ハードボイルド・バースディ





 あ。

 今、篠宮さんとすれ違った気がした。
 あとで絶対何かお小言を言われるんだろうな。啓太は頭の片隅でちらとそう思ったけれど、この足を止めるわけにはいかない。

 真夏の太陽がじりじりとアタマのてっぺんを焦がして、額に汗が流れ落ちる。額だけじゃない。背中も制服も、汗でびっしょりだ。急いで走れば走るほど、熱風がますます顔を撫でる。
 それでも走る。走らなきゃいけない。4本足に勝つには、ただひたすら頑張るしか思いつかないから。



 それはついさっきのことだった。

「伊藤くーん」
「あ、海野先生」

 啓太が中庭を歩いていると、海野が白衣をはためかせながらのどかに近づいてきた。灼熱の下だろうと極寒の下だろうと、この人はいつも常春だ。そんなことを頭のどこかで考えていると。

「これから学生会室に行ったりするー?」
「はい、そのつもりです」
「あのねー、さっきトノサマが学生会室に行くって言ってたんだー」
「え?トノサマが?どうして、学生会室へ?」
「丹羽くん、今日お誕生日なんだってね?」

 海野は小首を傾げて、屈託のない笑顔で言った。それはまるでトノサマが教えてくれたとでもいわんばかりに。
 いや、実際そうなのかもしれない。啓太はもはや、トノサマに関して猫だとは思わないことに、そして目の前の飼い主も並のお方だとは思わないことに決めていた。

 それでも恋人の丹羽にとって、猫は猫だ。そう、ダイキライナネコ。

「お祝いを言いにいったんじゃないかなあ。トノサマ、丹羽くんのコト気に入ってるみたいだから」
「海野先生、すみません俺、行きますっ!」
「あっ、伊藤くーん?」

 挨拶もなおざりに、啓太は駆けだしていた。

「それでねー、トノサマに逢ったらー、晩ご飯までには帰ってくるんだよーって伝えておーいてーーー」

 全力疾走の啓太の背中に、海野のノーテンキな声がぽんと、当たった。



 飛び込んだ校舎の入口は、人気がなくてひんやりとしている。その心地よさを味わう余裕なんてなくて、萎えそうになる足をさらに励ました。
 階段を1段跳びで掛け上がる。コーナーリングでドリフトに失敗してコケそうになった。

 ようやく学生会室沿いの廊下へたどり着く。

 あとちょっと、あとちょっと、あとちょっと・・・!

 扉が視界に入る前に、向こうから優雅に歩いてくるのは・・・。

「と、トノサマ!」
「ぶも?」

 学生会室の扉を前に、啓太とトノサマは向かい合わせにはたと立ち止まった。トノサマのしっぽがふらりと揺れる。

「ぶにゃあん」
 よう、坊主。この暑いのに随分と元気そうだな。

 ・・・と、言われたような気がした。啓太は構わずトノサマへと話しかける。

「トノサマ、王様に用があるってホント?」
「ぶにゃあ」
 まあ、な。

「何の用なの?」
「ぶぅにゃあぉ」
 お前には関係ないさ。

 トノサマはちろりと扉をみやると、扇子でも扇ぐかのようにふうわりと尻尾を翻した。

「関係なくないよ!俺は・・・っ」

 啓太が声を大にして足を一歩前に踏み出したその時。

 学生会室の扉ががちゃりと開いた。

「―――おい啓太、お前何を騒いで・・・んっ・・・」
「わあ、王様、出て来ちゃダメですっ!」

 はた。

「ぶも。」

 にたり。

「ねっ・・・・・・ねご・・・・・・・・・っ」

 丹羽の躰が、一瞬で凍りつく。と、糸の切れた操り人形のようにぷらあんと揺れた。啓太は慌てた。最悪の事態だ。

「にゃぁぁあごぉぉう」
「王様、ごめんなさい!」
「ごあ!」

 啓太は固まる丹羽を室内へ蹴り倒し、後ろ手にドアを閉める。扉の向こうで、どすりと鈍い音がした。ごめんなさい王様、アタマだけは打たないで。

「トノサマ!」

 啓太は正面を切ってトノサマを見た。トノサマも、啓太を見た。

「今日は王様の誕生日だって、知ってるんだろ」
「ぶう」
「だったら、今日は、今日だけはこのまま帰って。な、トノサマ、わかるだろ?」

 トノサマは、視線を逸らして聞こえないフリをした。とことん、喰えないヤツだ。
 これはもう、正攻法で行くしかない。

「俺、お前のこと好きだよ」
「ぶも?」

 啓太の言葉に、再びトノサマがちろりとこちらを向いた。ほら、やっぱり聞こえてる。

「でも、王様は特別に好きな人なんだ」

 トノサマは、つまらなそうに鼻をふん、と一回鳴らした。

「だから、お前が今日どうしても王様に逢うっていうんなら」

 啓太は握った拳で力任せに学生会室の扉を叩いた。思ったより大きな音がした。

「いくらトノサマでも許さないからな!」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 すう、と、トノサマの目が細くなった。

 静かな時間が流れた。



 ―――やばい俺、失敗したかも、と、啓太が思いはじめたころ。

 つと、トノサマは、静かに今来た道を戻り始めた。

「トノサマ・・・?」
「・・・ぶにゃあん」

 後ろ姿に、ぶっとい尻尾がぴらりと揺れた。

 ・・・お前のその心意気に免じて、今日は勘弁してやるよ―――。

 そんな声が、どこからか聞こえた。・・・気がした。
 差し込んだ光が、廊下にトノサマの影を映しだす。

 妙な、風格があった。



「・・・・・・おうさま?」
「け、啓太っ」

 学生会室の中では丹羽がバリケード宜しく、会長机のたもとにしゃがみこんでいた。戦闘態勢なのか、避難態勢なのかはわからない。

「あいつは、あああああいつはっ??!」

 啓太は丹羽の目の前で同じくしゃがんで、なだめるように丹羽の手を取る。可哀想に、柔道部の有段者を楽々と投げるこの手がぶるぶると震えている。

「トノサマなら、帰ってもらいました」
「う゛う゛う゛う゛う゛」
「本当です。トノサマは、王様に誕生日のお祝いを言いに来てくれたらしいですよ」
「嘘だ。絶っ対に嫌がらせに来たに決まってる」
「それは、・・・わかりませんけど」

 啓太は苦笑した。よりによって丹羽も困った相手に『気に入られた』ものだ。

「あーもー、俺ヤダ」
「王様?」

 だいぶ人間の理性を取り戻してきた丹羽が、がくりと項垂れ、心底嘆く。

「啓太にこんなところ見られてカッコわりーとか思う余裕すらねえし」
「いいんじゃないですか?俺はアレが苦手な王様の方が、好きですよ」

 フォローだとか励ましだとかじゃなくて、心から啓太はそう思った。声には出さないけれど、中嶋や西園寺もきっとそう思っているに違いない。
 まあ、あの二人は「面白いから。」とかそういう理由なんだろうけれども。

「それに、俺が王様を守ってあげますから、大丈夫」
「啓太・・・」

 まっすぐ伸ばされた腕が啓太を捕まえる。

「ちょっ・・・王様?俺、汗、かいてて・・・」

 気持ち悪い、はずだ。それなのに躊躇いもなく抱かれて。

「おうさま、・・・ってば・・・」

 ぴたりとくっつけられた丹羽の躰は、空調にほどよく冷やされていて心地よかった。丹羽の肌も制服の硬い布地も、全てが心地よくて、離れなければと頭では思ってもますます抗えない。

「俺、啓太がいないと生きていけねえよ」

 随分と大げさな丹羽の言葉に啓太はこっそりと笑った。つもりだったのに、触れた肌には筒抜けだったようで、大きな手が包み込むように啓太の頭を小突く。

「・・・アレを追っ払ってくれるから言ってんじゃねえぞ」
「わかってます」

 あれ。大げさかな。大げさなのかな。啓太は自分に置き換えて考えてみた。

 ―――大げさじゃ、ない。

「・・・わかってます。俺も、王様がいないと生きていけませんよ、もう」

 丹羽の顔が見たくて、啓太は身を離す。間近で覗き込んだ丹羽の瞳はいつも通り強く、そして優しかった。



「さーてと、そろそろ寮に帰るか」
「そうですね。今夜は王様の誕生パーティですし、早めに帰りましょう」
「おーそういえば、今朝そんなことをサルが言ってたな」
「あ!俺、海野先生からの伝言トノサマに言うの忘れました!」
「いーんだよ、そんなもん。お前も人が良いっつーか・・・」

 学生会室を出た早々、何かが扉の前にあった。

「あ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・うん?」

 踏み出した丹羽の足の下には、猫のウン・・・。

「・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・・・・おうさま?」
「・・・・・・・あんんんんんの野郎、いつか絶対に殺す!」

 啓太の脳裏には『やれるもんならやってみな』と高らかに笑う、トノサマの姿がはっきりと見えた。

「王様、それ相当難しいんじゃ・・・」
「あああああああもう、猫なんか、猫なんか、・・・だいっきらいだあああああああ!」



 今年の誕生日は丹羽にとっても啓太にとっても、とても記憶に残る誕生日となった・・・・・・。






トノサマの声はこすぎじゅうろうたでお願いします。


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