眼差し移動教室の途中、遠目に見かけてはため息。 朝夕の賑わう食堂で、学校に向かう並木道で、寮へと帰る坂道で、それからここ、会計室で。 優しい声で名前を呼ばれて、穏やかな笑顔を向けられて。 一緒にいるとなんだかどきどきして、ふわふわ幸せになって。 だけど、俺がこんな気持ちでいることを知ったら、あの人はどう思うかな。 軽蔑、されるかな・・・。 だってあの人も俺も・・・男だし。 そのことを考えると、少し後ろめたくて少しだけ落ち込んで。 俺が西園寺さんくらいキレイだったら、ちょっとは違ったかもしれないけど、でも・・・。 でも・・・・・。 ほう、と無意識らしい啓太の小さなため息が聴こえたのだろう。 キーボードを弾いて軽快なリズムを奏でていた臣の手許が、止まる。 顔を上げて当たり前のように真っ先に啓太のほうを見て、啓太の眼差しが机の上の書類の上をぽんやりと彷徨っているのを確かめて。 「・・・伊藤君? よければ少し休憩にしましょう。お茶でもいかがですか?」 「え、あの・・・俺っ、まだ大丈夫ですけどっ」 「そうですか。では、僕に付き合ってもらえますか?」 少し疲れてしまいました、といつもの笑顔で云った臣が、静かに席を立つ。 「あ、じゃああの俺っ、お茶淹れます!」 先を争うようにして慌てて立ち上がった啓太の椅子が、ガガガと騒々しい音を立てて。 「わっ、わわっ、す、すみません俺・・・ほんと、落ち着かなくって・・・っ」 言葉通りわたわたと落ち着かない動作で半身を返した啓太が、椅子の背を両手で押さえながら、臣に向かって情けなく笑って見せる。 その仕草を微笑ましげに見守ってから。 「大丈夫ですよ、伊藤君は座っていてください。今日はケーキもありますから、用意は僕が」 だから待っていてくださいね、と。 強張っていた啓太の肩を、通り過ぎざま宥めるように。 ぽんと軽く優しく触れてから、臣はお茶の準備に向かった。 その背を、途方に暮れたような表情で啓太が見送る。 やっぱり俺、お客さん扱いだよなあ・・・。 仕事の手伝いを名目に、啓太がこの会計部に毎日のように通い始めて、そろそろ2週間ほどになる。 啓太にできることといえば本当に雑用程度のことではあるけれど、役割分担というか、決まって任される仕事もいくつかもらえるようになってきていて。 それでもまだ、こうしてお客さん扱いをされてしまうのが寂しい。 啓太は正式な会計部のメンバーではないから、仕方のないことなのかもしれないけれど。それでも。 今も出逢った頃も、それほど変わらないのかもしれない距離がなんだかせつなくて、胸の辺りがきゅうっと痛くなる。 微かな食器の音と一緒に、ふいにふわりと届いたアップルティの香り。 その甘さに少しだけ癒された心地で、ふうとひとつ息をついてから、啓太はおとなしく椅子に座りなおした。 ・・・という一部始終を、書類を片手に窓枠に凭れて興味深げに眺めていたのは、西園寺郁。 BL学園が誇る麗しの女王様にして、この部屋の中での最高権力者、会計部長でもある。 気難しいことでも有名な西園寺だが、啓太のまっすぐさは彼にとっても愛すべきものだ。 一途な気持ちも、気持ちを上手く隠すことのできない正直さも。 是非とも変わらずにあって欲しい美点だと思っている。 西園寺は、叱られた子犬のようにしょんぼりうなだれている啓太に歩み寄ると、テーブルに片手をついた。 気付いてゆっくりと見上げてくる啓太を、僅かに首を傾げて見下ろしながら。 「啓太、元気がないようだが?」 「・・・? そんなこと、ないですけど・・・」 けれどもそうして向けられた笑みも、どこかしんなりと力ない。 自分がどんなせつなそうな顔で臣の背中を見ていたか、自覚症状もないのだろうかと訝りながら、西園寺は啓太の正面の椅子にゆっくりと腰を下ろす。 「臣の手伝いをしたいのなら、行ってくればいい。臣の淹れる紅茶は確かに絶品だが、私はお前の淹れる紅茶も個性があって好きだぞ啓太」 女王様は常に直球勝負である。 ちなみに悪気もない。 個性・・・と複雑な表情で素直に困惑を深める啓太の元に、くすくすと可笑しそうに笑いながら、茶器を乗せたプレートを手に臣が戻ってくる。 「郁の褒め言葉も充分個性的ですよ、ねえ伊藤君?」 どういう意味だそれはと、憮然としながら答えると、おかしそうに啓太が笑った。 臣の発言は引っかかるが、まあ・・・今回は啓太の笑顔と差し引きゼロで流しておくことにする。 そう、臣だ。七条臣。 西園寺が出会った頃の、幼かった頃の臣はたいそう素直で可愛らしく、まさかこんな得体の知れない男になろうとは思いも寄らなかった。 いつも穏やかに・・・見えるがその実、顔の筋肉と皮膚の皮一枚だけで笑っているようなぬらりひょん。 元々感情の起伏が表に出にくいうえに、喜怒哀楽、いかなるときにもあの笑顔のままなのだから質が悪い。 けれどもさすがに西園寺には件の笑顔と本心からのそれの区別が付くから、啓太といるときの臣がどれほど上機嫌に浮かれているかがよく分かる。 今だって啓太のためにいそいそと、心底楽しげにケーキを取り分けている横顔などは、鼻歌すら歌いだしかねない高テンションだ。 「伊藤君、ザッハトルテに生クリームは付けますか?」 「あ・・・はいっ、俺生クリーム大好きですっ」 甘い匂いだけで胸やけを起こしそうな西園寺を置いてきぼりにして、二人は顔を寄せ合ってケーキ箱の中を覗き込んでいる。 きらきらと期待に満ちた眼差しをケーキに向ける啓太と、啓太に向ける臣。 こんな風に、いつだって臣は啓太のことを見ているというのに。 その眼差しにも、その眼差しの意味にも気付かないで一喜一憂を繰り返す。 啓太は素直だから、喜怒哀楽好意困惑がすべて顔に出て態度に出て言葉に出てしまうから。 人の感情の機微に聡い臣には、その起伏はおそらく手に取るように分かるに違いない。 しかし、だとしたら、こうして一心に向けられている啓太の気持ちになんかとっくに気付いているはずで・・・。 「ああ伊藤君、口許にクリームが・・・」 「え?」 ここです、と右手を伸ばした臣が、啓太の口端にちんまりと付いたクリームを指先でぬぐう。 ああああありがとうございますっ、と気の毒なほどうろたえた啓太の前で、指先についたクリームをぺろりと舐めて見せて、甘いですねとてもと微笑んで。 更にテレる啓太と、更に上機嫌になる臣。 なんだ、やはり気付いている訳か・・・。 フンと鼻で息をついて、女王様はリチャードジノリのカップを手に取った。 「臣、しっぽが出ているぞ」 「なんのことでしょう、郁?」 にこにこにっこり。 先の尖った黒いしっぽを嬉しそうに振り回しながらとぼける七条に、西園寺の整った眉が片方だけぴしりと上がる。 またこの×××は・・・。 女王様にあるまじき暴言を心の中で呟いて、臣の淹れた絶品の紅茶をもうひとくち。 でもまあ。 臣の態度は引っかかるが・・・啓太のとろけるような笑顔とならば、差し引きゼロで流してやってもいい。 とりあえず、今は。 「伊藤君、僕のレアチーズケーキもとても美味しいですよ」 「掛かってるのってええと・・・ブルーベリーのソースですか?」 「ええ。一口食べてみますか? はい・・・どうぞ?」 「えっ・・・・・ぁ、・・ぅ・・・・」 一口大のケーキがついたフォークを差し出されて、真っ赤になって口ごもる啓太の様子に、思わずくすりと口許が和む。 仕方がないから。 もう少し見守っていてやろうかと、女王様は優雅に足を組み直した。 |