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「その名の下に」〜天華地人〜
春の朝、一基は鼻をくすぐる味噌汁のにおいに目を覚ました。
空気が動き、人が枕元に座る気配がする。
「一基、起きろ。朝だ」
「………」
「…分かった。朝飯は抜きだな」
「ま、待て!起きる!すぐ起きるぜ!」
一基は目を開き、がばと身を起こした。
「冗談だ。もうすぐできる」
「…おめえが言うと冗談に聞こえねぇんだよ」
人影は微笑みの気配をまといつつ台所に戻る。
一基は手早く布団を片づけると顔を洗い髭をあたった。
中将に昇進したとき髭でも生やしてはと部下に勧められたが、
「そんな七面倒くさいもん生やせるか!」
という一言で終わりである。
いかにも気の短い一基らしい答えであった。
そう米田一基は陸軍中将に昇進した。
日本陸軍第二師団は、米田が退却を装い巧妙に時を稼ぐ間に迂回しロシア第二軍本軍の脇腹を突くことに成功した。ロシア第二軍は潰走し、アメリカ大統領テオドール・ローズベルテの仲介による停戦交渉において日本はポイントを稼ぐことが出来たのだ。恐らく若干日本有利に和を結ぶことになるだろうというのが大方の見方である。
ただし米田旅団の被害は甚大であった。1200名の兵士のうち生き残ったのはわずか50名程度。緒方隼人、水無月右近、風魔幻斎ら3人の連隊長までも失ったのだ。決死の活躍で日本軍の勝利を導いた功を以て米田は中将に昇進し、連隊長を初めとする死者達は二階級特進を果たした。
停戦を待たず一足先に帰国した米田を人は救国の英雄と讃えた。しかしまさに万骨枯れて一将功成る。友を殺し、兵を殺し、自分だけが生き残って栄誉を味わっているということに米田は内心忸怩たるものを覚えていた。例え戦争というものが、そして将帥というものがそういうものであると分かっていてもである。
米田がよく酒を嗜むようになったのは丁度この頃からであった。
同じ頃、米田は結婚した。
媒酌の労を執るために急ぎ帰国した花小路とその夫人が見守るだけのごく内輪の式であった。
花嫁は緒方みずき。
そう、今は一人の女に戻った隼人の本名であった。残り幾ばくかの生をみずきは一人の人間として、一人の女として、生きたいと願ったのだ。
そして一基はその願いを容れた。
式の日のみずきの美しさは匂い立つよう。
二十代の後半と言っても通用するような清冽な美しさであった。
結婚後の生活はごく穏やかなものだった。みずきは人生の最後に訪れた休日を楽しむように、いつも柔らかい春の光のような微笑みを浮かべていた。
居間に入るとちゃぶ台の上に朝食が並んでいる。
あじの干物、飯、味噌汁、そして香の物。
食欲をそそるにおいだ。
「お、沢庵の切り方もずいぶんとうまくなったじゃねえか」
「意地悪だな、一基は。いつまでも言うことはないじゃないか」
「はは、すまねぇな。つい思い出しちまうんだよ」
初めてみずきが食事を調えたときのことである。どんな塩梅かと厨房を覗いた一基は、それまで食事の支度などしたこともない所為であろうか、沢庵の前で考え込むように立ちすくむみずきを見た。数多くの魔物や人を斬ってきた剣豪が沢庵の前に立ちすくむのも奇妙な話である。
「どうした?」
「一基か。切り方が分からない」
「切り方が分からないって?」
「呼吸が読めないんだ」
「ったりめえだろうが!沢庵が息するかよ!普通にやりゃいいんだ、普通に!」
「分かった。破邪剣征…」
「待てい!まったく、俺っちをぶっ壊すつもりかよ。仕方ねえなぁ。どれ、貸してみな」
みずきから包丁を受け取った一基は手慣れた手つきでトントントンと沢庵を切って見せた。
「♪ヘイヘイホー、こんな風に調子を取って刃を振り下ろすだけだ。簡単だろうが」
「大したものだな、厚さも綺麗にそろっている」
「そりゃ、一人暮らしが長ぇからな。ま、おめえなら慣れりゃ目をつぶってでも切れるようにならぁ」
「うむ、精進しよう」
そういう何気ない日常の中に春の日々は過ぎ、やがて夏が来ようとしていた。
この頃になるとみずきは起きたり床に就いたりを繰り返すようになった。
時は確実に近づいている。
初夏。
ある月の美しい夜、一基はふと夜具の中で目を覚ました。
いつものように隣に眠るみずきを確認する。
思わず息を呑んだ。
みずきの体は半透明に透け、儚げにゆらゆらと揺れている。
今にも消えてしまいそうだ。
一基は思わず手を伸ばして体に触れる。
元に戻った。
「…ん?どうした、一基?」
「あ、いや何でもねえよ」
運命はしばしばこうやって非情な予告を与えるのだ。
一基はそれに抗うようにみずきを引き寄せ、その手を取った。
少しひんやりとする。
「夏だってぇのに冷てぇ手だなぁ」
「…一基、そっちに行ってもいいか?」
「ああ」
一基の腕の中にみずきが滑り込んでくる。
筋肉や脂肪ががめっきり落ちた華奢な体。
愛おしさと切なさがこみ上げてくる。
「一基は暖かいな」
「………」
一基は黙って腕に力を込める。
みずきがぎゅっと手を握りしめてくる。
「………死にたくないっ。このままお前と一緒にずっと…」
囁くように叫ぶみずきを一基は力強く抱きしめた。
みずきの身体にぽつんと火が灯る。
やがてその火はみるみる炎となり二人を覆い尽くした。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
一基とみずきは神棚の前に相対している。
みずきは今この瞬間、隼人の顔に戻っていた。
ピンと張った背中が動くと神刀滅却を一基の前に差し出す。
「これを受け取って欲しい」
「…これは隼人の家に伝わる神刀じゃねぇのか」
「そう。だが『隼人』は私で絶える。だから一基に託したい」
「………」
「この刀は本来四振りのうちの一振りなんだ。
だが今ではそのうち真宮寺に伝わる『霊剣荒鷹』を除く二振りが失われている。
失われた二振りは『光刀無形』、『神剣白羽鳥』という。
これら四振りを以て『二剣二刀の儀』という儀式を行えば我ら裏御三家に伝わる破邪の力に頼らずとも魔の力を打ち破ることができると言われている。
儀式の手順は真宮寺の当主が知っているだろうが、一応ここに書き留めておいた」
そう言ってみずきは封をした紙の束を一基の前に置いた。
「俺に失われた二振りを探せってぇことか」
「そう。二剣二刀が揃えば破邪の定めから逃れることが出来るだろう。
定めに従うのは私が最後でいい」
「………分かった。きっと探し当ててみせる。
それがお前の望みならきっと叶えてみせらぁ」
一基は推し戴くようにして神刀滅却を受け取ると紙の束を懐にしまった。
「ありがとう。楽になった」
みずきの顔から「隼人」が姿を消した。
ピンと張りつめた場の空気が和む。
「ところで一基。今度の休み、温泉にでも連れていってくれないか。
私と一基の旅はいつも戦場ばかりだったから一度くらいはのんびりと旅をしたい」
「ああ、いいとも。一度なんてケチくさいこというんじゃねぇよ。何度でも連れていってやらぁ。
…そうだな、とりあえず今回は熱海と洒落こむとするか」
「いいね、楽しみだ」
そう言って笑ったみずきの顔を一基は生涯忘れることはないだろう。
それは自らの定めを知りながら精一杯生きようとする者だけが浮かべられる爽やかな笑顔だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
抜けるような青空の下、熱海行きの汽車は走る。
窓ガラスから差し込む陽の光にみずきの顔の産毛がぼんやりと光っている。
ずいぶん痩せた。
しかしその美しさは一向に損なわれていない、いやむしろ今を盛りと咲き誇っている。
「どうした一基、何をぼんやりとしているんだ」
「え、ああ。弁当喰ったらちょっと眠くなっちまったい」
「私が見ていてやるから眠るといい」
「よせやい、ガキじゃあるめぇし。…どれ眠気覚ましにちょっくら窓でも開けるとするか」
「い、一基!」
「あ゛?」
みずきの制止は一瞬遅かった。一基が窓を開けた瞬間、汽車はトンネルに入った。
トンネルを越えるとそこはアフリカだった。
煤で真っ黒になった顔を二人は見合わせる。
「く、っくく。だっはっはっはっ!」
「ぷ、くは、はははははは」
そんなコントの一シーンのような場面を今でも時折思い出す。
幸せな時間は夢のように過ぎる。
いや夢のように過ぎるから幸せなのか。
熱海に着くと何やら町は活気に溢れている。
旅館の女将に尋ねると、どうやら今夜は一年に一度の花火大会らしい。
「こいつはいい時に来た。俺たちゃツイてるぜ」
「ああ全く」
「よし晩飯早めに食って繰り出すことにしようぜ」
「そうしよう」
部屋に着くと一服もそこそこに二人は温泉をつかうことにした。ハンケチで拭ったとはいえやはりどことなく煤けた感じが気持ち悪い。
「ふう」
ぬるめの湯を選んで浸かりながら一基は目を閉じる。
みずきの口数が減ってきている。それに気づかない一基ではない。
時は近づいている。
───泣くな、泣くんじゃねえ一基。最後まではしゃぐんだ。
一基は冷たい水で顔をぺしとたたいた。
───米田一基一世一代の大芝居。最後まできっちりやり通してみせる。
湯上がりの肌に糊の利いた浴衣を羽織る。帯をキュッと締め、発止と手ぬぐいを肩にかけると一基は浴場を出る。
儚げな浴衣姿が振り返る。烏の行水の一基よりもさらに早く湯をつかったみずきであった。その命は最早長湯に耐えない。
「おう、待たせたな!」
ことさら声を張って一基は湯を後にした。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
満天の星空に華が咲いている。
赤、緑、青、黄がみずきの面(おも)に彩りを躍らせる。
ひゅるるるるる〜
ひゅるるるるる〜
ひゅるるるるる〜
ひゅるるるるる〜
…
…
ど〜ん
ぱあぁぁぁぁ
ぱぁん
ど〜ん
「綺麗だ」
「ああ」
「今ほどこの世界が愛おしいと思ったことはない。
今ほどこの人々を愛おしいと思ったことはない。
今ほど私の横に一基がいてくれることを嬉しく思ったことはない」
「ああ」
「…楽しかった」
「………」
頭を一基の肩にもたせ掛けたみずきがその重さを無くして行く。
その身体はしだいに透き通りやがて陽炎がゆらめくように消えた。
天には華、地には人。
その狭間の宙に友たちの微笑みを見たとき一基の瞳から涙はこぼれ落ち、止むことを知らない。
「ああ、俺も楽しかったぜ」
そんな呟きも風に運ばれ人々の喧噪の中に呑み込まれていった。
(了)
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