こうふく
既に起業家としての顔も持つ西園寺は、その他もろもろの用事も相まって会計室を空けることもしばしばだ。
そんな西園寺の外出時に留守番係が二人きりで催すお茶会は、今ではもう恒例のこと。 前もって不在がわかっているときは必ずと言っていいくらい”どこそこパティシエのロールケーキ”だとか、”行列ができるタルト”、”ナニガシ御用達のスフレ”、なんかが用意されている。それもこれも、凝り性の恋人のリサーチ成果のたまものだった。 午後一番に西園寺が出かけた今日も、もうテーブルの上は準備万端。・・・といっても至ってシンプルなもので、淹れたての薫り高い紅茶に、あとは今日の主役の登場を待つだけなのだけれど。 長い手足には不釣り合いなほど小さなケーキの箱を、これまた小さな冷蔵庫から長身の七条が大事そうに取り出す。 何度となく目にしている、もうあたりまえの光景。ちょっと可愛いかも、なんて、啓太がこっそり想っていると、ふと顔を上げた七条と目が合った。少しだけ上げられた眉が、啓太へ漠然とした疑問を投げかけている。 「七条さんは美味しいケーキやさんを本当にたくさん知ってるんですね」 その言葉を素直に受け取った七条は、啓太へケーキの箱を差し出す。 「”美味しい”って聴くと、やっぱり食べてみたくなるじゃないですか。ラーメンだったりお酒だったり、人によって様々だと思いますけど、僕の場合はそれがケーキだということです」 七条の長くしなやかな指に吊り下げられている白い紙の小箱は、まるでこの場所を留守にしているどこかの主のような気高さと気品を持っている。残念なことに当の本人は甘いものがむしろ苦手なので、こうして不在時限定のお茶会となっているわけだけれども。 なんだかナイショ事のような特別さと、ケーキを前に嬉しさを隠せないでいる様子の七条に、思わず啓太の顔もほころんでしまう。 「どうしましたか?伊藤くん」 「いえ、おかげで俺までケーキに詳しくなってきちゃったなあ、って」 「それは、嬉しいですね」 手渡された箱を大事そうに開いた啓太は、思わず感嘆の言葉を漏らす。 「うわあ、今日のはまたとっても綺麗なケーキですね」 と。 「だって、それは僕と一緒にいる時間に比例しているということですから」 予告もなく後ろからぎゅうと抱きしめられて。 「しち・・・っ」 「落っこちてしまいますよ」 抱きしめられた反動に思わずケーキの箱を取り落としそうになる啓太の両手を、後ろからの七条の手が包み込んだ。 「こうやって、君と過ごしている時間がどんどん積み重なっているということです」 ね、と耳元で囁かれる声と触れる熱は、今にも指先の感覚を奪っていってしまいそうだ。啓太はぎゅっと瞳を閉じる。 それはじっとしているとすぐに全身に及んでしまう、ケーキのように甘い魔法。なんとかして、うち勝たなくてはならない。 「あの、・・・あの、七条さん、ケーキ・・・マロンとフルーツショート、どっちのケーキにしますか?」 見上げた魔法使いは、ちょっぴり残念そうに見えた。 「実は僕、どちらも食べたことがあるんです。伊藤くん、お好きな方をどうぞ」 「じゃあ、俺、こっちのフルーツショートにします」 「ふふ」 「?」 「すみません、笑ったりして。伊藤くんはこっちを選ぶだろうなーって思っていたら当たったものですから、嬉しくて、つい」 あ、また笑ってしまいました、すみません、と恥ずかしげもなく呟く七条に、真っ赤になった啓太は無言でケーキを皿に載せ、椅子に座り、ティーカップを引き寄せ、フォークを突き立て、口に含んで恥ずかしさを埋めた。その一連の仕草をまた七条が嬉しそうに眺めている。 「伊藤くんは、本当に美味しそうにケーキを食べるんですね」 「〜〜〜〜〜〜」 ずるい、と思う。 自分だってさっきからあんなに嬉しそうだったくせに、俺をからかうなんて。 『それは、嬉しいですね』 あんなに、あんなに。 『だって、それは僕と一緒にいる時間に比例しているということですから』 ―――――。 ・・・・・・・・・・・・あれ。 「えっと、・・・コウフク、ですね」 「え?」 唐突に切り出した啓太の言葉を聞き取れなかったのか、七条は運びかけていたフォークの手を止める。啓太は紅茶を一口飲むと、改めて言った。 「美味しいものを食べて嬉しくなることを、口に福ってかいて『こうふく』って言うそうです。この前、和希が教えてくれました」 「・・・さすがは年の功」 「え?」 「いえいえ」 机に指で漢字を書いてみせる啓太に、七条は感心したように呟く。 「そうですか、僕はてっきりシアワセなほうの”幸福”かと思ってしまいました。同じ音でも意味が違う。日本語は面白いですね」 「でも美味しいものを食べたらやっぱり幸せな気持ちにもなりますよね。その・・・好きな人といっしょだと、特に」 七条が一瞬、息を飲む音が聴こえた。・・・ような気がした。 「だから、『幸福』と『口福』は似てるのかも―――」 「―――僕、『口福』の本当の意味を知っていますよ」 「え?」 「教えてあげましょうか?」 答えを待たずに伸ばされた人差し指が、そっと啓太の唇をなぞると――― 「―――――――」 椅子から腰を浮かせた七条は、啓太の唇へ唇を重ねた。 鼻先をくすぐるその香り―――・・・。 「・・・あまい・・・」 呟いて、気付いたその甘さは、マロン味。 「――――――っ・・・」 高鳴る胸と視界を、悪戯っぽく微笑む紫色の瞳が埋める。 「僕を口福にできるのは、伊藤くん、君だけなんです」 愛おしそうに伸ばされた手が、じんわりと啓太の頬を包む。 「―――もっと口福にしてくれますか?」 「・・・はい」 それは逃れられない魔法。甘いあまい、二人だけのコウフク―――。 |