夏の思い出夏休みの宿題は、8月の終わりにまとめて片付けるのが恒例で。 毎年決まった夏の終わりの思い出は、妹と二人で半泣きで頑張った、課題の山。 けれども今年の宿題は毎日少しずつ、順調に、ほぼ計画通りに進んでいる。 「ほぼ」というのはたまに脱線してしまうことがあるから、そのせいで遅れが生じてしまうことがあるからなのだけれど。 それも翌日に頑張れば取り戻せる程度の遅れだから、誤差の範囲内だろう。 でも一人だったら、きっとこうはいかない。 毎日、毎晩。 決まった時間にこうして会えることが嬉しくて。 だからこそ、勉強会はとても前向きに続いているのだ。 今日も今日とて向かい合わせにローテーブルを囲んで、教科書を開いてノートを開いて、集中してかりかりとシャープペンを走らせていたその途中のこと。不意に。 「おや、これは・・・」 と、テーブルの向こうから伸ばされた長い指先に、無防備だった首筋をついとなぞられて。 啓太はぽろりとシャープペンを取り落として息を詰めて、驚きに瞠った眼差しを上げる。 対面に座る七条は、思わしげな表情で小さく首を傾げていた。 「・・・・・ぁ、の・・・っ」 「赤くなっています」 ほら、ここです、と。 もう一度同じ場所をするすると指先がたどる。 「僕が残した痕ではありませんね」 指先を触れさせたまま、普通の会話のようにさらりとそんなことを呟く七条の言葉を。 七条と同じようにさらりとは受け取れずに、啓太は音を立てそうな勢いで、かああああと首筋から頬から耳からつむじまで一気に赤くほてらせる。 跳ね上がった鼓動はとくとくと耳に煩いくらいで。 皮膚の薄い敏感な場所を、そうそう幾度も刺激されては、あれこれ困ってしまうのだけれど。 説明をしないことにはその指先は離れてくれそうもないから、啓太は声を発するために、詰めたまま酸欠になりかかっていた息をはくはくと頑張って吸い込んだ。 「さ・・・さっき、蚊が、いたから」 だから七条が来る前に蚊取り線香をつけたのだけれど、どうやら既に吸われた後だったらしい。 すっかり動揺して覚束ない啓太の説明に、それでも七条は納得してくれたようで。 「ああ、蚊ですか」 伊藤くんの肌は柔らかくてとても甘いですからね、と目許を優しくして頷きながら、気になって仕方のなかった指先を、ゆっくりと離してくれた。 でも、離れてしまったらそれはそれで、遠のいた体温に安堵と、少しの寂しさを覚えて。 複雑な気持ちで啓太は、ほうっとひとつ小さな息をつく。 すると七条から返るのは、くすりと小さな笑い声。 顔を上げた啓太はそこに、声の通りの表情をした七条の顔を見つけて、こくんと息を呑んだ。 向けられているのは、最中を彷彿させるような、ほんのりと艶を帯びた甘やかな瞳。 意識をしてしまったせいか、体温が上がってしまったせいか。 誘うように注がれる眼差しにも落ち着かない心地を煽られて、じっとしていられなくなった啓太は、じわじわとかゆみ出した首筋をかいてしまおうと手を伸ばす。 けれどもその指先は、肌にたどりつく前にするりと七条に遮られた。 「いけませんよ、かいては」 そのまま指先同士が絡まって。 やんわりと引かれた人差し指の爪に、ちゅっとついばむキスが落ちる。 「痕になってしまっては大変ですからね」 優しい笑みで云って、テーブル越しに身を乗り出してくる七条から。 手を取られているせいばかりではなくて、逃れずにただ目を瞠っている啓太の首筋に。 ぬくもりが、吐息が近づいて。 温かな唇が数瞬、触れる。 「・・・・・っ」 少しきつめに、その場所を吸い上げられると。 啓太は詰めていた息を、ほうっと深く吐き出した。 そうしてまるで、感じ入るような、自分の口から漏れたその吐息のなまめかしさに。 ますます頬を熱くする。 「・・ぁ・・・あのっ、七条さん、俺・・・っ」 「まだ、かゆいですか?」 うろたえる啓太に間近から問う、悪戯っぽい笑みを含んだ眼差しに。 「ぇ、は・・・・・・ぃ、いえっ、あの・・・っ」 思わず素直に「はい」と答えかけてから。 反射的に働いたらしいなけなしの自衛本能が、啓太に「いいえ」と云わせようとする、その前に。 甘く微笑んだアメジストが、焦点がぼやけてしまうくらい、ぐぐぐともっと近くなる。 「それは、いけませんね・・・」 「・・・・っ、・・ぁ・・・」 囁く吐息に、肌がふるえる。 うずく首筋にやんわりと歯を立てられて、躰の芯をぞくぞくと覚えのある感覚が支配していく。 くらりと惑った視線の先に、嬉しげにぱたぱたとはためく黒い羽と、先の尖った黒い尻尾が見えた気がして。 啓太は観念するようにこくんと喉を上下させると、きつくきつく目を瞑った。 けれども、目に入れなくても、あるものはやっぱりそこにある訳で。 なくなってくれはしない訳で。 今日の勉強会は。 どうやら少々長めの脱線が、決定のようである―――・・・ |