彼の指先転校初日、和希に案内をされてこの場所を訪れたときに感じたのは。 張り詰めた空気と、しんと静かな緊張感。 肌に感じるその厳しさは、どこか彼のまとう雰囲気にも似ていて。 その場にいるだけでしゃんと背筋が伸びる感じも、透き通るような清涼さも。 慕わしさや気安さを覚えるだけではなくて尊敬の対象でもある彼と、とてもよく似ていて・・・。 眼差しの先できりきりと弓を引く大きな背中に見惚れてしまいながら。 初めて会ったときのことをぼんやりと思い出しながら啓太は、無造作に弓道場の扉をしめようとした。 と、次の瞬間。 疎かになっていたその右手の指先に。 がごん、と鈍い衝撃がくる。 「い・・・、っ!」 思わず飲んだ息が、悲鳴のように細く漏れて。 とっさに引こうとした腕は、けれどもぴくりとも動かせない。 身動きが取れないことにも突然の衝撃にも、二重にも三重にもとにかくとても驚いてしまって。 「・・・・っ・・」 じわりと生理的な涙が滲むのと同時に、痛みというよりはまず熱を感じた。 それからじわじわと痺れるように、熱と痛みとが腕を這い上がってきて。 動かせない手許をおそるおそる見てみれば、弓道場の重い扉に、右手の人差指から薬指までの第一関節が、がっちりと挟まれてしまっている。 は、さまってる・・・血は、出てないけど、でも・・・っ。 ショックのせいか、くらりと軽い貧血状態に陥りながら。 思考も動作も停止してしまった啓太が、そのままの体勢で固まっていると。 「・・・伊藤?」 名前を呼ばれて。 無意識に詰めていた息を吐きながら啓太は、ゆっくりと顔を上げる。 すると、構えを解いた篠宮が、驚いた顔をして啓太の方を振り返っていた。 「し、の・・みやさ・・・」 どんな情けない顔をしてその篠宮を見返してしまったのか。 表情を引き締めたままの篠宮が、弓を手にしたまま真っ直ぐに歩み寄ってきてくれる。 「どうした、今なにか・・・・・手を挟んだのか?」 扉の脇の壁に弓を立てかけながら、気遣わしげに掛けられる声に。 条件反射のように啓太は慌ててかむりを振って、ようやく扉の隙間から抜き出した右の手を、背中に隠そうとするけれど。 「あ、あの、大丈夫ですっ、俺、驚いてそれで思わず声を・・・」 「いいから、見せてみろ」 有無を云わせぬ口調で云われて、啓太はしょんぼりしながら右手を差し出すことになる。 練習の邪魔をしてしまうつもりはなかったのに・・・と、気持ちは沈むけれど。 じんじんと痺れの残る指先が、篠宮の大きな手の中にやんわりと包み込まれて。 ケガを気遣うように、慎重に触れる温かな掌がとても優しくて。 無意識に張っていた肩の力が、癒されるようにゆっくりと抜けていく。 「指は、動かせるか?」 「ぁ・・・はい」 「ああ、痛むなら、無理に動かさなくていい・・・どうだ?」 促されるまま、篠宮の手に包まれた手のひらを、ゆっくりとにぎって、ひらいて・・・。 じりじりとしたしびれは残っているけれど、ちゃんと動くし、痛みも最初の衝撃ほどではなくなっている。 「大丈夫・・・みたい、です・・・」 まだ少し頬の辺りが強張っているけれど、どうにか笑みを浮かべて頷けば。 啓太のその手のひらの動きを見詰めていた篠宮も、ほっと安堵したように息を吐いた。 そうしてやんわりと指先を取って、裏から表から、ケガの状態を確かめていく。 真摯な眼差しが真っ直ぐに指先に注がれるのに。 落ち着かない心地で啓太は、こくんと息を飲む。 「あの篠宮さん、もう・・・」 離してください、と。 啓太が耳まで真っ赤になって告げるのには答えずに。 「外傷はないようだが・・・赤くなっているな」 そう告げて。 大切そうに両手で包み込んだ啓太の手のひらに、そっと寄せられた潔癖な口許が。 慈しむようにその指先に、数瞬、触れた。 「・・・っ・・」 とくん、と。 痛む指先だけではなくて、心臓までが震える。 「少し、熱を持っている。冷やした方が・・・」 生真面目な表情を崩さずに、顔を上げて云い掛けた篠宮が。 耳まで赤くして俯いている啓太を見てようやく、自分がしたことの意味を知る。 腫れて熱を持っているように見えたから、温度を計るつもりで唇を寄せたのだけれど。 別の見方をすればそれは、指先にくちづけをしたのと同じであったと。 「っ、すまない。つい・・・っ」 慌てたように謝罪をした篠宮が手を引いて。 触れていた優しいぬくもりは、あっさりと離れていってしまう。 ケガをした心細さのせいか、胸が詰まって苦しくなって。 せつない想いのままに、啓太は痺れの残る指先を、ぎゅっと握り締めた。 「つい・・・なんですか?」 俯いて少しくぐもっていたせいで。 啓太がぽつりと呟いたその声がよく聴こえなかったのか。 篠宮は控えめに、伊藤? と問い掛ける。 「篠宮さんは・・・『つい』でこういうことしちゃうんですか?」 「・・・え」 「怪我をしたのが俺じゃなくても、誰にでもこういう風に・・・っ」 キス、するみたいに・・・しちゃうんですか、と。 顔を上げられないまま声を震わせる啓太の、その言葉の意味を理解して。 篠宮は、自分の失敗を悟る。 本当に俺は、気遣いが足りない・・・。 BL学園の生徒や教師や果ては学食の賄いのおばちゃんを含めた誰に聞かせても「そんなことないないない」と大量にツッコミが返ってきそうなことを、真剣に思って。 後悔に瞳の色を翳らせながら、ケガをした啓太の右手を、もう一度そっと引き寄せる。 痛みを与えないように慎重に、掌の中へと包み込んで。 そうして今度はきちんと言葉が伝わるように、悲しませることがないようにと。 俯いたままでいる啓太を真っ直ぐに見詰めながら。 「ついじゃない。伊藤だから、したんだ」 「・・・・・」 「大切な伊藤だから、心配で、したんだよ」 云い聞かせるように一言一言区切って告げられる言葉に、啓太はゆっくりと顔を上げる。 そうして向けられている真摯な眼差しに、今度は啓太のほうが居たたまれなくなってしまう。 怪我をした人に手当てをするのは当たり前で。 啓太はただ、子供のように駄々をこねただけなのに。 「すまない・・・お前を傷付けた」 包み込んだ啓太の手を、そっと大切そうに持ち直して。 もう一度その指先に、誓いのようにキスが触れる。 熱を確かめるためではなく。 今度は確かに、愛おしさという意味を持って。 「・・・しのみやさん・・・」 とくん、と。また胸が高鳴って。 たまらない気持ちで啓太は、啓太の右手を包む篠宮の手の甲に左手を重ねて、そっと胸許へと引き寄せた。 「違います、俺が我侭を云っただけで篠宮さんはなにも・・・っ」 悪くなんかないんですから、と。 真っ直ぐに瞳を見返してかむりを振って告げるけれど。 悪いのはやはり自分の方だと、篠宮も言い募ろうとしているのが、その表情から分かった。 だから。 その言葉を聞いてしまう前に。言葉を封じてしまうように。 「俺のほうこそ、ごめんなさい、篠宮さん・・・」 啓太はそっと、手の中にある篠宮の指先にキスを返す。 「・・・っ、・・・・・伊藤・・・」 息を飲む気配と、それに続く、吐息のような囁きに。 気持ちがちゃんと伝わってくれたことが分かって、啓太の表情が安堵に和む。 嬉しくて、くすぐったくて。 顔を上げられない啓太のその頭を、掴まえているのとは逆の篠宮の手が宥めてくれると。 またもっと、困るくらいに嬉しくなってしまって。 「伊藤・・・保健室へ行こう。念のために湿布をしておいた方がいい」 「はい、でも・・・」 もう少しだけ、このままで、と。 篠宮の掌を、両の手のひらで大切そうに包み込んだままで啓太が囁くのを。 優しい笑みで受け止めた篠宮は。 その小さな肩をやんわりと抱いて。 大切な温もりを、そっと優しく、胸のうちへと引き寄せた。 |