五行の定め――水老金――
少女は孤独だった。
少女を見詰める視線は常に、冷たく、よそよそしく、そして少なからぬ恐怖を含んでいた。
彼女の両親ですら、例外ではなかった。
忌むべき物を見る目つきで、恐々と少女に接していた。
彼女の外見が恐ろしげであったという訳ではない。
醜かったという訳ではない。
むしろとびきり愛らしい、美しい少女だった。
ただ、美しすぎた。
まだほんの幼い童女の頃から、彼女の姿には妖しい魅惑の力が備わっていた。
女性の兆しも見せぬ彼女に、倍以上の背丈の大人が襲い掛かった事も一度や二度ではなかった。欲情に、目を血走らせて。そして、少女を汚す事の出来た者は…皆無だった。
少女には、男を狂わせる「力」と破滅させる「力」が備わっていた。
「水の魔性」
「妖狐の性」
「五行の力」
父母は、伯父・伯母・祖父母は、彼女を遠巻きに覗き見ながらヒソヒソとそんな言葉を交し合った。そして最後にこう付け加えるのだ。
「今ごろになって…」
自らの望まざる力で最も近しいはずの、そして無条件で護ってくれるはずの人々に疎まれ、少女は次第に心を閉ざしていった。その望まざる力で引き寄せた災厄から、望まざる力で身を護りながら。
少女は美しく育っていた。十代そこそこの年齢に相応しい初々しさ・瑞々しさと相応しからぬ妖しい艶やかさを兼ね備えた美少女となっていた。誰もが羨むような美貌。だが、彼女に熱い眼差しを注ぐ少年は現れなかった。大人も子供も男達は皆、隠しきれぬ欲望と――隠しきれぬ恐怖を瞳に浮かべて彼女の姿を覗き見るだけだった。彼女の友人は、孤独の二文字だけだった。
その男が彼女の許を訪れたのは、そんな日々の事だった。
陸軍大将、京極慶吾。その華麗なる戦歴から軍神と称えられ若くしていずれ遠からぬうちに陸軍大臣に、と噂される帝国陸軍エリート中のエリートである。その彼が、行商人すら滅多に立ち寄らぬ辺鄙な村へ何故…?村人達は彼がそのような大物であることなど知らない。ただ、久々の客人が「あの娘」の家を訪ねるのを見て、素朴な彼らは意外感を覚える反面奇妙に納得する物も感じていた。「厄介払い」……村人の脳裏に浮かんだのはこの言葉だった。
それを最も強く感じていたのは、実の所彼を迎え入れた影山家だったのかもしれない。
影山家はその村と近郷の村のただ一軒の薬屋を生業としていた。庄屋に次ぐ地主でもあり、辺鄙な山村の単純な権力構造の例外として一目置かれている家柄であった。だからこそ、少女のような異端の者がとにもかくにも村を追われることなく生きて来れたのだろう。しかし、有力者と言ってもそれは地図にも名前の載っていないような小さな山村においての話である。陸軍有数の高官がわざわざ訪ねて来る理由にはならない。
今、京極の前に平伏する影山家の者達の態度は、単に陸軍大将という地位権力に恐れ入っているという感じではなかった。少し妙な表現だが、彼らの額を畳にこすりつける態度はそれなりに様になっていた。それは、先祖代々忠誠心を心に刷り込まれてきた者達の、無条件の服従を表す姿だった。
平伏する大人達の背後に端然と――無表情に座す美しい少女。京極はその無礼を咎めようとはしなかった。ただ目を細め確かめるように数秒、少女を見詰め、それから視線を下に転じて傲然と問い掛けただけだった。
「名は何という」
「サ、サキにございます」
決して顔を上げようとせず、震えを含んだ声で答えたこの家の主の方へ京極が視線を向けることは二度と無かった。彼の興味はサキという名の少女にのみ向けられていた。
「影山、サキ」
「はい」
子供とは思えぬしっかりした口調で少女が応える。
「今日から私がお前の主となる」
「はい」
京極の唐突な宣言にもまるで動じた様子を見せずあっさり頷く。落ち着いている、というのとは少し違う。自分の事に、全ての事に興味がない、そんな虚無的な佇まいだった。
「私はお前に居場所を与えてやろう。お前の力に相応しい生き方を与えてやろう。
お前は五行衆・水狐となる」
「ごぎょうしゅう…すいこ?」
この時、少女の表情が初めて動いた。彼女の目は、この時初めて京極へと向いた。
「お前の力は私に仕える為にある。五行衆として私に仕える事だけがお前の力を活かす道だ」
「力…活かす?」
「その通り。五行衆の力はこの京極の為にある。お前の力を必要としているのはこの京極唯一人。お前が五行の力を使う事を許される場所はこの京極の下だけだ」
「必要……許される?」
「来るがいい。お前の在るべき所へ」
立ちあがる京極慶吾。少女――影山サキは当たり前の様に彼の背中に続いた。五行衆・水狐として。
この日から、少女の生活は一変した。昼と無く夜と無く繰返される厳しい修行。膨大な知識の詰め込み。銃器の取り扱い、軍用機器の操作、そして…人を欺く方法。その美貌を最大限活用する方法。男を、篭絡する方法。かつては厭わしく思えた自分の力を単なる道具と見る事が出来るようになった時、少女は黒衣に身を包んだ女という名の兵器になっていた。未だ十代半ばの年齢にして、彼女は夢を見なくなった。身体だけでなく心もまた、黒衣に覆われていた。艶やかな笑み。妖しい仕種。だが彼女の瞳は、氷よりも冷たい極北の海の色を映していた。
それは彼女が水狐となった証。五行衆・水狐として正式に京極家の家臣として認められた、初めて正式に京極の屋敷へ登ることを許されたあの日、彼女は、彼に出会った。
「京極様、この鈍臭そうな木偶の棒が私と同じ五行衆なのですか?」
その男に会った時、彼女の発した第一声はこれだった。謁見の間、かつては両手両足の指に余る五行の術者たちが京極家当主に拝謁した広間に、唯一人漆黒の着物を纏って緊張に身体を強張らせながら――感情の麻痺してしまったように見える彼女も京極の前に出る時は常に緊張を抑えられなかった――京極の登場を待っていた彼女の前に現れたのは彼女が待ち望んでいた主と、彼に付き従う若い男だった。
ゴツい、男だった。お世辞にも美青年とは言えない。無骨で大雑把で、ただ恐ろしいほどの精気を発散していた。縦も横も厚みも規格外れの巨体。だが、その質量以上に巨大な存在感を持つ青年だった。
その男は呆気にとられたような顔で少女を見ていた。ただ見ていた。ただ、真っ直ぐに。それが少女には不快だった。男は、下劣な生き物で無ければならない。あの方以外の男は、狡猾で保身ばかりに長けた、そのくせ劣情のままに行動することしか知らないケダモノでなくてはならない。だからこそ少女は自分の身体を武器とする事が出来る。艶やかな兵器である事が出来る。男とは、こんな何の欲望も小狡い打算も含まれていない真っ直ぐな目の出来る生き物ではない。そんな生き物であってはならない。
苛立ちのままに投げかけた悪態にその青年は間髪居れず沸騰した。見かけ通り単純な男。見栄ばかり大量に持ち合わせた見せ掛けだけの木偶人形。少女は期待を込めて京極を仰ぎ見た。この不愉快な男を床に這いつくばらせてやったら、どんなに気分が良いだろう。
笑みを浮かべて頷く京極。多くの感情を凍りつかせてしまった彼女の、精神に残された闇の心が歓喜に震えた。あの方もそれを望んでいる。自分がこの男を叩き伏せる事を望んでいらっしゃるのだ!
「水」を呼ぶ。
「水」は靄となって広間を白き闇に閉ざす。
少女は十六の目で青年を見ていた。
「水」に映し出された彼女の影は、紛れも無く少女の一部として彼女の目となり手足となる。
京極より与えられた鉄の扇を振り上げた時、少女は自分が笑っている事に気付いていた。
「うおぉぉりゃぁぁぁぁ!!」
「雪花・波紋十軌!!」
少女が力を放つ一瞬前。青年が、吼えた。
空気を震わせ、「水」を震わせた。
少女の「力」の支配下にある「水」をすら振動させ得る程の、膨大な「気」の力。
岩の様な巨体が鋼の色を帯びた。
「金剛身!?」
この数年に亘って詰め込まれた知識が彼女に教える。目の前のムシが好かない青年の放った術が、「金剛身」と呼ばれる極めて高度な――奥義に数えられる五行の法術である事を。こと五行の力に関しては、「金剛」の称号を与えられたこの男が「水狐」である自分を上回っているということを。
「そこまで!!」
京極の制止の声。少女の身の内に満ちていた闘争心が霧散した。
青年との出会いは、少女の心に波紋を残した。鏡のような、氷の面のような、漣一つ立つ事の無い少女の心の水面に、常に揺れ動く消える事の無い波紋が生じていた。
それは苛立ちに似ていた。
初めて、彼女の力を認めてくれた彼女の主。
その力故に、自分に居場所を与えてくれた彼女の主。
だがその同じ主に仕えるあの男は、彼女以上の力を持っていた。
それは啓示に似ていた。
力だけでは、自分は主の役に立てない。
自分は、いずれ必要とされなくなるかもしれない。
単純に「力」だけなら、金剛となったあの青年の方が上だ。
五行の力だけなら。
しかし、水狐の力は、水の魔力だけではない。
妖狐の性。
漣は、彼女を緩やかに押し流していた。
僅かに繋がっていた岸辺から、白い靄に覆われた水面へ。
心の闇に己の全てを委ねて、影山サキは完全なる水狐となった。
金生水。
金の性は水の術者を完成させる最後の一押しとなった。
猛毒の棘を持つ薔薇。美しき凶器。彼女の場合は、美の凶器と呼ぶべきか。美しい姿それ自体が彼女の武器だった。麗しい顔(かんばせ)、優美な曲線を描く姿態。豊満にして細肩細腰、吸い付くような白い肌。女なら誰しも羨み、男なら誰しも溺れずにいられないような肉体。そして、妖しい眼差し。実際、彼女と並んで劣等感を覚えずにすむ女性は例外だろうし、彼女を前にして劣情を覚えない男性は更に少数だろう。
その上、彼女は己が美を武器とする術をわきまえていた。それ以上の力も。彼女はその身体と、その力で多くの男達を破滅に追いやっていった。そしてその度に、京極の力は権力へ深く、深く食い込んでいくのだ。
女性にとっては屈辱、しかしサキは、否、水狐は最早その行為を屈辱と感じる心を失っていた。むしろ彼女にとっては愉快だった。紳士面をした地位ある男達が、彼女の術中で堕ちて行く様を眺めるのが。そうして獲物が完全に破滅し、京極の役に立てたと感じる時だけが、嗤いではなく笑みを取り戻す唯一の時だった。
彼女は自分の働きに満足していた。自負も、あった。もしかしたら、誇りすらあったかもしれない。モラルなど鼻先で嘲笑うだけのものだった。彼女にとって、自分の身体は自分の力と同じく道具でしかなかったのだから。ただ――あの男の視線だけが彼女の心を小さく、ほんの小さく波立たせた。自分でも気づかぬほどの苛立ち。仕事を終えて京極の前に跪く時。京極から新たな使命を授かる時――新たな獲物を与えられる時。彼女と共に京極の側近く仕えるあの男、彼女と違い五行衆正統の血筋に生まれ、生まれた時から五行衆として自分の力に苦しみ悩む必要など無かったあの男、金剛。あの男の自分を真っ直ぐに見詰める眼差しだけが、彼女にほんの小さな苛立ちを与えるのだ。
あの男は彼女の行為を責めたりはしない。蔑んだりはしない。彼にとっても京極の命令は絶対、ことによったら彼女以上に、純粋に京極への絶対の忠誠で心を染めているのかもしれない。あの男の彼女を見詰める視線に非難も蔑みも同情も無い。ただ――彼の瞳の中に極々僅かに見える青白い光が彼女の心に小さな波を起こすのだ。青白い光、それは――哀しみ?
金剛は水狐を苛立たせる存在だった。わざと邪険に振舞っても、彼の態度は変わらなかった。それは単に、同じ主君に仕える者同士という、忠義に基づくものだったのだろう。だが、金剛の見せる「仲間意識」は水狐にとって余りにも鬱陶しいものだった。時に、殺意さえ覚えた。その、一途で純粋な忠義の心に。
太正十四年。遂に、京極が行動を起こした。黒鬼会。それは、京極の組織した新たなる五行衆の軍団。正統なる五行衆の裔(すえ)は金剛一人。「木」、「火」、「土」は彼女の様な傍系の血すら引いていない。だが、そんな事はどうでも良かった。金剛などは遂に京極様の大望果たされる時が、と大いにいきり立っていたが、水狐にとってはそれもどうでも良い事だった。ただ、京極の為に働く。それだけが彼女にとって「生きている」ということだったから。
太正十四年五月。彼女に、新たな標的が示された。獲物は二つ。一つは帝国華撃團総司令、米田一基の命。もう一つは、帝国華撃團花組隊長大神一郎の心。帝国華撃團の内部においてその動静を探りまた撹乱しながら、米田を暗殺し、大神を堕落させる。それが彼女に与えられた使命だった。
「ねえ、そこのステキなお兄さん。大帝国劇場というのは、こちらでよろしいのかしら?」
大神一郎は、写真で見せられた通りの印象の男だった。どうという事の無いからかい混じりのキスに慌てふためいて殊更真面目な態度を取って見せる。いかにも人の良い、世慣れていない『好青年』。
(楽勝ね)
彼女は、そう思った。こんな、帝都の道端何処にでも転がっていそうな軟弱な男を堕とすのなど訳は無い。大神一郎という男は、見れば見るほど平凡な青年だった。顔立ちは、まあ、ハンサムの部類だろう。少なくとも、金剛など比べ物にならない。だが同じく、その存在感も金剛のもつ凄みなど欠片も窺えない、ごく普通のものだった。これならまだしも陸軍省で引き合わされた米田の方が迫力があった。
(何で京極様はこんな男の事を気に懸けられるのかしら?)
だが、京極の命令のままに動く、彼女の取るべき道はそれだけだ。影山サキの「仮面」をかぶった水狐は、心の中でこっそり舌なめずりをしていた。
米田暗殺の任には失敗した。確かに、心臓を貫いたはずの弾丸は不可視の力に弾道を歪められて僅かに急所を逸れた。まさに米田の身体に穴を穿つ直前、放たれた光。水狐には、その力が何なのかわからなかった。しかし、瀕死の重傷を負わせたのは確かだ。あの方も、当面米田の動きを封じるだけで良し、そう言って彼女の失敗を許してくれた。残るはあの甘ちゃんだけだ。楽勝、のはずだった。
帝劇で一月が過ぎ、二月が過ぎ、三月が過ぎる頃、水狐は自分が苛立っていると認めざるを得なくなっていた。何故だろう?自分の力が消えてしまったのだろうか?そんな不安に襲われる時すらあった。
何度もチャンスはあった。何度も仕掛けた。道具部屋で、支配人室で、地下で。だがあの男は、大神はどんな男もケダモノに変えてしまうはずの彼女の邪眼を前にして眉一つ動かさないのだ。いつも、蕁麻疹が出るほどクサい――大真面目な台詞で聞いた風な説教をする。彼女の力が、通じない。
平凡な男だ。普通の男、のはずだった。年下の小娘たちに振り回されて、いつもあたふたと劇場の中を駆けずり回っている情けない男。それが、大神一郎という男のはずだった。正直、戦闘部隊の前線指揮官が務まるなど嘘にしか思えなかった。替え玉…そんな疑心暗鬼に囚われた事も一度や二度ではない。
彼女は遂に、直接仕掛ける事にした。
米田の快気祝。帝国華撃團の連中は――正確に言うなら花組の連中は、だが――熱海にバカンスと洒落こむらしい。敵――つまり自分達黒鬼会の事だ――と交戦中にも拘らず、手ぶらで。
(熱海に霊子甲冑を持って行く訳にはいかないでしょうけどね)
だからこそ、全く能天気な話だ。だが、自分達にとってはチャンスでもある……
霊子甲冑が無ければ花組などただの小娘の集まり。あの軟弱な大神に何が出来ようか。水狐の立てた作戦は了承され、支援に金剛が派遣される手筈になった。
魔操機兵、宝形に乗り込んだ水狐。彼女はそこで、あの男の真の姿を見た。
「あなたたちは既に、私の術中にあるのよ」
ハッタリでは無かった。水狐の部隊が花組を引き付けている間に、金剛の部隊がその背後を強襲する。タイミングよく翔鯨丸が現れたのは誤算だったが、手は二重、三重に講じてある。軟弱者と小娘に負ける要素など無い戦いだった。
小娘と、『軟弱者』が相手ならば。
(これがあの大神一郎だというの……!?)
金剛が間抜けにも上陸地点を通り過ぎてしまった時はかなり焦った。しかし、何とか合流を果たした今、布陣は彼女の企てた通り、金剛と彼女で花組を挟撃する形になっている。圧倒的に有利な陣形、のはずだ。
それなのに、次々と撃破されていくのは魔操機兵ばかりである。挟撃されているはずの花組は、内側に位置していることによる移動距離の「短さ」を最大限利用して突出した魔操機兵を次々と各個撃破していく。包囲するはずが内側から食い破られていく。
その指示を出しているのは、間違い無くあの男だった。大日剣と刃を交える純白の光武・改を駆るあの男、大神一郎。純白の霊子甲冑に乗っているのは、間違い無くあの男だった。しかし、本当に?
純白の光武・改は大日剣に勝るとも劣らぬ闘気を発している。押し潰されそうな、凍りつきそうな凄絶な剣気。一回り以上小さな光武・改が大日剣をむしろ圧倒している。双刀閃く時、大剣はその目標を見失い金色の装甲に火花が散る。そこにあるのは阿修羅の姿だった。戦う事以外何も持たぬ修羅界の住人だけが放ち得る凄気を純白の機体は放っていた。その、内部から。
そしてそれだけではなかった。気がついた時には、彼女の機体は色とりどりの霊子甲冑に囲まれていた。包囲するはずの彼女が、今逆に包囲されていた。銀色の機体が放つ銃弾が宝形を叩く。緑の機体から射ち出された榴弾が宝形の表面で弾ける。
「ダス・ラインゴルト!」
そして青の機体が繰り出す穂先がその装甲を抉った時、彼女の魔操機兵は限界に来ていた。目の前に立つ真紅の光武・改。その拳に霊気が集中する。
「三進転掌!!」
宝形にとって、致命的な攻撃となるはずの一撃。その瞬間、彼女の機体が「金」の気に覆われた。「金剛身」、金の術者が使う最高位の防御法術。だが、同時に複数の金剛身を繰り出せる術者はいない…
「狼虎滅却・天地一矢!!」
大日剣は、金遁の術でかろうじて戦線を離脱した。彼女もまた、水遁で逃れざるを得なかった。
(大神一郎…決して、許さない)
虚無の氷に覆われていたはずの彼女の心。だが、今その心に蒼白い熾火が灯っていた。
それは憎悪だった。
それは怒りだった。
憎悪は、自分に屈辱を与えた者に対するもの。
万全の準備、周到な謀。負けるはずの無い戦いであった。
いつも通り、自分の掌の上で無様に踊る獲物達を嘲笑う。そして、彼らに負け続けた他の五行衆達を前にして、あの方に勝利の知らせを届ける。その、はずであった。
それなのに。まんまと罠に陥れたはずの獲物は、抜けぬけと罠を食い破って彼女に敗北の屈辱を与えたのだ。
しかしそれ以上に、彼女が屈辱に感じたこと。
(よくも今までこのワタシを……)
修羅の戦士。獰猛なる牙を剥く白き狼。霊子甲冑を駆る大神の姿を目の当たりにした時、水狐は「騙された」、と感じていた。戦うために生まれた『修羅』と人畜無害の『好青年』は、決して共存できるものではなかった。少なくとも、水狐にとっては。かつて、その望まずして生まれながらに備わった力で、人と人との繋がりを絶たれた孤独な少女だった者には。
妖狐の性。欺き、陥れる魔性。それが彼女の存在意義だった。欺く事を自らの存在意義としている彼女が、あの軟弱そうな二枚目もどきの顔に欺かれていたのだ。
怒りは自分をか弱い『女』扱いした者に対するもの。
肉親ですら、父母ですら庇おうとしなかった自分を、あの男は身を呈して庇った。あの男は生まれた時から『金』の術者として教えを受けていた正当なる五行衆『金剛』の末裔。彼女に金剛身の術を移せば、自分の身が無防備になるという事くらい重々わかっていたはずだ。それなのに、あの男は我が身の危険を顧ず、彼女を庇った。
自分とあの男は、競争相手のはずだった。仲間などでは断じて無かった。同じ主の寵を争う、それだけの間柄だったはずだ。少なくとも、彼女はそう考えていた。それなのに、あの男は自分を「庇った」。
(金剛、よくもワタシを馬鹿にして……)
正当なる五行衆の裔であるあの男は、傍系の血を細々と受け継いでいるだけの自分を見下していたのだ。五行衆筆頭を名乗るあの男は、決して自分を対等の競争相手などとは認めていなかったのだ。格下の小娘と侮っていたのだ……
五行の術力において、金剛は明かに水狐を上回っている。その事実が、水狐の怒りに一層油を注いでいた。。
(見ていろ、見ていろよ!華撃團はワタシが潰してやる!!)
雪辱の誓い。氷の水面は嵐の海に変わっていた。
しかし、水狐に残された時間は余り多くなかった。彼女に纏わりつく視線。四ヶ月以上もの間帝撃の奥深くに潜入しながら彼女は物理的な破壊工作を行えずにいる。地下司令室、蒸気演算機室、地下格納庫。華撃團の中枢施設にまで入り込みながら、データの改竄一つ行えずにいた。それは、彼女が常に視線を感じていたから。帝劇の内部において、彼女がその中枢に近づこうとする度纏わりついて来る視線。それでいながら、彼女にもその実体を掴ませぬ監視者。まるで夜空に掛かる月の如く、ただそこにある、熱量の無い、ただ照らすだけの光。この実体を見せぬ不気味な視線の主が彼女の行動を掣肘していた。皮肉なことに、大神一郎が側に来た時だけその視線は気配を消す。まるで、大神に自らの存在を悟られる事を怖れているかのように……
そして今、その視線はかつて無く彼女に接近していた。普通に劇場の廊下を歩いている時ですら、視線を感じる事が少なく無くなった。相変わらず視線の主は気配も感じ取れない。ただ、視線だけが感じられる。五行衆の中でも諜報と内部撹乱を専門とする水の術者たる自分にその実体を悟らせない、それだけでも恐るべき技量の持ち主とわかる。
視線の接近、それはこの恐るべき監視者、あるいは監視者達が自分に対する疑惑を深めた――確信に変えたという事。この相手は、何ら証拠が無くとも自分を暗殺する事すら厭わないだろう。
最早これ以上帝劇に留まる事は無益であるばかりが徒に我が身を危険に晒すだけだ。それは、あの方も望んではいないはず。あの方は、自分の持つ五行の力が必要だと仰ってくださったのだから……
だが、手ぶらであの方の元に戻るわけには行かない。屈辱を雪ぎもせずに、おめおめと逃げ帰る訳には行かない。彼女は機会を窺っていた。そして、水狐は手土産を見つけた。
「アイリス…ボクの仲間…ボクの友達…」
「偽りの、ね」
彼女が狙いを定めた標的、それは心を封じられた――心の成長を妨げられていた少女。水狐の邪眼の力は男を狂わせるだけではない。自分を支える事の出来ぬ脆い心の迷いにつけこみ意志を奪う、それは彼女にとって造作も無い事だった。
「レニ…貴女は戦う為の機械…」
ただ、古い記憶を呼び覚ますだけで良かった。アイゼンクライトの騎士を手中に収めた彼女は、復讐の予感に打ち震えていた。
しかし。
「どうして攻撃してこないんだ!!敵なのに…敵なのに!」
「俺は敵じゃない!」
予想外の光景が彼女の前に広がっていた。青の霊子甲冑は、修羅の駆る純白の光武・改に打ち砕かれるはずだった。戦う為に生まれた餓狼は、敵となった少女を葬って後悔の苦渋に心を浸すはずだった。あの時のあの男なら、そうするはずだったのだ。そしてその時こそ、彼女の邪眼があの男の心に楔を打ち込む隙を見出すはずだったのだ。
だが、あの男は攻撃されるに任せていた。一切の反撃をしようとしなかった。ただ防御力場の出力を限界まで上げて、彼女の人形に語り掛けるだけだった。
「殺すのよ、レニ!そいつは敵だ!!」
「敵じゃない!思い出すんだ、レニ!!俺達は、一緒に劇をした仲間じゃないか!!」
あまつさえ、霊子甲冑の向き合う戦場において舞台の事など持ち出すとは。これでは、彼女があの時まで思っていたままの『軟弱なお人好し』ではないか!
「ボクは…ボクは……」
「殺せ!!そいつは敵だ!!」
糸が切れた。その瞬間、水狐には自分の術が破れたとハッキリわかった。その瞬間、アイゼンクライトの機関が停止し、青い機体のハッチが開いた。
同時に飛び出して来るあの男。戦場の只中で、平気で生身を敵の前に晒す。自分を裏切った部下の為に!
「レニー!」
(嘘よ…嘘よ!仲間なんて見せかけの絆。人は誰でも、自分一人で戦わなければ生きて行けないのよ!!そうでなければ…!)
自分の過去が、影山サキを捨て水狐となった自分という人間の足元が突如、崩れ落ちたような気がした。
許せなかった。この男の存在自体が許せなかった。自分を、この五行衆水狐の全てを否定しようとする男、大神一郎!
彼女は宝形を駆り、がむしゃらに大神へ挑んだ。
彼女の魔操機兵、宝形は既に限界に近づいていた。もはや配下の魔操機兵は全て残骸と化している。彼女の水影身も、雪花・波紋十軌もあの男とあの男の率いる花組には通用しなかった。彼女が軽々と術中に落としたあの人形が、彼女の実体を易々と暴く。彼女の力に為す術も無かったあの少女が、彼女の最高の術を無力化するのだ。
(何故なの?…まさか…まさか……)
あの時と今の違い。それは、少女の隣にいるあの男の存在。ただ側にいるというだけで、自分と小娘の力関係が逆転したとでも言うのか!?
眼前に迫る青き機体。繰り出される長大な穂先。渾身の力で放つ波紋十軌も、白き幻影に阻まれる!
(金剛身…!?違う、これはもっと別の……)
青き機体と溶け合う純白の霊気。これは相生…?否、むしろ相乗と呼ぶべきもの。大神の霊気が、レニの霊気を取り込み、自らの霊気と束ね合わせ、増幅している!
「サキくん、もう帝劇の仲間には戻れないのか?」
「寄ると触ると仲間、仲間!虫唾が走るわ!!
滑稽だったわよ。ワタシが米田を撃ったとも知らずオロオロして……」
尚も甘ちゃんのままで呼びかけてきた大神に、思いっきり嘲笑を投げつけてやった。それだけが、水狐に為し得た復讐だった。お人好しの軟弱者の甘ちゃんは、同時に想像を遥かに超えた戦士でもあった。余りにも不条理だった。あんな幸せそうな男に、こんな力が与えられているなど!
最早彼女の機体は限界に近づいている。既に、水遁でこの場を逃れるべき段階だった。それでも、彼女には逃げる事が出来なかった。ここで逃げ出す事は、単なる戦場での敗北ではない。自分という人間の生き方が、大神一郎というあの幸せ者に敗れ去る事になるのだ!
「水狐、苦戦しているようだな…」
突如、操縦席の中に響く陰々たる声。
「鬼王!ワタシはまだ負けてなどいないわ!!手出しは無用よ!!」
「無論だとも」
「何っ…!?」
ヒステリックに叫びを返した彼女に戻って来た応えは、淡々とした予想外の台詞。
「水狐よ、最早帰還には及ばぬぞ…」
「どういう事だ、鬼王!?」
「お前は失敗しすぎた…あのお方の御意志だ。せめて、五行衆らしく散るが良い……」
世界が、音を立てて崩壊した。
そして、水狐は知った。自分を支えていたものが何だったのかを。
「滑稽なものね…信じるという心を否定して生きてきたワタシが、あのお方のことだけは信じていたなんて……」
何故こんな事をあの男に話しているのか、彼女には自分の心がわからなかった。今は、不思議と恥だとは感じなくなっていた。ただ、この男に聞いて欲しかった。自分の生き様を。
「それでも、ワタシはたった一人で戦い抜いて来た。その事だけは、誇りを持って逝くことが出来る…」
今、彼女の心は不思議と安息に満たされていた。自分の生き方を、水狐としての生き方を否定した、否定してくれた相手。その男に看取られて、自分は逝こうとしている……
最後の瞬間彼女の心を包んでいたのは、存在したかもしれない影山サキとしての一生、だったのかもしれない。
<エピローグ>
「どけ、鬼王!!このままじゃ水狐がやられちまう!俺に出撃させろ!!」
「ならぬ。」
「なんだと、テメエ!!俺の邪魔をするってえのか!!」
「ならぬ。京極様のご意志だ。我らに弱者は要らぬ。あやつは自らの失敗の責任をとるのだ。」
「どけ!!」
「金剛、京極様のご意志に逆らうか……?」
「ぐっ…」
宝形をモニターする計器は、既に機体の損傷が限界まで達している事を示している。もはや水遁を使って戦場を逃れる事も出来ないレベルだ。
金剛は一も二も無く大日剣を出そうとしていた。彼が駆けつければ戦況を覆す事は出来ずとも戦場を離脱するくらいは可能。だが、彼の前に鬼王が立ちはだかった。譜代の五行衆たる自分を差し置いて、何故か京極の側近に納まっている仮面の男。その力は疑い様も無いが、信用する事もまた、出来るはずも無い。
その胡散臭い男が京極の名を持ち出して彼を妨げる。鬼王が何者であろうと、京極の意思に反する事など金剛には出来なかった。
(すまねえ…水狐、すまねえ…!)
(華撃團…!)
己が内に湧き上がる暗い情念、それが、彼にようやく己自身の心を教える事となった。
五行の定め、金生水。金の性を持つ者は水の性を持つ者に手を差し伸べずにはいられない。
だが、自分の水狐に対する想いは、それだけではなかったのだと……
武蔵の中で、金剛は華撃團に、大神一郎に最後の戦いを挑んだ。自分の全てを懸けて、自分の全てを出しきって。
おそらく、「自分の為」ならば搾り出せぬ力。絶対の主、京極の為?
しかしそれでも、彼は及ばなかった。
「……水狐、俺は悔しい…負けるのが、悔しい!!」
最期の瞬間、彼の意識を占めたのは絶対の忠誠を誓い命を捧げた相手ではなかった。
「ウオオォォォォォォ!!!」
五行の定め、金生水。金の性は水の性に力を与える。
そしてこの世の万象は表裏一体。五行の定めもまた例外ではない。
水老金。水は、金より力を受け取る。水は、金より力を奪う。五行の定めの下、力を奪われた性は、病を得やすくなる、病に注意しなければならないという。
水老金。金の性は、水の性によって病に陥った。病の名は……
金の術者が水の術者に出会わなければ、白き戦士に正面から挑み力の差のまま玉砕することも無かったかもしれない。……の病の故に。
だが。彼はそれを、決して悔いてはいないだろう。
五行の定めのままに
五行の定めを超えて