noir 10 for lovers 07 「衝動的恋愛」とあるよく晴れた、土曜日の午前中。 学校のある平日よりも少しだけゆっくりと朝ご飯を食べ終えて部屋に戻って、さて今日はなにをしようかなと考えていたところへ。 「どうしよう伊藤くん!」 ばたん! とノックもすっ飛ばして壊れんばかりに勢いよく開け放たれた扉から、小柄な24歳生物教師が転がり込んできた。 息を切らせて、どうしようどうしようと、なにやらとても慌てた様子。 「? 海野先生?」 どうしたんですか? と驚きながらも不思議に思ってきょとと瞬く啓太の脇に、たたたと走り寄って、その袖を掴まえた生物教師・・・海野は、興奮気味にぐいぐいと生地を引っ張る。 「どうしよう! 僕っ、ものすごく君のことが好きみたい!」 「・・・・・・・・・・へ?」 勢いに任せた告白を、そもそも告白と認識してよいのか分からずに惑って啓太は絶句する。 海野のことはとても可愛いと思うし、なんだか放っておけないなとも思う。 時折は「さすが先生!」と尊敬することだってあるし、一緒にいると幸せになるし一緒にいないと寂しいと感じる。 だから、好きと云ってもらえるのは勿論嬉しいことだけれども、こうもあっけらかんと云われては、その意味合いが掴めない。 一生徒として可愛く思っているとか、いつも生物室の片付けや書類の整理を手伝ってくれて感謝をしているとか、弟のように思っているとか・・・もっと、特別な「好き」だとか。 どれなんだろうと困惑する啓太の袖を更にぐいぐいと引っ張りながら、海野は啓太のその疑問の答えになりそうなことを、すぐに続けて説明してくれた。 「あのね、昨日は実験で遅くなっちゃったから宿直室に泊まったんだけど、そうしたら寝てる間にすごい夢見ちゃって! 夢の中でのことなんだけど僕、君にすっごいことをいっぱいしちゃって、僕は先生だし君は生徒なんだし、いけないと思うのにそのときの君がすごくすごく可愛くてそれで・・・!」 「う・・・っ、ううううみの先生落ち着い・・・」 「多分! 今もこの同じ学園島内に伊藤くんがいるんだなーって考えながら寝たせいだと思うんだけど、今朝目が覚めてね、真っ先に『残念!』て思っちゃったんだ! もうちょっとでもっとちゃんと! できたところなのに残念って!」 「ぇ、ええと・・・」 「だから僕ね、伊藤くんのこと抱きしめてキスしてそれ以上のもっとすっごいことも、本当にしたかったししたいんだな―って、思って!」 思って! と両手の握りこぶしを固めて正面切って勢いよくそんなことを報告されて、どこから突っ込んだらよいのかも分からず啓太は魂を飛ばす。 とりあえず混乱を極めながらも確認しておきたいツッコミどころは、「え、あれ、俺が受け?」という部分だが、興奮している海野を相手に言葉を挟む隙はない。 「伊藤くんのことが好きなのは分かってたんだけど、気持ちだけじゃなくてもっと全部! 僕、君のことがほんとに全部欲しいんだな―って思ったらもうじっとしてられなくなっちゃって! それでここまで走って・・・あれ、ねえ伊藤くん、聞いてる?」 瞳孔すら開きかねない様子で目を丸くして、ただ言葉を聞くばかりの啓太の顔の前でひらひらと手のひらを振って見せながら。 啓太の瞳を、大きな丸い眼鏡の奥の、大きな瞳が邪気なく覗く。 「ぁ・・・・・は、はい、聞いてます」 「よかったー。それで、どう思う?」 「え・・・ど、どうって」 「嫌だって思う? 僕のこと怖い?」 畳み掛けるように問われるけれども。 怖いという単語と、身を乗り出すようにして目の前で小首を傾げてみせる海野という存在とがうまく繋がらない。 なにせ見た目は年上であることが信じられないような、ドジッ子系眼鏡っ子だ。 初対面の時などは、中学生と見間違えた。 その眼鏡の奥の大きな瞳を興奮のためにか不安のためにかうるうると潤ませて、一心に啓太の返答を待っている姿は、庇護欲をかき立てられることはあっても、恐怖なんて欠片も感じられない。 「怖いなんて、そんなことない、ですけど」 「本当っ?」 「ぇ・・・・ぁ、はい」 ぱああと一気に表情を明るくする海野に気圧されて、啓太は思わずこくんと頷いた。 「じゃあ、してもいいっ?」 「し・・・・っ、してもって、ぃ、今ですかっ?」 「うんそう! 今! ここで!」 「そ、それはさすがに、その・・・っ」 「・・・・・・だめ?」 「ぇ・・・・いえ、あの・・・だめとかじゃ、ない、ですけど」 「やったー!」 しゅんと悲しげに眉尻を落とした表情に憐憫を覚えて慌ててかむりを振った途端、くるりと満面の笑みになった海野に万歳をされる。 「ぅ・・・ぇ、え? ええっ?」 ほほほほんとにっ? 今、ここでっ!? と錯乱する啓太を尻目に、海野はやる気満々で白衣の袖をまくっている。 ちょうどの光の加減で眼鏡のガラスがきらりんと光って、その奥にある瞳が見えなくなって。 表情が窺い知れないまま口許に笑みを刻んだその姿は、まるでマッドなサイエンティストだ。 今ならばシャーレの上のカエルの心境が分かる。 まな板の上の鯉の心境も。また。 すっかり海野のペースに押し流されながら、もはや止めようもなく啓太はこくんと息を呑んだ。 可愛らしい外見をしてえへへと可愛らしく笑う生物教師は、忘れがちだけれども国内屈指の優秀な生物学者で。 我が強く、個性の強い者の多いこのBL学園で、多少いじられつつも信頼されながら間違いなく教鞭をとっている、教師でもある。 一筋縄ではいくはずもなく、研究者の常で、良くも悪くも激しくマイペースだ。 「それじゃ、伊藤くん」 「は、はい」 「僕と、いっぱい幸せになろうね!」 「―――――・・・っ!」 元気に云い放ちながら眼鏡をはずした海野の瞳が、獲物を前にした猫科肉食獣よろしくとろりと細くなった・・・・ように見えたのが。 気のせいだったにしてもそうでなかったにしても。 もはやすっかり、あとの祭り・・・らしい。 |