multiple「ほら啓太、醤油」 「うん、ありがと和希」 啓太は受け取った醤油さしを慎重に傾けて、じょじょじょと目玉焼きに醤油をかける。 と。 「あああっ、掛け過ぎだって! そんなに掛けたらあとで喉渇くぞ」 「だ、だってしょうがないだろ。俺苦手なんだよ醤油とか掛けるの」 いつも多く掛けすぎちゃうんだよな、とハの字眉で皿を見下ろす啓太に、和希はふうとため息をひとつついて。 「しょうがないな、換えてやるから。啓太はこっち食べろよ」 「え、いいよ! 掛けすぎたのは俺なんだし、俺が食べるっ」 「いーいから、ほら」 「ダメだってば! だって和希が成人病にな」 「ならないよ!」 さすがにまだ対象年齢には届いていないと思われる和希ではあるが、それも怪しいと疑いたくなる勢いでムキになって否定すると同時に、二人の皿をとんと置き換える。 「・・・ごめん、ありがとう」 「どういたしまして」 申し訳ない気持ちでしゅんと落とした肩を、宥めるようにぽんと叩かれて。 応じてそうっと顔を向ければ、気にするなよとでも云うようににっこりと笑う和希に見返された。とても嬉しそうに。 「・・・・・」 和希の世話焼きが行き過ぎなのもどうかと思うけれど、そうしてもらうことがなんだか嬉しいと感じてしまう自分も、やっぱりどうかなおかしいよなと思わずにいられない。 どうするのだろう。こんな風に大切に大切に甘やかされるのがデフォルトになってしまったら。 俺、そのうち自分では何にもできない奴になっちゃったりしないかなと、啓太は眉間を軽く悩ませる。 「ほら、食べようぜ啓太。味噌汁冷めるぞ」 「あ・・・うん、いただきます」 促されるまま箸を持って神妙に合掌する啓太のその、小さな悩みに気付いているのかいないのか。 ほよよんと緩んでほどけそうな口許をなんとか笑みの形にとどめながら和希は、箸を片手に、直ぐ隣にある啓太の横顔を見守る。 朝からこうして啓太の世話を焼いて過ごせるなんて、なんて幸せなのだろうか。 失敗をしたのが啓太だと思えば、醤油を掛けすぎた目玉焼きすら愛しく思える。 嗚呼、日々のなんと輝いていることか! 太陽さんありがとう、と右手の箸を握り締めて幸せをかみ締める和希だが、不意に、その喜びに水を差す出来事が起こる。 「おはよう! ハニー!」 食堂の入り口から響く、聞き間違えるはずのない甘い呼び声。 啓太は驚いたように目を瞠り。 和希は胡乱げに眼差しを眇めた。 ゴージャスな髪の色のせいだけではなく、なにゆえかきらきらしく輝くオーラが眩しい。 朝の光に祝福されながら、テニス部主将成瀬由紀彦、ただいま参上。 和希と啓太が食事をしているテーブルに大きなストライドで歩み寄った成瀬は、すぐ脇に立って大きな身体を心もち右に傾げて、ひょいを啓太の朝食プレートを見下ろした。 「ハニーは今日は、白いご飯に味噌汁に・・・目玉焼きか。朝からほんとに可愛いね!」 「え、ええと・・・・・」 成瀬の言葉の前半と後半のつながりがよく分からずに、啓太は困惑して箸を止める。 「へえ・・・成瀬さんの理論だと俺も朝からほんとに可愛いことになりますね。啓太とまったく同じメニューですから」 「啓太が可愛いのは、啓太の食べてる朝ご飯のメニューには、啓太っていう特別なスパイスが付いているからこそだよ」 ね、ハニー? と、軽くかがんだ成瀬が、にこりと笑って啓太の顔を覗き込む。 爽やかな笑みで同意を求められて、ええとと再び口ごもった啓太が答えを返せずに固まっていると。 「なーおー」 困惑を深める啓太を助けるタイミングで、足許から気の抜ける鳴き声が聴こえた。 ん? と全員の視線が床に落ちる。 「な―」 「あ! おはようトノサマ。朝ご飯分けてもらいに来たのか? 俺のニンジン食べる?」 「な――お――」 「はははっ、そっか、じゃああげるからな―。ちょっと待ってて?」 「・・・・・」 「・・・・・」 和希と成瀬は思わず休戦状態に陥って、啓太とトノサマを見守った。 啓太はいつの間にトノサマと会話ができるようになったのだろうか・・・。 「はい、トノサマ。口の周り、汚さないように食べるんだぞ?」 「なうん!」 ひと声鳴いてからトノサマは、しゃむしゃむしゃむと啓太の手からニンジンのグラッセを食べ始める。 今の鳴き声の意味は和希と成瀬にも分かった。恐らく「合点承知!」だ。 「よく食べるなあ・・・トノサマ、ニンジン美味しい?」 「・・・ぬー」 目を細めて美味そうにニンジンを食べるトノサマと、そのトノサマを笑って見守る啓太。 微笑ましいその構図を見ているうちに、和希と成瀬の妄想が先走る。 「はい、和希。あー・・・ん」 「ん・・・美味いよ啓太。ほら、お返しに今度は俺が。あ―・・・」 「やだって和希、恥ずかしいよ」 「恥ずかしがることないだろ。大丈夫、誰も見てないよ」 「誰もって、和希が見てるじゃないか。俺、恥ずかしいって・・・」 「俺は啓太のもっと恥ずかしいところ、いっぱい見てるだろ?」 「も、もう、和希ってば!」 もやもやもや・・・。 「成瀬さん、ニンジン美味しいですか?」 「うん、甘くて美味しいよ。ニンジンも・・・啓太の指も・・・」 「だ、ダメですよ。成瀬さんそんな・・・・・ぁ、っ」 「ダメ? どうして啓太、気持ちよくない?」 「そ、そうじゃなくて・・・だって」 「聞かせてハニー、どうしてダメなの?」 「っ、・・・気持ち、いいから・・・だから、ダメなんです・・・」 もんもんもん・・・。 もややんとそれぞれに妄想の翼をはためかせて幸せそうに斜め上を見上げる和希と成瀬を尻目に、トノサマが上品にニンジンを食べ終える。 啓太はその頭をよしよしと撫でて。 「はい、おしまい!」 「な―!」 サンキュー啓太ご馳走さん! とひと鳴きして立ち去るトノサマを微笑ましく見送って、箸を持ち直した啓太は、皿の上の目玉焼きをつつきはじめた。イったまま戻ってこない二人の様子には、幸か不幸か気付かずに。 啓太も和希も成瀬も、それぞれが違った方向に向かって、今日も今日とて全速力でマイペースである。世間で云うところの三角関係という間柄ながら、3人が3人とも日々これだけ幸せに過ごせるのだがら、相当にバランスがいい。 三角形の一角、朝食の美味しさに小さな幸せを見出している真っ最中の啓太も、ちょうどよく醤油のかかった目玉焼きを端からもくもくと食べていく。 そうして今朝の朝食のメインともいえる黄身の部分を、くるりとくりぬいて箸につまんだ、そのとき。 「啓太、おはようさん〜」 「あ、俊介おは・・・」 掛けられた声に挨拶を返そうと顔を上げた啓太の手許。 箸につまんだ目玉焼きの黄身を、 「あー・・・・・ん、ごっそうさん〜」 通り過ぎざまあっさりとゲットして、軽快な足取りで俊介が通り過ぎる。 「あっ! ちょ、ちょっと俊介っ、俺の目玉焼きっ!」 慌てたような啓太の声に、和希と成瀬が妄想の世界から引き戻された。 そうして夢から醒めたような複雑な顔で、俊介の背中を見送る。 「・・・ぁ、け、啓太の!」 「っ、黄身が!」 既に遠い俊介の背中と啓太の箸とを見比べて拳を握り締めるが、時すでに遅し。 何気なくなんて美味しいことを・・・。 悶々とする二人だが、寧ろ何気なく、下心がないからこそできる行為というものもあるのだ。 「・・・黄身のとこ取られた」 ぽそりと呟いて、ため息をひとつ。 軽くしょんぼりしながらも諦めたらしい啓太が、浮かせた腰を椅子に戻す。 「啓太、俺の黄身食べるか?」 「えっ、いいよ! そんなの悪いしっ」 「僕が食べてあげようか? 遠藤」 「結構です!」 じりじりとまたしょうもなく揉め始めたいつも通りの二人をよそに、啓太は食事に戻る。 一瞬箸を彷徨わせた後で、黄色つながりでなんとなく、半円に切られたたくあんをつまんだ。 と。 「よーす、啓太。今日もいい天気だなー!」 「あ、王様おは・・・」 俊介が現れたのと同じ方向から歩いてきた丹羽に、啓太は顔を上げて挨拶を返そうとした。 するとその啓太の手許、箸につまんだたくあんを、 「・・・・・、んー。美味い美味い、よく漬かってんな」 あっさりとゲットして、軽快な足取りで丹羽が通り過ぎようとする。 「ちょ、ちょっと王様までっ、俺のたくあんをっ!」 丹羽にとってはタイミングが悪かった。 啓太にとっては2度目のことだったし、致命的なことに和希と成瀬も妄想中ではなかったし。 「王様!」 「丹羽会長!」 鼻息荒く、丹羽の行く手に和希と成瀬が立ちふさがる。 「な・・・なんだよ、たくあん一切れでそんなにムキに・・・」 「ムキにもなりますよ丹羽会長! 今あなたが食べたのは、ただのたくあんじゃないんです!」 「そうですよ! それは啓太のたくあんなんですから!」 ずいと左右から詰め寄られて、丹羽はたじたじになる。 「わ、悪かったよ、じゃあ俺のを啓太に分けてやりゃいいだろ?」 「ますますダメですそんなの!」 「そうですよっ、だったら俺のを分け・・・・・あれ、啓太?」 急に勢いをなくした和希の様子に、揉めていた3人の動作が止まった。 「ごちそうさまでした」 啓太が箸を置いて、神妙に合掌している。 そのうえ、プレートの上の食器はキレイにからっぽだ。 「け、啓・・・」 「ほら、王様も成瀬さんも和希もっ、急がないと遅刻しちゃいますよ!」 早く早く、と急かすその笑顔がどんな効果を持っているものか・・・知らぬは本人ばかりなり。 三角形どころか四角形に発展しかねないこの関係。 「お前たち、朝からなにを騒いでいる!」 五角目候補の寮長の声が、朝っぱらから騒々しい食堂の一角に響いた。 |