里の日本人」



巴里に春が来た。
人々は争ってアスパラガスを買い込み春の味を満喫する。
朝のカフェで新聞を読む人々の顔も心なしか晴れやかである。
何かいいことがあるのではないかという予感のする季節。

そんな朝、何とはなしに新聞を読んでいた青年の目が
一つの記事に引き寄せられ、止まった。

「帝国歌劇団欧州公演」

フランス語でそう書いてある。記事によると、
1日だけは在巴里邦人のための日本語公演を
行うとのことである。
主演は神崎すみれ、演し物は「椿姫の夕べ」。

「やったな、すみれ君」

青年の頬が思わず緩む。
巴里に来て早3年。
大使館付き武官として忙しく軍務をこなす青年将校の名は大神一郎。
将来を嘱望される海軍中尉である。

週末毎の夜会。恋の手管に長けたパリジェンヌの
誘惑をやんわりとしりぞける術も覚えた大神は、
片時たりともすみれのことを忘れたことはなかった。

「逢いたいな。」

呟きが漏れる。

すみれからは今回の公演について何の連絡もなかった。
しかしそれは、すみれらしいといえばすみれらしい。
「帝劇のトップスタアが欧州を公演するのだから、
記事にならないわけがない。それをみた大神が
来ないわけがない。」
そう信じているのだ。

すみれも在留武官の生活がどのようなものかは知っている。
大神が新しい恋をみつけていてもおかしくはない。
だが、二人の間にはもっと強い絆があることを
すみれは信じていた。

命の瀬戸際で共に戦い、愛の約束を交わした絆を。

大神にとってもその絆は心の支えであった。

だから・・・。

純白の夜会服で、君を迎えに行くよ。
君をダンスに誘うのさ。
巴里の舗道の月明かり、二人だけのダンスに。
そして今度こそ僕は言うのさ。
「君を愛してる」って。
君に逢いに行くよ。
ある春の夕べに。

花の都の空の下、何かの予感にふるえる春であった。


(了)

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