∞鈍い音を響かせて、取り出し口へ缶ジュースが転がり落ちる。 迷わず冷たいジュースのボタンを押すには、まだ少し風が肌寒い。今更気が付いたけれど、桜の花がほころび始めるのはいつもそんな頃だ。 「ちょっと寒いけど、良い天気だな。空が青くて」 先にジュースを手にしていた和希が、空を眺めて大きく伸びをする。その仕草と洩れた吐息と声とがあんまりにも気持ちよさそうだったから。 啓太は思わず吹き出してしまった。 「和希、なんか今のちょっとオヤジくさかった」 「なんだよ、そういうこと言うなよなぁ」 自分でも思うところがあったのか、和希は苦笑しながら人差し指で頬を掻く。 「啓太だってすぐに追いつくんだからな」 間髪を入れず、啓太はツッコんだ。 「だからさ、和希はいったいいくつなんだよ?」 分の悪さから抜け出せない和希は桜並木へ向かって歩き出す。啓太も後へと続いた。 「俺は啓太の同級生だよ」 「またそうやって誤魔化す」 「ウソは言ってないだろ」 「そういう問題じゃなくて・・・うわ!」 和希はおもむろに振り返ると、手に持ったジュースを啓太の唇へ押し当てる。驚いた啓太が口を閉ざした隙に、彼はまたずんずんと歩き出していた。 「も―――――」 なにか言ってやろうと思って再度口を開きかけた啓太は、風を切って前を行く和希の背中に目を留める。 『啓太だってすぐに追いつくんだからな』 本当に、自分はこの人に追いつけるんだろうか。年を重ねたら、本当に。 ぽつりそう思った瞬間、先を行く和希の背中がつと、遠のいた気がした。 「和希」 無意識に呼んだ声は自分でもどきりとするくらいの儚さに満ちていて。啓太は思わず足を止める。 と、ほぼ同時に先を行く和希が足を止め、おもむろに振り向いた。 「啓太?」 今の自分の声は聞こえてしまっただろうか。 心が丸裸にされてしまっているようで、啓太は密かに身じろぐ。 こんなことを考えていることがわかったら、和希はなんて思うだろう。笑うだろうか、それとも。 心ここにあらず、と言わんばかりにぼんやりしている啓太に、和希は空いてる方の手を差し出すと 「ほら」 早く、と、ひらひら手を振る。 「うん」 数回目を瞬かせた啓太が手を伸ばして和希の手の温かさを感じた瞬間。 ぎう、とその手を強く握られた。 「ちょっ・・・、なに?痛いよ、和希」 「啓太がぼけっとしてるからだろ」 そう言うと和希は力任せに腕を引いた。そのとおり気を抜いていた啓太は、混乱するままに和希の眼前に引き寄せられてしまう。 鼻先に、和希の香りがぶつかった。 「・・・どした?」 間近で覗き込む和希の瞳は、深く優しい。 今はそれが返って自分と和希との歩幅を感じさせるようで。 ちょっぴり切なくて、だけど嬉しくて。 「見て、和希。桜の木、すごい」 「・・・ああ、そうだな」 このちりちりと微かに胸を焦がす痛みは、きっと「贅沢」ってやつに違いない。 二人は大きな桜の木の下へ座って木を見上げる。 重なり合う枝の隙間からこぼれる日の光と、水色の空、そして桜の花。 薄く色づくピンクの蕾が一つ一つ弾けるたびに、春もだんだんと色を増してゆくのだろう。 啓太が言葉も忘れて頭上の桜の木へ見入っていたその矢先、不意に声を落とした和希が言った。 「伊藤啓太君。この学園での一年は、君にとって有意義なものだったかい?」 桜の花を見上げたまま、啓太は答える。 「はい―――もちろんです、理事長」 「そうか。・・・それを聞いて、安心した」 啓太が視線を移すと、和希は桜の木へ背を預けながら啓太を見つめていた。 穏やかな声音に穏やかな表情。それは、自分を見守ってくれるもう一人の恋人のものだ。 「君がこの学園にいる間に心に感じたこと、触れたこと―――どんなときもどんなことも全部、大切にしてほしい。後からこの時を振り返ったときに、後悔することのないように」 啓太は和希の声を聞きながら、その言葉が心の一部分になるまで頭の中で何度も何度も懸命に繰り返す。 「―――今のは、ちょっとだけ先輩のお言葉」 和希はくすりと笑うと啓太の眉間を人差し指でぐりぐりと押した。 「というより、単なる俺の願望かな」 冗談めかしてそう言うと、和希は缶ジュースのプルタブを開けた。 啓太は夢から覚めたかのように眩しそうに和希を見つめる。 「和希は―――」 「ん?」 「和希はこの一年、有意義だった?」 幼かった自分との約束を守るための日々。 「・・・やっぱり桜はいいな」 和希は啓太の質問には即答せず、ジュースを一口含む。啓太も思い出したようにプルタブを開けると、炭酸の音が控えめにはじけては消えた。 「―――ホント言うと、後悔してるのは俺なんだ」 緩やかな風に吹かれながら、和希がぽつりと洩らした。 「俺にはちょっと欠けているところがあるから」 「・・・かけているところ?」 和希に欠けているところがあるだなんて、考えたこともない。 「俺は小さい頃から学校生活なんてろくにしたことがなかったし、同年代の友達もほとんどいなかった」 啓太は黙って先を促す。実際、和希へどんな言葉を言えば良いのか、啓太には、すぐには思いつかなかった。 「時間は確実に過ぎていくけど、カレンダーは時間を区別するだけの記号みたいだったよ」 ま、勉強は嫌いじゃなかったから楽しかったけどね、と付け加えながら、和希は音楽でも聴いているかのように瞼を閉じる。 「だから、啓太と一緒に過ごすのに便乗して、俺はすごく今の生活を楽しんでる。・・・生徒達に申し訳ないくらいだ」 密やかに笑い声を立てた和希はゆっくりと瞼を開けると、挑戦的な瞳を真っ直ぐに啓太へ向けた。 「俺に負けるなよ、啓太」 「和希・・・」 俺は、随分前から解っていたはずだ。 その瞳を余すところなく受け止めながら、啓太は思う。 自分の考えていることなんて、とっくに和希は見透かしているということを。 『俺は啓太の同級生だ』と言った和希の言葉に、まさしく嘘はないのだということを。 「・・・うん」 「よし」 啓太は再び枝越しの空を見上げると、独り言のように言った。 「なあ、和希」 「なに?」 「もう少し桜が咲いたら、みんなでお花見やろ」 「そうだな。篠宮さんと成瀬さんにお弁当作ってもらって」 「夏になったら海に行って」 「気が早いな〜、もう夏の話かよ」 和希は声を上げて笑った。けれども啓太はそれを気にする様子もなく続ける。 「秋になったら紅葉を観て」 「・・・啓太?」 少しだけ小さくなった啓太の声が微かに緊張を帯びるのを感じて、和希はいぶかしさに気がついた。 啓太はジュースの缶を両手で硬く握り締めると視線を移し、誓いを立てるかのように和希をじっと澄んだ瞳で見つめる。 「冬になったら雪山にスノボに行こう。そして・・・」 どんなときもどんなことも。 「―――春になったら、また一緒にお花見しよ」 そう言って微笑みかける啓太に、和希は一瞬真顔で言葉を失ってしまった。 こみ上げる感情を押さえつけ、掠れた声でなんとか言葉を返す。 「・・・ああ」 同じものを見て、同じものを感じて。 「そうだな、そうしよう。必ず」 やがて眩むような笑顔を滲ませた和希の顔を見て、啓太もまた笑みを深めた。 そしてまた季節が回りだす。 |