スキー昔話


このコーナーは当ホームページ管理者のスキー史をまとめたものです。

えっ「自分のスキー史をまとめる位だからそろそろ引退ですか」って?

・・・ご心配なく。健康維持のため?当分、スキーはやめません。ホホ。。。

 

「なかなか面白い」という感想をいただきましたので、いくつか内容を追加しました。

あちこちでパトロールにつかまった話ばかり・・・

振り返ると、結構悪い事をしていました。(^^♪

 

竹スキーから板のスキーへ

ランドセルの雪面滑走で危機一髪

憂鬱だったスキー授業

デモンストレーターになった男

感激した1級合格

苗場で女性から誘われるNEW

コース外滑走で御用NEW

乗鞍岳のカレーライスNEW

初めての準指導員検定

2度目の準指導員検定は二日酔い

3度目の正直

線香と指導員検定

思い出のMS氏NEW

三川温泉スキー学校

 ■竹スキーから板のスキーへ、そしてランドセルによる雪面滑走


屋根から下ろした雪の上で撮

影した兄弟3人の写真。

片方にレンズのないサングラスを

しているのが管理者です。

 

豪雪の時代

 

昔?は、雪がたくさん降りました。(笑)

子供心に覚えているのは、刈った稲をかけて乾燥させるハゼ場の一番上にある横に縛られた竹(高さ3メートル位?)に腰を下ろして、柿の実(冬まで落ちない実が時々残っていた)をとって食べたり、屋根から下ろした雪が電線より高くなり、電線をまたいで家に出入りした記憶があります。

昭和38年の豪雪の年は小学生で、自衛隊が雪を掘って作ってくれた学校までの通学路(高さは2−トル位)の中を歩いて通ったのを覚えています。
 


竹スキーから板のスキーへ

 

学生服に板のスキーを履いた管理者。

後ろにいるのが祖母。
まるで自衛隊のようですね(笑)

雪国新潟の冬の唯一の遊びはスキーでした。

子供の頃初めてはいたスキーは竹スキー(注1)でしたが、その後、板でできたスキーを買ってもらい、裏山に行っては滑っていました。

 

板でできたスキーといっても、当時のスキーは現在のスキーとは全然違い、スキーの先端は反っていますが、 板の中心部に普通の長靴の甲の部分を引っ掛けるヒモが付いているだけでしたので、回転することはできずに、ただ、板の上でバランスをとりながら真っ直ぐに滑るというものでした。

丁度、家の前が山へ続く坂道になっていたので、暇があると、そこで滑っていましたが、勢い余って、正面にある農舎の壁に時々激突しては叱られたものです。

 

竹スキーはワックスを塗りませんでしたが、板のスキーはワックスを塗らないと雪が付いて滑らないので、スキーをするたびに仏壇からロウソクを持ち出し、生塗りしたり、囲炉裏から蒔の燃え残りを持ち出して簡単な器具の中に入れてロウソクを溶かして塗っていました。

ある日のこと、あまりに私が仏壇のロウソクを使うものですから、祖母が町からワックスを買ってきてくれましたが、粘りのあるワックスのために滑りませんでした。

今、思えば、祖母が買ってくれたのはクロスカントリー用のワックスだったように思います。

 

(注1)竹スキー

竹を縦に割って作ったスキー。両スキーの先端を熱っしてしならせ、そこに穴をあけて縄を通し、その縄につかまって滑る。幅も無く、靴が固定できないため、上に乗ってバランスをとるのが精一杯でした。


ランドセルでの雪面滑走で危機一髪

冬のスキー以外の楽しみはというと「シミ渡り」という遊び?でした。

シミ渡りは、水を含んだ雪が夜の放射冷却現象で固くしまった時に野山を歩き回るもので、シミ渡りができる日の朝は道路ではなく、みんなで山を歩いて学校に通ったりしました。(午前10時位を過ぎると雪がゆるんで歩けなくなってしまいます)

 

ある日のこと、朝の通学途中の山の斜面を、ソリよろしく背中のランドセルで斜面を滑走していた私は、スピードが出すぎて、止まれないまま、山の沢にある農業用のため池に落 ちてしてしまいました。
ズブ濡れになって震えながら家に帰り、着替えて学校に走って行きましたが、今、思えば、真冬の寒中水泳だったわけで、命を落とさな かったのが不思議な位でした。

 

雪が硬くなるたびに、ソリの代わりを務める私のランドセルは、1年しか使えなかったようで、毎年新しいランドセルを買ってもらったのを覚えています。 (笑)

「普通の子は小学校の6年間でランドセルがひとつあればいいのに、お前はひと冬にひとつダメにするから6個もランドセルを買ってやった」・・・と、今でも 時々親が昔話をします。ホホ・・・。

 

 スキー授業 の思い出

 

憂鬱だった中学校のスキー授業

 

雪国新潟の冬の体育の授業はスキーでした。

中学生(村松町立山王中学校)の頃、学校の裏山にある本堂山という小さな山にスキーを持って集まり、わずかなスペースを利用してスキー授業がありました。

思えば、この頃から、金属製のエッジが付いたスキーと硬いスキー靴が登場し、踵をしっかりスキー板に固定できるようになったように記憶しています。ただ、当時のエッジは、スキー板に埋め込まれた現在のものとは異なり、10センチ程度の金属製の板を小さなビスでスキーに固定するだけでしたので、時々エッジが板からめくれたり、外れてしまった記憶があります。

中学校のスキー授業と言っても、スキーをハの字に開いたプルークボーゲンで初歩的なターンをする程度でしたが、直滑降とランドセルでの雪面滑走しかしたことがない私にとっては難題で 、決して上手でなかったこともあって、スキー授業は大変憂鬱な時間でした。

前述のとおり、当時は、固いスキーブーツと踵が上がらないように固定する金具(ビンディング)が普及しはじめていましたので、新型の用具で、近くのスキー場(村松町と加茂市の境にあった冬鳥越スキー場 )でスキーをしている子は大変上手だったのを覚えています。


 

突然スキーが面白くなった高校時代

 

しかし、そんな私のスキー感は高校のスキー授業で一変します。

私の母校の加茂農林高等学校のスキー授業は 、当時、加茂市の猿毛スキー場(現在は廃止されています)で行われました。猿毛スキー場は大変な急斜面で、斜滑降でやっと下りるような斜面でしたし、中学校での憂鬱なスキー授業の印象がありましたので、重い気持ちでスキー授業に望みましたが、圧倒的に三条・西蒲原・南蒲原等の平野部?の生徒が多い高校の生徒の中では、何故かスキーの上手いグループに属しているように思いました。(上手いといっても中の上程度ですが・・・)

この高校のスキー授業を境に「この俺がスキーが上手いかも知れない!」という思い込みをもつようになり、スキーが面白くなって、雪が降ると冬鳥越スキー場に通うという生活がスタートします。

 

当時は、競技ではカザマスキーが、主流だったように思いますが、スワローというメーカーの16,000円位のスキーを購入し愛用したのを覚えています。

 

技術的には、当時、少し低い姿勢で、コブの上で抱え込んで、脚を伸ばしながら回すベーレンテクニックという技術が流行しており、冬鳥越スキー場をベーレンテクニックで滑る大人を「カッコイイ」と思いながら真似をしていました。

 

ある日、冬鳥越スキー場に通うために、最寄りの大蒲原駅から電車に乗ろうとしたところ、ホームで中学で同学年でスキー部だったKA氏と一緒になります。KA氏はギンギンの競技スキーヤーで、スキーを覚えがけの私よりも数段上手く、当時 はカザマのメタルスキーを履いていました。

KA氏 「おう、どこスキーに行くがんでえ」

私   「冬鳥越です」

KA氏 「へーぇ、スキー始めたんか」

私   「は、まあ」

・・・という具合の会話を駅のホームで交わしましたが、KA氏は、運動音痴の私がスキーに行くのが不満のようで、大変怖い印象でした。

(後に、このKA氏とは、スキーやらバレーボールやらで大変親密な関係となり、現在も親しく交際をすることになるのですが、当時は、ただ怖い存在だったように思います。) ・・・ゴメン。


 

デモンストレーターになった男

 

加茂農林高校の同窓生にMHいう男がいました。スキー部の選手として活躍した彼が卒業間近になって選んだ進路は「スキーで飯を食べること」でした。

私は「変わった男だ。オリンピックの選手にでもならない限りスキーで飯が食べれる訳がない」と思っていましたが、しばらくして私の考えが間違っていたことを MH氏自信が証明してみせました。

家業の農業の傍ら、浦佐スキー学校に所属したMH氏は、見事に全日本スキー連盟のデモンストレータとなり、スキー界に名を残すことになったのです。

その後、準指導員、指導員の資格をとった私が指導員研修会に参加するたびに、県スキー連盟のブロック技術員となったMH氏と顔を合わせ「おう、久しぶり」と声をかけられてお互いに挨拶を交わすことになりますが、デモンストレーター経験のあるブロック技術員として活躍する MH氏に会うたびにまぶしい存在に思えてなりませんでした。

 

MH氏がデモンストレーターになる前のシーズンのことでしたが、シーズン初めに奥只見丸山スキー場で仲間と滑るMH氏と偶然出会った時に、MH氏の仲間から「そろそろMHのサインをもらっておいた方がいいぞ、多分来年あたりにデモになるから」・・・と言われたのを覚えています。

MH氏は、現在はブロック技術員も引退したようですが、益々の活躍を祈ってやみません。

 

 ■感激した1級合格


感激した1級の合格証

 

高校を卒業して仕事に就くと、私のスキー行きは益々多くなります。

職場は「白銀会」というスキーサークルがあり、現在では県議会議員となったHT氏や先輩のTY氏に連れられて、あちこちスキー三昧というシーズンが何年か続きました。
当時は、まだ新潟には高速道路が無かったため、車で半日も走って妙高高原に行ったり、朝3時起きして苗場スキー場に通ったりして、シーズンに20日程度は滑っていたように思います。

そんな、スキー三昧を続けていたある日のこと。前村松スキークラブ会長 で職場の先輩で教育委員会にいたSI氏(当時は石打丸山スキー学校の非常勤講師を務めていました)から、教職員を対象にした 2泊3日のスキー教室があるので参加してみないかという誘いがあり、池の平温泉(新潟県妙高高原町)で開催された講習会に参加することになりました。

自己流のスキーで人から習ったことがないため、最初は不安でしたが、暇があるとスキーという経験がモノをいい、講習会の最終日に開催されたバッジテストで 見事に2級に合格 します。

2級合格で気を良くした私は翌週同じスキー場で1級を受験し、合格します。
我流のスキーでしたが、1級に合格することで、自分のスキーが認められたという自信が沸いてきて、後に準指導員に合格した時よりも嬉しいものでした。

あまりの嬉しさに帰りの車の運転もままならず、信号無視をして交差点を横切り、冷や汗をかいたというオマケまでついた1級合格でした。(笑)

 

 ■苗場スキー場で女性から誘われる?

 

当時は、よく苗場スキー場に通いました。当時のホームゲレンデと言ってもいいかも知れません。

高速道路というものが無かった時代ですから、朝3時頃村松を出て、片道5時間程度の雪道のドライブだったと思います。午後3時まで滑って、帰宅するのは午後9時から午後10時 という生活を毎週繰り返していました。決められたことのように、毎回、プリンスホテル前の中斜面のコブのゲレンデを1日中滑り、これも決められたように、国道17号線の石打ドライブインで夕食を食べていたのを覚えています。

 

そんな、ある日の出来事。

いつものようにゲレンデに出て、足慣らしとばかりにホテル前のリフトに並んでいた時のこと。(当時のリフトはシングルリフトでした。)後ろに並んでいた女性から「ご迷惑かも知れませんが、フリト降場で待っていていただけませんか」・・・と声をかけられました。

振り向くと、真っ白なウェアを着た、まぶしい位の可愛い小柄な女性でした。

これは何かの間違いだろうと思いながら・・・「私のことですか?」と尋ねましたら「ええ」という答えが返ってきました。

「はあ」と半信半疑に答えて間もなく、リフトの搬器が来ましたので、わけのわからないままにリフトに乗りましたが、リフトに乗るなり、いろんな想像?が頭の中を駆け巡りま した。(笑)

 

・・・これって、デートの申し込み?

・・・スキーを一緒に滑りませんか?という意味なのかなあ・・・?

いずれにしても、ゲレンデで女性に誘われるなんて、これは大変な?ことになってしまったと、むしろパニック状態に陥ってどうしていいかわからない状態になっていました。

 

リフトの上でいろいろ考えた私は、怖くなって、その女性をリフトの降場で待たずに、50メートル程滑り降りたところから様子をうかがうことにしました。

・・・すると、しばらくして、その女性がリフト降場にさしかかり、リフトが止まって、係員がその女性がリフトから降りるのを抱えようとしているではありませんか。何が起こったのだろうと、しばらく理解できませんでしたが、よく見ると、その女性はリフトにかけたまま脚をバタバタさせている ように見えます。

その状況を見て私は、あまりに小柄な女性でリフトの搬器から降場の雪面に足が届かないため一人ではリフトから降りられなかったことに気がつきました。

 

・・・ああ、私に待っていてほしいと言ったのは、リフトから降りるのを手伝ってほしいという意味だったのか・・・と、その意味に気がついた瞬間から、妙に罪悪感を感じて、その女性に声をかけられないままゲレンデを滑り降りてしまいました。

リフト待ちが長い行列だったので「リフトを降りるときに手伝っていただけませんか」と言いにくかったために「フリト降場で待っていていただけませんか」と言ってしまったんだろうと思いますが、その意味がわからないで、いろんなこと?を考えすぎてリフトから降りるのを手伝わずに、逃げてしまった自分を後悔した思い出でした。

 

皆さん、ゲレンデで女性に話しかけられたら、その意味をしっかり考えましょう。

わからない場合は、必ず、相手に聞くこと・・・です!?ハハ。

 

 ■苗場のコース外滑走で御用!

その他にも、苗場スキー場には実にたくさんの思い出があります。

ある日のこと。苗場スキー場の筍山の山頂に立った私は、リフトから見えたオフピステ(コース外で滑走禁止となっている斜面。)のあまりの美しさに魅せられて、悪いことと知りながら、滑ることにしました。

山頂のリフトを降りて、そっとリフトの係員に気がつかれないように、滑走禁止のロープをくぐって自然の地形の中へ。木はあるものの、滑るスペースは十分ありますので、パウダースノーを堪能して数百メートルのところで、「コース外を滑走中のお客様。大変危険ですので、すぐにゲレンデにお戻りください」・・・というアナウンスが。(冷汗)

それでも、こんなに気持ちのいいスキーはやめられないとばかりに、「誰だ〜、コース外を滑っているのは。俺のほかにだれかいるのかあ」とタカをくくって滑り続けていましたら、パトロールが私を追いかけてくるではありませんか。

1人のパトロールが上から来るのが見えましたが、かなり滑り降りていましたので、追いつかれる心配はなし・・・と決めて、さて、どこでゲレンデに戻ろうかと思っていましたら、いやあ、大勢来る来る。

気がついたら右も左もパトロールばかりで、すぐに御用となりました。

そもそも、こちらは一人なのに、敵は4〜5人。それも「無線機」という文明の利器を使っていますから、私の動きは全員に筒抜け。(笑)

めでたく御用となった私はパトロール本部に連行されて事情聴取。

「名前は?」

「○○です」

「住所は?」

「新潟県です」

「滑走禁止って知っているんですよね!」

「はあ、あまりに面白そうだったものですから・・・」

「転んで怪我をされても助けられないんですよ。コース外は!」

「はあ、一応、転びませんでした」(苦笑)

「ルールを守らない方はリフト券没収という規則になっていますので、リフト券をお返しください」

「はあ」

・・・と言いながらリフト券を没収されました。

「ああ、3500円もする(だったと思います)リフト券が・・・今日は帰るしかないか」

・・・と思っていましたら、間もなくして

「今回は、お返ししますが、この次に同じことをやったら没収しますよ」

・・・と、リフト券を返してくれました。

「ありがとうございます。(今日は)もう、しませんので、すみませんでした。」

・・・とお礼?を述べて釈放されたのでした。

 

オフピステは面白いのですが滑走禁止の場所は滑らないというマナーを守りましょう。

パトロールは一人ではないし、無線機というモノを持っています。

追いかけられたら、必ず負けます。(^^♪

 

 ■乗鞍岳のカレーライス

ある年のお盆の出来事。

職場のYM氏、HT氏と乗鞍岳に夏スキーに行こうということになり、まる一日走って午後2時頃に岐阜乗鞍岳にたどり着きます。途中、標高3000メートル 近くからアクセルを踏んでも車が走りません。

そう、空気というか酸素が薄いのでエンジンも不完全燃焼。そんな障害を乗り越えて乗鞍岳に無事に到着し、残雪を足で登って滑りました。

しばらくして日没を迎えて夕食の時間。残雪脇の道路の待避所にテントを張り、ビールを飲みながらカレーライスを作って「いただきます」・・・をしようとしたら、テントの中を 何者かがライトで照らし出し、中に入ってきました。

「お客さん。ここは露営禁止区域ですので、キャンプもできないし火も使えません。すぐに移動してください。」・・・と学生らしき山岳パトロールが・・・。

そもそも、寝耳に水でしたが、これは移動するしかないかと思いながらも・・・

「せっかく、カレーライス作ったんだから食べてから 移動させてください」・・・と頼んでみましたが

「直ちに移動してください」

すったもんだのやりとりをしましたが、私たちが移動するまでは帰らないと言うので、仕方無くカレーライスを食べずに、テントをたたんで移動。

キャンプサイトは車で約1時間の場所にあるということで、夕食を食べないまま移動。

1時間後にようやくたどり着いたキャンプサイトで、冷たくなった御飯とカレーライスにありついたのでありました。

翌日のこと。

やれやれ、知らないこととはいいながら大変な目にあったと思いながら、今度はキャンプサイトで御飯を炊いておにぎりを作り、インスタント味噌汁とお湯を沸かす炊事道具を持って、再び残雪を滑りに。

お昼にお湯を沸かして、味噌汁を作り、さておにぎりをたべようとしたところ、またも、昨日の山岳パトロールが登場。

「また、あなたたちですね。ここは高山植物保護区域ですから火をたくことも禁止されています」

「昨日、説明したじゃないですか」・・・と。(苦笑)

「ああ、すみません。お湯を沸かしてもいけないんじすか?」

「ええ、禁止されています」

「わかりました」

・・・・と言いながら、パトロールが去った後、しっかり味噌汁を味わって昼食をとったのでした。

1日目は露営禁止で退去命令。2日目は火をたいて退去命令。

高山植物の保護区域でスキーをする時は注意をしましょう。(笑)

 

 ■初めての準指導員検定へ

 

 

スキージャーナル(1979年11月号)に掲載された準指導員検定の不整地横滑りの写真 (この種目も不合格!)

 

 

私が1級に合格した年に村松スキークラブのKS氏(現村松スキークラブ副会長)が準指導員に合格しました。

「1級の次に準指導員という資格認定があるのか。KS氏が合格したなら俺も受けてみよう。」・・・と、1級合格の翌年に新赤倉スキー場で開催された準指導員検定を受検することになりました。

しかし、合格点がついたのは緩斜面ウェーデルンという種目だけで、あとは全部不合格という悲惨なものでした。

受検者の多くは、スキースクールで常勤、非常勤のインストラクターとして滑っている人たちでしたので、競技経験も無く、自己流でやっと1級にたどり着いたサラリーマンスキーヤーの自分との差の大きさをここで初めて体験することになりました。

さて次のシーズンも受検したものかどうかと悩みましたが、あまりに歴然とした力の差がかえってチャレンジ魂に火をつけることになります。

更に、私が受検した準指検定会がスキージャーナルという月刊誌で特集され、偶然、私の写真が掲載されているのを発見し、すっかり気をよくした私は、何の抵抗もなく翌年もまた石打丸山で開催される準指導員検定会を受検することになるのでした。(笑)

 

 2度目の準指検定は二日酔いで不合格

2度目の準指導員検定となった石打丸山スキー場は、当時、職場の先輩のIS氏(指導員)が非常勤インストラクターとして通っていたこともあり、 新赤倉よりはなじみのあるゲレンデでしたので、シーズンと同時に石打丸山スキー学校に入校して滑り込みました。

検定前の滑り込みでいい感触をつかんで臨んだ検定会でしたが、実技種目の1日目が終わって宿舎へ帰り、夕食後に、飲みに出かけたスナックで、スキーを習った石打丸山スキー学校のインストラクターの方とバッタリ遭遇し、検定のことはすっかり忘れて、気がついたら午前2時までお酒を飲んでいました。結果として、 二日目は、右のスキーも左のスキーもわからないほどの二日酔い(二日酔いというよりは、まだ、酔っ払った状態で検定が始まってしまった・・・)となり、見事に二日目の実技種目を落とし て、2年目の石打丸山会場でも不合格となりました。

 

(そもそも検定期間中に朝まで飲むという行為が不謹慎でした。反省!)

 

 三度目の正直(昭和56年)

 

「2度あることは3度ある」・・・という嫌な諺がありますが、 私は、懲りもせずに、次のシーズンに妙高高原の関温泉スキー場で3回目の準指導員検定を受験します。

緩斜面種目も急斜面種目も大きなミス無く終わり合格の手ごたえを感じながら合格発表。

結局、3回目の関温泉で準指導員に合格します。

 

現在も同様ですが、準指導員検定は2泊3日の養成講習会を受講しなければ検定を受けることができませんでしたし、検定も3泊4日という日程で開催されます。検定関係以外のスキー行きを含めると、シーズン30日から35日程度は滑っていました。

今、思えば準指導員検定に挑戦していた3年は、そう長いとは感じませんでしたが、3回目の準指導員検定のための養成講習会に参加している留守中に、長女が生まれましたので「長女が生まれたときにスキーに行って留守だった 。」と今でも妻から言われています。(苦笑)

 

職場の同僚のHA氏と白山山頂で

(雪があればどこでも滑りました。白山山頂までは歩いて3時間)

スキークラブのメンバーと(妙高高原にて)

 ■線香と指導員検定(昭和59年)

スキーの準指導員の資格の上に指導員検定があり、「準」が付いていては面白くないということで、昭和59年に福島県の岳温泉で開催された指導員検定を受検しました。

指導員検定は1回目で合格することができましたが、ここでのハプニングは宿泊先の旅館での出来事でした。

1日目の実技検定が終わって宿舎の旅館に帰ると、旅館に線香の匂いがたちこめていたのです。

何があったんだろうと思って旅館に入ると、女中さんが「ここの旅館のおばあさんが今朝亡くなりましたので、明日が通夜になります。そんな事情ですので、他に泊まるところがあれば旅館を移ってほしいんだけど・・・他のお客さんは皆 さん別の旅館に行きましたので・・・」と言うのです。

その後、スキーの試験に来ているという事情を考慮していただけることになり、そのまま泊まることになりました。部屋も一番奥に移されましたが、検定の2日目、3日目は線香の香りのする旅館からの出発になったのを覚えています。

線香の香りのする結構大きな旅館に、一人でポツンと泊まっていたことになりますが、検定のことを考えると、いい緊張感が維持できた出来事だったように思います。

合格発表が終わって旅館を出る時に「とんだ騒ぎになって迷惑をかけましたが、合格してよかったです」と女中さんが気を使ってくれましたので、無理に宿泊をお願いしたことに感謝して岳温泉をあとにしました。今では旅館の名前も忘れてしまいましたが、旅館の皆さんの配慮があって合格することができた指導員検定だったと思います。 (感謝)

 

指導員検定受検定のために参加したスキー大学と指導員検定会のゼッケン
(今でも部屋の壁に貼ってありますがススだらけです。懐かしい!)

 ■思い出のMS氏

 

スキー史を語るにあたって、忘れてはならない男がMS氏です。

MS氏は職場の後輩。職場に入ってからスキーを始めましたが、持ち前の運動センスの良さと努力の結果、ほどなく準指導員、指導員の資格を取得。一緒にやっていたバレーボールの関係から、間接的に結婚の間をとりもつという 縁もあり、親しく交際をさせていただきました。

質素で意思の強いMS氏は、長年にわたって村松スキークラブの事務局を務めるなどたくさんの功績があります。

一緒に行った志賀高原、役員をつとめた石打丸山の全日本スキー技術選手権大会。

どれも忘れることのできない思い出です。

 

    

       ワールドカップ観戦に行った志賀高原で      一緒に大会役員を務めた技術選
        左からMS氏・同婦人と管理者(右)         のIDカード

 

 三川温泉スキー学校

 

指導員検定に合格した翌年のこと、三川村に新しくオープンした三川温泉スキー場にスキー学校を開設したいということで協力の要請がありました。スキー学校を開設するには全日本スキー連盟の指導員や準指導員が必要ですが、当時、スキー場ができて間もないみかわスキークラブには有資格者がいなかったため、 近隣の加茂市、五泉市、村松町、新津市、津川町等のスキークラブからインストラクターを派遣してほしいということになり、管理者は三川スキークラブですが、実質的な運営は関係クラブから派遣される指導員、準指導員という変則的なスキー学校が誕生することになります。

 

準指導員検定を受検した頃から、スキー学校で働くインストラクターには憧れもありましたので、快く引き受け、昭和60年から平成9年までの13年間、非常勤で三川・温泉スキー場の主任教師を務めることになりました。

校舎も受講申込書も無く、カリキュラムも無いという状態からスキー学校を立ち上げ、「仕事が休みの日は三川通い」という生活が13年間続きましたが、スキー学校 での活動を通じていろんな経験やたくさんの仲間を得ることができた13年間だったと思います。


自己中心の内容ですが、ご覧いただけましたでしょうか?

気が向きましたら、更に内容を追加したいと思います。

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