梅雨前線北上中―――岩井さんほどの才能がなくても、今の景色ならきっと俺でも描けるような気がする。 毎日毎日飽きるほど降るグレーの雨空に、啓太はやや乱暴にファイル棚を閉じた。その音に、こちらの中嶋が微かに動きを止める。あちらの丹羽は、同じくうんざりしたように書類の束を投げ捨てていた。 学生会室は適度にエアコンが効いているけれど、この湿った空気と気分までは調整してくれない。 「ったく、いくら梅雨でもこんなに続くとさすがに気が滅入るぜ」 たまらず音を上げる丹羽へ、鬱陶しいとも言わんばかりに中嶋が口を開く。 「まるで散歩に行けない犬、だな」 「お、いいねえ。犬は仕事なんかしなくていいもんなー。犬になりてえなー。あーちくしょー、ちょっくら気晴らしにバスケ部でも覗いてくっかな」 「あいつらもインターハイが近い。せめて柔道部にしておけ」 「ヤだよ、あいつら弱えーんだもん」 持て余す体力と気力を仕事に注ぐ気持ちを既に持ち合わせていない丹羽は、これ見よがしにガタガタと椅子と机を揺らす。それを見た中嶋は露骨に溜息をつくと、立ち上がってカバンを掴んだ。 「なんだ?ヒデ、お前逃げる気か?」 「俺は俺の分の仕事を終えただけのことだ。この見境もなく噛みつくチンピラが」 逃さじとなおも絡む丹羽を、中嶋は容赦なくばっさりと斬り捨てる。 「何だと、コラ」 「二人ともやめて下さい・・・」 「文句を言いたければ明後日の自分にでも言うんだな」 一言一言を丹羽へなすりつけるように発すると、中嶋は有無をいわさずとっとと去ってゆく。どうやら燻っているのは啓太や丹羽だけではなかったらしい。降り続く長雨は農作物だけでなく、中嶋にまでもかなりの影響を与えていたようだ。 残されたのは丹羽と啓太と、湿度でより量が増えたように感じる書類だけ。 「あいつも相当イラついてんだなあ」 「・・・みたいですね」 手加減せずにあれこれ吹っ掛けられる相手をつるりと逃した丹羽は、あーあ、とやる気のない伸びをする。 瞬間、啓太とかちりと目が合った。 啓太が本能的にマズい、と思ったのもつかの間、ソファに座らされ、膝の上に丹羽の頭が遠慮なく乗っかる。啓太だけは絶対に逃さないと決めたらしい。 「やる気がねえのはみんな同じなのに、どうして俺だけが仕事しなきゃなんねーんだよ」 なあ、なあなあ、と、疑問の尽きない子供のように、丹羽が啓太に絡む。 「それはやっぱり、王様が溜めてるからじゃないですか、仕事を」 「こんな天気じゃなけりゃ、とっとと逃げ出すんだがなあ」 そんな気も起きやしねえ、と、丹羽は恨めしそうにちらりと窓の外を見やる。 「あとちょっとで夏が来る。それまでのガマンだ」 唸るような拗ねるような、そしてちょっと寂しそうな声で呟く丹羽を、啓太は見下ろす。本当の夏が来たらきっとこの人は太陽の下を飛び回って、一瞬たりとも落ち着いてはいないだろう。今だって、この部屋から飛び出したくて見るからにうずうずしているくらいなのに。 だったらこの時間を、少しは楽しんでもいいんじゃないかな―――。 「そうですね」 微笑んで、そっと恋人の硬い髪に手を伸ばす。されるがままに、丹羽はぼんやりと窓の外を眺めながら言った。 「夏が来たら」 「え?」 「啓太は俺のことをもっと好きになる」 不意の言葉に驚いて丹羽の顔を見ると、自信ありげな強い瞳がこちらを見上げていた。 それは、妙に確信を持つ予言。 「な、んですか、それ」 余裕のあるその顔を突っぱねて笑い飛ばしてやりたいのに、啓太の言葉はつまづいてしまった。 夏が来たら、夏が来たら、夏が来たら。その言葉が呪文のようにぐるぐると啓太の脳裏に焼き付いて、胸の鼓動を早くする。 もうあとほんの少しでやってくる、容赦のない太陽の季節。 「ホントだぜ―――」 啓太が何か言う間もなくふと、視線が緩んで、次の瞬間には丹羽は無防備に微睡んでいた。 「―――――」 ちょっと。 言い逃げですか。 啓太は息を潜めながら、丹羽の顔を眺める。けれど、鼓動は早まるばかりでなかなか収まりそうになかった。 丹羽の目が覚めて、雨が上がるころには、きっとドキドキするような夏がやってくるに違いない。 緩やかな寝息をたて始めている丹羽の吐息と、静かに降り続く雨の音。 啓太は隠すことのできない期待に顔を綻ばせながら、ちょっぴり好きになった梅雨空へと視線を向けた―――――。 |