それは恋人同士で甘い夜を過ごした翌日の、平日の朝の風景。 「伊藤くん、少し上を向いてください」 「・・はい・・・・」 促されるまま軽く仰のくと、ちょうど目線の位置に七条の顔がくる。 普段はこんな距離で顔を見合わせていたら、甘い眼差しだとか甘い言葉だとかが必ず山ほどくっ付いてくるものだから、じっくり顔を見ているどころの騒ぎではなくなってしまうのだけれど。 今は七条の視線は、啓太のネクタイを結んでくれている手許から離れない。 それをよいことに啓太は、恋人の端正に整った顔を、近くからこっそりと独り占めする。 聡明そうな額に、深く通った鼻筋、穏やかな笑みを佩いた口許。 伏目がちな瞼を飾る淡い銀色のまつげ、その奥にある優しい光を宿した紫色の瞳。 やっぱりすごく綺麗だなあ・・・と思わず見惚れていると。 「はい・・・できましたよ」 それまで少し逸れていた眼差しを不意に真っ直ぐに向けられて、にこりと笑みまで渡されて。 近くから無防備にそれを受け取ってしまった啓太は、とくんと胸を高鳴らせると、慌てて瞬きをして焦点を合わせて七条を見返す。 「っ・・・・ぁ・・ありがとう、ございますっ」 「どういたしまして」 啓太の動揺にも、その理由にもきっと気付いているのだろう七条は、フフと笑って、当たり前のことのように啓太の頬にキスをひとつ。 いつまでも慣れることのできない触れ合うことの気恥ずかしさと、こりずにほてってしまう頬とを誤魔化すように、啓太は結び目を確かめる振りで自分の胸許のネクタイを見下ろした。 「・・・・・」 左右対称の、きつ過ぎずも緩過ぎずもない、ふんわりとしたノット。 七条は、いつもこうして魔法みたいに簡単に結んでしまうけれど。 啓太が自分でやろうとすると、結び目が小さくなってしまったり斜めになってしまったり、どうしてもこうしてもかっこよく結べない。 俺ってそんなに不器用かなと、悩ましく眉をハの字にする啓太に、七条がくすりと笑みを深くする。 「伊藤くんも練習をしますか?」 今日の放課後にでも、と。 指先がするりと頬を撫でて、啓太を軽く上向かせる。 「ですが・・・結ぶ練習をするには、まずは解かなければなりませんから」 そのまま柔らかな頬のラインをたどった指先は、首筋を通って、綺麗な三角形をしたネクタイの結び目にたどり着く。 「その役目は、僕が・・・」 ね? と許可を請う口調にはそぐわない、向けられる眼差しの艶っぽさに。 啓太はこくんと息を呑む。 こんな唆すような調子の、背中に小さな羽をはやして先の尖った黒い尻尾をくるくると上機嫌に振り回しているような、とてもとても楽しげな様子の七条の誘いにうっかり頷いてしまっては、なにか大変なことが起こるに違いないことは誰の目にも明らかだし啓太にも重々分かっているのだけれど、それでも。 「で、でも、七条さん、俺・・・っ」 「嫌ですか?」 「っ、嫌じゃないですけど、でもあの・・・っ」 「啓太くん?」 嫌? ともう一度問うて、悲しそうに困ったように目許を翳らせる七条の野望を止める手立ては。 もはや啓太に残されているはずもない。 「ぃ・・・嫌じゃ、ないです・・・」 どうしようもなくこくんと小さく頷いてしまった啓太が、放課後に七条の手で解かれるらしいネクタイを、結ぶところまで今日中に到達できるのかどうかなのか。 啓太も知らないその予定を知っているのは、目の前でとてもとても幸せそうに笑っているこの・・・。 「ありがとう、啓太くん」 恋人兼悪魔、ただ一人――――・・・・ |