「東京オペラシティ・コンサートホール:タケミツ・メモリアル」 オープニング・コンサート 鑑賞レポート
'97/9/10 18:30
J.S.バッハ/「マタイ受難曲」BWV244
小澤征爾指揮 サイトウ・キネン・オーケストラ、東京オペラシンガーズ 他
- [演奏のスタイルについて]
- 弦楽器にバロック・ボウを使うことなどで話題を呼んだが、私の感想を先に言ってしまえば、モダン・ボウとの違いはよくわからなかった。まずバロック・ボウを使っていたのは全員ではないことをお知らせしておこう。両オケのリーダー、コンティヌオの一部の奏者など、ポイントとなる奏者は確かにバロック・ボウであったが、全体の中ではバロック・ボウを使っていたのは多く見積もっても全体の3分の1ほどしかいなかった。あとの人はモダン・ボウ。そしてもちろん楽器はモダン。
- バロック・ボウを持っていた奏者も、バロック・ボウにしたことによる弓圧の変化を生かし切れてはいなかったように思う。また、弓の使用だけでなく、開放弦の響きの利用の仕方など、バロック奏法へのこだわりも確かに見えたが、しょせんガット弦の持つ表現力の豊かさにはいたらない。私の耳には、現代楽器の響きそのものだった。
- [小澤氏の曲作り]
- 第一部は曲のキャラクターのためもあってか、比較的きびきびと進み様式をふまえた印象だったが、第二部は、二部冒頭からの天皇・皇后両陛下のご来場もあったためか(?)力んだ感じがし始め、ほとんどオペラ的といえるドラマチックな表現になっていった。それは人数をしぼった合唱での透明な響きとは無縁な、しなやかな表現力には欠ける、劇性を求めたものだった。(6月の成城合唱団・新日本フィルの時のアプローチと、人数などは少なくなっているが、本質はまったく変わらないものだった。)ちなみに手元のメモによると、演奏時間は、第一部が約1時間15分(6月は1時間10分ほどだった)、第二部が約1時間40分(6月は1時間30分)、終演は午後10時3分過ぎでした。(実際に演奏が始まったのは午後6時40分頃。)
- もう一つ、ヘミオラの表現について。バロック期などの3拍子系の曲によく見られる、フレーズや曲の終わりによく現れる、6拍分の音符を3×2ではなく、2×3で感じる処理の求められる個所を、小澤氏はそのようには一度もとらえずに終わりまで指揮しつづけた。そうすると、アウフタクトが常に一拍分になり、ヘミオラでとらえた時の2拍分からなる大きな3拍子のアウフタクトとは根本的に異なる表現になっていた。普段聴いているBCJがヘミオラの音型を見事に生かして演奏していることに慣れていると、どうしてももの足りない印象を拭えなかった。
- 個々の曲について若干の補足をすると、もっとも残念だったのが、新バッハ全集(NBA)の曲番号19のテノールと第2コーラスによるレチタティーボの終わりのコンティヌオの音の処理について。ここは他の器楽とテノールが1拍分の音で終わるのに対して、コンティヌオのみがGの音を2拍分のばす個所である。この処置には歌詞にある“留まる”という内容が反映していると言われているが、この部分を小澤氏は全パートを同じ長さで切っていた。その割に、1部の終曲の最後の音(コンティヌオがタイ付きの4分音符に対して他の器楽が8分音符で終わる個所)では、その音符の長さの差を浮き上がらせて表現していた。その扱いの違いはどこから生まれたのか、私には判らなかった。
- [ソリストについて]
- まずイエス役だが、予定されていたホルツマイヤーに代わって、松本で好評を博したサリドマイド障害者のクアストホフが熱演した。小澤の真正面にしつらえられた壇の上、ピアノいすに腰掛けながら歌った彼の歌声は真に堂々として深みのある、存在感あふれるものだった。特に、いすから降り、短くなってしまっている両足を踏ん張っての“エリ、エリ・・(イエスの臨終の時の叫び声)”は、まさに絶唱であった。 しかし、キャスト変更のインフォメーションの紙に、降板したホルツマイヤーのコメントが掲載されていて本人がロビーにいる、というような異例な状況は、「クアストホフが来日期間を延長することができたための芸術的成果の面からの小澤氏の判断」(ホルツマイヤーのコメントによる)だけではないのではないかとかんぐりたくなってしまうのは考えすぎであろうか。何となくバックステージの不協和を想像させる出来事だった。
- 次に、スキンヘッドで登場したエヴァンゲリストのエインズリーだが、第一部はまだ押さえ気味だったものの、第二部になると小澤の表現にも呼応してか、ポルタメントを多用するなどして劇的な表現を強めていった。ちなみに、エヴァンゲリストのレチタティーボには常にオルガン、チェロに加えてコントラバスも参加し厚みのある(ありすぎる(?))サポートをしていた。これも劇的な表現への指向の現れの一つであろう。
- ソプラノのウルツェは無難な出来。アルトのシュトゥッツマンもエヴァンゲリストと同様に劇的に切々と歌う感じ。ポルタメントも耳についた。その割に声のうるおいが少なく感じたのは不思議だった。テノールのオルセンは不調。高音域は薄く抜いた感じで一様に表現が甘い印象。NO.35(NBA)の“耐え忍ぼう!”のアリアで途中の入りを間違えたことは(間をとばしてすぐに戻していたが)、決定的なミスと言えよう。バスのフォレ(これもペーター・リカの代役)は表情豊かな立派な歌唱だった。終曲の合唱“私たちは涙を流しながらひざまずき”では、SATB4人のソリストが最後のリフレイン2節をコーラスとともに途中から立って歌っていた。
- [合唱について]
- 「東京オペラシンガーズ」の面々はマタイを全曲暗譜で歌い通した。小澤氏の要請を受けてのことであるようだが、功罪半ばといったところであろうか。曲の要になるコラールについては、確かに美しい響きはつくられていたもののテンポはどの局面でもほぼ一様であったし、場面場面での適切な表現がなされていたとは言いがたい、変化に乏しいものだった。ただ、群衆の場面の迫力は説得力のあるものであったし、何ケ所かバロック期の合唱としてふさわしい表現に出会えた瞬間もあった。なおBCJのメンバーも多数参加していたようである。・・・その割には語尾の子音の発音が聞こえてこないところが多く、もどかしい感じもしたが・・・・。
- 少年合唱についてもひとこと。約20名ほどの「SKF松本児童合唱団」はよく通る歌声を聞かせてくれたが、彼らはステージの左端にかたまって配され、第3曲(NBA)のコラールの間にガタガタと退場し、一部最後の曲が始まってから歌い始めるまでの間に入場していた。この措置は何とかならなかったものか。一部の間くらい子供たちは我慢できないものか。それともこどもたち用のイスを置くスペースが取れなかったのか。(実際、ステージ上は所狭しと人が詰まっていたが・・・) 6月の成城合唱団の時も気になったこの扱いが変わっていなかったのは残念だった。やはりどうしても集中が妨げられると思うので・・・。
- [全体を通して]
- 終演後、圧倒的に多数の「ブラボー」に混じって、いくつかの「ブーイング」も聴かれた。
- 私にとっては、確かにしっかり組み立てられた演奏だったが、“マタイ”が訴えるものの本来の姿とは“ずれ”があったように思う。そして、この演奏でこれだけの人が感動するのなら、「BCJに是非来て欲しい。もっと奥深いところからのバッハのメッセージを体験できるはず!」と叫びたい気持ちだった。そしてあわせて、私たちが身近に聴くことのできているBCJの音楽の質の高さを再認識した思いでいっぱいである。このマタイを聴きながら、自分の中で、演奏に要求するもののレベルがだんだんと下がってゆくことを如実に感じた。しかし、BCJが登場する以前はいつもこんな感じだったなあ、という妙な感慨にも耽ってしまった。いずれにせよ、現在の我々がBCJを聴けることの幸せを、期せずして再認識させられた一夜だった。また、普段私たち(私だけ?)がいかに高い要求・理想をBCJに抱いているのかも確認することができた。これは大きな収穫である。・・・!?
- [ホールについて]
- 正直に申し上げれば、私は1階4列の右より(第2オーケストラにほとんどかぶりつき!)という席であったので、ホールの響きについて判断できる立場にはないと思うが、今日(9月14日)、今度は「柴田南雄の合唱作品」のコンサート(もちろんオペラ・シティ)を聴いたので、その印象もふまえて少し書いてみる。まず響きはとても清潔な感じ。たしかに空間は広いものだが、配置の工夫などをすることで無理のない歌唱や演奏で十分な響きを得られる気がする。今後が楽しみなホールと言えるでしょう。
以上、勝手な思いつきばかりを書いてしまったものです。あとはご自分の耳でお確かめ下さい。
小澤氏の“マタイ”については、松本での9月7日の演奏(結果的にオペラシティと同一キャスト)が、NHKによって録画撮りされたそうなので、早く見てみたいものです。(CD収録も行われたそうです。)
早くBCJの“マタイ”が聴きたくなってしまった当HP制作者の矢口でした。それでは。 (97/9/14記)
NHKでの放送が10月19日、BS2で行われるそうです。楽しみですね。 (97/9/23記)