会えない夜も深夜0時。 ホテルの窓から、まだ活動を止めていない夜の街を見下ろす。 生活の音が聴こえずに、ただ滑るように光が流れては消えていく光景は、しんと静かな深海を覗きこんでいるようで現実味が感じられない。 スーツのボタンを外してネクタイを緩めて。背筋から余分な力を抜いて。 ようやく緊張から解放された和希は、肩で深く息をつく。 また一日が終わってしまった。 半分は無理かなと思いながらも、それでもどうにかして今日中に学園島に戻れはしないかと、仕事をする頭のすみで常に画策していたというのに。 再会してからというもの、こんなにも長く啓太の顔を見ずに過ごしたことはない。 1日2日の出張は時折あるけれど、啓太に触れたいと、こんなにも切実に感じるような長い時間離れていたことは。 またひとつ大きな息を吐いて、和希は少し伸び気味の前髪越しに、スーツの内ポケットから覗く携帯の液晶に目をやった。 画面に表示された充電レベルは満タン。けれども・・・。 「俺の方は・・・切れる寸前だよ」 啓太・・・と、囁くように呼んで。 和希は、繋がってはいない携帯を苦笑いで見下ろした。 啓太から見ると、多分俺は十分に大人で。 時折、羨望のような眼差しを向けられていることにも気付いてる。 その眼差しに気付いていない振りをして、あえて余裕のある振る舞いをしてみせるのは確かに、俺の大人のずるさかもしれない。 だけど、多分・・・本当はたいして変わらないよ、啓太。 俺は、余裕のある大人になんて、なってない。 会いたい気持ちを抑えるのは、いつも本当に一苦労で。 こんなにも求めているのは自分の方だけなのではないかと、不安に陥るのだっていつものこと。 啓太が向けてくれる無垢な羨望を、なくしてしまうのは惜しいと感じる自分がいる。 そんな小さな優越にこだわっている時点で既に、かっこよくて余裕のある大人になんてなりきれていないと、自覚はあるんだ。 「電話する訳には、いかないよな・・・」 ため息で和希は、掌で弄んでいた携帯をかしんと閉じる。 明日も平日。 啓太は朝から学校で、和希には片付けなければならない仕事が残っている。 だから・・・。 「啓太・・・今、なにしてる・・・?」 和希は呟いて。 閉じた携帯の蓋に、キスを落とした。 「12時・・・15分」 手の中の携帯電話を弄びながら。 液晶に示された時間を声に出して確かめて、啓太は小さくため息をついた。 「和希、もう寝ちゃったかな・・・」 仕事が忙しいのかと尋ねたのは、和希が慌しく学園を出る直前のことだったから・・・もう5日前のことになる。 忙しいけど徹夜になるほどじゃないよと、答えた和希は笑っていたけれど。 徹夜になるほどじゃないということは多分、徹夜にならないギリギリくらいまでは忙しいということで。 「電話・・・したらだめだよな、やっぱり・・・」 もしかしたらまだ仕事中かもしれないし、仕事が終わってホテルに帰っているとしても、きっととても疲れているだろうし。 明日だって、朝早くからとても忙しいのに決まっている。 「学園に・・・顔出せないくらいにさ・・・」 何気ないつもりで呟いた口調が思いのほか愚痴のように響いて、なんだか胸がふさいだ。 はああと肺の空気を全部吐き出して、脱力した啓太はぱたりとベットに突っ伏す。 啓太は子供で、和希は大人で。 責任とか、信頼とか・・・啓太の隣で学生をしている普段の和希を見ていると忘れがちだけれど、本当は和希はいつも、啓太には計り知れない大きなものを背負っていて。 それでも精一杯、啓太と一緒にいてくれる努力をしてくれているのは知っているから。 こんな風に仕事が忙しいときには、大人しく待っていなくちゃいけないと分かっているけれど。 それでも・・・。 「会いたいな・・・」 思わず本音がぽつりとこぼれて。 声に出してしまったら、逢いたい気持ちがぐぐぐと胸のうちで膨らんで、押さえようもなく溢れそうになる。 熱くなってしまった目許を誤魔化すように、啓太は伏せた枕にぐいぐいと顔を押し付けた。 少々背伸びをしてでも、大人の和希に相応しい、ものわかりのいい恋人でいたいけれど。 たまには、寂しがりで甘えたがりの子供だからという立場を利用してしまいたくなる。 寂しくてたまらない、こんなときには・・・。 「声、聴きたいよ、和希・・・」 もぞと顔を上げた啓太は、両手で握りしめた携帯をそっと額に押し当てた。 と。 「・・・・・・っ、わっ、とっ!? ・・ぇ・・・?」 突然、携帯が震えて。 額への衝撃に驚いて取り落としそうになりながら確かめた液晶には。 「・・・っ、・・・・・か、和希?」 目を見張って。 思わず呆然として、液晶に写る名前を見詰める。 「仕事、終わったのか? ぁ・・・・・切れちゃうよっ、早く出ないと!」 驚きからどうにかこうにか我に返って。 啓太は慌てて通話ボタンを押した。 「か・・・和希?」 「ああ・・・啓太? もう寝てたか?」 「ううんっ、起きてたよ。ちょうど携帯弄っててさ、急に震えたから・・・・・びっくりした」 嬉しくて。 問われた言葉に、勢い込んで答えてしまう。 「啓太・・・もしかして、俺からの電話、待っててくれた?」 その啓太の勢いに、くすりと吐息で笑う和希の顔が。 まるで目の前にあるようにふわんと想像ができてしまって。 「ぇ・・・ち、違うけどっ、そうじゃないけどっ!」 「違うのか?」 「ぁ、ぅ・・・・・違わない、かな、うん・・・」 「・・・そっか」 条件反射のように返した否定を、結局引っ込めることになる。 「啓太・・・」 「ん、なに? 和希」 「好きだよ、啓太」 「・・・・・っ」 なんだよ急に、っと・・・喉まで出かかった言葉。 けれども寸前で、それをくっと飲み込んだ。 意地なんか張っていられないくらい、啓太にも、伝えたい言葉があったから。 「俺も・・・・・大好きだよ、和希。俺、お前に・・・」 早く会いたい。 そう、云っていいのかどうか。迷って、飲み込む。 仕事で忙しい和希に、それを云ってしまうのは我侭になってしまう気がして。 けれども。 「・・・俺に、会いたい?」 甘やかす口調で、そう問われて。 泣きたいような気持ちで啓太は、きゅっと目をつむった。 「うん・・・会いたいよ。俺、早く和希に会いたい」 気持ちがこもり過ぎないようにと、気を付けたつもりだったけれど。 息を吐きながら伝えた啓太の声は、少し震えてしまっていて。 それに気付いたらしい携帯の向こうの和希が、一瞬、少しだけ黙る。 ヤバイ、と思ってフォローをしようと息を吸った啓太が、けれども言葉を発する前に。 「・・・分かった。即行で仕事片付ける」 決意に満ちた口調で、和希が呟いた。 「え・・・あ、あの、和希・・・」 「明日には終わらせる。それで、明日の夜にはお前のところに帰る」 「だ、大丈夫なのか? 仕事たくさんあるんじゃ・・・」 「あるけど大丈夫だ。啓太を泣かせる訳にはいかないからな」 「泣かないよ!」 ムキになって云い返したら、くすと笑みが返ってきて、つられて啓太もぷぷぷと笑ってしまう。 いつも通りの、一緒にいるときと同じ空気を感じて。 そうして、張り詰めていたなにかが、ふっと和らぐ。 「・・・分かった、じゃあ起きて待ってるからさ」 「ああ」 「仕事、頑張れな?」 「ん、ありがと」 啓太と同じように、耳に届く和希の口調も、なんだか少し和らいだ気がした。 俺も少しは役に立てたのかなと、じんわり胸が温かくなる。 「そろそろ、寝るか? 明日の1限、体育だろ?」 「うん。バスケだって」 「そっか、お前も頑張れよ? ぼーっとして、顔でボール受けないように」 「受けないってば、もう!」 そうして、ひとしきり笑い合って・・・。 「それじゃ、明日な・・・おやすみ、啓太」 「ん、おやすみ・・・和希」 携帯電話の通話は途切れたけれど。 温かい胸のうち、気持ちが通じ合っている。 だから、大丈夫。 他愛もない、そんな会話でもいいから。 会えない夜も、君の声を聴かせて――― |