◇BWV23におけるチェンバロについて          鈴木雅明  (97/9/23)


 カンタータ演奏におけるチェンバロ使用については,Lawrence Dreyfusが''Bach's Continuo Group''(Harvard University Press 1987)の中で擁護して以来いわば定説として受け入れられていますが,ただ彼が言うオルガンとの同時使用(Dual Accompaniment)が当時の全く普通の習慣であったかどうか,は議論が分かれるところです。また例え同時使用が証明される資料があったとしても,そのカンタータ全曲を通して,オルガンとチェンバロを同時に鳴らし続ける,と言うことは,私の個人的音楽観としてはどうしてもありえないことのように思えてなりません。オルガニストがすべての曲を同じレジストレーションで弾くことがありえないように,コンティヌオに音色の変化を求めるのは演奏家にとって当然のことだと思います。

 カンタータ23番には,''Basson e Cembalo''というタイトルのオリジナルパート譜が存在しています。チェンバロをはっきりと名指ししたパート譜は,カンタータでは3曲(他にはBWV6,109)しか残っていませんから,非常に珍しい例と言えます。ただし,状況は単純ではありません。このパート譜を筆写したヨハン・アンドレアス・クーナウ(ライプツィヒでのJ.S.バッハの前任者の甥)は,始めお手本に従って''Violoncello''とタイトルを書き入れましたが,それをバッハ自身が後で消し,''Basson''というタイトルに変え,さらに後になって,''e Cembalo''という言葉を付け足したのです。

 この曲は,ケーテン時代の最後に,始めハ短調で作曲され,ライプツィヒに着いてからカントール採用試験演奏の直前にロ短調に変更されました。その際,弦楽器は移調するのではなく,調弦そのものを半音下げ,ハ短調のパート譜を見て演奏したものと思われますが,オーボエのためには(オーボエダモーレに変更するため短3度下げた)ニ短調のパート譜が,そしてコーアトーンのオルガンのためには(全音下げた)イ短調のパート譜が,さらにバスーンのためには新しいロ短調のパート譜が作られたのです。

 しかしこのバスーンのパート譜にバッハが,''e Cembalo''と言うタイトルを書き込んだのが果たしていつであったか,特定できません。この初演のためであったのか,あるいは想定されている1724年の再演の時か,または1728年から31年の間に再演されたときなのか。
少なくとも1728年から31年の再演の時では有り得ません。なぜなら,この再演では再び曲がハ短調に戻され,件のロ短調のバスーンパート譜は調号が変ロ短調に変更されてコーアトーンのオルガン用に作り直されたからです。とすればこのチェンバロパート譜が作られたのは,少なくとも,1723年の初演時か(24年にあったとされる)再演時しかありえないのです。

 今回の演奏に先立って(いつものように色々と悩み続けた)私は,バッハの''ケーテンからライプツィヒへ''という道筋を追いたいと思い,特に22番と23番は初演の形で演奏(録音)したいと考えました。ですから23番についてはロ短調の稿を取り,終曲にはコルネットとトロンボーンを加える形にしましたが,チェンバロについては初演時に演奏されたかどうかわかりません。しかし,演奏を数日後に控えてライプツィヒに到着したばかりのバッハが,コラールを付け加えて4曲構成にし,しかも作品全体をロ短調に変更してトロンボーンを加えたということは,全体にイエスの受難への思いを掻き立てる悲壮感を加えて,より劇的なものにしたいと言う意志が非常に強く働いた結果だと思います。バッハがヨハネ受難曲やマタイ受難曲にもチェンバロを使用したことを考えると,チェンバロがそのような効果に有利に働くと考えられたことは明らかではないでしょうか。ですから,例えバッハが実際にはチェンバロを用い得たのが24年であったとしても,チェンバロを用いることがバッハの趣旨により近いと考えて今回採用いたしました

 


[礒山先生と聴衆の皆様へのお詫び]

BCJ第32回定期演奏会プログラムの礒山先生の曲目解説(BWV23)で、「ハ短調の稿が一般的」,「曲はハ短調で重々しく閉じる」と書かれていますが,実際の演奏はロ短調の稿でした。これは私の礒山先生への連絡不備の結果です。申し訳ございません。