tempest時刻は午後11時半。 今日の分の宿題を片付けてからゆっくりお風呂に入ろうと考えたことが幸だったのか不幸だったのか。 風呂を使えるギリギリのこんな時間になってしまったことは不幸かもしれないが、風呂に着いてみたら着いてみたで他に人気はなく、どうやら貸切状態で。広い大風呂を一人でのんびりと使えることを考えれば確実に幸だろう。 2つの事象を並べて考えたとき、無意識のうちに幸の方が優先されて、少し得して少し幸せな気分に浸ることのできる前向きさ加減は、啓太の長所のひとつである。 のびのびと身体を伸ばして開放的な気分で湯船に浸かり、ぬくぬくとたっぷり温まったあと。 柔らかいタオルにたっぷりとボディーソープを泡立てて。 自然と零れる鼻歌は、浪々を歌い上げる王様の歌声を幾度となく聞いているうちに覚えてしまったひばりちゃん。 真似する調子でフンフンとメロディを諳んじながら、上機嫌の啓太が身体を洗っている、と。 「・・・・・・ん、こんな時・・・・・・・た?」 「・・・・こそ、・・・・・・はもう・・・・・・・・・のか?」 脱衣所の方から話し声が聞こえた気がした。 「? 誰か来たのかな? でももうこんな時間だし・・・あ、和希が帰ってきたとか?」 今日は午前中には何度か話したが、午後は授業にも姿を見せなかった同級生のフリをした実は理事長な年上の友人を思い浮かべて、何とはなしに耳を澄ます。 昼間話をしたときに、自分が一緒のとき以外は、できればというかなるたけというか頼むから大風呂を使うのは避けてくれ啓太と、何故か生真面目な顔をして両肩を掴んで念を押した和希のその言葉に、あーとかうーとか云って誤魔化しながらもなんとなく頷いて見せた手前、約束を破ってここにいる後ろめたさがある。 どうしようかななんて言い訳しようかなと、首の辺りをタオルでこすりながら仰のいて天井を見上げていると。 「・・・少ない仕事・・・優雅に・・・・・い限りだな」 「・・は・・・・ずさんな学生会と・・・は・・違い・・・」 「・・・会計・・・・だと云われる・・・はマシだが」 「おや、・・・しく気が合いま・・・・・ね」 次第にはっきりと聞こえるようになる声と話されている内容とに、啓太の手許がぴしりと止まった。 ま、まさか・・・・・。 擦りガラスの扉に近づく二つの影。 息を飲んでそれを見守る啓太の脳内BGMは当然「ジョーズ来襲」だ。 「ほう?気が? 俺はお前と気が合った覚えなどは一度もないがな、女王様の忠犬」 「不愉快極まりないことですが、本当に今日は気が合うようですね。僕もあなたのような極悪人と一纏めにされるのは心から不本意ですよ」 まさか。 できることなら頭を抱えて逃げ出したいが、ここは風呂場。 逃げる場所と云ったら湯船の中くらいしかないが、潜ったところでどう考えても長くは保つまい。 まさかあああああああっ!!! 認めたくない啓太の心の叫びも空しく。 ガラリ、と扉が開いた向こうには。 「おや、伊藤くん」 「啓太じゃないか」 悪魔と鬼畜が前も隠さず立っていた。 だだっ広い風呂の中、よりによって1箇所に集まって並んでシャワーを使う3人の頭上には、水蒸気とはとても思えないどんよりとした色味の暗雲が立ちこめている。 中嶋にしても七条にしても、啓太の近くにとその場所を陣取っているのは勿論だが、相手に対する牽制の意味合いも同じくらい大きい。本人たちにとっては大層不本意なことだろうが、趣味嗜好が同じくらいひねくれているために、縄張りにと望む場所も自然と近しくなるのだろう。 そもそもここまで仲が悪いのなら、脱衣所で顔を合わせた時点でお互い回れ右して部屋に帰ればいいのに、と平和主義の啓太などは思うのだが、当の二人は敵に背を見せるようなタイプでは決してないのだから仕方がない。 だいたい、あいつ(あの人)に背を向けた時点で何をされるか分からないだろう(分からないじゃないですか)という双方の言い分まで予想が立つ。 口を開けば周囲の気圧や気温まで巻き込んだ舌戦が開始される訳だが、さりとて黙り込んだまま、もくもくと顔を洗って身体を洗って髪を洗っている空気の重さも耐えがたい。 大方の予想通り、真っ先に耐えられなくなった啓太が話の口火を切った。 「あの・・・中嶋さん、学生会っていつもこんなに遅くまでお仕事なんですか?」 「いつもという訳じゃない。まあ週に3日というところだな」 「3日もっ!? 大変ですね。なにか手伝えることがあったら云ってください、俺、手伝いに行」 「伊藤くん? 学生会がいつも仕事に追われているのは単なる自業自得なんですから、君が気を遣うことはないんですよ?」 「どこぞの会計部とは仕事の絶対量が違うからな。比較の対象にもならないと思うが」 「仕事量を隠れ蓑にして、業務の効率の悪さまで否定なさるんですか。いっそ潔いの良い開き直りっぷりですね」 「なにが基準の効率だか知らんが、仕事は毎日片付ける側から同じ量だけ新しいものが発生する。啓太、時間があるときには学生会に顔を出せ。遣ってやる」 「伊藤くん? 学生会室に行って虐げられるくらいならば会計室に来ませんか? 紅茶とケーキで歓迎しますよ」 「フン、餌付けか。会計室なんぞに顔を出したところで食われるのはお前のほうだぞ啓太。お前の肌はとろけるように甘いからな」 「こんな人の云うことなんか気にすることはありません。一緒に有意義な時間を過ごしましょう、伊藤くん?」 「・・・・・・・・・・」 啓太を挟んで殺伐とした会話が弾む。しかも揃って笑顔なものだから余計に恐い。 仲が悪いなら話さなければいいし、仲がいいならもっと友好的な会話をすればいいのに・・・と居たたまれない気分で小さくため息をつく啓太だ。 中嶋にしても、七条にしても。単体で会ったときにはどちらも啓太に優しい。 勉強を見てくれたり、お茶やお菓子でもてなしてくれたり、啓太の知らないことを話して教えてくれたり。困っていれば助けてくれるし、困っていないときには・・・まあ、困るようなことを自らしでかしてくれたりもするけれど。それでも。 どうして二人が揃うとこうなってしまうのかと苦悩が深まる。こうなってしまう原因の一端が、魅力的なニエであるところの啓太という存在にあるなどとは、つゆも気付かずに。 そうして啓太が眉間に悩みジワを刻みつつ、しゃわしゃわと頭にシャワーを受けて髪に水気を含ませながら手探りでシャンプーのボトルを探してみたところ・・・いつも決まって置く位置にボトルが見つからない。 「? ・・・あれ?」 「どうした啓太」 「どうしました伊藤くん?」 小さく声を漏らすと、間髪入れずに左右から同時に問いが投げられる。 おののいた啓太は慌てて顔を上げると、左右の顔を交互にできる限り平等に見返して。 「いえあの・・・シャンプーを部屋に・・・・・わ、忘れてきちゃったみたいでっ、俺っ」 台詞の後半が微妙に弾んだのは、答える言葉の途中で、これをネタに逃げ出せる! とひらめいたからだ。 この場から逃げ出そうとは、啓太にしては賢明である。 昼間散々念を押しておいた和希の苦労も報われた。 「だ、だだっ、だからあとは部屋のシャワーで済ませますねっ」 声を上ずらせる啓太が意気揚々と立ち上がろうとしたそのとき。 「伊藤くん、僕のものでよければお貸ししますよ?」 「ほら、使え」 こんなときばかりは絶妙に呼吸を合わせる二人から、とんと同時に目の前に、シャンプーリンスのボトルを置かれてしまう。 その申し出を、当り障りなくかわせる啓太では勿論なく。 「え・・・・・・・ええとあのそれじゃあ、中嶋さんのシャンプーと七条さんのリンスを」 借りますね、ありがとうございます・・・。 しおしおと項垂れて、浮かしかけた腰を元に戻した。 中嶋のシャンプーはクリアなメンソールの香りがする。 邪魔なものをざっくりシャットアウトしてしまうような潔い香りは確かに、良い意味でも悪い意味でも真っ直ぐによじれた中嶋の気質にぴったりかもしれない。 そういえば・・・この匂いって中嶋さんの・・・。 どんなときにその香りを感じたのか、ふと無防備に思い浮かべ掛けて、啓太はあわわわわと脳裏に浮かんだ画像を慌てて打ち消す。 風呂場で、しかもその当事者を目の前にして思い出してしまうには危険すぎる経験だ。 でもあれ以来、そんな風な状況には陥らないわけだから、あれはきっとなにかいくつかの偶然とか勘違いとかが重なって起った事故のようなものだったのだろう。 きっとそうだそうに違いない。そう思い込もうとしながら啓太はわしわしと念入りに泡を流す。ほてった耳許が左右にばれていることにも気付かずに。 そうしてタイルにぺたぺたと触れて、今度は手探りでリンスのボトルを探していると。 「はい、どうぞ伊藤くん」 その手にボトルを渡された。 声からして、僅かに触れた指先の優しさからして七条だ。 「あ、すみません七条さん」 ありがとうございます、と何の疑いもなく受け取ったボトルを開けると、ふわりと香る、フローラル系の甘くて優しい香り。 これ、いつもの七条さんの匂いだ・・・と意識したら、どきりとまたしても胸が高鳴った。 それ以上なにかを考えるのは危険な気がして、手にしたリンスを慌てて髪につける、と。 「おや」 七条がなにかに気付いた風に、別の言い方をすれば見計らったとしか思えない不穏なタイミングで声を上げた。 「すみません伊藤くん、僕は間違えてしまったようです」 「? なにをですか?」 「君が今使っているのは、リンスではなくシャンプーでした」 「え・・・」 ぴしり。 瞬間。啓太は確かにラップ音を聴いた。 「・・・貴様、わざとだな」 「なんのことでしょう?」 剣呑な空気を纏って舌打ちする中嶋を笑顔で見返すことができるのは、BL学園広しといえども七条だけであろう。 経験則からかんがみるに、笑顔の仮面を追求してもなにも出てこないと思ったのか、フンと鼻を鳴らした中嶋の標的があっさり変わる。 「啓太」 「は、ははははははいっ」 笑ったのでは決してなく。 どもってしまいながら慌てて顔を上げるといらえを返す。 「俺の匂いを消そうという訳か?」 いーい度胸だ、とひどく愉しげな笑みを向けられては、そんなつもりはからっきしなかったていうか今のって不可抗力なんじゃあ!!!と泣きを入れる暇もない。 次の言葉を半ば予想しながら固まる啓太に渡されたのは、案の定。 「お仕置きだな」 の決め台詞。 いっそ湯当たりでも貧血でも起してしまいたくなった啓太の肩に、その上そっと七条の掌が乗せられて。 「大丈夫ですよ伊藤くん。中嶋さんに酷いことをされたら、その分だけ僕が甘やかしてあげますから」 ね? と笑顔でちっともだいじょばないことを告げる七条が、立てた人差し指をそっと自分の唇に押し当てて。 しごくスマートにウィンクを決める。 ど・・・どうして「ナイショです」ポーズなんですか七条さん。 なんて。 恐ろしくて啓太にはとても尋ねることなどできはしない訳で。 今日の分の宿題を片付けてからゆっくりお風呂に入ろうと考えたことが幸だったのか不幸だったのか。 今となっては確実に・・・幸とは云えなかろう(暗転) |