魔界の暗き夜に青白く浮かぶベッケンバウアー屋敷は異様な活気に包まれていた。 猛将ミュラー敗れるの報は魔界を駆けめぐり、ベッケンバウアー家と共に王の粛正にあった他家の跡継ぎが庇護を求めて続々と傘下に加わりつつあったのだ。 クラウスはそれらの者達との会見の合間を縫って家宰と軍議を重ねた。 郎党や新しく傘下に入った者達の中にはこのまま押し出して一気に王宮を陥とすべしといった意見を述べる者もおりその声は高まりつつあったが、クラウスはやんわりとそれを押しとどめている。 ミュラー抜きの王宮に真の力の発動したゴルトで乗り込めば確かに王宮は簡単に陥落するであろう。 しかし、ミュラーは兵を温存したまま健在である。しかもクラウスはまだゴルトの力を真に発動させることはできない。 この場合寡兵を以て強大な防御力を誇る王宮を落とすのは困難である。 だが何か手を打たねば数に劣るこちらは不利になるばかりなのである。 「じい、私はレーヌ候と組もうと思う」 「レーヌ候………。確かに彼の御仁は傑物であられますが、それだけに危険なお方ですぞ」 ピエール・プラティニ・ド・レーヌは隣国からの亡命貴族である。 隣国の先代アンリ王の病篤く余命幾ばくかとなったとき、王は王太子を廃し第三子ピエールを立てようとした。この動きを察した王太子ジャンは王を殺害、返す剣でピエールを襲った。彼の国は王太子ジャンを担ぐ勢力と、第三子であり年少ながら英邁で最も王に可愛がられたピエールを担ぐ勢力に別れて内乱状態に陥った。 結果、次兄モリスを取り込んだジャンが勝ちを納め、ピエールは命からがらこの国に逃げ込んだのだ。 先代ウィルヘルム王は篤くこれを保護し、若き日のミュラーと先々代ベッケンバウアーがピエールを追ってきたジャン、モリス連合軍を国境で押し返したのである。勿論、魔界の王がただのお人好しであるわけがない。 ピエールの素質をよく見抜いていた王は、彼を自らの覇道の駒にしようとしたのだ。 即ちピエールが成人した後に隣国に攻め入り、ピエールを王に立てることで隣国を衛星国化しようという腹であった。このような思惑の下、王はピエールを国境のレーヌに封じ、領地の隣接するベッケンバウアー家がピエールを後見しかつ監視する役目を与えられた。 ピエールはまず何事にもベッケンバウアー家に相談を持ちかけた。リヒャルトとクラウスの父も頼られて悪い気がするはずもなくピエールを可愛がった。そうして国内貴族からの風当たりを避けておいて、ピエールは領内の足固めに精を出し農産物生産量などは今やベッケンバウアー領を凌ぐようにすらなっていた。領地が豊かになれば領民も増える。そしてそれは即ち戦時の兵力に反映されるのだ。 これがプラティニ・ド・レーヌという男であった。 「分かっている。だがレーヌ候とて立場の危うさでは我が家以上だ。私にはまだ完全に使いこなせはしないがゴルトの戦闘力は伝説的だ。王にとってもその力は量りがたい筈。となれば王はより片づけやすい方を先にするかもしれないだろう。となると、むしろ候の方こそ我らの力を必要としている筈だ。事が終わるまでは自分の首を絞めるような動きはすまいよ」 「そこまでお考えなら何も申しますまい。殿の思うようになされませ」 その時、部屋の伝声管に当のレーヌ候の来訪を告げる声がした。 「ふふ、そろそろ私の心が決まる頃だとあたりをつけて来たのだろう。さすがに喰えない男だ」 クラウスはアシュフォードを振り返ると、そう言って笑った。 内心、家宰は驚きを隠せない。 いつも茫洋としていたクラウスの中にこれほどの器が眠っていようとは。 そしてそれを見抜いていた先代リヒャルトの目の確かであったことにも。 魔界にも新しい時代が来る。 そんな予感に、この老剣魔は身震いを禁じ得なかった。 客間にはクラウス以上に小柄で華奢な男が座っていた。 レーヌ候プラティニである。 だがこの男を外観で判断しては痛い目に遭うことはその落ち着いていながらも油断のない目を見れば分かる。 しかもこの真夜中に単身他家を訪れるという大貴族にはあるまじき振る舞いも、この男には不思議と似合った。 やはりただ者ではない。 立ち上がったプラティニとクラウスは利き腕で鞘を持ち剣の柄が相手に向くよう交差させ鞘をコツンと鳴らすと着席した。 相手に害意のないことを示す魔界の挨拶である。もっとも魔界の者にとっては手を使わずに剣を抜くことも剣以外の様々の攻撃法もあるから、これは形式に過ぎない。 おそらく彼らの祖先が魔界に落ちる以前の風習の名残であろう。 やがてクラウスが切り出した。 「候よ、この度はいかようなご用件で参られた?」 「なに、特別ということはないのですよ。ベッケンバウアーのご当主が変わられたと聞き及びましたのでご挨拶に伺った次第です」 「なるほど品定めですか」 「いえいえそんな。あのミュラー将軍を一度は退けられたのですから御器量の程は十分承知しておりますよ」 「一度は?」 「まさかミュラー将軍がこのまま引き下がるとお考えなのではないでしょう?今度は前以上の陣容で来ますな」 そういうとプラティニはクラウスの瞳を見る。 クラウスはそれを真っ直ぐと受け止めて言う。 「当然そうなりましょう」 「いやに落ち着いておられますな」 「そうですか?私には候の方が落ち着いておられるように見えますが」 「はて、私にはあわてる理由はございませんが」 本当に考え込むような表情を造ってレーヌ候は首を傾げる。 その兵力はベッケンバウアー家とほぼ拮抗するもの、立場が若干弱いだけにプラティニとしては自分の方から同盟を申し出るわけにはいかないのである。それは「借り」になる。 少なくとも四分六、あわよくば五分五分か「貸し」にしたいのである。 とはいえ現状認識が全くできないと思われては元も子もない。そういう微妙な演技の表情であった。 「(やはり喰えぬ男よ)」 だがそのくらいの男でなくては頼りにはできない。 クラウスは心を完全に固めた。 「現在当家には続々と反王勢力諸侯が集まられておられます。以て対王の盟を結するつもりです」 「なるほど、それでは一安心ですね」 「いえ、一概にそうも言えません。 我が剣の飾り鎖はまだ細く垂れ下がっているのです。 この端を任せられる剣が見つからないのですよ」 そう言いながらクラウスは剣把から垂れ下がる黄金の鎖を軽く揺らして見せる。 この国の剣にはその握りに飾り鎖が取り付けられている。 それはかつてこの国を興した二人の英雄が敵の大群に囲まれたとき、互いの剣を鎖で結びつけ互いの背を守りながら戦い敵を殲滅したという伝説に端を発すると言われている。 その鎖になぞらえたクラウスの言葉にプラティニの目がすっと細くなりやがて三日月を象った。 「ほう、公の剣も。それは奇遇ですな。実は我が剣の鎖も相方を探しているのですよ」 「…これは何かの啓示やも知れませんね」 「…左様、その啓示が運命であるなら、逆らおうとすればするほどその波の中に呑み込まれてしまいます。ここはその波に乗るのが得策でしょうな」 「同感です」 「…ところで、我が故郷には旨い酒がありましてな。無論ここの酒も旨いがやはり我が家の酒は格別。そろそろ恋しくなって来ました」 「………候のお郷の酒は大層美味とか。こちらが落ち着いたら是非一度ご相伴に預かりたいものです」 「よろしいとも。それではまずこの騒動を片づけてしまいましょう」 「はい。では結盟の儀は明朝に」 クラウスは軽くうなづき剣を取るプラティニを門の外まで送った。 その表情は再び厳しく引き締められている。 「とりあえずこれで簡単につぶされることはないだろう。だがまだ王を倒すには決定力不足だ」 ベッケンバウアー屋敷からの帰途、馬上のプラティニもまた厳しい顔をしている。 反王勢力への協力を餌に自らが帰国するための援軍の言質を得たとはいえ、状況はまだ流動的であることに違いはないのだ。 「これが我が道の第一歩。その一歩目を躓くわけにはいかぬ。打てる手は打っておかねばならんな」 そう呟くと口に含んだ闇笛を鋭く吹く。 プラティニとその眷属にしか聞こえない特殊な音を出すこの笛は一つの影を頭上に呼び寄せた。 「お呼びでしょうか」 「王宮のネズミを動かせ。ミュラーを足止めするのだ」 「御意」 そういうと頭上のコウモリのような生物は王宮に向かって飛び去った。 「ミュラーが動けねば王宮の防御力は半減する。ジルバを纏える可能性のあるのはあの男だけだからな。もっともゴルトを纏える男がいるとはついぞ思いもしなかったが」 そう言うプラティニの表情がふと緩む。 「しかしあ奴、あの若さでこちらの腹を読んできおった。今までの軟弱は仮面であったか。いずれは敵になるにしても面白い男だ。はははははっ!」 後に時には敵として時には味方としてクラウスと魔界の戦場を駆けることになる大貴族は闇に哄笑を残し駆け去った。 「ミュラー将軍、王のお召しです」 「王が?今すぐ参る」 反王勢力の攻撃に備え王宮の守りを固めるべく采配するミュラーの胸に何かしら漠然とした不安が兆した。それは武人としての本能であったかも知れない。 だが首を軽く振ってその不安を押し殺すとミュラーは王の間に向かった。 (了)
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