Boorin's Short Stories inspired by Sacra

「白き牝鹿亭の夜」3




 華の銀座の裏通り。
 蒼い光の下にその扉はある。
 今宵もまた夢幻の一時を過ごす「白き牝鹿亭」の夜。

「いらっしゃい」

 いつもの声が迎えてくれた。
 いつものように奥から2番目の席に滑り込むと、いつものようにウヰスキーを注文する。

 カウンターの奥には青い天鵞絨のスーツに身を包んだ吉野がいる。
 その白き顔(かんばせ)に天鵞絨が映りやや蒼味がかる様は彼女の美貌に一種凄艶な色を与えていた。

 吉野の優美な舞を見るような手練の動きをぼんやりと見つめながら、心は昼間の出来事に向かっていった。




「まったくお節介なんだから…困ったもんだよ」

 郷里からの郵便小包には母の指輪が入っていた。
 曰く、早くこの指輪をはめて上げる人を見つけなさい云々。
 お父さんがあなたの年の頃には云々。
 近頃の若者と来たらだらしがない云々。

「いい加減放っておいて欲しいよ」

 大神は指輪を机の上に放り出すとベッドに身を投げる。
 立つ風に手紙がふわっと机の下に落ちた。

 心当たりが無い訳じゃないんだけど………。

 「大神さん、至急支配人室までお越し下さい」

 館内放送が物思いを遮る。
 やれやれ行くとするか。支配人はうるさいからな。
 大神は軽く反動をつけてベッドから降りると支配人室に向けて走り出した。




 人影は大神の部屋の扉が開いたままになっているのを見て何気なく中を覗き込んだ。
 机の上に何かの輝きが見える。
 指輪?
 そっと辺りを見回して誰もいないことを確かめると、その人影は部屋の中に入った。




「あんまりだ。緊急って言うから何かと思えば酒買ってこいだって………。神様、俺は何かこんな仕打ちを受けるほどの悪事を働いたのでしょうか?」

 大神がぶつくさとぼやきながら酒を買って支配人室に届けた後、部屋に戻ると何か様子がおかしい。ドアが開け放しになっており机の上にはきらきらと大量の指輪が散乱している。近くにはその指輪を収めていたらしい化粧箱が落ちていた。

「な、どういうことだ?」

 急いで中に入り机の上の指輪を手に取った。
 なにか着いている。
 石鹸の泡?

 ほどなく指輪の持ち主は判明した。
 すみれである。
 大騒ぎする大神の声にちょうど外出から戻ったすみれが部屋を覗いたところ自分の指輪が散乱しているのを見たのである。

「まさか少尉?」
「いいっ?そんなわけないだろ?お、俺は知らないよ!」
「冗談ですわ。薔薇組の皆さんじゃあるまいし少尉が指輪に興味を持つとは思えませんもの」

 そう言ってすみれは手早く指輪をかき集めると化粧箱に収めて立ち去った。

「あーあ、俺の指輪まで持って行っちゃったよ。でもうっかりそんなこと言ったら何を言われるか分からんからなぁ。でも結局あの指輪はなんだったんだろう?」




「どうかなさいました?」

 声に物思いは破られた。

「ん、いや。ちょっと今日の昼間に不思議なことがあったんですよ」
「まあ、どんな?」
「実は………」

 何の躊躇いもなく起こったことを話し始める。
 そう、今日は吉野に話を聞いて貰いたくてここに来たのだ。
 何故そう思ったかは分からないが、そうすれば何となく謎が解けるような気がした。

「質問させていただいてよろしいですか?」
「ええ」
「外部から何者かが侵入したというのは考えられませんの?」
「はい、うちの劇場は恐ろしく警備が厳重なのです。何しろ人気商売ですからね。ファンの方の中には、その、少々行きすぎた方もおられますので。そんなわけで何者かが外部から侵入したことは考えられないのです」
「すると指輪を撒いた人物は内部の方ということになりますね」
「………」
「その劇場内の関係者の方々をそれぞれ一言で表すとするとどうなりますか?」
「…そうですね、まず真宮寺さくらさんは感情表現が真っ直ぐで一本気なところのある頑張り屋さんです。神崎すみれさんは、何というか自分の努力とか優しさを見せたがらない照れ屋さんですね。マリア・タチバナさんは花組のみなさんのまとめ役で抑制のきいた方です。桐島カンナさんは身体も心も大きな楽天的でいい意味での男っぽいさっぱりとした性格の方です。李紅蘭さんはいつも他人のために働いている縁の下の力持ちって感じですね。イリス・シャトーブリアンさんは天真爛漫という言葉をそのまま人間にしたような人です。ソレッタ・織姫さんは奔放で陽気な太陽といった感じでしょうか。レニ・ミルヒシュトラーセさんは沈着冷静そのもの、演技だけでなく日常生活の全てが計算されているようなイメージですね。米田支配人は、たまに訳の分からない用事を押しつけることもありますが劇場の父親という感じの方です。副支配人の藤枝かえでさんは支配人のいい加減な部分をうまく補っておられる方です。事務局の藤井かすみさんはしっかり者で落ち着いた方、榊原由里さんは噂好きのモガ、高村椿さんは元気いっぱいって感じですね。あとよく分からないのが私の友人の加山雄一という男なんですが、この男は窓に逆さにぶら下がったり劇場の書き割りを勝手に持ち出してその前でギターを弾いたりといった奇行の目立つやつなんで、怪しいと言えば一番怪しいのかも知れません。あと愛と美を求める三人組の方々もおられますが、あの方達は関係がないような気がします」
「………その指輪のサイズはどのようなものでしょう」
「え、普通の女性がするくらいだったと思いますけど。僕の指には少し小さかったですから」

 吉野はグラスを磨きながら少し伏し目がちに何かを考えている。
 きゅっきゅっという音だけが室内に満ちる。
 美しい横顔だ。
 見とれているとやがてその顔に優しい微笑みが形づくられた。

「分かりました。指輪は2〜3日中に戻ってきます」
「え?」
「指輪を撒いたのは恐らくすみれさんご本人ですわ」
「一体何故すみれく…いや…さんが?」
「大神さんの指輪を隠すため。指輪は指輪の中に隠すのが一番です。事実、大神さんは自分の指輪が失くなっているのに気がつかず、すみれさんが持っていったと思われたのですもの」
「え、え?」
「劇場のみなさんのうちのどなたかが戯れに指輪をはめてみられたのでしょう。そして抜けなくなった。机の上の石鹸の泡はそれを抜こうとしたときのものでしょう」
「でも取れなかった?」
「はい。そうなるともう指輪を切るしかありません。すみれさんはそのどなたかを連れて宝飾店に行かれたのだと思います。でもその間に大神さんが部屋に戻られたら指輪が失くなっていることに気がついてしまいます」
「それで指輪を撒いた?」
「ええ、切った指輪を元通りにするには少し時間がかかります。その間の時間稼ぎのためでしょう」
「でも指輪をはめたのは誰なんだろう」
「おそらくカンナさんでしょう。普通の指輪が抜けなくなるというのは大きな手をした方の筈です。男っぽいと大神さんは言われましたが女なら誰でも指輪に憧れるものですわ。すみれさんはそんなカンナさんの気持ちが分かるからそういうやり方で大騒ぎにならないように指輪を返そうとしたのだと思います」
「なるほど」
「でもカンナさんは指輪を返すときに事実を話すでしょうけど」
「ふふ、俺もそう思います」
「…素晴らしいお仲間ですね」
「…はい」

 そう言って二人は笑みを交わす。

 それにしても不思議な人だ。
 そして自分はここにくればそうなるだろうと知っていたような気がする。
 昔からずっと。

 ウヰスキーを飲み干すと胸の奥にアルコールのぬくもりだけではない温かいものが流れ込んでくるのが分かった。
 その温もりを抱いて劇場への道をたどる。
 月の光に照らされた自分の影が踊っているように見えるそんな夜だった。


(続く)
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