キンモクセイ





「啓太、早くしないと休み時間終わっちゃうぞ」

 世話焼きのクラスメートが、渡り廊下の先で呆れた声をだした。その声に、自分の足がつい、止まってしまっていた事に気付く。

「あ、うん。ごめん、和希―――」

 晴れた秋の空はどこまでも抜けるように高く、青い。
 こんな日は授業なんて放り出してどこかへ遊びに行きたいところだけれど。

 一現目が終わったばかりでは、さすがにそうもいかない。目の前では和希が今にも何か言いたそうに待ちかまえている。
 学生なんて不自由なものだ。大人からすれば単なるわがままだとは解っていても、そう思わずにはいられない。それほどまでに、吸い込まれるような青空だった。

 せめてこの澄んだ空気だけでも味わいたいと、啓太は大きく深呼吸した。

 と、どこからかふうわりと微かに鼻先をくすぐる香り。

「・・・・・」

 控えめだけれども甘いその香りは。

「―――啓太?」

 いぶかしがる和希の声が遠くで聞こえた。けれど、啓太は香りの在処を求めて視線を漂わせて。
 再び空を見つめて動かなくなった啓太に、ついに和希の肩が並んだ。

「どうしたんだよ?」
「この香り・・・・・・キンモクセイだ」

 業を煮やしたような、心配するような和希の言葉を無視して啓太は呟く。答え合わせをするように振り返ると、それにつられるように和希は視線を宙に漂わせた。

「そう・・・だな」

 同じ香りを感じたのだろう。和希の顔がほころぶのをみて、啓太は声を弾ませた。

「学園の中にあったんだ・・・この近くなのかな」

 香りはすれども姿の見えないキンモクセイの木を探して、啓太は辺りを見回す。と、ちょいちょい、と肩をつついた和希がある方角を指さした。

「あそこの棟の裏に木があるんだ。昼休みにでも行ってみるか?」


 ・・・のはな、いいにおいがするね。

 ああ、あれは・・・っていうんだよ・・・。


「うん。キンモクセイの花って咲いてる期間が短いんだ。だから、咲いてるなら観たい」
「―――へえ、・・・詳しいんだな」

 驚いたような和希の声に、気をよくした啓太は続ける。

「俺ね、子供の頃この花を摘もうとしたことがあるんだ。妹に見せてやりたくってさ」

 あんなにたくさんの花を付けた木を見たのは初めてだった。いや、本当はそれほど大きな木ではなかったのかもしれない。
 それほど自分は幼くて、遠い遠い記憶。背伸びをするのもおっかなびっくりで。

 オレンジの花は星のように、視界一面に煌めいていた。昼に見える星。
 あれを手の中一杯にして、今度初めて会う、まだ産まれたばかりの妹に見せてやろう―――。

「そしたら・・・」


 ―――・・・、だめだよ。


 誰かが・・・誰かが俺の手を取って・・・。


 ―――この花はそんなに長くは咲けないんだ。・・・だから、そっとしておいてあげよう。な?

 うん。きれいだね、・・・。


 あれは―――・・・。



「啓太、どうしてこの学校にキンモクセイが植わってるか知ってるか?」
「え・・・・・?」

 啓太は和希の突然の問いに意表を突かれて瞳を瞬かせる。

 キンモクセイ。砂糖菓子のようなオレンジの花。
 小さいとはいえあれだけの花が一斉に咲いて散るさまは、華やかだけれど、どこか儚い。
 地面に降り積もるその花を見ると無性に寂しさを感じて、どちらかというとあまり好きな花ではなかったけれど。


 ―――啓太、だめだよ。この花はそんなに長くは咲けないんだ。


 つま先立ちで、背伸びして。
 小さな花を摘もうとしている少年の手をそっと両手で押し包むと、透き通った瞳が驚いたようにこちらを見返した。


 そうなの?


 そんなことは思いもよらなかったというような純粋な眼差し。
 啓太はいつもそうだった。助走なしにいきなり飛び込んできて、俺を慌てさせる。―――それは今も変わらないけれど。


 ああ。・・・だから、見るだけにして、そっとしておいてあげよう。な?

 うん。きれいだね、かずにい。


 俺の手を掴んだまま、もっと、もっとと背伸びをしたがる啓太を俺は抱え上げてやった。


 ―――啓太は、この花が好き?

 星みたいにきれいで、いいにおいがしておかしみたいだから、大好き。

 ・・・そっか。



 あの時と全く変わらない瞳を向ける啓太に、和希はこっそりと淡い微笑を滲ませる。

「・・・ま、いっか」

 呟き、歩き出そうとする和希の腕を、思いの他強い力が引き留めた。

「啓・・・?」
「ねえ、和希、ひょっとして・・・」

 射るような強い瞳に見つめられ、思わず息が止まる。啓太は気が付いたのだろうか―――誰が、そのことを教えたのかということに。

「・・・啓太、急がないと本当に予鈴が鳴る」

 話を続けたがる啓太の言葉を遮るように、和希はテキストを小脇に抱えなおして歩き出した。これじゃあバレバレじゃないかと、呆れると同時に込み上げる笑いをこらえながら。

「待って、かず・・・」

 暖かい日差しを割って、冷たい風と共にキンモクセイの香りが再び目の前を横切る。

「だーめ、待たない。授業の頭欠けても知らないからなー!」

 この香りと共に蘇る記憶は、啓太と一緒に過ごした時間が幻ではないと俺に教えてくれるから。
 啓太の想い出の中にいる俺を、あの時のままに。

 ・・・それくらいのわがままは、許してくれるだろ?


 ―――ねえ、かずにいは?かずにいはこのお花、好き?

 そうだな、・・・俺は―――俺も、大好きだよ――――――――。





えーと、和希と啓太が秋口まで一緒にいたのかどうかはわからないのですが、そういう設定でお願いします・・・。


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