ここに書いた内容は、食事療法への理解が進んだり、病院の改築に伴い、多少修正があります。
食事療法の各ページもごらん下さい。
「今はがーがー残った腎臓が頑張ってるとこやねん」
(入院中の)主治医となった女医が言う。
新神戸駅から東へ500mとないところ、六甲山の岩盤に支えられたか、新築とは言い難いこの建物は、しかし震災の被害は軽かった様だ。
非常階段(一番見栄えに拘らない)の壁も、わずかしか補修の跡が見られない。
レントゲンの受け付け部屋でCRCとフッ素コートを見かけたけど、設備はもちろん立派。しかし情報系は歴史的価値を感じる。博物館に保存したくなるほどだ。
内科外来には書類搬送のベルトコンベア(使われていない)、渡り廊下には現役(!)のエアシュータ(ボトルに入れた伝票を空気圧で搬送する。NHK 新電子立国の製鉄所の回と同じシステム)、メッセンジャが走り回り、金曜午後には受け付けカウンターに書類の山が築かれる。
無論、各セクションにはPCもそれなりに配備され運用されているようだが、まだまだLAN化されてる訳ではなかった様だ。入手した情報によると、ナースステーションにPCが入ったのは1996年2月とのこと(こんな事まで書いて何になるのか)。
退院の前日になって、受け付けロビーに10BASE-Tの配線工事跡を漸く発見した。今頃は患者暇つぶし用のインターネットカフェでもできてるかな?
鳩が多い。非難用に広く取った(と思う)ひさしに糞が積もり、病院長や庶務課長名で餌やるなの張り紙。しかし屋上でしゃがみこみ、手を横に振ると数羽が寄ってくるから、誰か餌付けしてるに違いない。
一羽は足輪をはめ、ボスを気取っている。伝書鳩なら仕事せんかい。
(しかし伝書鳩なら磁気に弱いはずだ。一度試してみたい)
屋上の出入り口にて、魔覇裸邪連合参上 北3F などと落書き発見。燃え尽きた果てに、ここで養生したのだろうか?
ポートタワーから尼崎のガントリーまで見渡せる。当時漸く震災復旧から部分開通した阪神高速では、走る車全てが日曜の早朝であってもえらく遅い。根性ないのぉ。
PCの業界は、常に前進あるのみ。なるほど車はいずれも暴走寸前だ。机を殴ってへこませても、本人を含め少々荒れている程度の認識しかなかった。
従って多くの従業員が少々の健康不安には動じず、日夜年中無休で業務にいそしむ。労働三法何処行った?西神ローソンも24時に閉まるぞ!
私も例にもれず、徹夜明けで「いっちょ献血でもしてみっか」と会社に来ていた献血に申し込んだ。ちょっと疲れているのは仕事のせいだろうとたかをくくっていた。
しかし血液比重が低く門前払い。それから気になって、漸く会社の健康診断も受け持っている検診センタを受診することになる。結果はモノホンの貧血。鉄材もとい鉄剤が処方される(この薬は実際重い)。
1年余り治療を続けるも効果なし。血液検査を範囲を広げて、ついにCUR(クレアチニン)=8mg/dlという値が得られる。この値は既に腎炎と腎不全の境界であり、2ヶ月目に同じ数値が出たことで、慢性腎炎の診断が下った。
それまで会社の健康診断では検尿は行っていたが、35才以下の血液検査は殆ど省略されていた。腎臓病と言えど年に一度の検尿では引っかからない場合が多い。私は未だに検尿には糖も蛋白も出ない。このことが、病気の発見を遅らせる原因となった。
この数値は最初2ヶ月は安定していたものの、ある水曜の採血で入院が決まった。
翌木曜にCUR=11mg/dlで命が危険というtelを受けても私はまだ、ことの重大さを充分にできておらず、本院副院長でもある検診センタの所長に向かって言った。「業務の都合がついたら入院します」
所長=副院長の先生は慌て、会社の上司やら総務部に電話で何やら言ったらしく、金曜には上司にまで入院を命令されることとなった。
確かに病院まで向かう電車では、体のだるさは深刻だった。
なお私の入院した翌年には、所長=副院長の逆鱗により(?)、我が社の健康診断は全員血液検査付きとなった。聞くところでは、第2第3の病院送りがぞろぞろ見つかった様である。
更に1998年には、副院長に我が社の健康の傾向と対策を御講演いただけるまでになった。講演の中では、他にも逆切れで病院に送り込んだ人の話が数例出た。社会に貢献する、立派なライフワークと言えよう(だからひとごとちゃうって)。
要するに、人材が財産のソフトウェア業界の割には、健康の意識がいい加減だったのかも知れない。一昔前の「スタープログラマ」が皆太ってたことを思えば、納得がいく。(^^;)
その後、姿勢変わった様だけど。
腎A食なるものは、想像通り不味い。
特に最初の2日間は、敵意を感じるくらいに味がなかった。その後は減塩醤油付きでサバが出ることもあったから、絶対意図的に組んだメニューに違いない。
この病院で食事制限を行う際、文字通り致命的な障害となるものがある。それは病院正面の蕎麦屋だ。
職場の同僚が三宮で週末毎に聞き取り調査したところによると(要するに飲み屋の噂話)、美味いらしい。
入院中、しかも朦朧と寝込んでいるわけではないので、暇。2ヶ月もあれば、ハイペリオン2部作の読破なんかじゃ全然足りない。
従って、最もストレスとなっている食い物の事ばかりが頭に浮かぶ。
悔しがっても仕方ないし、暇つぶしになるので、食品成分表を精査する。
ここの看護婦はなぜか「オッケイ!」と声を張り上げる場面をよく見る。良く走り回るし(病室周辺は静かにするもんではなかったのか?)、えらく威勢がいい。
医師も看護婦も検査技師もその他の人も、人柄が良いので快適。点滴にて泡が入っても看護婦が平然としていたのに驚いた位で、技術もしっかりしてると思う。患者の痛みや希望を読み取ることにも、努力してると思う。
たぶん、三宮に近いとか、病院の隣に寮が用意されている(ぁぁ、府中寮:-P)とかで、採用条件も(病院にとって)有利なのだろう。
入院する側としても、病院職員の人柄は見舞いの人数と同じくらい重要だ。
(ちなみに聞いたところでは、血液中に混入しても大丈夫な空気量は、最大15cc位らしい)
エコーの検査技師は腹部/心臓共にうら若き女性。胸をあけてベッドに上がり、傍らに検査技師が腰掛けてぐりぐりされるのはちょっと恥ずかしい。しかもカーテンで仕切った部屋は薄暗く、危ない雰囲気と言える。
ピコピコハンマーくらい、置いといたら?
肺機能の検査技師は胸部レントゲンを一瞥し「煙草吸わな影もできへん」など言いよる。あのなぁ...
アンビリカルケーブル接続に備え、左腕の改造手術を受ける。要するにシャントのこと。
手術室では終始BGMが流れていた。局麻の患者をリラックスさせるためだろう。こういう心遣いがあるとは思わなかった。
少なくとも歯医者の麻酔より痛いと思っていたが、手術を通してしびれ数発のみで、肩透かし。
1Wの入浴禁止があった。風呂は男女交互に入浴日が回ってくるので、結局9日間風呂なしとなった。気持ち悪い。
7月に入ったある日、病院地階の理髪店で散髪。¥2500丁寧で安い。
「さて、阪神も勝ったし、手術でもするかなー」
別にええで。自分も阪神ファンやし。
患者が巨人ファンとちゃうことを祈る。(^^;
新聞は毎朝配達夫が病室を回ってくれるので、好みのままに買えるのだが、主要新聞は売り切れの事もある。
私は結局ラジオで通した。しかし売店で電池を買おうとしたら、同じアルカリでもUN3の方がUN4より10円安かった。世の中まちがっとる。
消灯21時起床6時、採血などする時は5時に一度起こされる(眠っている間に採血されるなら、それもひどい話だと思うが)。一日中寝ていると、ちゃんとこの時間に起きれる様になる。
7月。某社にとっては人事異動の季節。
それを前にして、上司が賞与詳細と主任への昇格内示を伝えに来る。
机を殴らずに済んだのは、尿毒症状が落ち着いているせいと考えたいが、単に机替わりのキャビネットしかなかったためかも知れない。
武士道なんてくそ食らえだ!
私の場合、既に腎臓は萎縮しており、腎生検をやったからって病因が特定できる保証はなかった。これで死ぬことは滅多にないらしいから、分かる可能性があれば調べておきたい。野次馬根性で承諾(というより頼み込み)した。
キシロカインで局麻の後、尖刺は背中から左腎へ行った。超音波エコーで腎臓の位置を確かめながら刺すのだが、衝かれた時は、急に下痢腹痛を起こした感じになる。
小さくなった割に皮の丈夫な腎臓が逃げ回り、3種類の針で計10箇所以上も突いたのに、結局組織採取できずじまい。最後は柔道よろしく、降参の手をベッドに叩きつけて中止した。
なんであれ組織が取れれば、1Wで結果が出るのに、くそ。1日の安静と血尿だけが残った。
腹痛がそれなりに残り、腹を壊して寝込んだ時と同様、飲むことも食うことも嫌になる。
内出血を避けるため、明朝までの『動くな!』モードとなる。
朝夕の抗生剤点滴があった。体温は37.1℃、最高血圧は麻酔中86まで低下したが、翌日は120から108で落ち着く。この状態でよく血圧など記憶していたと、自分で思う。
思えば古の侍は、切腹の瞬間に腎生検の何倍もの下痢腹痛感覚を味わったのであろう(皮膚や筋肉の傷みもすごいが)。
誇りのために腹を切って、感じるのがこんな感触と言うのは、余りに情けないではないか。
これじゃ武士道なんて語っても、笑い種にしかならないと思った。
1W程は、背筋に力をいれると痛むため、ぎっくり腰同様に手を腰にあててそろそろ歩いた。
他の人の体験談を読む限り、腎生検は後の安静以外は痛くないとのこと。私がこの様に腹痛感を感じたのは、10回も穿刺したためであり、多分他の経験者にとっては誇張しすぎだと思う。念の為。
原因は、シャントの手術後10日もの間風呂に入れず(本来なら7日間のところ、運悪く週末などで風呂の順番が延びてしまった)、布団をかぶるのが嫌になったことだと思う。
病院で発熱(38℃)すると、夜で主治医が帰った後でもあり、座薬が出てくる。
最初「いややで、自分でやってや」と言われたし、こっちもはずいのでそうしたが、気持ち悪い。こんな薬考えたの誰や? 粘膜経由で摂取したいなら、腋に貼る湿布とか考えろよ。よぉ効いたけど(腎臓いらんと思ったほど、寝汗が出た)。
趣味でここに一物突っ込む連中の気が知れん。
微熱に対して、風邪として受けた様々な検査は次の通り。
6月下旬に看護婦実習生@やんき〜ねーちゃんが一人付く。状況ヒアリングのみで実技はなし。どうやって採血の練習などするかと聞いたら、学生同士でやるらしい。ううむそうなのかー。
病院での研修は、患者とのコミュニケーションを計ることが目的らしい。
実習生は海の人を名乗っていた。7月始めの3連休明けに休んだので海遊びで疲れたのか? と聞いたら、学校の屋上で日光浴して、脱水状態になったと答えた。
月末のある夜は、向かいの部屋のおばあさん(トイレと自室の位置関係が覚えられないらしい)の徘徊が気になり、寝つきが悪かった。その分今朝は眠く、点滴の前半はほとんど熟睡。向かいの部屋もみんな爆睡しているらしい。
高齢者対策について考える機会ができたのは、入院の成果の一つだと思う。
おばあさんは翌日、ご主人が連れ帰った。
主治医による動脈採血は次第に上手になってくる。「今日は塵肺検診で一杯練習してん」
確かに入院当日はPhが酸性寄りだったし、腎機能低下でPh調整が利かなくなる恐れは判るんだが…
糖尿病の患者にケーキの差し入れ、高脂血症の患者をフォアグラ料理で歓待などしたら、普通感謝の代わりに『食い物の恨み』が返ってくる。
腎不全の場合、その食事療法の実態が世間に余り知られていない上に、糖尿病の様なメジャーな成人病と異なる栄養制限になる。そのため一時扱いに困った差し入れが続いた。
それは果物だった。果物のカリウムが問題となった。
正常な腎臓を持つ人は、減塩のために塩化カリウムの調味料を使える。更にカリウムは血中のナトリウムの尿への排泄を促す作用を持つ。
しかし腎臓がカリウムの排泄を行えなくなると、カリウムは血液の浸透圧を高め、高血圧、心不全の原因となる。
この結果、健康な人では減塩の役に立つ果物などの食品は、腎不全の患者にとっては塩分以上の毒物となる恐れがあるのだ。
そこで腎炎・腎不全では通常、蛋白質と並んで、塩分、そしてカリウムも制限するのが標準的な治療となるらしい。
カリウム制限では、野菜・果物は全て茹でてカリウムを煮汁に捨てる(当然煮汁は出汁に使えない)という食事になる。普通、湯気を立てたメロンなんか食うか?
(その後、蛋白制限で肉魚の摂取量を減らすことで、カリウム制限の大半を達成できるという情報を得る。私にとってはまだ、どうでも良いことだが)
ただ腎不全でも腎機能がわずかに残っていれば、他の排泄物(蛋白質を分解してできる尿素窒素など)を処理しようと、尿が大量に出る症状(頻尿期)となる。この状態ではカリウムは見境なしに排泄されるため、たまにカリウム不足となる。
私の場合、2ヶ月後退院したときようやく、この状態に該当することが判明し、結果的には塩分・カリウムの制限は必要なくなった。
医者が血液検査でこれに該当すると判断した時ようやく、晴れて果物を食べることができる。
ハウツー本によれば、「お見舞いはなんといっても現金がいちばん喜ばれる」(野末陳平監修 冠婚葬祭いくらかかるか?どうするか? ISBN4-09-310046-2 小学館)とある。
その通りだ。
私の場合、入院しても仕事癖が抜けず、会社にtel掛けることがよくあった。病院は携帯電話は原則使用禁止のため(というか私は携帯持ってないので)、テレフォンカードも有り難かった。感謝したい、が貰いすぎても何なんだけど(まだ数千円分残ってる^^;)。
副院長の逆切れtelが5月末だったので、入院は6/1からだった。
まず(病院食の)食事療法で落ち着くか様子を見るところから始めたので、腎不全透析開始標準コースから見たら、私の入院はやけに長かったのかも知れない。
入院前のクレアチニン上昇を見ると即刻透析だったのが、簡単に上昇が止まって病状を判断するのに困った様だ。
実際、葡萄糖点滴を中断後クレアチニンが上昇したことにヒントを得、病院食の蛋白を(栄養士曰く「これ以上減らせない」)40gから35gに削り、更に砂糖蜂蜜持ち込みでエネルギーを2000kcalから増やすことにより、食事療法で安定させる目処がついた。つまり医師任せでなく、自己発見的に病状を把握することが必要なのだ。
医療機関によって処置にばらつきが出ることについては、一応助かっている私としては積極的に非難するつもりはない。
更に食事療法の情報については大きな展開不足がある。
昭和大学藤が丘病院 出浦先生の著書が書店で手に入る(立風書房 腎不全 食事療法で進行を抑える ISBN4-651-85044-8 ¥1300を推奨)が、インターネット上では1997年夏までは、萬有製薬位しか関連情報を提示していなかった。これはけしからん。(笑)
ここに、私がhomepageを開設したきっかけがある。
ともあれ、2ヶ月後の7月末日に退院し、そのまま会社の夏休み(何故か盆を外して1Wというのが恒例になってる)を過ごして復帰を果たした。
以後は昼食が食堂から弁当に、更に間食を決められただけ大量に食べながら仕事するというスタイルとなっている。間食については、営業や生産現場勤務でないため、かなり楽に摂れている。
計9Wというのは自分にとって、かつてない長い休暇だったが、そのときの余裕を持った生活はどこへやら、1998年には徹夜長期出張以外の勤務はほとんど従来通りに行っている。
ただ、エネルギー不足でスタミナが足りないのは感じる。今は低血糖症状とも闘うのだ。
ここまで書いた様な事情により、次々と病院送りが現れている。同僚にも一人出た。
という訳で、見舞いという名目で久しぶりに病院を訪れる。
B型肝炎は、実は私も持っているが、まぁ暴れなければそっとしておくというのも一法(私は腎臓第一なのでそっとしている)。しかし彼はインターフェロンを選んだ。
最初の注射から3日間は38℃の発熱があったらしい。さらにインターフェロンは特効薬とは言えず、退院後の長期治療を覚悟している。
自分のときは現金が一番などと言っていたくせに、見舞いはマロングラッセ。しかも見舞いに押し掛けた計8人と一緒にその場で食ってしまった。
それはさておき(おいおい)、
エアシュータはまだ残っていた。蕎麦屋も健在だ。受け付けロビーの10BASE-Tは受付端末用だった。替わりに公衆電話がISDN化されて、インターネット接続は便利になった。しかし時間が遅かったので、看護婦その他顔見知りには会えず。
が、隣りで大規模な工事が始まっている。やがてこの病院はリニューアルの日を迎えるのだろう。
2000年4月に規模も大きくなって新装なりました。8月には、ついにあの蕎麦屋で食いました。旨かった!
create:1998/3/25,last brush-up:2001/3/14
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