ケモノでゴーすぱこーん、すぱこーん、と耳から頭へと抜ける気持ちのいい音。 悠長に「気持ちのいい」なんて云っていられるのは多分おそらく、暑過ぎず寒過ぎず風もなく心地よく晴れている天気のせいだけではなくて、試合が有利に展開しているから、だ。 練習試合とはいえ、対戦相手は県下でも有名な強豪校。 今日勝っておけば、公式戦で当ったときに心理的優位に立てるからね、と説明してくれた成瀬は、現在進行真っ最中の目前の試合でも、十二分に優位に立っている。 どのくらい優位かといえば、ゲームポイントを重ねるたびに、眼差しやガッツポーズで啓太にサインを送ってくる程度には・・・。 「ねえハニー、週末に練習試合があるんだけど・・・応援に来てくれるかな?」 くれるかな、くれるかな、くれるといいな、来てくれたらすごく嬉しいな。 大きな身体を少しかがめて、啓太の顔覗きこむようにして。 にっこり優しいいつもの笑顔でそんな風に聞かれてしまったら。 「はいっ、行きます!」 負けないくらいの笑顔でそうして頷く以外、啓太にできる訳がなく。 けれどもその啓太に輪を掛けて、ぴかぴかの笑みになった成瀬が「ありがとうハニー! それじゃあ週末には、僕のかっこいいところをたくさんたくさん見せてあげるからね!」なんて云って啓太の身体を力いっぱい抱きしめれば。 啓太にはもうそれに負けない対応なんて思いつかない。 耳どころかつむじまで赤くしてあのええとと口ごもる啓太に、やっぱり可愛い、大好きだよ、と成瀬が甘く甘く囁いて。 ほてってしまった頬にキス。 抗議しようとした唇にキス。 あとはもう順番なんか分からないくらい、いろんな場所にたくさんのキスが降ってきて。 とろとろに溶かされて甘やかされて、少しだけ苛められたりもして夜を過ごしたのが3日前。 3日前・・・と思い出しただけで少し顔がほてってしまって困る。 困りながら熱い頬をしきりと両手で扇ぎながらそれでも、啓太はコートの上の成瀬の姿を追わずにはいられない。 「ゲーム、ミスター成瀬!」 審判のコールとともに試合を勝ちで終えて、相手選手と和やかに握手している成瀬はとても凛々しくて爽やかで、多分誰がどう見ても格好よくて。 日々一つ年下の恋人に向かって「ハニー」だの「大好き」だの云いながらあまつさえピンクのでんぶでハートを描いた愛情弁当を作っているようには、まさか見えなかろう。 啓太の言葉に容易く一喜一憂して、悲しそうに表情を曇らせたり、周囲の空気の色まで変えてしまいそうな嬉しそうな表情で笑ったり。遠くから姿を見かけたからと云っては一目散に走ってきて、思い切り啓太を抱きしめたり抱き上げたり・・・そんな風には。 成瀬さんて、人懐こい大型犬みたいだ。 きらきらでふわふわで毛足の長いゴールデンレトリバー? うーん・・・近いけど、全体の雰囲気で云ったらコリーとか、ハウンドとか。 寧ろ黄金色のたてがみをなびかせた栗毛のサラブレッドとか。 けどやっぱり、馬よりは犬っぽいかな。 だってテニスボールを追う動きはとても軽やかだし。 いつも近くにいてくれるし。 そう、こんな風に近くに・・・・・? あれ、ちょっと近すぎるんじゃあ・・・? 思って、幾度か瞬いて焦点を合わせると、いつの間にか鼻先同士が触れそうな距離に成瀬の顔がある。 驚いて戸惑って啓太がぴきりと固まっているうちに、その顔が不意ににっこり嬉しそうな笑みになって、それからまたもうちょっと近づいて。 こつん、と額同士がぶつかった。 「どうしたの、ハニー?」 考えていたのは僕のこと? 他のことだったら、少し妬けてしまうな。 冗談めかした口調だけれど、拗ねているのは多分本当。 甘やかな眼差しとくっついた額とから伝わってくるぬくもりに酷く動揺して、とにかく何か云わなくちゃ! と啓太は慌てて口を開く。 「え・・・ええとあのっ、馬よりはやっぱり犬かなって!」 ―――――あ。 人差し指を立てて言い放ったあと、自分がなにを云ったのか気が付いた。 お・・・・・俺のばかああああああっ。 成瀬さんは驚いたようにひとつ瞬いてから、くすくすとおかしそうに笑って「僕が?」と首を傾げてる。 幾らなんでも動物に例えるなんて失礼だったよなと、慌てて謝ろうと息を吸ったところで。 ぺろ、と立てた人差し指を舐められた。 「っ?! なななななるせさんっ??? なっ、なっ、なっ」 なにするんですかー! と、皆まで喚けない啓太はショート寸前。 いや、いっそショートして貧血でも起こして倒れられたら楽かもしれない。 だって周りには人がたくさんいて。 ただでさえ注目の的の成瀬が、試合に勝った直後だったから。 あああ、人の目が痛い。 女の子たちの目線が、さ、さ、さ、刺さってるような気がするのはきっと気のせいじゃなく! 気のせいじゃなく―――・・・っ。 脱力して、これ以上はまずい絶対まずいと思いながらも、一人で立っていられなくなった啓太が成瀬の肩に顔を埋める。 その耳許に、楽しげな囁き声。 「だめだよハニー、今日の僕は犬だから」 だから抗議は聞こえないし愛情表現は赴くままだよ。 ・・・ていうか成瀬さんはいつも赴くままなんじゃあ、なんていうツッコミは、楽しそうな笑顔の前では意味なんかきっとなくて。 それに俺・・・困ったとか恥ずかしいとか思いながら・・・すごくどきどきしてる。 嬉しいって・・・思っちゃってる・・・・・。 「成瀬さーん!」 コートの方からテニス部員が成瀬を呼んだ。 さすがに我に返って、びくんと飛びあがるようにして啓太が顔を上げる。 何気ない仕草でその肩に手を置いた成瀬の、キレイな緑の眼差しが、大丈夫?と微笑むから。 啓太は詰めていた息をゆっくりゆっくり吐き出しながら、笑ってひとつ、はいと頷いた。 「じゃあ・・・少し待っていて啓太。今日の試合はもう終わりだから、一緒に帰ろう!」 大きな手で、くしゃりと頭をかき混ぜられるくすぐったさに眼を閉じる。 その間に離れて行った優しいぬくもりが少しだけせつなくて、追うように瞼を開けると。 ちょうど振り向いた成瀬さんから、ちゅっと投げキッスが飛んできた。 寂しいなんて・・・思う間もない。 さすがに同じようには返せなくて、へへへとテレ笑いを浮かべながら手を振り返すと、にっこり笑った成瀬さんが今度こそ踵を返して歩き出す。 コートに戻るその背中を見送りながら啓太は、まだ少し優しい感触の残る人差し指に、ちゅっと小さくキスをした。 |