東京―バンクーバー間、約9時間





「そういえば僕、来週から一週間ほど母のところへ行くことになりました」

 なんということでもなさそうに、七条がさらりとそう言ったのが三日前の水曜日の夕食のとき。
 七条さんからお母さんの話を聴くなんて珍しい、と、啓太がぼんやり思っていると、ふとあることに行き当たってしまった。

「え、あの、七条さんのお母さんって、確かカナダにいるんじゃ・・・」
「そうですね」

 『ちょっと行く』には遠すぎやしませんか。その言葉が喉元まで出かかるのを堪える。それにちょっぴり心の準備が必要かもしれなかった。だって七条と恋人同士になってからというもの、それだけの時間顔を合わせずにいることはなかったから。
 ぐるぐると異論反論が一堂に押し寄せて声も出ない啓太をよそに、七条はなおも表情を変えずさらりと続ける。

「こちらで暮らすのに必要な書類を貰って帰ってくるだけです。こればかりは僕一人の力でどうにかするにはとても手間が掛かりますから。面倒ですが、直接行って帰ってくるのが一番手っ取り早いんですよ」

 淡々とそう告げる七条に、ことさら何か言うのは子供じみている気がして。

「じゃあカナダのお土産、買ってきて下さいね」

 淋しいと思う気持ちがひょっこり顔を出す前に、啓太は笑って応えたのだった。




 そして3日なんてそれこそ瞬きのように過ぎて、今日もだいぶ夜が更けたというのに明日出発するはずの七条の部屋にはこれといった荷物も見あたらない。観光に行くわけではないだろうけれど、カバン一つで行くつもりなのだろうか。

「あの、七条さ・・・」
「伊藤くんに、渡しておきたいものがあるんです」

 唐突に七条はそういうと、ベージュ色のチノパンのポケットから5センチほどの筒状のものを取り出して啓太の手のひらに乗せた。真鍮かなにかで出来ているそれは、銃弾のようにぴかりと鈍く光る。

「なんですか、これは―――笛?」
「そう、これは犬笛と言って、人間には聞き取れないけれど犬には聞こえる領域の音が出る笛です」
「・・・前にテレビで見たことがあります」

 けれどもホンモノを見たのは初めてだった。啓太が笛をまじまじと眺めていると、七条は長い指を伸ばしてそれを人差し指と親指で摘み、啓太の目の前へ翳してみせる。

「僕、この音が聞こえるんです」
「へ?」

 七条の突飛な言葉に啓太はぽかん、とした。七条は得意そうに続ける。

「だから僕の居ない間に伊藤くんがものすごくものすごく寂しくなって僕に会いたくなったら、この笛を吹いて下さい。そうしたら、すぐに戻ってきますから。ね?」

 深みを増した紫の瞳で見つめられ、特別な笛ですから離さずに持っていて下さいね、と、さらに念を押されて、啓太は渡されるままに犬笛を受け取った。




「なんなんだ?それ」

 次の授業までの休み時間、啓太が制服のポケットから取り出した犬笛を和希が目に留めた。昨日七条がカナダ行きの飛行機に乗ってから、約束ともいえない約束どおり、なんだかんだで肌身離さずこの犬笛を啓太は持っている。

「犬笛、だって」
「それって、犬が聞き分けられるとかいう、あの犬笛?」

 そう、と答えた啓太は独り言のように呟く。

「七条さん、この音が聞こえるんだって」
「・・・・・・・・・・・・・・・へえ」

 七条の名を聞いた途端、和希は啓太の手のひらで転がるそれを胡散臭そうに眺めて気のない返事をした。なぜだか、和希の七条への評価は厳しい。

「まさか啓太はそれを信じてるわけ?」
「さあ、どうだろ」

 啓太は曖昧な返事をして、曖昧に微笑む。和希は肩を竦めて、それ以上の詮索はしてこなかった。

 ・・・七条さん、もうカナダにいるんだよね。

 いつも啓太の頭を撫でる七条の大きな手を思い出して、啓太はさり気無く自らの髪に触れてみた。体温の低い七条の、僅かなぬくもりが思い起こされる。

「あーあ」

 そう声に出して、啓太は犬笛を窓越しの晴れた空へ向けて翳してみた。
 笛はただ静かに、明るく光った。




 いつも気にしたことのない寮の自室が、やけに殺風景に見えた。何かやらなくてはいけないことがあったような気もするけれど、思い出せないし、やる気も起こらない。

 ―――今日はつまらない一日だったな。

 ふとそんなことを思って、啓太はどきりとした。そんなことを思ったのは、この学園に入ってから一度もなかったことだ。

 ・・・理由は解っている。

「七条さんが出発してまだ2日目じゃん・・・」

 ため息をつくと、余計に気が滅入った。一週間は7日間。まだ折り返し地点にも届かない。そもそも七条が7日で帰ってくるのかもわからないというのに。

「―――――――――」

 ふと、犬笛が頭に浮かんだ。ポケットから取り出してみるとそれは飴色に輝いて、甘く、魅惑的に見えた。

 誘われるように笛を唇に含んでみる。

 こわごわと、息を、吹き込む。



 ・・・・・・・・・・・・・・・。

「そっか・・・人には聞こえないんだっけ・・・」

 わかっていたはずなのに、胸に虚しさがつのる。喉の奥が少しだけ、きゅっ、と鳴った。

 啓太は犬笛を放り出すとベッドの上へ身を投げた。友達だと思っていた人に裏切られたかのような、そんな突き放された思いが込み上げる。どうして携帯もEメールも普及しているのに、わざわざ置いていったのがよりによって犬笛なのだろうかと、こんな思いをさせる恋人へ恨み言の一つでも言ってやりたかった。

 オイ、シチジョウオミ。ハヤクカエッテコイ。

 そう心で呟いて、視界に入らないように啓太が犬笛へ背を向けて寝返りを打った時―――。

 部屋の扉が大きく一度、鳴った。
 びくりと跳ね起き、啓太は扉を―――扉の向こうを見ようとする。と、今度は等間隔で3回、扉を叩く音がした。啓太は飛びつくようにドアノブを掴んだ。焦りに震える手でドアを一息に開く。

「・・・・・・ガラにもなく、学園島の門から力一杯、走ってきてしまいました・・・」

 ドアの前には、息を切らした七条が立っていた。目顔で入室の許可を取り部屋の中へ入ると、大きく深く呼吸を繰り返す。手にしていたカバンを、彼らしくもないぞんざいな仕草で手放した。まだ七条の肩は落ち着かずに上下していた。

「すごい・・・・・七条さん、本当に帰ってきてくれた・・・」

 呆然と呟いた啓太の言葉に、七条がじっと啓太を見つめた。無音の一瞬が過ぎ、吸い込まれるような紫の瞳が近づいたと感じた瞬間。
 キスをされ、呼吸を奪われるほど強く抱きしめられた。

「しちじょ・・・っ?」
「笛を、吹いてくれたんですね」

 掠れた声で囁いた七条を啓太は見上げる。
 自分の顔にどんな表情が浮かんでいるのか、七条の顔に困ったような苦笑が浮かんだ。

「すみません、僕は犬笛が聴こえるわけじゃないんです」

 七条は犬笛の音を聴いて帰ってきてくれたのではなかった。

「嘘をついたんですか?」

 決して七条の言葉を頭から信じていたわけではなかったのに、反射的に口をついて出た言葉は恥ずかしくなるほど純粋な言葉だった。啓太は真っ赤になって黙り込む。

「僕が一週間いなくなると聴いても、君は寂しがってくれるどころか笑って見送ってくれるものですから」

 ようやく息が落ち着いてきた七条はやや身を離すと、啓太の顔を覗き込む。

「君が僕のことを想っていてくれたらなあって、ちょっと呪いをかけていこうと思いまして」
「えええ?呪い!?」
「つれない恋人がいつも僕を思いだしてくれるように、ね」

 優しいながらもひどい言葉に、啓太はがくりと項垂れた。ふふ、と七条は笑う。

「それは冗談ですが・・・君のことだから僕がいない間はきっとこの笛を大切に扱ってくれるでしょう。伊藤くんの気持ちが繋がっているうちに帰ってこられればいいなあと、その程度だったんですけど―――僕の方が耐えられなくて、最短で帰ってきてしまいました・・・カナダって、案外近いものですね」

 でもお土産を買うのを忘れてしまったんです、と申し訳なさそうに言う七条の背に、啓太はそっと腕を回して顔を埋める。大きく息を吸い込んだ。七条の、匂いがした。

「伊藤くん・・・?」
「・・・俺、本当は寂しかったんです。でもヘンにカッコばっかりつけて、言えなくて」
「そう、だったんですか」
「だから早く帰って来てくれて―――ありがとうございます」

 啓太は思い出したように、くすりと笑う。

「でも、いくら七条さんでも犬笛の音は聞こえませんよね。そんなことわかっていたはずなのに、馬鹿だなあ、俺」

 自嘲気味な言葉を見つめ返した紫の瞳が、とろりと緩んだ。それはそれは、愛おしそうに。

「―――僕は君だけの犬なんです。だから、君の笛の音は必ず僕には聴こえていますよ。そう思いませんか」

 瞳を見開いて、啓太は七条の瞳を見つめる。ね、と微笑みかけられて、啓太の頬も緩やかに綻んだ。

「・・・そう思います、俺も」

 七条の手が啓太の髪を撫でる、その感触を味わいながら、啓太は再び七条の背に腕を回す。

 ベッドの上の犬笛が、ころりと転がった。





たぶんネタとしてはとても感動的な作品になってもおかしくないと思うのですが、
私が書くと半ばギャグになってしまいました。
そもそも2日でカナダ往復できるのでしょうか。
渡航時間は9時間(タイトル)らしいので、臣ならできる!と思って書きました。
実は和希を脅して自家用ジェット出させてたらどうしよう。


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