just a little bitほんとのほんとにあと少しだけあれば足りそうなのに、そのほんの僅か少しが足りなくて大変な思いをする場面というのが、日常生活の中には結構たくさんあって。 大変な思いをする代わりの代用手段が用意されている場合でも、足りないのが本当にほんの僅かなものだから、代用手段に頼るのではなくて、努力や根性でどうにかしてそのほんの僅かを埋められはしないものかと、ムキになってしまうこともまたよくあることで。 図書室の奥まった本棚の前で、爪先立って背伸びをしたり飛び跳ねたりを繰り返す伊藤啓太は。 今まさにそのほんの僅か、あと5ミリが足りなくてムキになっている真っ最中だった。 明日の授業で必要な、分厚い資料の背表紙の下端に。 伸ばした右手の人差し指の爪の先はどうにかこうにか触れられるのだけど、それを引っ掛けて引っ張って引き出すことができない。 「あと・・・ちょっとっ、なんだけど・・・っ」 確か図書室の入り口のすぐ脇には簡易ハシゴが置いてあったはずで。 それさえ持ってくれば、目的の本までなんの苦労もなく届くはずなのだけれど。 なんせ5ミリ、なんせほんの僅か。 背伸びをしてかりかりと本の背表紙を掻きながら、これでダメなら諦めてハシゴを持って来ることにしようと腹をくくって、啓太は気合を込めて、背表紙めがけて「ていっ!」とジャンプした。 すると。 カツン、と指先に手ごたえがあって。 やった、と思ったのはほんの一瞬。 「・・・・・っ、わ・・・ぅ、嘘っ?!」 傾いだ重い本をつかみそこねて。 落ちてくる影に、身体がすくむ。 「・・・・・っ・・・」 衝撃にそなえて首をすくめて、啓太は思わずぎゅっと目をつむった。 けれども。 いつまでたっても、構えていた衝撃は落ちて来ない。 ・・・・・? 不思議に思いながら、啓太はそうっと瞼を開けて。 ゆっくりと仰のいて、落ちてくるはずの本の行方を確かめてみる・・・と。 「まったく、どうしてきみはそういう無茶を・・・」 背後から伸ばされた長い右腕が。 「寿命が縮みましたよ。あまり心配をさせないでください」 啓太の頭上、20センチほどのところで。 その大きな手のひらにしっかりと、重く分厚い本を受け止めている。 「大丈夫ですか、伊藤くん」 「し、ち・・・じょうさん・・・」 まだどこかぎくしゃくとした動きで、更に顔を仰のかせた啓太は。 声を頼りに呼んでみた名前の、その通りの相手の顔を見つける。 わずかに頬の辺りを緊張させているその表情は、いつも穏やかな笑み浮かべている彼にはとても珍しいことで。 「怪我は、ありませんか?」 「ぁ・・・は、はい・・・」 詰めていた息を大きくゆっくりと吐きながら、頷いて力を抜いた啓太の身体が。 くらりと揺らいで七条の胸にぶつかった。 背中に感じる、制服越しのぬくもりと、馴染んだ気配。 安堵した啓太はくたりと脱力して、そのまま七条の胸に背を預けてしまう。 すると、受け止めた本を目の前の棚に静かに置いた七条の手のひらが。 支えるように応えるように、啓太の肩をやんわりと抱いた。 「でも、あの・・・七条さんは、どうしてここに?」 しかもあんなすごいタイミングで、と。 すっかり身体の力を抜いて七条に凭れ掛かってしまった啓太が、仰のいて不思議そうに尋ねるのに。 七条は、常よりも少しだけ力ない気のする笑みで啓太を見返してから、いつも座っている、定位置の明るい窓側の席を眼差しで示した。 「きみの声が聴こえまして」 声に促されるように、つられるように目を向けた机には確かに、七条が持ち歩いているノートパソコンが置かれている。 トップもまだ開かれていないところを見ると、席に着いてすぐに、啓太の声に気付いたのだろう。 「それで、なにをしているのかと気になって見に来てみたのですが・・・」 そのときのことを思い返すように言葉を切って。 啓太を抱き締める七条の腕に、無意識にか、ぎゅっと力がこもった。 「心臓が止まるかと思いました」 吐息と一緒に渡された、どこか心細げにも響く声。 「本当に、なにもなくてよかった・・・」 まるで縋るように、無事を確かめるように。 身体に回された両腕が、啓太を強く強く抱き締める。 どれだけ心配をさせてしまったのか、言葉で告げられるよりもよほどその気持ちが伝わってきて。 啓太は、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。 「あの・・・っ」 心配させてしまったことを、ちゃんと顔を見て謝りたくて。 甘く束縛する腕をやんわりと解こうとするけれど、七条はそれを許さずに。 「どうかもう少しだけ、このままで・・・」 耳朶に囁いた唇が、ふわふわと踊る啓太のクセ髪にキスを落とす。 しばらくこうしていて、不安を溶かして欲しいのだ、と。 「七条さん・・・」 いつもは、啓太の方が甘えてばかりの恋人。 今だって、助けてもらってしまったし、彼をこんなにも不安にさせてしまったのは啓太だ。 だから・・・。 胸の前で交差する七条の腕を、ぎゅうと両手に抱きかかえて。 顔を埋めるようにしながら啓太は、はい、と小さく頷いた。 「こうしていましょう・・・もう少しだけ・・・」 遠く、校庭に響く運動部の喧騒を聴きながら。 図書室の片隅で、ほのかな体温を分け合って・・・。 |