中間管理職
七条は今、確かに誰かのため息を耳にした。 けれどもこの会計室の中には、自分ともう一人しかいないはずだ。 今のため息は、まさか。 紅茶を淹れる手を止めいぶかしげに振り向くと、会計室の主である西園寺が憂いを帯びた表情で何かを見つめている。 「・・・郁?」 七条の問いかけなど全く耳に入らないのか、西園寺は再び深いため息をつき、その麗しい唇からしみじみと言葉をほころばせた。 「・・・困ったな・・・」 紫の瞳が、揺らぐ。 今自分は信じがたい光景を二つ、目の当たりにしている。 一つは、西園寺のため息。 彼がため息をつくほど”心底困る”という事態に出くわしたことが、共に過ごした年月の間にどれだけ存在しただろうか。 思い返すだに、すぐには浮かばない。 そしてもう一つ。こちらの方がより一層気になる。 西園寺が先頃から見つめているもの。彼の手中にあるもの。 それは何かの冊子だった。残念ながらここからでは中身をうかがうことはできない。 自説が覆されるような、何か新しい論文が発表されたのだろうか? それでも腑に落ちない。郁を困らせるほどのもの。それは、どんなものなのだろう。 好奇心を抑えきれない七条は紅茶をティーカップへ注ぐと、それを手に西園寺へと近づいた。 「―――――!」 かちゃり、という音と共に、七条の手にしていたティーカップの淵から金色の雫が微かに溢れる。 これだけ自分が驚くことも、滅多にないだろう。 西園寺が手にしていた冊子は、論文などではなかった。それどころか、外国語ですらない。 西園寺の美しい指の間から洩れる、薄いブルーの表紙に大きく書かれた文字。それは。 「すういちもんだいしゅう・・・」 七条の唇が、音にならない声でその言葉をなぞった。 何度見返してもそれは高等数学の基礎、『数T問題集』に見える。 どういうことだろう。 七条は考え得る可能性を挙げてみようと試みた。 仮説1.実は数Tの範囲でどれだけ高度な設問ができるかを試みた問題集だ。 仮説2.実は数学とは全く関係のない、NASA開発特殊チップが隠されている問題集だ。 仮説3.実は問題集のデザインをした手帳だ。 ―――・・・現実から妄想の域へと足を踏み入れかけて、七条は考えるのをやめた。 これはもう直接聞くしかない。 「あの、郁・・・それは・・・その問題集は、一体・・・」 ようやく気が付いたという体で、西園寺は七条を見上げる。 「・・・ああ、お茶か。有り難う」 ソーサーを受け取る西園寺の手が、微かに零れた紅茶を見留めて一瞬止まる。七条も紅茶をこぼしたまま差し出していたことに、今更ながら気がついた。 「あ、すみません」 「いや、構わない。・・・そうだ、お前に聞こう。臣、この問題なんだが・・・」 そうだった。 「お前、わかるか?」 わかるか、とは。 七条はさりげなさを装いながらも西園寺の肩越しから問題集を素早く覗き込む。 けれども、どう見てもレベル、設問形式共にごくごく普通一般的な問題にしか見えない。 困惑を深める七条をよそに、西園寺は真剣そのもので口を開いた。 「啓太が・・・」 「伊藤君が?」 「わからない問題がある、というので、教えてやろうと思ってテキストを預かった」 そこまでは理解できる。七条は黙って先を促した。 「さっきから眺めているんだが」 西園寺は問題集を閉じると、歌うかのように緩やかに首を振った。 「この問題のどこがわからないのかがわからない。これのどこに、悩む要素があるのかが、私には」 「―――・・・はぁ」 自分でも、驚くほど気の抜けた声が出た。 そういうことですか。 「この程度の問題に、解答では3行も割いて解説をつけているんだぞ。これ以上、どこをどう説明しろというのだ!」 逆ギレ、ですね。 確かに郁の頭脳は自他共に認めるものだ。けれども、優秀であることと人にものを教える才能はまた、別問題。 西園寺が人にものを教えることに向いているとは、少なくとも七条には思えなかった。 何せ教える側に必要な根気が、圧倒的に足りない。それは郁も気がついているだろう。 加えてさっきの言いよう。このままでは啓太と歩み寄れるかどうか、はなはだ疑問だった。 伊藤くんはちょっぴり、聞く相手を間違えてしまったようです。 それにしても、と七条は思案した。 ことが啓太に関することである以上、自分にとってもないがしろにすることはできない。 さて、どうしたものか。 「次に伊藤くんと会うのはいつなんですか?」 「遅くても、今日の夕食だろうな」 「それは困りましたね。あと3時間くらいしかありません」 「お前にもわからないのか?」 西園寺の顔が、「どうにかしろ」と言っている。 「・・・そういう意味では、郁よりは分かっていると思いますけど」 「けど?」 「残念ながら僕も、郁側の人間のようですので」 「もっと簡潔に話せ、臣」 露骨に不機嫌そうな口調の西園寺に、心の中でやれやれとため息をつきながら七条は続けた。 「郁は人に何かを教えるという素質に欠けています」 「私もそう思う」 「それでも伊藤くんの勉強を見てあげたいというのですね」 「くどい」 「ではこの問題を持って、篠宮さんに伊藤くんと同じ質問をしたらどうでしょう」 「私が?」 「はい」 「篠宮に・・・」 「どのような手順を踏んで、どのように人に教えるのか、篠宮さんなら心得ていらっしゃるのではないですか」 ・・・篠宮さんはとても混乱するでしょうけれども。 「・・・・・・」 西園寺は問題集の表紙を見つめたまましばし考え込むと、意を決したように立ち上がった。 「まさか、人にものを教えることがこんなに大変なこととは・・・」 会計室を出る西園寺の心底困り果てたような呟きに七条は、 「まったくです」 と、神妙に相づちを打った。 翌日、あの女王様が寮長に勉強を教えてもらったらしい、という噂が学園島内を席巻した。 嘘、ではないけれども。 昨日と同じ場所で同じように紅茶を注ぎながら、七条はまたも物思いにふける。 だがそれもこれも全てが可愛い啓太のためである西園寺には、そんな不名誉な噂など痛くも痒くもないらしい。 元から噂などの類には無関心な人間だが、おそらくはその後の首尾が上々だったのだろう。 目の前の、すこぶる上機嫌な西園寺を見て七条は胸をなで下ろす。 ―――ただし。 あえて面白おかしく吹聴するような人には、僕がこっそりお返しして差し上げますけど、ね。 女王陛下に忠実な悪魔はいつものように、そっとティーカップを差し出した―――。 |