文明の多摩歴史散歩

このコーナーは常に                              
工事中です。

多摩都市モノレール沿線の歴史散歩、お読みいただき、ありがとうございました。
このページの拡充を楽しみにされていた方には申しわけありませんが、打ち切らせて
いただくことになりました。申しわけございません。
直接的には、近年中に出版の予定が入っているためですが、またちがった形で、
歴史散歩を立て直す予定があるためでもあります。

             *私説多摩通史をお読みになりたい方はここをクリックしてください。
             *句会誌「檣」に寄せたエッセイ「幕末維新の風・石田道」はこちらです。

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 文明の多摩散歩、まずは1998年に開通した多摩都市モノレール(立川=多摩センター間は今年、それ以南は未定)の沿線を歩きます。村山から町田までのこのルートは、古来からの多摩南北幹線で、国分寺、府中、関戸を通る鎌倉街道上ノ道よりも古い鎌倉古道に当たります。奈良時代以前からの古道であるという説もあり、それを裏づける道路遺跡も発見されています。
 そしてこの道はまた、幕末維新にも重要な役割を果たしました。時代の激流に直面した多摩の人たちは、この道を行き交い、情報を交換して、新しい時代に備えたのです。この道を足繁く通った第一の人物は新撰組副隊長の土方歳三でしょう。第二の人物は隊長の近藤勇です。
 幕末の名代官江川太郎左衛門英龍や、彼の右腕であった斎藤弥九郎もこの道を通ったことがあると思われます。そしてこの道は江川農兵隊のメインストリートでもありました。さらにまた維新に抵抗し、自由民権の思いに燃えた人たちが行き交うメインストリートでもあったのです。
 多摩の歴史、それはまた、日本の反骨の歴史、地域に根を生やし、中央になびかぬ自主自立の地方史でもあります。多摩は江戸の後背地でも、東京のベッドタウンでもありません。輝ける独自の歩み、これを知っていただきたいし、護っていただきたい。多摩散歩はそのためのページです。
現在、構想を練っていますので、しばらくお待ちください。 

多摩の地図

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私説多摩通史

 多摩がいつから多摩と呼ばれ、なぜ多摩なのか、その語源はわかっていません。しかしこの地域は、日本最大の郡であると同時に、歴史的にも強い結束を誇ってきたところです。戦国時代の一時、多東郡と多西郡に分けられたことがありますが、それは政策的なもので、この地域の結束を分割したものではありません。

 奈良時代、多摩は中央から独立した辺境でした。多摩丘陵は天然の要害で、大和もこれを超えて軍を送ることができなかったからです。「むさの国」は、大和にとって上と下に分けられて意識され、むさ(現在の相模)は東海道、むさ(現在の武蔵)は東山道に属す地域だったのです。そして多摩は、東山道の最果ての地で、服属が遅れた厄介な所でした。

 

 多摩は日本最強の武士団であった武蔵七党の中の最強武士団、横山党と西党、それに小さいながらも強い結束力を誇った村山党が支配していた土地(それぞれのテリトリーは八王子盆地と広域多摩丘陵、多摩川流域と武蔵野台地、狭山丘陵)です。他の四党が北武蔵に位置し中央寄りの平氏政権を支持していたのに対し、南武蔵は、源氏に肩入れし、鎌倉幕府の中枢を担うようになります。多摩には頼朝以来」、といった家がたくさんあります。1213年、和田義盛の乱に連座して、横山党が滅亡。残党が西党と連合することによって、多摩郡はリーダーを持たない地域同盟として統一されました。

 横山党は横山氏を中心とするものの、惣領制を採らないネットワーク型の地域支配を特色にしていました。一方、西党は平山氏を主導的な家とする典型的な武士団でした。横山党の滅亡で、多摩は却って全域がネットワーク化したのです。村山党も自然にこれに連合していきます。打倒「執権北条」のとき、連合は新田義貞につき、足利尊氏に期待しましたが、京都政権に失望し、関東がちぢに乱れた関東管領、関東公方の争いには、戦場とされながらも、完全に中立を守り、戦乱を回避します。

 

 この時、多摩の村村の代表が集結(恐らく西党の中心地であった日野‐現在の府中市四谷)し、武州南一揆(一揆とは同盟を意味した)を結成したのでしょう。一致して新たなリーダーを担ぎ出すまではどこにも味方せず、中央とは独立して地域を守っていこう、という唐傘連判(円卓会議とおなじで、対等な関係での同盟)を誓っています。これは守られますが、戦国時代に危機を迎えます。

 越後の上杉が関東を狙い、これと結んだ北武蔵の勢力が多摩を脅かし始めます。現在の保谷市も北武蔵の勢力が作り出した地域ですが、この勢力はその南にあった深大寺城を陥とし、現在の調布市金子村まで勢力下に収めてしまいます。多摩が分断されそうになったのです。多摩はこのとき新たなリーダーとして、伊豆の北条早雲を迎え入れます。伊豆韮山の旧家江川家は源頼朝を押し立て、今度は早雲を盛り立てたのです。早雲は多摩の期待に応え、関東から上杉を追放しました。

 

 伊豆江川と多摩との強烈な連帯感はこのときに生まれたものでしょう。多摩は西党の最強の居城滝山城を北条に提供し、江川は多くの家来を日野の佐藤に託します。日野用水の整備と、日野武士団の再結成(日野三沢十騎衆がこのとき結成されましたが,その一騎が土方家です)がこうして実現します。多摩弁の中でもちょっと特殊な日野弁が、伊豆方言とよく似ているのは、こうした経緯によります。

 滝山城はその後移転し、八王子城になりますが、これを陥としたのは小田原城を包囲した秀吉軍。秀吉の天下統一は八王子城攻めで決しました。このとき、伊豆の江川は奇妙な行動に出ます。北条の残党を家康に保護させ、家康も関東を押さえるため、これに応じます。家康は三島で見初めた娘を江川の養女とし、その後側室に迎えます。この娘(御万の方)が産んだ子が、水戸家と紀伊家の始祖となります。江川は徳川御三家の二家と縁戚関係にあるわけです。多摩は江川を通して徳川家との強い絆を結ぶことになります。

 家康はまた、武田の残党をも厚遇したため、八王子や五日市に潜伏した武田勢にも活躍の場が開けました。その最大のものが八王子千人隊です。もともと武田武士団の多くは、西党の出身です。甲斐源氏を盛り立てるため、尊氏が日野に武士団を送るよう命じた(多波地方を甲州に譲ったのもこの時と思われます)のです。つまり家康は、北条と武田に分断されていた多摩の心を統一したことにもなるわけです。この徳川、北条、武田連合が関が原の合戦に勝利する核になりました。こう見てくると、秀吉の天下統一は名目に過ぎないことがわかります。少なくとも多摩は江川の政治力のおかげもあって統一されることはありませんでした。秀吉に服属したことはない(多摩には太閤検地も刀狩もなかった)のです。

 

 家康が多摩を天領とし、その多くを伊豆韮山の江川代官の支配下に置いたのも、こうしてみるとよく理解できます。多摩は秀吉の刀狩、兵農分離とは無縁でした。徳川も江川も、多摩のこの特殊性を重視していました。千人隊は農業を許された日本唯一の武士団ですし、関が原の合戦直前に隊を拡大したときも、農家の二,三男(北条の残党が多かった)がこれに参加しました。純粋な武士のいない郷、これが多摩だったのです。奥多摩の氷川温泉では、江戸の武士もまた町人とおなじ湯に入り、背中を流し合っていたのです。

 このことはまた、農民も武士の魂を併せ持っていたことを意味します。多摩の剣術、天然理心流が幕末の動乱期に栄えたのも当然です。多摩の豪農たちは文武両道にも励んでいたのです。だから、近藤や土方が農民のくせに武士にあこがれたと考えるのは正しくありません。多摩の農民はまた、みんな武士でもあったのです。だから、ペリーが来航すると多摩は騒然とし、弱体化していた幕府を、財政力で支えます。これを背景に、名代官江川英龍が開国国防に活躍するのです。

 伊豆下田の開港、横浜の開港。多摩は絹と茶の集散地としても急速に力をつけますが、多摩川南岸が外国人にも開かれたことから、国防の中心を担わされることにもなります。外国と直面させられた多摩は、西洋の学問を急速に吸収します。医学、経済学、政治学、軍事理論など。この方向は江川の日本変革論とも共通します。平和裏に幕府を閉じ、共和政体に移行して、国力を増強しようというものです。しかし、長州薩摩の動きはこの計画を破壊するものでした。

 

 江川は幕府に多摩農兵隊の設立を嘆願します。多摩には郷土防衛の能力があると見たからです。農民を兵士に、というこの嘆願に、幕府ははじめ腰を抜かしますが、ついにはこれを受け入れます。明治政府がとった国民皆兵制の端緒になった、ということを思うと、平和一途だった他郷の農民に大きな被害を与えたことになりますが、多摩としては、民主的にこれを進めるつもり(農兵は専守防衛隊で、侵略遠征の発想はゼロだった)でいました。薩長政権とは違うのです。

 江川はまた、日野の佐藤彦五郎に京都出陣を命じます。天然理心流日野道場から精鋭を集め、これに江戸牛込柳町道場の実力者を伴なった農民武士団、これが新撰組の核です。新撰組は身分差別を一掃した日本初の組織でもありました。新撰組の行動は常に多摩と江川のチェックを受けていました。多摩の思いを乗せた、代表チーム(南多摩を攘夷によって守る)のようなものだったのです。

 

 幕末の動乱期、海防に命を賭けた江川英龍が急死し、後を継いだ英敏も病死します。薩長は幼少の英武と後見人の柏木総蔵を朝廷の名で京都に呼び出します。戊辰戦争はこの間に勃発します。薩長が恐れたのは、徳川、北条、武田の関東防衛連合の大きな仕掛けが動くことでした。この首根っこが江川にあると見破ったのです。これは多摩の敗北をも意味しました。東征軍に反撃する指揮者を失ったのです。

 江戸築城のとき,危機に際しての対応策を練ったのは服部半蔵と大久保長安です。二人は抵抗のシナリオとして上野・日光を、反撃のシナリオとして上野・甲府を設定していました。甲州街道は、そのために造られたと思われます。半蔵門から無数に伸びる地下道,,これは新宿の百人町辺りで地上に出,常駐の鉄砲隊(百人隊)に守られて多摩にはいり、世田谷の弾薬庫で武装を整え、三鷹の御鷹場で軍馬を調達し、一気に日野を駆け抜けて、八王子千人隊と合流し、実戦が可能な唯一の城甲府城に入って、長く伸びた敵軍を駿河で分断するチャンスを窺う。これは戊辰戦争でも有効なシナリオでした。

 新撰組が甲府に向かったのはこのシナリオに沿ったもの。その沿道には服部半蔵が配置した草(その土地に生き,何世代にも渡って与えられた使命をまっとうしようとする忍び)もいたはずです。邪魔だったから勝海舟が追い払った、などという解釈はめちゃくちゃです。勝はまだこのとき、反撃のチャンスを狙っていたのです。近藤の甲陽鎮撫隊に彦五郎率いる日野農兵隊(春日隊と称した)が、浅草の弾左衛門配下の被差別民部隊が合流したのは理由のないことではありません。少なくとも彦五郎は江川に託された務めをここで果たそうとしたといえましょう。

 

 時代は明治となり,多摩は江川領が韮山県,他の旗本領が品川県に配属されました。韮山県権令には江川太郎左衛門英武,、多摩郡長には佐藤彦五郎俊正。これは江戸の支配構造を踏襲したものです。しかし、近藤を処刑した新政府を多摩は受け入れませんでした。多摩よりも中央との結びつきを大切にする国府(府中の六社宮)だけが、これを歓迎します。六社宮は明治政府に官幣小社として遇され,大国魂神社と改称します。

 多摩はその後全域が神奈川県に所属換えされ、江川と断絶させられます。江川も伊豆の支配権を失い、柏木総蔵も岩倉らの欧州視察に同道した後、一切の発言をもせずに、韮山にこもってしまいます。しかし多摩は自由民権の旗のもと、政府転覆計画まで企てたのです。共和政体と民主主義そして自由それが多摩の願いでした。

 多摩の政治力、これを圧殺するウルトラCが多摩の東京移管です。多摩の政治力は神奈川県議会を通じて発揮されていましたが、東京府では少数派に転落し、政府による押さえ込みも効くからです。多摩の多くは激しい抵抗をしますが、議員の買収などによってついに敗北。1893(明治二十六)年、多摩は東京府に編入されてしまいます。多摩は八王子で多摩の死を弔う大葬儀を挙行しました。

 多摩はその後、武蔵県として独立しようとする動きもありましたが、東京都政を牛耳ろうとする一派もあって、実現しませんでした。多摩は今も三多摩格差といわれる行政差別の中に置かれたまま、現在に至っています。しかし、多摩としての一体感を失った今、都議会議員の選出率が23区の4分の3しかないことに気づく人もいません。多摩は革新都政を生み出す原動力でしたが、これをもう一度立て直す必要があります。


幕末維新の風・石田道

 国立に石田道と呼ばれる古道がある。甲州街道沿いの村・青柳の北に位置する小さな集落・石田から、真っ直ぐ多摩川に向かって南下する道である。この道はかつて、そのまま多摩川を渡り、日野の石田村に通じていた。多摩川には、水の少ない冬場に限り、板切れをつないだ木橋が懸かったのである。国立の石田は日野の分かれであり、水没した石田村の避難先である。つまり、両石田の土方家は一族縁者であり、冬枯れの河原に人の通いは少なくなかった。
 石田村の風雲児・土方歳三(新撰組副長)もその一人で、この橋をおおいに利用したはずである。というのも、年始の挨拶といった親戚づきあいだけではなく、幼少のころからすぐ上の兄・大作とともに谷保村の本田家に書の手習いに通った可能性が高いからだ。歳三のしなやかだが、背すじがスッと通ったような品のある書体は、本田家に伝わる米庵流のものである。
 ものの本によれば、歳三が残した「豊玉発句集」と、その書体は、姉の嫁ぎ先である日野宿名主・佐藤彦五郎の伝授によるものだろう、とする。たしかに彦五郎は当時、多摩を代表する俳人の一人であり、米庵流の筆を能くした。歳三に伝授したのは天然理心流の剣術ばかりではなかったろう。素朴で、てらいのない歳三の発句は、彦五郎の教授法にかなうものであったとおもうのである。
 しかし、彦五郎の筆も本田家直伝のもの。当然、歳三にも直伝を奨めたはずである。このことは、佐藤家とはあまり出入りのなかった大作が、後に米庵流の能筆家として名を挙げたことでも明らかだ。が、私はここで文芸の伝授・継承関係を解きほぐそうとする気はない。それよりもむしろ、幕末維新のある時代に、石田、谷保、日野の一帯に、文芸の気風が立ちこめていたことを伝えたい。
 始まりがいつであるのか明らかではない。が、それは少なくとも彦五郎や歳三よりも三代前にさかのぼる。谷保の本田家が医業を開業し、米庵流を始め、日野の佐藤家が天然理心流への援助を開始した。おなじころ、石田に三月亭石巴なる俳人が出現した。土方歳三の祖父である。石巴は江戸の夏目成美、八王子の松原庵星布と、交流を重ね、独自の俳風を築いていった。
 太田南畝が星布尼と句会の宴を張ったとき、止宿していたのは日野の佐藤家であるが、石巴がここを訪ねなかったとは考えにくい。おそらく夜を徹して俳句を、そして世相を語り合ったことだろう。歳三の兄・為次郎は長兄であったが盲目のため、石田家を継がず、閑山亭石翠を名乗って風雅の道を歩んだ。その石翠が入り浸っていたのも佐藤家である。やがて歳三もこの兄に従った。
 つまりは、こうなるともう、継承関係を解きほぐしてみても意味はない。彦五郎とて、石翠の俳句や狂歌、浄瑠璃に学んだこともあろう。同じく佐藤家に入り浸っていた「あづま屋」こと中村太吉郎が江戸に出て、高名な狂歌師・絵馬屋三世となったのも、南畝や石翠の存在と無縁ではあるまい。絵馬屋は日野に戻ると佐藤家の長屋門の一角で、後には日野の駅前で小料理屋を営みつつ、狂歌や俳諧の道を極め、玉川居祐翁を名乗った。
 この一帯の気風が文芸にとどまらなかったことはご想像のとおりである。近藤勇の後継と目されていた彦五郎をはじめ、歳三、大作(粕谷良循)、太吉郎はみな天然理心流の優れた剣士であった。そして、本田と粕谷は佐倉順天堂の名医・佐藤泰然らと結びながら地域医療に全霊を捧げた開明医家である。
 彼らが開国・幕末・維新をどのような思いで迎えたのか。その一端はさまざまな形で明らかになっているし、その多くは永遠の謎である。だが、多摩の表現者を語る場合、米庵流の三代目・本田定年(日本三筆の一人・退庵)が、府中の渡辺寿彦と始めた『武蔵野叢誌』に触れないわけにはいかないだろう。
『叢誌』は彦五郎の長子・俊宣(歳三の甥)をはじめ、多くの多摩の青年たちに表現の場を提供した。俳句では評者・選者を彦五郎が勤めている。ところが1884年、俊宣が寄せた戯れ文が不敬であるとされ、筆者と発行人(寿彦)が逮捕され『叢誌』は発禁となった。この不敬罪の裁判では絵馬屋三世が俊宣の弁護に立っている。
 この一帯に立ち降りた文芸の気風、時代の気運とはなんだったのか。私はその匂いに触れるためにしばしば石田道の多摩河原を訪れた。リュウノウ菊の花陰、イタドリの群生、草むらから立ち上がったエゴノキやヌルデ・・・・・・・・溢れんばかりの植物や鳥たち。ところがいま、保存と称して、一帯は自然公園に化けてしまった。
 私に期待されているのは俳人・彦五郎の足跡であるらしい。が、すでに紙面が尽きてしまった。それについてはいずれ機会を持ちたいと思う。そこで今日のところは本シリーズ29で遠山陽子氏が随想を寄せている「豊玉発句集」から一句を拾って〆にしたい。
   公用に  出て行みちや  春の月
 ここでいう公用とは、名主・彦五郎に命じられた所用である。考えられるのは北の柴崎村か南の連光寺、はたまた小野路。夕景であるのにのんびりしているところから、小野路の橋本家に泊まるつもりなのだろう。とすると「公用」を名目に、酒を酌み交わそうとするうきうきした魂胆もうかがえる。
 してみると、この道は石田道ではなく、日野から南へとのびる川崎道、浅川河原の風景だろう(ちなみに「年礼に出て行そやとんひたこ」の句は石田道でのものだ)。「月は東に、日は西に」というよりも、もう少し昏い、パープルのような河原を思う。このあたりにはまだ、かろうじて多摩の自然が残っている。時代に吹いた風の一端が感じられるやも知れない。歳三の生家もすぐ近くだ。


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