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「どうしても?」
「は、はい、あの・・・七条さんすみません、俺、どうしても今日は」

 申し訳なさそうに眉をハの字にして、それでも頑固にかむりを振り続ける啓太に、今日のところは七条のほうが折れた。
「そうですか・・・」とため息混じりに呟けば「本当にすみません」と啓太はますますうなだれる。
 そんな風に申し訳なさそうにしんなりとするくらいならば、七条の言葉に頷いてくれればよさそうなものだけれど、元来の律儀な気質から、七条のお願いに応えることで先約を反故にしてしまうことができないのだろう。
 それでも、こういう生真面目なところも、七条が啓太を好ましく感じる一因なので。
 これ以上啓太を困らせることは本位ではなく、七条は、誘いを断られたというのにどこか甘いような笑みを浮かべる。

「謝る必要はありませんよ。君が悪い訳ではないのですから」
「でも・・・」
「そう。悪いのは全てあの極悪人です。君の優しさにつけ込んで、自分たちの責任以外のなにものでもない作業の遅れを賄わせようというのですから。こういうのは日本語ではなんと表現するのでしたっけ? ああ、そうでした。てめえの尻くらいてめえで拭きやが」
「ししししししちじょうさん!」

 穏やかな笑顔のままするするととんでもないことを云い出した七条の腕に、啓太は飛びついて慌ててすがる。
 この人の中嶋評は、言葉のベースが丁寧なだけに余計に怖いのだ。
 止めずに聞くに任せていては、どこまでいってしまうか知れない。

「伊藤くん・・・」

 七条は腕にかかった重みとぬくもりにフフフと笑んで、かもし出すオーラと口調とをがらりと変える。
 たっぷりの甘さを含んだ声で名を呼んで、腕に置かれた啓太の手に、自分の手のひらをそっと重ねた。
 そうして問うように見上げてくる啓太に、真摯なまなざしを向ける。

「では、僕ともひとつ約束をしてくれませんか?」
「や・・・約束、ですか?」
「はい」
「・・・・、・・っ」

 NOの云えない自分を啓太なりに自覚しているのか、軽く緊張する風の啓太を。
 安心させるように、七条はにこりと表情を和ませる。

「大丈夫、僕はあの人のような無体な約束を押し付けるつもりはありませんよ。ただ・・・」




 確認済の書類と、未確認の書類。
 集中してかなり頑張って作業をこなしたおかげで、机の上の二つの書類の山を比べると、確認済の山のほうが大分多く積みあがってきた。
 所定の位置に印鑑が押してあるかどうかの確認をして、行き先ごとに書類の区分けをするのが啓太に与えられた役割なのだけれど、とにもかくにも量が多い。
 それでももうあと1時間もあれば全部の作業が終わるかな、と・・・そう思いながら啓太は、ちらと正面の壁にかかった時計を確かめる。
 時刻は3時5分前。

 あ。そろそろ会計室に行かないと。

 はたと作業の手を止めて。
 でも、と軽く首を傾げた。

 でも、ちょっときりがよくないからもうちょっと、あと10分だけ作業を進めておこうかな。
 でも、七条さんは約束の3時に合わせて紅茶を入れ始めているかもしれないし、だとしたらせっかくの美味しい紅茶を無駄にしてしまう訳にも・・・。

「どうした、啓太」
「うわあ!」

 突然、無防備だった耳許近くで低く囁かれて。
 ぞくぞくとくすぐったかった耳を慌てて両手で押さえながら、啓太は椅子の上で目一杯のけぞった。

「作業に集中しろ。注意力の散漫はミスにつながる」
「な、中嶋さん、すみません・・・っ」

 なけなしの注意力を根こそぎ散らした当人にそんなことを云われても、思わず謝ってしまう啓太である。
 自分では持ち得ないその素直さに、中嶋は満足げにフンと鼻で笑って、面白がるように啓太を見下ろす。

「なにを考えていた?」
「ぅ・・・・あ、の、ええと・・・っ」

 七条さんとの約束のことです、なんて。
 目の前に立っている相手の天敵の名前をここですんなり口に上らせるわけにもいかずに、啓太は思わず口ごもる。
 けれどもなにしろ啓太なので、口に出さなくても顔には出る。
 ほほう、と散漫の理由をどこまでか正確に理解したらしい中嶋は、面白がる表情を変えないままに身を乗り出してきた。

「・・・っ、・・・・中嶋さ・・・っ?」

 そのまま大きな掌でくしゃりと茶色の前髪をかき上げて、切れ長の瞳が真っ直ぐに啓太の目を覗く。
 椅子と机に挟まれて逃げ場のない啓太は、頭に乗っている手のせいで俯くことも許されずに、息を詰めて近い距離にある中嶋の顔を見返した。

「俺には云えないようなことを考えていたのか」
「ち、違います! そうじゃないですけど・・・っ」
「じゃあなんだ」
「ぃ、ぇ、あのっ、俺はただ・・・・・・ぁ、・・」

 眦に唇を寄せて、敏感な耳朶に息を注ぎ込むようにして囁けば、啓太は小さく震えて身をすくめる。
 中嶋の身体を押し返すためにか縋るためにか、無意識のように制服の胸許をぎゅうと握り締めてくる啓太の手を心地よく思いながら、もう少しだけ遊んでやろうかと、その細い腰に手を伸ばしかけたところで。

「失礼します」

 挨拶とノックの音から僅かコンマ2秒。
 学生会室の扉が押し開けられた。

「こんにちは」

 無礼にも返答も待たずに扉を開けたのは、にこにこと胡散臭い笑みの2年生。
 会計部補佐の七条臣である。
 手には一応書類を持っているが、中嶋としては面白くないことに、ここに来た目的が別にあることは明白だ。
 七条は部屋に蔓延する不歓迎の雰囲気をもろともせずに、笑みのままつかつかと二人のほうへと歩み寄ってくる。
 そうして分かりやすくわざとらしく、くるりと室内を見回した。

「丹羽会長は・・・相変わらずのサボタージュですか。部外者の伊藤くんにまで迷惑をかけておきながら、つくづくいいご身分ですね」
「丹羽は篠宮のところに行っている。寮でのニューイヤーパーティーについての打ち合わせだ」
「おや、これは珍しい。槍が降らないとよいのですが」
「降るかも知れんぞ」

 本格的に戦闘開始か。
 啓太に伸し掛かったままでいる中嶋が、ゆらりと剣呑に尖った眼差しを上げた。

「そうなれば脆弱な女王様が心配だろう。とっとと会計室に戻って空に向かって威嚇でもしてきたらどうだ?」

 そのうえゆっくりと立ち上がったものだから、その胸の下で啓太はなすすべなくこくんと息を呑む。

「犬は犬らしくご主人様の警護をしていろよ」

 啓太の位置からは中嶋の背中しか見えないし、七条は変わらない穏やかな笑みでその中嶋を見返している。
 それでも部屋の温度と気圧が一気に低下していくのを肌で感じて、指先すら動かせずに石化していると・・・ふいと中嶋から視線をそらした七条が、あからさまに質の違う温かみのある笑顔を啓太に向けた。

「では伊藤くん、行きましょうか?」
「ぁ・・・は、はい・・・」
「待て、駄犬」

 間髪いれずに止められて、誘うように啓太に右手を伸ばしたまま。
 軽く眉を上げて、問うように七条が中嶋を見る。

「なんでしょうか?」
「なにが『では』だ。見て分からないのか? 啓太はまだ作業中だ」
「ですが、約束ですから」

 中嶋に向かって少々困ったような顔で云ってから。
 ね。と同意を求めるように、七条は可愛らしく啓太に向かって首を傾げてみせる。

「は・・・はい、あの・・・すみません中嶋さん、俺ちょっと出てきます。すぐ戻りますから」

 話を振られた啓太までが申し訳なさそうに七条に同意するのに。
 どういうことだ、と。眼鏡越しの眼差しが不快そうに険を増す。

「あの。今日は学生会の手伝いをする代わりに、お茶の時間は会計室に行く約束をしていて・・・」

 もう約束の3時を過ぎてしまっているからと、慌てた様子で筆記用具を脇に避けて、啓太はぱたりと資料の冊子を閉じる。
 約束の時間を過ぎてしまっているからというだけではなくて、この二人を同じ空間に置いておくことは余りよろしくないことだと、啓太なりに本能で察しているのだろう。

「すみません。まだ作業の途中ですし、ほんとにすぐ戻ってきますから」

 あたふたと席を立ってぺこりと頭を下げる啓太の脇に、すすすと七条が歩み寄る。

「伊藤くん。『すぐ』は無理かもしれません」
「え・・・」

 不思議そうに仰のいて七条を見上げる啓太の背後から、両肩にそうっと手を置いて、顔を覗き返すようにして七条が答える。
 紫の瞳を甘くくゆらせながら啓太に答える姿を装いつつも、あからさまにもう一人の人物・・・つまり中嶋に、聞かせるように。

「先日の デート で君が気に入ってくれた店の、ミニケーキを5種類ほど取り寄せてみたんです」

 ポイントの単語を強調することも忘れない。

「半分こにしましょう。そうすれば、全種類を試せますよ」

 内緒の計画を打ち明けるように、フフと笑った七条は。
 『ミニケーキ』という単語にうっかり釣られかけている啓太の頬を、するりと撫でた。
 けれども、もう一人の人物はそんなものに釣られる訳もない。

「ほう・・・休みの日まで女王様の代わりに犬の散歩か、啓太」

 ご苦労なことだなと鼻で笑う中嶋の冷気に。
 食べ物に釣られている場合ではないことを思い出した啓太は、弁解をするためというか説明をするためというか、慌てて口を開こうとするが、声を発するその前に。

「とんでもない」

 口を挟んだ七条が、それこそとんでもない説明を始めてしまう。

「散歩では あんな場所 には、行きませんよね」
「し、七条さんっ、それはナイショって!」

 たっぷりの含みでもって問題発言をぶちかます七条の口許に、啓太は慌てて両手で蓋をする。
 けれども一度外に出てしまった言葉は口の中に戻すことはできず、耳から引っ張り出すこともできず。
 中嶋の右眉が、ぴしりといい角度に上がった。

「ああ、すみません。つい」

 二人の反応などまるで意に介さずの七条は、赤く染まった啓太の頬を人差し指の背でするすると撫でると。

「あんまりにも君が可愛らしかったので、自慢をしたくなってしまって」
「・・・・・」
「でも、二人だけの秘密だって、約束をしていましたよね」

 本当にすみません、と。
 フフフと邪気のない笑みで告げて、啓太をますます赤面させた。

「・・・・・」
「・・・・・」
「・・・・・」

 学生会室に、三者三様の微妙な沈黙が落ちる。
 この後の展開を予測するにつけ、石にでもなりたいような気持ちになる啓太の予想を裏切ることなく。
 ぐーるりと、鬼畜と悪魔の視線が同時に啓太に向けられる。

「ほう・・・?」

 びくんと啓太は中嶋を見上げた。

「犬が懐いた痕跡を消す必要がありそうだな、啓太」

 云って中嶋は、シルバーフレームの縁を軽く押し上げた。

「僕も・・・」

 びくんと啓太は七条を見上げた。

「さっき君がどこまで奪われてしまったのか心配です、とても」

 云って七条は、少し悲しげな笑みで小首を傾げた。

「・・・っ、・・・・ぁ、あのっ、中嶋さん七条さん、俺はそんな・・・っ」

 怖い笑顔でにじり寄る二人をおろおろと見比べて。
 あとずさる啓太の背が、ひたりと壁にたどり着く。

「お仕置きだな」
「大丈夫ですよ」

 こんなときばかりは絶妙に息を合わせる二人を前にしては。
 学生会室での残りの作業も、会計部室でのお茶の時間も。

 どうやら明日に、持ち越し決定。






中七啓を書くとどうしてかというかどうしてもというか
七条側に寄ってしまうのは
根っこが七啓スキーだからだと思います。あはー。

けどどたばたの甲斐のない啓太の奪い合いは
やはし読むのも書くのも大好きですv


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