noir 10 for lovers 03 「ここから帰したくない」





 夏休みの数日間を二人きりで過ごした横浜のマンション。
 それでもお盆くらいは実家に帰らなければまずかろう、ということで。
 七条は、啓太を見送るために玄関に立っていた。

 実家に顔を出さなくてもよいのですか? と話を振ったのは七条で、どうせならばお盆にしてはどうでしょうか? とこの時期を提案をしたのも七条で。
 啓太が家族をとても大切にしていることは知っているし、家族にとても大切にされていることも知っているから。
 だから啓太にとってはこのほうがよいだろうと考えたのも事実だし、啓太が少し考えてからそれじゃあそうさせてもらいますと頷いたのはもう1週間も前のことで、以来、この日が来るのは分かっていたことだ。

 それでも。
 1週間前のその日から今日に至るまで、何度も口に出してしまいそうになって、そのたびに飲み込んでいた言葉がある。
 どうにか理性を優先させて、声に出してはいない言葉が。

「それじゃあ、行ってきますね」

 週明けには戻ってきますからと笑顔で告げた啓太が、お土産のいっぱい詰まった大きなスポーツバッグをよいしょと肩に背負う。
 そうして部屋を出て行くために、ゆっくりと背が向けられた瞬間。
 胸のうちに湧き上がったどうしようもない衝動に突き動かされて。

「・・・・・っ、・・?!」

 思わず手を伸ばした七条は、後ろからその背中を抱きしめていた。

「し、七条さ・・・」
「帰したくない、と」

 ふわふわと踊る茶色のクセ髪に埋もれてくぐもる自分の声が。

「ここから帰したくないと云ったら、どうしますか?」

 馬鹿なことを云っている、と。
 早速後悔をしながら、それでも言葉を途中で止める訳にもいかずに云うだけは云って。
 なんだってこんな子供のような真似をと・・・己の行動に苦笑しながら七条は、啓太の躰を抱いていた腕をゆっくりと解いた。
 それでも胸のうちにずっとくすぶっていた言葉を口に出してみたことで、少しすっきりしたような気がする。
 案外口に出してみてよかったのかもしれないななどと考えて、その言い訳じみた思考に我ながら呆れた。

「・・・冗談ですよ。気をつけて帰ってくださいね」

 促すようにぽんぽんと啓太の後ろ頭を撫でながら、七条は普段と変わらぬ声音で告げる。
 すると、扉を見つめたまましばらく考え込む風だった啓太が、くるりと唐突に振り返った。
 そうして何かを見極めるかのように、生真面目な眼差しが、じっと七条の眼を覗く。

「・・・・・」
「どうしました?」

 眼差しの意味を問うて首を傾げてみせる七条の表情から、何を読み取ったのか。
 啓太は何事か自分の中で確信を得たようにこくんとひとつ頷くと、肩に掛けていた大きなバッグを、とさりと床に置いてしまった。

「伊藤くん・・・?」
「俺、やっぱり行くのやめます」
「・・・・・」
「だって、どうしても帰らなきゃいけない訳じゃないですし」

 もうひとつ頷いみせて帰らないことを本当にすっかり決めてしまったらしい啓太に、七条は思わず息を詰めた。
 信じられないような気持ちで。

「ですが・・・ご家族は君が帰ってくるのを楽しみにしているでしょう?」

 ゆっくりと息を吐いてから、取ってつけたようにそんなことを云ってみるものの。
 赦すような甘やかすようなそんな言葉をもらってしまったあとでは、たまには家族の許に帰してあげようなんて愁傷な気持ちには、もうなれない。
 仲のよい家族から啓太を取り上げてしまうことに、申し訳なさを感じないではないけれど。
 その想いよりも、心は勝手に喜びだして、甘くうずいて。

「そうだと思います。でも・・・」

 啓太は両手を伸ばして少し背伸びをして、七条の両頬をぺちと手のひらに挟みこんだ。
 その軽い衝撃に瞬く七条を、澄んだ青い瞳がまっすぐに見上げる。

「七条さんを一人で置いていくなんて、俺がいやなんです」

 自分がそうしたいから、そうするのだと。
 我侭を云っているのが七条ではなくて、まるで啓太のほうであるかのように。

「伊藤くん・・・」

 冗談めかした本心が、どうやら啓太には分かってしまうらしい。
 子供のような駄々をあっさりと叶えられてしまったことで感じる、少々の気恥ずかしさと、隠しようもない嬉しさと。
 七条は泣き笑いのような顔になって、困ったように啓太を見返した。

 嬉しい、なんて。
 感じ入ってしまっている自分を、いったいどうしたものだろう。
 こんな風に、甘やかされるだけ甘やかされて。
 ほだされ上手で意外と頑固な恋人は、いつだって本当に本当に寛大で・・・・・困ってしまう。

「知りませんよ、そんな風に僕を甘やかして」

 どこまでもつけあがって、際限のない独占欲で君を縛り付けてしまいますよ、と。
 云いながら七条は、腕の中に啓太の腰を抱き寄せた。

「いいんです。だって・・・」

 ぽふん、と一度七条の胸に埋めた顔をゆっくりとあげて。
 頬染めて笑う目許に、ちゅんと軽いキスで触れると。

「だって、俺だって」

 啓太はくすぐったそうに笑って、腕の中で少し伸び上がって、お返しのように七条の鼻先に可愛らしいキスをする。
 そうして鼻先を合わせるようにして、じっと眼を合わせながら。

「離れたくないです。七条さんが同じように思ってくれてるなら、嬉しいから」
「同じように・・・」

 はにかんで、目を合わせていられないように胸許に視線を落としてしまった啓太の言葉を、声に出して繰り返してみる。
 確かに、啓太を一人きりでこの部屋に残して出掛けようとした背中に、行かないでほしいなんて縋られたら・・・どうなってしまうか、ちょっと自分に自信が持てそうにない。
 だってほら、どうなるだろうかと想像してみただけで・・・あっけなく火がついた。

「啓太くん・・・愛していますよ」
「しち・・・・っ、おみさん、俺も・・・っ」



 火をつけたのは、優しく寛大な恋人のほう。
 だからしっかりと、この責任を取ってもらわなくては。
 二人きりで過ごす時間は、たっぷりとあるのだから。

 夏休みもまだ半分を残す、とある夏の日の出来事。
 愛しい恋人を腕に抱いて。
 至福の想いで、まずは。

 甘い甘いくちづけを――――・・・・





夏半ばからの終わりにかけて
「もう夏も終わるねえ」
とちょっとしんみりした気持ちで書き始めた話だというのに
ようやく書きあがったのはすっかり正月前ですよ・・・_| ̄|○ il||l

ぐるっと季節を超えて楽しんでいただけましたら幸いです(笑)


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