仔猫のキモチそれは消灯時間が間近のせいか、人影も疎らになろうかという時刻。 丹羽が、寮のロビーの自販機の前で、コーヒーにするべきかコーラにするべきかそれが問題だと頭を悩ませている真っ最中のことだった。 背後から聴こえてきた聞き捨てならない会話に、丹羽は思わずぴたりと動きを止める。 「本当に可愛らしいですね啓太くんは」 「まったくだ・・・だが啓太、そんなに舐めるな。くすぐったいだろう」 「フフ。郁の人差し指は気に入られてしまったようですね」 「・・・・・」 な、なめる? 人差し指を? 郁ちゃんの? しかも気に入っただと―っ?! 「け・・・啓太っ?!」 脳内でとんでもない状況を想像した丹羽は、周囲に風を巻き起こさんばかりの勢いでぐるりと振り返る。 と、そこには。 「・・・ああ。じゃれないでください、ミルクのお皿の近くでは危ないですよ」 「まったく、危なっかしくて目が離せないな・・・こら、食べるか遊ぶかどちらかにしないか」 ソファセットに腰をおろしているのは会計部の二人。西園寺と七条。 啓太の姿は見えず、その代わりと云ってはなんだが、七条の膝の上では小さな茶色い塊が、にーにーと鳴きながら取り上げられた小皿に戯れかかってしきりに跳ねている。 「啓太って・・・なんだよ、猫のことかよびっくりさせ・・・・・・・・・」 やがって、と最後まで云うことはできなかった。 茶色の塊がなんであるかを認識してしまったからである。 「ね、ねご―――っ?!」 目を剥いて大きく飛び退いた丹羽は、背中をビタンと勢いよく自販機に張り付けた。 な、な、な、なんでこんなところに猫がいるんだっ。 しかも初めて見る猫だろそれ! 考えたくもないし認めたくもないが、なんだもしかして学園島内に猫が増えたのか? まさかまだ他にもいやがるのかっ? あががががと、目を白黒させながらあれこれ考えを巡らせる丹羽に、右手で仔猫をあやしながら、あたかも今ようやく気付きましたという風に七条が目を向ける。 「おや、丹羽会長。どうしました? 面白い格好をして」 「お、面白くなんかあるか! しかもお前、ななななに紛らわしい名前付けてんだ!」 「紛らわしい名前・・・ああ、啓太くんのことですか?」 啓太くん、と手のひらに乗せた仔猫を頬の脇に掲げて、七条がにこりと笑う。 「そうだ! ったく、舐めるだの気に入っただの、何事かと思ったじゃねえか・・・」 「すみません丹羽会長。ですが・・・この子は啓太くんですから、他の呼び方をする訳には・・・」 ねえ、郁? と七条が困った顔で同意を求めるのに、西園寺が尤もらしく頷いてみせる。 「そうだな。啓太を啓太以外の呼び方で呼ぶわけにもいくまい?」 「なに云ってんだ郁ちゃんまで・・・啓太ったって、猫だろ?」 「ああ、猫だな。だが、啓太だ」 「はい。猫ですが、啓太くんですよ。間違いなく」 二連発で頷かれて、丹羽の困惑が再度深まる。 「ま、間違いなくってなんだ、どういう・・・」 「さあな。また海野先生が実験で、なにか成功したか失敗したかしたのだろう」 「成功か失敗って・・・ちょ、ちょっと待て! ありえねえだろそんなこと!」 成功しようが失敗しようが、人間が猫に変じるなどと。 おののく丹羽に、けれども西園寺はフフンと意味深な笑みをみせて。 「本当にありえないことだと思うのか? あの海野先生のすることだぞ?」 飼い猫と当たり前のように日常会話をこなす、見た目子供のような天才生物学者24歳独身・・・そう、相手は人類の神秘である。 きらりと眼鏡のフレームを輝かせるその姿を脳裏に思い浮かべてみれば、こんな事態もあながちありえないとは云い切れずに、半疑を残しながらも丹羽はごくりと唾を飲み込んだ。 「・・・・・本当に、啓太なのか? そのちまいのが?」 「そうですよ。間違いなく啓太くんです」 ほら、と両手に乗せた仔猫を七条が差し出すのに合わせて、近くなった距離の分だけ丹羽は思わずあとずさる。 「に―・・・」 猫パンチを空振りさせながら仔猫がひと声鳴いたので、身の安全のためにもう1歩離れておく。 が。云われてみれば。 七条の手から身を乗り出すようにして、こちらを伺うように見上げて小首を傾げる仕草は。 「・・・・・」 確かにどう見ても啓太そのものだ。 マ、マジかよ・・・けどなんだってよりによって・・・。 よりにもよって猫なのか。 本当はすぐにでも回れ右して逃げ出したい丹羽だが、猫とはいえ相手は啓太なのだ。 だりだりと冷や汗をかきつつも、恋人を七条の手に預けたまま背中を見せる訳にもいかず、どうにかその場に踏みとどまる。 「一体、なにがどうして・・・こんな、そんで・・・も、戻れるのか? 啓太は元に」 「さあ・・・僕たちも海野先生から頼まれて預かっているだけですから、なにがあったかまでは詳しくは・・・」 ねえ啓太くん? と七条に人差し指の背で頭を撫でられて、啓太が気持ちよさそうに目を細めた。 指先に懐くように頭を摺り寄せて、甘えるようにくるくると喉を鳴らしているのが聴こえる。 その様子から脳裏にフラッシュバックするのは、やんわりと髪を撫でる丹羽の掌に甘えて、無防備に擦り寄る啓太の姿。 そうだ。 啓太にあんな触れ方をしていいのは、恋人である自分だけのはずだ! むかむかと腹に沸いた説明のつけがたい憤りのまま、丹羽は無意識のように一歩を踏み出した。 「・・・おい、七条」 「なんですか?」 「啓太は、俺があずかる」 「それは構いませんが・・・大丈夫なんですか?」 触れることもかなわないのではと冷静に問われて、丹羽は緊張に汗ばむ掌をぐっと握り締めた。 問われるまでもなく、そうなのだが。 普段であれば思い切りそうなのだが。 事態が事態だ。腹をくくるしかあるまい。 落ち着け俺。大丈夫だこれはネ・・・の付く生き物じゃねえ啓太なんだ啓太なんだと、自分に言い聞かせながら丹羽が、撫でられるのを待つように大人しく見上げてくる仔猫の頭に触れるために、震えそうな指先を意を決して伸ばそうとした・・・・・そのとき。 「? あれ、みんなでなにしてるんですか?」 緊張した場の空気を、ふわりと和ませる声が響いた。 その声の持ち主は、階段を降りきると真っ直ぐに丹羽たちの方へと歩いてきて。 「あ、猫だ! しかも仔猫じゃないですか!」 可愛いなあ、と目許をとろけさせながらなんの抵抗もなくその小さな頭に手を伸ばし、愛しげにくるくると撫で回す。 「け・・・・・」 「小さいですねー、この子名前は・・・・・あれ、王様」 「け・・・・・」 「どうしたんですか? 猫、大丈夫になったんですか?」 「け・・・・・」 「け? 王様?」 不思議そうに小首を傾げて、ひらひらひらと顔の前で手を振られて。 丹羽はようやく、吸い過ぎていた息を、声と一緒に一気に吐き出した。 「啓太じゃねえか―!!!」 突然に響いたあまりの大声に驚いて、ひゃっと啓太と仔猫が同じ仕草で首をすくめる。 「・・・やはり似ているな」 「ええ、反応までそっくりです」 啓太くんとケイタくん、と七条が楽しげに頷いて。 悦に入った様子の西園寺が、それこそくつくつと猫のように笑う。 「茶色くてふわふわで、ほら、目も綺麗な青なんだよ?」 ほんとに伊藤くんみたいでしょ―、と海野。 「では、名前はケイタくんですかね」 「ああ、ぴったりだな」 「うん、じゃあ決定! ・・・きみは今から、ケイタだよ!」 両手で抱え上げて愛しげに頬擦りをしたあとで、海野は小さなケイタを七条の手に預けた。 「それじゃあ僕はこれから学会に行かなきゃいけないから」 だから西園寺くん七条くん、ケイタをよろしくね。 「と・・・先ほど海野先生から託されまして」 仔猫の耳の後ろを指先でくすぐりながら説明する七条に、緊張から解き放たれて一気にテンションが落ちた丹羽は半眼になる。 「・・・・・」 「なにか文句がありそうだな、丹羽」 「・・・あるに決まってんだろー。郁ちゃんが散々意味深なこと云ってくれたおかげで俺は」 「私は嘘はひとつも云っていないぞ」 「う・・・」 フフン、と顎を上げて綺麗に笑う女王様の前では。 哀れ、王様はあまりにも無力だった。 「あ―・・・そうだ、俺飲みもん買いに行ったんだよ」 すっかり忘れてたぜと呟きつつ、今更戻る気にもなれないのか、自室に向かって階段を上がる丹羽の肩はすっかり落ちてしまっていて。 隣に並んでとんとんと軽快に段を上がる啓太は、ぷぷと可笑しそうに目を細める。 「コーヒーでよかったら、俺、淹れますよ」 「そっか。んじゃ、頼むわ」 云った丹羽の手が、ぽんと啓太の頭を撫でた。 撫でて・・・感触を確かめるように、触れたまましばし動作を止めて。 そうして不意に啓太の顔を覗き込むと、不思議そうに見返してくる啓太のその顔をしみじみと見詰めてから。 「啓太・・・」 「・・・っ、わ! 王様・・・っ?」 突然ぐいと引き寄せて、胸の中に転がり込んだ啓太の身体を、ぎゅうと力いっぱい抱きしめる。 「やっぱお前は、このサイズでこの感触じゃねえと・・・」 戸惑って固まる啓太の耳朶を、脱力気味の丹羽の吐息がくすぐって。 収まるべきものが収まるべき場所に、ようやくしっくり収まった、と。 耳許への囁きから、そんな安堵を感じ取る。 啓太は、驚きに強張らせていた身体から、ゆっくりゆっくり力を抜いた。 「・・・猫の俺は、ダメですか?」 「いや、ダメじゃねえけど・・・」 でも、こっちのがいいな、と笑んだ唇が、こめかみに触れる。 その優しい感触に、啓太はくすぐったそうに小さく首を傾げた。 そうして幸せそうな笑みになって、そうっと丹羽の背に両腕を回して。 「俺も・・・こっちの方がいいです。だってもし俺が猫だったら・・・」 いっぱいに腕を伸ばしてようやく抱きしめることのできる、丹羽の広い背中。 今はうなだれ気味の大きなそれがとても愛しくて、啓太は力いっぱいぎゅーっと抱きしめた。 「王様をこういう風に・・・抱きしめられなくなっちゃいますから」 体格差の関係上、抱きしめるというよりは抱き付いているような状態だから。 抱きしめて守ってあげるなんて言葉には、あまりにもほど遠くて、格好も付かないけれど。 それでも、へへへとテレたように笑う啓太が、少し得意げな様子で丹羽を見上げる。 「・・・・・ったく、お前は・・・」 かなわねぇな、と大きく息を吐いて。 丹羽の腕がもう一度、胸のうち深くに啓太を抱いた。 「・・・・・部屋、行くか。コーヒー淹れてくれんだろ?」 「はい・・・ぁ、淹れるって云ってもインスタントですけど」 「じゅうぶんだ。んじゃ、行こうぜ」 はい、ともう一度頷いた啓太の髪を、促すように丹羽の掌がくしゃりと撫でたら。 啓太が嬉しそうに目を細めた。 まるで幸せな、仔猫のように。 |