BUMs'自分史


 生産管理闘争下での誕生


こんにちは! 佐藤文明です。フミアキではなく、ブンメイです。
パスポートを申請したとき、Bunmei としたら Bummei と直されてしまいました。
でも、今ではこのスペルが気に入っています。
ぼくの名前、実は両親が組合員に募集し、応募のあった数点の候補から、
両親(主に父)が選んだ(父の恩師の名に明が含まれていたから)ものです。
名前を組合に募集するなんて、今考えると変でしょう。
でも、これ、ぼくはとても気に入っています。

1948年7月25日、小西六(現コニカ)日野工場の社員寮で、ぼくは生まれました。
父は組合の執行委員で、母は婦人委員でした。
母は淀橋工場(現新宿西口公園)の工員(兼テストカメラマンのモデル)で、
同工場が米軍に接収されたため、日野工場に移ってきたマドンナでした。
両親が出会い、ぼくを生むことになった経緯は省略します。
しかしこの間に、日本の労働運動、社会主義運動は絶頂期を迎えます。

社会主義運動の理想のひとつとして、労働者自身が工場を運営し、
資本家の意思を排除して、生産から流通、販売まで、労働者が自主管理するという運動がありました。
これが労働者による生産管理闘争と呼ばれる運動で、日本においてこれをリードしたのが東宝でした。
東宝はこの戦いの間に、旧日本軍や戦前の政府を糾弾するたくさんの民主映画を製作しました。
東宝に映画フィルムを卸していた小西六(現コニカミノルタ)の労働組合も、東宝の闘いを支持。
生産管理闘争では「東の東宝、西の小西六」と称されるまでになりました。

生産管理闘争に突入した小西六で、父たちは、淀橋工場を米軍に提供した社長を糾弾。
そこで生産される航空フィルムが、中国・朝鮮のスパイ活動に利用されている事実に
激しい批判を浴びせたのです(最近明らかになったことですが、当時のアメリカ諜報機関
ーCIAの前身のアジア代表はイーストマン・コダックの社主でした)。
そして母は、婦人委員として、日本初の有給生理休暇を勝ち取りました。
母は自己主張が明確な人で、学校教育とは合わず、芸術方面で時代の先端を走っていました。
でも論理は苦手で組合が標語を募集すると、祖父(この人はまたとんでもない人ですが)にお願いし、
「立て、労働者 汝が失うものは 鉄鎖のみなるぞ」みたいなものを提出していたそうです。

生理の有給休暇は婦人委員として要求を出せ、といわれ、叔母(母の姉)に相談したものです。
叔母も小西六の労組員で、生理休暇は女性のハンディを埋めるものと考えていました。
GHQはこの特権が新たな女性差別の原因になる、として反対の意向を示していましたが、
男性労働者の合意を前提に、自主管理闘争中に合意されたことなので、GHQも阻止できませんでした。
これが戦後の女性労働運動の目標になり、その後、どこの闘いでも獲得されていくことになりますが、
自主管理の戦いが終わると、女性の就労は資本家にとってマイナスとされ、
結婚退職制などが導入されていきます(この点でGHQの懸念は当たっていました)。

当時、プロカメラマンという職業は存在せず、フィルム会社が雇うテストカメラマンの時代でした。
したがって、被写体となるモデルという職業も存在せず(ポスターなど、最終被写体は女優)、
テストカメラマンは社内でモデルを調達。その第一のターゲットがわが母でした。
週末ごとに撮影旅行する母は、職場に戻ると妬まれて、難しい時を過ごしたようです。
将来の社長の呼び声が高い男(実際にそうなった)が母にプロポーズするなど、
予期せぬバトルもあったのですが、なぜか、まじめ一筋の父が射止めたそうです。
生産管理闘争とは、職制を排除して、組合員が会社を運営するシステムです。
ぼくの名前の募集と、ぼくの誕生とは、その渦中の出来事だったのです。

ぼくが生まれて25日後、すなわち48年8月20日、東宝砧撮影所が、
米軍の戦車に包囲され、爆撃機に上空を支配されました。抵抗をやめなければ爆撃する、という脅しです。
生産管理闘争を最先端で担い、民主映画を撮影し、日本の戦後を改革しようとしていた東宝砧城が、
これによって落城しました。映画フィルムの提供していた小西六は次のターゲットだったようです。
だから東宝砧城の落城は、小西六にも深刻な打撃を与えました。
以後、徐々に小西六も自主管理の陣形を解いていきます。管理職ももどってきました。

この、生産管理・自主管理のスリットのような時代にぼくは生まれ、名づけられたのです。
もちろんぼくは、そのときのことを知りません。
でも、幸いなことに、ぼくは2歳以降のことを鮮明に覚えています。
小西六日野工場の正門前にあった社員寮には、まだ往時の熱気が残っていました。
優しい父の同僚、母の友人。みんなでつくった子ども神輿をまだ担げないぼくは、
子ども山車の上に乗せられ、一人悦に入っていました。
会社に行けば、風呂に入れてくれたり、トロッコに乗せてくれたり。
ヨチヨチのぼくをみんなが支えてくれ、父が就労している間、仮眠室で、ぼくに将棋を教えてくれた人さえいました。
3歳のぼくは、将来、将棋の名人になる可能性さえあったのです。

「家族」、自明とも思えるようなその言葉の実感がぼくにはいまひとつ分かりません(ぼくは
変な奴だといわれ、根無し草だと批判される発想を大事にして生きてきました)。
というよりも、家族よりも大事な共同性、ぼくはその中で成長してきたのです
(父がリーダーだった小西六のハーモニカ倶楽部に参加したこともあるし、後年になって父が組織した
小西六のマンドリン倶楽部でも、食堂近くの小さな舞台でぼくは演奏をしています)。
小西六の組合員は、ぼくをいつまでも組合の子どもとして受け入れてくれました。
幼稚園時代だったか、小学校の1年だったか。メーデーに出たぼくに、大きな拍手がありました。
それが何を期待しての拍手なのか。ぼくには分かりませんでしたが、応えるべき何かがある。
ぼくはそれを求めて活動してきたのだと思うし、これからもそれを探ろうと思っています。

ぼくよりもひとつ下の弟や、おなじ寮のまこちゃん(弟と同い年)は、あの時代の恩恵を受けてはいません。
でも、あのときの空気を知っているはずです。まこちゃんとは、武蔵野タンポポ団の一人、「シバ」です。
バラードを歌わせたら右に出る者のないシンガーソング・ライターで、『ガロ』の常任著者(三橋乙耶)でもありました。
いまも活動を続け、高田渡亡き後の、タンポポ団の名声を見事に支えています。
ぼくは彼と2歳のときに出会い、組合家族として育ちました。
組合に共同性が失われてからも、小学校、中学校がおなじで、他人とは思えぬキヅナで結ばれていました。が、
それはもう、生産管理時代の共同体とは異なるものでしょう。
ぼくにも往時の共同体がなんであるのかは分かりません。でも、確かなことは、
生産管理・自主管理を闘った人たちがぼくにバトンを渡したということです。
ぼくの手にはそのバトンがあります。これをどうしたらいいのか。それがぼくの人生のテーマなのでしょう。

ぼくの名は名前をつけてくれた人の思いではブンメイでした。
でも「ブンちゃん」という響きがよくない、「ブンブンと、いじめられる」と心配した母が父に進言。
ぼくは「ふみあき」と呼ばれるようになりました。しかし、ぼくの名づけの経緯を知ってから、
ぼくは「ブンメイ」で通しています。名づけの親をぼくは知りませんが、ぼくはそれを時代だと思っています。
ぼくはそれを大事にしたいと思っているのです。


日野・豊田という田舎で育つ

 小西六日野工場は天然の良水を求めての立地です。だから豊かな自然の中に孤立するような従業員共同体(後に桜町と呼ばれる)でした。最寄り駅は中央線の豊田。日野駅ともそれほど違わない、陸の孤島です。ぼくの家族は三歳半のときに八王子に引っ越したので、日野の記憶はそれ以前のものです。そんな記憶があるのか? といわれますが、あるのです。断片ではありません。ぼくはあの幼少期を一冊にする(ぐらいの記憶を持っている)こともできます。

 停電停電の毎日、父が買ってくれた鉱石ラジオの声、米軍機が隣の丘に墜落した事件、保育園にいくために、馬車しか通らない甲州街道を渡る練習。カトリック教会の保育園(現在町田にある農村伝道神学会の保育園)。あそこでは、最年少のぼくを支えてくれようとする、子どもたちの民主制が成り立とうとしていました(勝手に消えてしまった子どもを、大人たちが探し回っていたことも記憶していますが)。

 我が家から日野へ、これは甲州街道一本です。豊田へも一本なのですが、そういう認識はありません。萱を払いつつ進む、野山の道でした。やっとついた豊田駅もがけ下で、がけ側の引込み線にはいつも赤さびたトロッコが停まっている。その風景がさびしくて。が、ここではそんなことを書くつもりではありません。あるとき、父と泊めていただき、歓待された山口家に、父に代わって御礼したいと思うばかりです。まるで親戚のように振舞っている父でしたが、ありうるとしても相当の遠縁です。

 確かなことはこの家が、日本最初のビール醸造を成功させた山口ビールの末裔であるということです。飲んでみたいのは山々なれど、遠の昔に姿を消した幻のビールです。小西六、精密機械のオリエント(時計)、山口ビール、これらはみな日野台地の周辺から湧き出る清流を生命とする産業でした。蛍が乱舞する日野台地に刻まれた谷戸。手に手にうちわ持って、夕涼みをかねて蛍狩りに出かけた日々は忘れられません。

幼少の当方としては、蛍の幻影的な美しさよりも、それに見とれると田んぼに落ちる恐れのほうが強い印象を刻んでいます。蛍はたまに、我が家にも紛れ込み、蚊帳の外に止まっていたものを中にいれ、光を愛でながらまどろんだことも、少なくありませんでした。

 

このあたりのことは筆者が昔まとめたノートを、以下に掲載します。「自身の保育体験と保育環境を振り返って―日野台地での個人史」という文章の、書き出しから3分の1までの部分です(全文はいずれ、このページに手を入れることで公開したいと思っています)。

 

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カトリックの保育園

 

 1950年盛夏、2歳になったばかりのぼくは、家から1キロほど離れた丘の上にあるキリスト教系の保育園(この文章を書いて10年ほど後に知ったことだが、ここはカトリック農村伝道神学校付属保育園だったようだ。そして神学校の町田移転に伴って、いまも町田市野津田に存在する)に通園し始めた。ぼくの生家は都下日野市さくら町(当時は南多摩郡日野町日野6801)。さくら町はさくらフィルムにちなんだ町名で、小西六写真工業のフィルム生産工場を取り巻いて日野台地(当時はさくら町ではなく、日野台と呼ばれていた)の広大な畠のど真ん中に形成された企業集落の一隅にあった木造2階建ての社員寮(2棟が連なっていて、筆者が生まれた棟の名は興和寮)である。ここから保育園までの間は、一面畠と林によって隔てられ、保育園が想定する通園地域ではなかった。保育園は日野台地の外れにあったが、ここからは国電(現JR)豊田駅前に広がる集落が近かった。だからぼくは、その日から毎日、4歳になる少し前、我が家がお隣の八王子に引っ越すまで、日野台地の溢れる緑の中を独りで通園した。

 −中略(通園の経緯)―

 園は私立で、園児がほぼ30〜40人。保母さんが5〜6人で、入園資格は3〜6歳となっていた。ぼくが2歳で入園できたのは破格の措置で、「子どもが行きたいと、うるさいから」という母のたっての願いが聞き入れられたためである。それでも「せめて2歳になるまで待って」という園の側のためらいもあって、その日(2歳の誕生日翌月、8月1日)の通園開始と相成ったしだいである。もっとも園としては、ある種のテスト。大変だ、ということになったらすぐにもやめてもらおうと考えていたようだ。また、母のほうでも、独りで通園するなんて長続きするわけがない。続くだけ続けさせてあげるけど、そのうちやめることになるんじゃないか、と予測し、曖昧な気持ちを持っていた。ところがどっこい、大方の予期に反して、雨の日も風の日も、ぼくは通い続けてしまった。母が園に来たのは夕立があった日ぐらいである。他の園児たちで日野台(さくら町)方面に帰る子はいない。たった独りのぼくを2年間(正確には1年5ヶ月)も魅了した保育園とは一体なんだったのだろうか。ぼくの記憶はもういくつかの鮮明な画像を残して、薄らぎ始めている。ただ、そこが極めて魅力の多い親しい空間であったという印象だけが強く胸に焼きついている。日野といえば街道筋の宿場を除けば当時は完全な農村集落で、日野台地の上には日野自動車と小西六、その社員たちの居住地が目立つだけで、大きな農村集落もない。しかもそのどの集落とも離れて保育園があったということは今考えても理解に苦しむ。カトリック系とはいえ、教会を併設している(たぶん豊田にあったのだろう)わけでもない。食事の際のお祈りと、クリスマスを除けば、これといった宗教色もない。

 −中略(園誕生の推測)−

 方角は定かではないが、園の一方は庭からそのまま林(ぼくの印象では森)に続き、一方は草地(かなり荒れていたと思う)、他の二方は畠で、南側を大きく開いた園の教室からいつでもサトイモや麦の葉群れが見渡せた。通園の途中には桑畑や、落花生の畠。母とお弁当を持って散歩に来た見晴らしのいい草原、そして父が働く小西六の広大な芝地の脇をとおり、帰宅寸前に甲州街道を渡る。独りで通うことが決まると、ぼくは父に連れ添われて甲州街道の渡り方の特訓(といっても、右を見て、左を見て、というだけのやつだ)を受けた。後は畠道で見通しもいい。樹々の群棲を目指せば道など知らなくてもついてしまう。あぜ道は縦横に台地を走っていて、どこを選ぶかは気分しだい。のんびりしたものである。天下の甲州街道もクルマはまばらだった(というよりも通園の往復でクルマに出会った記憶がない。牛が引く荷車か馬車であった)。園は西側にスノコ敷きの玄関を持ち、両側に下駄箱が並んでいた。教室は大小二つに保母室みたいなもの(これは二階かも。いや、二階だ。一階には恐らく立ち入り禁止の園長室があったのだ。そこには南に開いた来客用の玄関がついていた。この注は2006年のいま書いている。原文を書いた1975年よりも甦る記憶ってあるんですね。つまり下駄箱のある出入り口は通用口で玄関ではない)があったと記憶している。これが一階。昼寝は二階でさせられたが、そこは広い遊戯室か何か(あるいは講堂)であったろう。教室から庭へはじかに続いており、庭には木製のすべり台、シーソー,ブランコ、遊動円木がある。巨木が多く、樹間に入れば夏でも涼しい。たぶん園は、隣接の森の一隅であったのだろうと思われる。

 −中略(園での暮らし)−

弁当は毎日持参で、昼寝は2時ごろから30分。おやつは毎日きっかり3時に出る。毎日どんなものが出たのはかよく覚えていない。ふかし芋が多かったのはたしかだ。好きだったのは時々出されるみつ豆ふうの寒天菓子。甘いだけでなく、寒天につけられた赤い色がなんともいえず美しかった。当時、きれいな色のお菓子など、めったに口にできるものではなかったからだ。子供の服や建物にも色はない。色といえば遊戯室を飾る少々色あせた折り紙ぐらいのものだった。弁当はいつも中を見ず、食事時に開けるのを楽しみにしていたが、特に感動した記憶はない。母が病気でもすると父が作るのだが、これはいつもおなじで開ける前から中身がわかる。並べ方さえ決まっているようで、正確ではないが今でも思い浮かべることができる。これにバリエーションを加えたある日の弁当を保母さんが覗いて、「綺麗ね」というから、「お父さんが作った」といったらやけに褒められたのを覚えている。それが唯一、保母さんに対する鮮明な記憶だ。

 

子どもこそ天下

 

 ぼくの園での生活の記憶には保母さんがほとんど登場しない。ほんの数回、父が園でのぼくの様子を見に来たことがあるが、園内で成人の男の姿を目にしたことがないから珍しい父親であったのだろう。保母さんには大人気で、そのたびに全部の保母さんと長話をしていく。やはり気になるのだろう。ぼくは保母さんの顔色を窺って安心する。そのときの保母の笑顔程度しか覚えていない。父にはいつも「来るな、来るな」と言っていたらしい。母に対しても宋だが、なにかこう、いいしれぬはずかしさがあった。

 園長は男だった。ふだんは居ないのだと思う。ぼくが園長を知ったのは、子どもが行方不明になった事件のときだった。子どもたちも捜したが、見つからない。迎えの母親たちも心配で居残り、園には遅くまで明かりがともっていた。園長らしき人が指揮している間に、だんだん男たちが増えてきて、園はすさまじい緊張感にみなぎった。そのうち「いたぞぉ、めっかったぞぉ」と言う声がどこからか響いて、「よかった、よかった」という安堵の声が津波のように押し寄せて、緊張感を押し流した。豊田方面で発見したそうだが、それ以上の情報はぼくの関心外なのだろう。もちろん何も覚えていない。

 −中略(母の迎えを待つ日)−

 独りで毎日2キロの道を…といってもぼくの中でこの距離は倍になったり4分の1になったりする。天気の悪い日はとっても寂しくて、道も遠かった。晴れた日は沿道のすべてが友達だった。ことに、顔見知りのお百姓さんがたくさんいて、挨拶するのが楽しかった。朝はもう出ていて、帰りにもいた。虫の話や落花生の話など、いろんな話をした。聞けば仕事の手を休めて、何でも教えてくれる人たちだった。芋が取れたといえば芋をくれ、ナスが成ったといえばナスをくれた。時には保育園にも作物が届いた。

 土の中から落花生が出てくるのを見せてくれた。説明もされた。しかし理解できていなかったのだろう。以来ぼくは、落花生は土の中で育つ豆、と信じていた。3歳のぼくだから、ややこしいことはわからない。それは当然のことだ。が、その子に向かって、いろいろ教えてくれようとする人たち。こういう人たちの目線のおかげで、ぼくはもっとも豊かでもっとも安全な通園を果たしたのである。

 園での公式カリキュラムについてもあまり記憶はない。昼寝やうがい、手洗いに厳しかったのはたしかである。食事の前には「天にましますわれらの神よ、願わくばわれらに……」といった、園児には意味不明なお祈り。よく歌った歌は「ベツレヘームの馬小屋で、われらが主のお誕生。羊よ急げ、メー、メー、メー」なんてやつだった。七夕やクリスマスの前には折り紙を切ってチェーンを作ったり、細かな刻みを入れてネット状にしたりしたが、最初は楽しいが飽きが来ると義務的になってくる。それなのに家に帰ると自慢気にまた作って見せて、園と家とにおなじ飾りつけがされるのだから世話はない。母は、その日、園での出来事をすべて報告させた、という。聞きたい母の思いはよくわかる。そして恐らくそのおかげでもある。ぼくの豊かな記憶は、母によって培われた。

 ―中略(きのこ狩り・自由時間)―

 ぼくが2歳で通園するに当たって、両親や保母さんが心配したのは、ぼくの肉体的なハンディキャップだった。たしかに園でもケンカは絶えることなく、ぼくにもイジメラレタコトガアル程度のほのかな印象は残っている。しかし、それよりも強く残っている印象は先輩の園児たちに助けてもらったことである。ことに園1のワンパクとされていた某君は,終始ぼくの庇護者であった。園は子どもたちの自主的な結合によって、完全にバランスが取れていた。彼は単に、ケンカのときの庇護者であるばかりではなく、いろんな遊びを教えてくれる兄貴でもあった。ぼくはよく、彼の後をついて回ったが、そのころ仲間内で流行っていた艶出しドロ団子の作り方を教えてもらったことは鮮明に思い出せる。彼の経験によれば、園内でもっともいい艶が出る土があるのは玄関の裏手(通用口の裏手)で、そこは秘密の場所であるという。ぼくと彼とはそこでこっそりドロをこねていた。艶出しは根気の要る仕事で、いつも団子は持って歩かねばならなかった。ひまっさえあれば磨くのである。

 女の子にはサトイモの茎を使った首飾りの作り方などを教えてもらった。筋の多い表皮一枚を残して茎を折るのだが、これはなかなかむずかしく、まだ器用さの足りないぼくの指ではどうしてもどこかで切れてしまう。延々と広がるサトイモ畠の前で、これまた延々と失敗を繰り返すぼくがいた。考えてみると、作物を痛めているのに注意もされず、おなじ畠のお百姓さんからも作物が届けられるのだから悠長な話である。もっとも、上納作物の前口上は「子どもたちが作物を大事にしてくれるお礼」だそうだから、保母さんもお百姓さんも気にはしていたんだろう。しかし、ともかく主客は転倒していて、ここでは子どもこそ天下であった。

 

 

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 この話はこのあと「コミュニティーの解体」→「喪われた故郷」と続きます。子どもこそ天下、という子育て環境が激変していく日野台地の観察をベースに、よりましな子育て環境を考えます。が、この流れは自分史とはやや離れたしまうので、再び、自分史に還ります。




シスターボーイのいじめられっこ


いろいろ考えさせられる時期だったのですが、ここでははしょります。

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 興和寮の角部屋の2DKが我が家でしたが、当初ここに祖父(父の父)が同居していたそうで

す。
八王子にあった店舗(そば屋)が空襲で焼け、一時避難だったのです。
が、母を嫁扱いし、タバコ盆さえ自分では取らず、母に命じたようです。
母はぼくを産むと、それまでの態度を一変し、祖父の態度は「子どもの教育によくない」と主張
しました。親をかばう父に対して、離婚の通告をした母は、復縁の条件に、祖父との別居と、
子どもの教育は母に任せることを提案しました。
 第三次世界大戦もありうる時代に、母は女の子の誕生を望みました。
わが子が戦争にとられることが許せなかったからです。ところが、生まれたのはぼく。
男の子でした。母は次の抵抗として、男らしい男、戦場に勇躍していく男、家父長制を疑わない男との
戦いを鮮明にしたのです。
 母はちゃきちゃきの江戸っ子(新宿生まれですが、それ以前の5〜6代は神田の生まれです)
。キップのよさでは男勝り(この点では母の母がもっと上を行きます)でした。父は全面的に母
の要望を受け入れ、祖父に退去を願い出たそうです。
 恐らく、当時の世相から見て、これは大革命だったのだと思います。
日野・八王子は父方親族の本拠地で、母は悪い嫁とされ(その結果父も)、親族行事から排除さ
れます。おかげでぼくは、親戚といったものを意識せずに、成長することができました。
 これは母の母、すなわちぼくの祖母の話ですが、祖母は『青鞜』の親派だったようです。
その思いが母に伝承し、いまのぼくを作るようになったのでしょうか。
 祖母は5・15事件のとき、首相婦人が主宰するパーティーに列席していましたが、
パーティーの参加条件は洋装であること、ストッキングの最上部に青いリボンを結ぶこと、この
2つでした。ブルー・ストッキング、すなわち『青鞜』なのです。
 それはともかく、母の教育は厳しいものでした。武器に関わるおもちゃは許されず、
鉄くずを売って密かに買った拳銃も、見つかるのを恐れて土中に埋めました。
何日たったのか、掘り返してみると檄鉄が錆ついて、動かなくなっていて、くず鉄になってしま
いました。
 当時のぼくのあだ名は「シスターボーイ」、女っぽい男をこう呼んだのですが、ぼくはそれを
蔑称ではなく尊称として受けとめました。我が家ではそれで問題はなかった。
 しかし荒っぽい多摩弁に対して、ほぼ標準運語に近い丁寧な語り口(これは先生にも受けたた
め、ますます反発の対象です)。袖口が鼻水で光るような服装に対して、白いシャツに黒いスト
ッキング・半ズボン。おまけに音楽部でウイーン少年合唱団にも負けないボーイソプラノです。
 猛烈ないじめ対象になり、登校拒否をしたこともありますが、いじめられっこを統率していましたし、
女の子には人気があった。引くに引けないところにきて、最大のいじめっ子と早朝の決闘になり
ました。自分でも予想外の結果で、勝利者はぼくでした。小学校4年の冬のことです。
 5年生の春、別な集団から「ぼく」ではなく「おれ」と言え、と迫られ、一度だけ「おれ」と
名乗ってみました。が、この違和感、屈辱感は今でも忘れません。以来ぼくは「おれ」と名乗っ
たことはありません。
 6年生の終わりに、母が「中学になったら、小遣いとは別に毎月本を一冊買ってあげる」と言
われました。『車輪の下』とか『トーニオグレーテル』『狭き門』『野菊の墓』など、
たいがいの青春小説は読んでしまっているぼくは戸惑い、母に参考図書を挙げてもらいました。
 母が挙げたのは2冊。スタイン・ベックの『怒りの葡萄』、パール・バックの『大地』でした
。前者は資本主義の過酷さ、後者は家父長制の悲惨さをみごとに描いていました。
 この2冊は、今でもぼくの思想的な原点であるように思います。



婦人補導院と三田つね子

  病気がち(2ヵ月に1回は病欠していた)で、体格も貧弱(2年生まで身長はクラスで前から2番目でした)。しかも生意気(正義感が強く、すぐ悔し涙を流す)で、都会っ子気取り。これらもいじめを構成する要素だったと思います。でもぼくには意地があり、1年生のとき水泳教室で、だれよりも遠くに飛び込もうと思いました。たぶん成功したのでしょうが、胸をしたたかに打って、そのまま泳ぐことができませんでした。
 今度こそ、と考えていたらツベルクリンに陽性反応が出て、1年間の水泳禁止。次に泳いだのは2年生の7月で、みんなが泳ぎ始める前でした。小西六でマンドリンクラブを立ち上げた父は慰問活動に力を入れます。八王子でも同様の組織をつくり、栃木刑務所(女囚刑務所)に呼ばれました。その刑務所長が三田つね子。女性官僚のトップランナーで、全省庁でただ一人の部長級キャリアでした。
 彼女の次の赴任地が偶然にも我が家に近い東京(八王子)婦人補導院。売春防止法違反を犯した女たちの矯正施設です。父はここで、矯正の一環としてマンドリンを通じた音楽情操教育を任されたのです。その日、なぜ母が居たのか(多分、院生の作品のバザー準備ではなかったか、と思っています)、はっきりしないのですが、父とは別に行動し、ぼくは院の防火用水で泳ぎました。母が「飛び込みを見せて」というので、今度は近いところにもぐろうと思いました。そのため水底に頭を打ちつけ、コブタンを作ってしまいました。以後、しばらくぼくは飛込みが苦手(水泳はまずまず。足から先に泳ぐならオリンピックか、という変なやつです)でした。
 なんてことを書こうと思っているわけではありません。婦人補導院のことです。ぼくはこの日から、院の行事に、父に従って参加するようになったのです。主要な行事は新年会、ひな祭り(これを行事にするのは疑問ですが)、盆踊り、クリスマスです。当初はパーカッション。といえば格好いいか。カスタネットやタンバリン、トライアングルでのマンドリン演奏参加です。盆踊りでは主役に近く、小さなやぐらにただ独り登って、大太鼓のバチをふるいました。
 いうまでもなくほぼ全員が女性。男性は父とぼく。男性警備員が二人いましたが、行事のときでも姿を見せませんでした。やがてぼくも院生に混じってマンドリンを弾くようになり、長じては、覚えたフルートで、行事におけるマンドリンクラブの演奏に花を添えました。この活動は高校2年まで続いています。
 なぜ手を引いたのか。言い出したのはぼくですが、すぐ父も理解しました。受験準備などということではありません。院生がぼくを男としてみるようになったからです。クラブ員(合同練習があったので、問題は感じませんでした)以外の院生のざわめき、ささやき、視線が厳しいものになってきたのです。院長もこれをすぐ理解しました。

 三田つね子、彼女はそのころ、男女平等、女権回復におけるマスコミの寵児になっていました。このテーマの放送には欠かせない人物で、女性の力と、ガラスの天井(女性が味わう見えない差別)について、とうとうと語る人でした。彼女がぼくになにを期待したのか、明確にはわかりませんが、ぼくが長ずるにつれて、院長室に呼ばれ、茶飲み話をされるようになりました。
「美しい曲ね、音楽は性別を超えているから、素敵なのよね」などという話(これには異論がありますが)から、ぼくが期待されていることがそれとなくわかってくるようになります。
 ある日、院生の退院に出会いました。ポーチからクルマで八王子の駅に向かうのですが、25、6の院生が何度も腰を深々とかがめて挨拶していきました。見送りのぼくも、皆に合わせて拍手して送り出しました。クルマの影が見えなくなると、隣りで拍手していた院長が、ぼくの肩を叩いて、院長室に招きました。
「あなたならわかってくれると思うから、お話します。彼女は立派に退院しましたが、これから先、どうやって生きていくと思いますか」「……」「もし彼女を尾行したとすれば、1週間で捕まり、一ヵ月でここに戻ってきます」。
 あまりにすごい話で、ぼくの頭はぐるぐる回りました。突込みができる話でもなく、やっと一つの質問にたどり着きました。「その確率って、どの程度なのでしょう」。「ちゃんとした統計はありません。でもわたしは7〜8割だと思っています。言うまでもなく彼女たちが悪いわけではない。ほかに生きていく方法がないのです。更正の道を探っても埒が明かず、昔の人脈に頼るしかないからです」
 この時点で、ぼくは院長が言おうとしたことのすべてを理解しました。でも、それだけではあまりにも悲しいので、ここで何年も見てきた矯正事業、ミシンやレース網、その他の手仕事。母がバザーで少しでも貢献したいと思っていたことについて聞いてみました。「ああした社会復帰事業って、役には立たないんですね」「そのとおりです。だからわたしは、ここにマンドリンクラブを作った。わかってくれますか」
 三田つね子は、ぼくがわかってくれると思ったから、こういう話をしたのです。で、ぼくもそれがわかっていたからこういう質問を返したのです。父と院長とはその後も交流を続け、作家・佐藤愛子(院長の友人)の息子にマンドリンを教えたりしています。数年後、三田さんは退官し、『青衣の下の性』という著述を刊行しました。ぼくは大学生協でこの本が平積みになっているのを知っていましたが、買うのをためらいました。
 時代を前に向けて変革しようとしているときに、読むべき本だろうか。ぼくは三田さんに別なことを託されていたのではないのか。そう考えたからです。女性が置かれている社会的条件、性を売るに至った女性の社会・経済環境。それらをどう変えていくか、ということです。そのころ、ちらりと考えていたこと。それが彼女から生まれた子どもたちのことでした。


ある番長との出来事


 ぼくは幼稚園はもちろん、小学校、中学校で優等生でした。その理由は単純で、両親の思想に忠実で、それが当時の社会思想にマッチしていたからです。教育は母が仕切る。父はえらそうにしない。我が家は他のさまざまなことを含め、理想化されたモデル家庭でした。さまざまな、ということをここで書く余裕はありません。が、あえて言えば、化粧をする母、おしゃれを気に掛ける父、標準語を完璧に話せるぼく,ということでしょうか。
 これを書くだけでも大変です。「三丁目の夕日」八王子版が出来上がってしまいます。
 母は近所から狸といわれ(化粧をする女はみな狸なのです)、おなじように狸と呼ばれた母子家庭(昼間駄菓子屋、夜キャバレー)の朝鮮部落の美人母親と仲良くなります。その子は中学の番長。中学後半では学業トップになったぼくと親しかったのです。彼の犯行は増長し、ぼくの友人たちをも巻き込んでいきます。先生たちが説得する力もない。彼らを説得できるのはぼくだけでした。
 あることで、その依頼を受けたぼくは、先生たちの申し出を拒否しました。
「ぼくは彼らの友人です。先生ではない。裏切ることはできない」ということで(もっと正確に覚えていますが相手が複数なのでここでは省略します)先生たちも納得しました。
 この先は先生たちも知らない密室での出来事です。

 ある日、この番長がぼくも懇意の同級の美しい子にラブレターを書いたのです。彼女にほれたのです。困惑した彼女は衝動的に破った手紙をぼくに見せました。放課後、相談したいことがある、ということでした。当然のことながら、ぼくはその手紙をつなげて読みました。
 その結果、ぼくは彼女に「返事を書くべきだ」と応えました。冗談でもない、遊びでもない、まじめな思いのたけでした。こういう文章を書ける人なら、あなたの返事、あなたの心も読めるはずだ、とアドバイスしたのです。その後、彼女がどういう反応をしたのか知ってはいませんが、その日、その直後のことは了解しています。
 彼女の相談を受けていた教室は、番長の子分によって完全に包囲されていました。廊下からトイレにいくこともできなかったのです。でも、教室は一階で、窓から飛び降りることは可能でした。彼女は「あたしは大丈夫。だから逃げて」といいました。「ぼくが逃げる?そんなことは絶対にない」、ぼくは大見得を切りました。中3の青春真っ只中でした。
 それからほぼ1時間、ぼくは彼女と人生の四方山話をしながら、窓から逃げるという屈辱を回避しました。子分たちに「おまえら、いい加減にしろよ」といったら返事がなく、ぼくらは通常の帰宅(もちろん、ぼくは彼女の家まで送りましたが)を果たしたのです。
 この番長に対しては近隣なので、さまざまな情報が入っていました。彼の秘密を知ったぼくは尾行されていたようですが、前出の問題は生徒間の問題。学校や保護者とは関係ありません。彼女もそれを理解していました。彼女(ボーイフレンドはぼくの親友で、読売新聞八王子支局長の息子でした)もぼくも、このことでだれかをチクルなど、考えてもいませんでした。
 中学卒業後、危険といわれる路地を夜中に通りました。カツアゲでもしようと思ったのか、ぼくは10人ほどの男に囲まれました。この危機をどう脱出するか、ぼくの頭はフル回転していました。そのとき、予期せぬ横槍が入りました。「おまえら、そいつをどうしようというんだ。そいつはオレのダチこうだぞ。指一本でも触れてみろ、オレが許さん」それがあの番長でした。
 数年後、不法占拠といわれていた一帯の朝鮮部落は姿を消しました。以来、ぼくは彼の消息を知りません。


付録・ディア・ピョンヤン

 以下は付録で、昨日(2007・4・26)、ぼくは下高井戸シネマでドキュメンタリー映画「ディア、ピョンヤン」(梁英姫監督作品)を観てきました。朝鮮を理想の祖国と考え、帰国していった家族の物語です。第1次帰還船が出たのはぼくが小学校5年の12月のことです。なぜそんなことを覚えているかというと、ぼくの仲良しの友達が三学期になると姿を見せず、先生が彼の本名と、日朝の歴史、南北の対立、帰還船によって彼は家族ぐるみ、北へ帰ったことを話したからです。
 彼がなぜぼくになついたか、今ではよくわかります。ぼくは親の教育のせいか、差別感情とは無縁でした。ぼくの友達の多くは、いま考えればなんらかのハンディーを背負っていました。ぼくは彼らと仲良くしてきたのです。帰還した彼の家は線路際の空き地を占拠していた廃品回収業者(当時はくず屋と呼んでいた)でした。そこは子どもにとって夢のような空間で、ぼくらはよく、廃品の中を飛び回って遊びましたが、同級の子がだれもいなかったことを、今になって気づかされます。彼の帰国後、この一帯も整地され、その一角に、卓球場が建ちました。



 初めての反抗

 ぼくの幼少期は、生徒間で厳しいものはあったけれど、社会の主流(大人世界)では、いつも
優等生、模範生。ほめられ続けた存在で、母が着ていきなさいと言ったセーター(つまり、学生
服を着なかった)を「派手すぎる」と、注意しようと職員室に呼びつけた先生さえも、「母が着
ていきなさいといった、この服のどこが悪い」というぼくの態度に口ごもり、話題を変えたぐら
いです。その社会に反抗する必要はありませんでした。
 ぼくも時代のすべてを受け入れ、素直に育ったのです。ぼくが育った八王子最後のナンバース
クール、八王子7中は満杯になった八王子の隣村、横山村に敷地を確保した学校です。ぼくらか
らは遠い山の上の学校でしたが、近隣の住民にとっては、わが村にありながら入学できない隣接
市の、うらやむばかりの模範新設校でした。ぼくらが入ってようやく三学年が成立した、という
中学で、先生は若手ばかり。戦後民主教育に情熱を捧げていました。
 その中に異色の教員がいて、ぼくが入部したブラスバンド部の顧問でした。当時、ブラスバン
ドの機材をそろえる、ということは大変な予算を必要としたもので、市の教育委員会と繋がり、
八王子4中にブラスバンド部を開設させた豪腕音楽教師でした。ぼくらは市から予算を頂くバー
ターとして、市の行事に積極参加するという合意を飲まされていました。
 第一回八王子市民際の先頭パレード、八王子市民会館のオープニング記念演奏会など、晴れが
ましい舞台をそのまま疑わないぼくがありました。4中、7中動員の市行事の多くは、スポーツ
大会などでの「ひのまる」掲揚に際して演奏する「君が代」でした。これに次ぐものが表彰式な
どに奏されるパーンパーカパーンパ、パカパカパンパンパーンで知られる「栄誉礼」で、この2
曲が圧倒していました。
 学校では朝礼時に全校生徒を見下ろす高台に陣取って、終了後にスーザーのマーチ(海兵隊、
士官候補生など)を演奏。生徒を行進させて、教室に誘導していました。これではまるで軍隊で
すが、ブラスバンド部は部としても、マスゲームなど、演奏しながらの分列行進に身を入れ、軍
楽隊同様の訓練を行い、運動会などに披露していました。ぼくは指揮棒(タクト)を振ったり、
指揮杖をふるったりすることを栄誉と感じ、疑いもしませんでした。

 こんなぼくを目覚めさせる決定的な出来事が2年生の2学期に起きました。市の行事をこなす
ためなのか、この音楽教師は部員を模範生に限っていました。2年生の1学期にはぼくの小学校
時代からの友人が、練習を怠る、ということで退部させられます。が、おなじパートのライバル
(楽器の数に限りがあり、野球で言えば一軍二軍の関係が生じるのです)だったため、ホッとし
た気分があったのも事実です。
 が、別なパートのUくんが素行不良で退部させられたとき、U君と仲のよかった女の子が、同
学年の女性部員を結集。部長になったぼくにUくんの復部運動をするよう申し入れてきました。
「Uくんはクラブを続けたいといっている」「続けさせてくれ、と泣いている」「中学校の部活
は優等生だけのものじゃない」「指導教師が独断でやめさせるなんて許せない」というもので、
その言い分すべてを正しい、と感じました。ぼくは同学年男子に諮り、復部運動への賛同を得た
うえで、先生との復部交渉を開始しました(優等生である上級生は高みの見物をしているだけで
した)。
 まったく受け入れようとしない先生に対して、先生がアルバイトでやっている「ピアノ教室」
(壮大な規模の教室で、教員給料の10倍ほどの収入があったはず。これが本業といってもいい
ほど)の発表会(八王子市民会館貸切)を邪魔しに行ったことさえあります。さまざま抵抗運動
(単なる反抗に近い)をやったのです。三年になって、圧倒的な支持を受けて部長に選出された
ぼくでしたが、ぼくを退室させて部員を説得した先生は、部長に同期の別人を指名しました。
 もっとも、彼もぼくが信頼する友人の一人だったので、復部運動が終わることはありませんで
した。ぼくと彼とはマンドリンとギターによる新たな音楽を模索し、練習しあっている仲なのです。
この、裂けない関係を先生は理解していませんでした。音楽とは、先生をトップにした、何がしかの
秩序でなければならなかったのです。音楽はそんなものじゃない。ぼくはもう怒る気も失せていました。
 しかし、父が主宰する八王子マンドリン・クラブの活動を鼻先であしらい、ピアノ、クラッシ
ックミュージック優先の思想を前面に出す先生に腹を立て、学科テストで選んだ独唱曲は映画主題歌
倍賞美津子が歌うことで流行歌にもなった「下町の太陽」です。
 何を考えたのか、先生はぼくの歌唱を模範として、その録音を全校放送に流し
ました。ある種の懐柔策、和解工作だったのでしょうか。でも、1学期の終わりころ、ぼくは切
れてしまい、退部を表明しました。
 退部自体は個人的なことでした。ところが、この話がどう伝わったのか。その後ぼくは多くの
先生(ぼくと関係がある全先生と言ってもいい)に思いとどまるよう説得を受けました。「あな
たの主張は間違っていない」「応援するから逃げないで欲しい」「われわれもあの先生に対して
は日ごろから問題を感じている」「日の丸・君が代・軍隊教師には抵抗感がある」「あなたがク
ラブを続けてくれることが私たちの願いだ」
 「ああっ、いまさらなにを言っているんだ」と、いまなら言える。なぜもっと早く、復部運動
に協力してくれなかったんだ。Uくんはもう復部をあきらめ、番長グループに加わって、学校と
の全面対決に移ってしまっている。でも、その怒りはぼくの口からは出なかった。「そこまで期
待されているのなら、退部は見送ります」と。これですべてが終わりになった。その結果先生た
ちがどうしたのかを、ぼくは知らない。
 ただ、ぼくの人生での最初の反抗は、期せずして、日の丸・君が代の押し付けに反対する民主
的な教師たちとの出会いになっていたようです。彼らの何を刺激したのか、ぼくにはわかりませ
んが・・・(日教組はそのころから勤務評定反対闘争などを契機に日の丸・君が代などへの反対
を鮮明にし始めていました)。
 それから30年後に開かれたクラスの同窓会に、担任(彼もバリバリの民主派体育教師だった
)とともに、なぜかその音楽教員が参加しました。そして参加者全員に向け、当時の先生の態度
を謝罪したのです。何を謝罪したのか、参加者のほとんどは意味不明だったはず。謝罪の言葉と
同時に先生と目が会ったぼくは、軽く、しかし深々と会釈しました。
 同じクラス会に、最初に復部運動の申し入れをしてきた女性部員のうち2人がいました(Uく
んの彼女を含む)。二次会にも参加したのですが、彼女たちとこの話はしていません。ぼくはた
だ30年という歳月の長さを、しみじみとかみしめていました。


憧れの白血病と交換日記


 ぼくの初恋は6歳のときです。近所の2歳上のかわいいというより、きれいな女の子でした。
でも、ぼくとしては容姿より、声に惹かれたように思います。小学校に入ると、彼女は引越し、
同級生でもっともかわいい女の子、Mさんと仲良しになりました。偶然なのですが、身長順に並ぶと、ぼくと彼女は手をつなぐことになります。彼女は八王子の医薬品医薬外品卸会社社主の娘で、ものすごい家に暮らすお嬢様でした。貧しい当時、ありえなかった世界が開けました。
 お誕生会、クリスマス会。そんなパーティーなど、だれもやれなかったころに、ぼくは「お呼ばれ」されました。したがって、彼女は屋敷中の主役。ぼくは招待された準主役でした。情けないことに、ぼくの文房具はすべて、彼女がくれた医薬品メーカーの拡販材料で占領されました。ノート、下敷き、消しゴム、筆箱、鉛筆などなど。そのほか、石鹸、紙石鹸、石鹸箱、歯磨き粉などの生活用品も自由に手に入りました。「まだある?なかったら言って」と、彼女がチェックしてくれるのです。新しい時代、というのか、それにマッチしていたぼくはモテました。おそらく母が吹き込んでくれた都会の風(母の本籍は神田、生まれは新宿花園町ですが、そういう事実よりも、おしゃれ哲学を持っていて、映画とファッションを中心に世界の芸術文化に興味を持っていたことが、この風を生んでいたのだと思う)なのです。
 でも、それこそがいじめの対象なのです。ぼくはたぶん外部闖入者だったのです。

 小学校2年のときでした。ぼくらはいつものように、手をつなぎデートを楽しんでいました。ところが、それを許さない男の子たちに包囲されたのです。いじめられっ子のぼくの最大の武器は逃げ足。フットワークです。包囲網などなんとも思いません。ぼくを捕まえるのは不可能です。でも、彼女(Mさん)を残すわけにはいかない。たぶんこれがぼくの社会性の第一歩です。彼女をまず帰してもらって、ぼくは糾弾を受けました。彼女の安全が確保できたら、あとはぼくの勝負です。逃げるための勝負です(このときは怖かった。本当に怖かった。いじめは同級生だけれど、これはまったく知らない上級の相手なのです)。女の子といちゃつくことを許さない、危険な文化のようなものを感じました。
 その後のいじめも似たようなもので、ぼくは風の又三郎を気取って、超えていきました。

 Mさんはなぜか学区外通学で、三年生になって本来の学校に転校していきました。直接には何の関係もないのに、Mさんが空白になったため「やーiい、やーい、佐藤の彼女」といった調子で揶揄の対象になったNさん、Kさん、ごめんなさい。いじめっこが、ぼくを直接いじめられなくなったため、でっち上げた噂です。こんなものはもう、ねたみで、ぼくにとっては痛くも痒くもないことです。Nさんは6年生になるとき、父親の転勤によって転校。それからはKさんがターゲットでした。中学に進学してしばらく後、通学路に面した高校の校舎の壁面(二階建てモルタル校舎の妻)いっぱいに、巨大な「あいあい傘」が出現しました。
 ぼくの名と、Kさんの名を土で記したもの。だれがやったのか、推定はできます。しかし、どうやって書いたのか想像がつきません。大きすぎるからです。そのためでしょう。高校の側も消し去ることができず、何年も放置されました。ぼくは卒業するまで、ほぼ毎日この前を通ったのです。Kさんも1年間はそうでした。でも、2年生になるときに転校していきました。彼女の転校理由は知りません。キップのいい彼女は、そんないたずら書きを気にする様子もありませんでした。ぼくが背負わなければならない何かがあるとも思っていません。竹を割ったような性格の彼女。もっと話をしておけばよかったと、悔やまれるばかりです。
 
 中2のとき、ぼくに関心がある他校の女子たちが我が家を襲ったことがあります。母の合意を受け、みんなと対面しました。20数人の中に、気になる子(この学校にはMさんやMAさんがいたのですが、彼女たちが来たわけではありません)もいましたが、可能な限り差別なく対応しました。だから、主宰のIさんにも、特別な感情を抱いていませんでした。あまりにも数が多いので、家に上ってもらうわけにもいかず、路上で話をしたわけですが、夜は暗く、遅くなりすぎる前にお開きにしました。
 
 ぼくにとって特別な感情はIさんグループより、同級のUMさん、SYさんにありました。UMさんとMさんとは前述のとおり親戚です。SYさんは両親が、ぼくの両親と同職場。小西六の生産管理闘争時代からの同僚です。だから家族ぐるみで歓迎される男女関係でした。可愛いだけ(これはウソ。頭が切れ、ぼくと彼女はクラス対抗の弁論大会の代表となり、原稿をいっしょに考えました。100メートルも離れていない家同士なので、毎日のように双方の家を行き来し、弁論を煮詰めたのですが、アイディアの過半は彼女のものでした)のキューピーは、高校時代に化けていきました。かわいい女が、美しい女に化ける。この不思議をぼくは毎日味わっていました。ぼくは高校は違うけど、おなじ路線で通学できるラッキーボーイ。ある日から、おなじ電車に乗るようになりました。毎日の会話、腕組。彼女は学校を超えるマドンナだったので、ぼくらの存在が怪しいものにも見えました。ぼくも幸せを感じたのです。
 だからぼくはSYさんに、最大級の感謝を捧げます。というより、ぼくの高2までの人生を捧げます。ある日、彼女と会えなくなり、父から脳腫瘍であると知らされました。病床の彼女の治癒を祈って(一度平癒し、再入院してからです)、ぼくは左腕に傷をつけました。彼女が治ったら、ぼくもその必要がなくなる、という呪文です。このこと事態は誰にも話したことはありません。しかし、彼女の葬儀では、ぼくは特別な存在でした。両家両親公認の恋人で、出棺の最後まで恋人として立ち会いました。いろんな事情(彼女のにほれる男の幾人かはぼくの親友でした)で、発言したことはなかったのですが、ぼくは彼女が好きでした。愛を語り合える人でした。
 小西六の「父の同僚の娘」が世を去ったのです。SYさんの父親が撮った自慢の写真、アルバムを見せていただきました。めちゃくちゃにかわいく、とてつもなくきれいでした。父親の愛情が、一枚一枚の写真に溢れかえっていました。写真が欲しい、といったら喜んでくれたでしょう。でもぼくは、現実の彼女の思いを大切にしようと思いました。息づいている彼女の素晴らしさは、写真を越えていたからです。

 当時、「マコとミコ」という歌が流行っていました。ミコが不治の病(白血病)に倒れる物語で、映画にもなりました。

 ぼくが滅入っているそのとき、Iさんから、会いたいという手紙をもらいました。深刻そうでしたが、SYさんとの物語に浸っていたぼくは、「少し待ってくれ」と返事しました。ぼくが知ったのは事件が起きてから5〜6日後ですが、彼女は手紙の数日後に自ら命を絶ったそうです。同い年の女性の命が相次いで散ったということは、ぼくにとって、深刻な事態でした。そのため表面的に仲良しが続いていたUMさん(高校もおなじ)との関係も冷えていきました。ゴメンナサイ、ゴメンナサイです。
 このぼくを救ったのは高校の同級生・YYさんでした。何がきっかけだったか思いだせません(当時、日記をつけていたので、読み返せばわかるかもしれません)が、ぼくらは交換日記をつけ始めました。みんながうらやみましたが、甘い男女の日記交流というより、異性では気づきにくいことの意見交換で、時には論争もありました。いまではぼくの間違いに、恥ずかしさを覚えるようなものもあります。ぼくはむずかしい心の変動期(思春期ともいう)に、素敵な仲間を手に入れたのです(デートをしたこともありますが、恋人というよりは仲間でした)。アリガトウ、アリガトウです。
 彼女は時に厳しい批判者でしたが、ぼくが高校時代に闘った二つの抵抗運動の理解者でした。学校側の裏情報などを教えてくれたのです。2年生で始めた交換日記は卒業まで続きました。ノート4冊になったため、2冊づつに分けて所持することにしました。ぼくの女性に対する理解(女性一般という発想も、考え直すようになっています)は彼女によってはぐくまれたものが大きいと思います。

 当時、「交換日記」は男女の憧れでした。でも、ぼくらの日記ほどシビアーなものは少ないと思います。最高の経験でした。




高校時代の二つの抵抗運動


その@ ベトナム戦争反対

 高校は都立立川高校で、米軍立川基地の滑走路の真下にありました。
ベトナム戦争が本格化すると、米軍の物資をベトナムに空輸するため、
グローブマスターという巨大な輸送機が就航。急上昇ができないため、
校舎を嘗めるように飛び、下からは轟音とともに巨大な腹の機影が、
ひっきりなしに姿を現すようになります。
 そのたびに授業は中断され、ぼくは、中断の原因を考えるべきだ、
と主張しました。そのほうが授業よりも大切だ、と主張しました。
これをうけいれる先生は多く、よく、近くの多摩川河川敷に行って、
クラス討論会が開かれました。先生を挑発するのはぼくの役目。
「今度の授業は討論会にしたいから、佐藤、たのむぞ」といった声を受けて、
先生の思想や性向に応じた「挑発」論争をやって見せたのがぼくでした。

 ぼくにとって、ちょっとした悪ふざけに近かったのですが、事態は違ってきました。
ベトナム戦争は現実で、包帯洗い(実際には医療衣や患者のリネン)のアルバイト
が募集され、応募する女子高生があったり、立高にもいるという噂がありました。
授業を寸断する轟音対策として、東京都は防音校舎化の予算を計上。
立川高校が最初の事業対象になります。この工事のため、1年の三学期は悲惨でした。
 間仕切りで講堂を4分割した教室での授業。ストーブの熱は直射のみ。
対流熱にはならないので、めちゃくちゃに寒い思いをさせられました。
で、その結果できあがった二重窓の防音校舎は轟音のレベルを下げただけ。
授業は確保できましたが、音が封じられ、声、のどが異様になりました。
かつてコーラス部にいたブラスバンド部員、これを感じたのはぼくだけです。
実際ぼくの声は少しおかしくなってきました。
 同様の防音校舎化に政府補助がついた国立音楽大学の学生会が、実態調査に訪れ、
ブラスバンド部のぼくがその案内役に指名されました。
 ぼくは具体的に録音を撮ってもらいながら、音はダメです。声もダメです、と指摘。
防音校舎と音楽とは相容れない、と訴えました。ベトナム戦争をやめ、米軍の
勝手な飛行を阻止することこそが根本的な解決なのだと主張したのです。
 
 その年の秋、立川と姉妹都市であるアメリカのサン・バディノ市とが恒例の
交換学生を迎え入れることになりました。すでにアメリカ側も、立川の男女高校生
(男子は立川高校生、女子は立川女子高校生、と決まっていた)を受け入れていました。
立川高校では、市の受け入れ行事はともかく、高校として歓迎すべきかが問題でした。
学内は@学生は政治とは距離があるので、従来どおり歓迎すべきだ、A歓迎はするが、
政策には違和感があるので戦争に対する抗議文を米政府に伝えてもらう、B戦争への
抗議を表明するためには、交換学生に頼らず(つまり歓迎しない)、抗議声明を直接
アメリカ政府に伝達する、この三選択で校内集会が開かれます。
 ぼくはBを主張。Aが圧倒し、5パーセント程度のB支持者の中ではぼくだけが、
Aの校内歓迎レセプションに参加しました。抗議の意思を伝達できているかどうかの
チェックです。英語の下手なぼくは、ただの重石として出席しました。

 あいかわらず(中学卒業後はパートは違うものの、バンドの指揮者だったのだ)、
ブラスバンド部に所属(というより、同好会を部に昇格させるため、必死の努力を
成功させた)していたぼくにはおおきな矛盾がありました。
 ブラスバンドにおける最新な音楽はアメリカから吹いてくる風(新譜)でした。
最高の音楽はアメリカ軍楽隊の指導を受けた自衛隊の軍楽隊です。
 立川はその拠点でもありました。新譜とその解釈が欲しかったぼくらは、
しばしば自衛隊・立川駐屯地を訪れました。楽器の音の出し方まで習ったのです。
その、手取り足取りに感激し、自衛隊軍楽隊に参加していったクラブ員もいます。
最新の楽譜を指揮しながら、ぼくは思っていました。どこから来たのかは大切ではない。
どこへ行くのかだ。指揮による新しい解釈は可能だ、というものです。
 たとえば「君が代」のおちょくり。かの先生とは正反対の指揮(「大賞牌」という
中学生ではややレベルが高い名曲を、部員をひきつけて演奏しきってみせるその際の色づけ)
をしてみる。チャンスがあったので試してみたのですが、わかってくれたかどうか。
(同窓会で謝罪したあの先生は、この指揮をほめてくれました)。
 自衛隊経由で手に入れた楽譜の中に「voise of the gun」というマーチがありました。
映画「アラビアのロレンス」の主題歌です。「銃声」と訳されていました。
ロレンスはアラビアの解放者か、侵略者か、歴史解釈は別れています。
欧米の解釈はともかく、アジアにとって、侵略者であった可能性のほうが強い。
この曲を正式に聴いたのは英領香港の中国への返還式典のことでした。
イギリスの軍楽隊は、この曲を式典進行のためのメイン・マーチにしていました。
アジアを見下すイギリスの姿勢が現れているな、と思いました。



そのA 学生自治の伝統を守る

 高校2年の春、生徒会役員に押された(中学の同窓生が会長に立候補したため、応援演説をしたぼくですが、
彼が敗れた生徒会にさほど期待していなかったためです)ぼくはこれを拒否。バーターとして体育祭実行委員に所属し、
委員長に準じる立場に押し立てられ、仮装大会実行委員長などに収まったのですが、
わからなかったのは学校との関係でした。
校歌にもあるように、学校の建学思想は自由と自主。自立精神を鍛えて、民主主義に貢献することでした。
 ところが、学校側は全学4チームに分かれて競うチーム本部のやぐらが年々巨大化し、危険になったので
前年の体育祭実行委員会で、次年度からは高さを8メートルに制限した、というのです。ま、それはいい。
でも、ぼくは危険だから高さ制限を、などという意見が学生側から出るはずはない、と直感したのです。
もっと高いやぐらを組んでいる高校も知っています。危険だが、意気挙がる作業であることも承知していました。
問題はそれをだれが止めたのか、ということなのです。民主主義は大事ですが、決定者と服従者が同一でなければなりません。
 去年の委員会がなぜ、今年の大会運営を拘束するのか。今年の運営は今年の委員会が決めるべきだ、
ぼくはそれが「生徒自治だ」と主張しました。代議制民主主義は次年度を拘束することがあり、
それを守らなければ民主主義は危機になる。生徒会担当教員は、そう主張。高さ制限を
ぼくらの学年が自主的に決めることを許しませんでした。
 ぼくは次に、だれがそんな提案をしたのか、どういう経緯で決定したのかを知るために、
去年の議事録の開示を求めました。ところが、「そんなものはない」というのです。
「それなしに、次年度を拘束するのはおかしい。先生個人の勝手な思いかもしれないでしょう」
と主張。民主主義は手続きの公明さに支えられるのだ、と譲りませんでした。
 担当教員の一人(体育科の女性)は、ぼくがいない授業中にぼく批判をやりました。
その情報はYYさんからもらいました。ぼくは「これは個人の戦いであってはならない」と考えました。
こうしたことが起こっていることを、みんなに知らせるべきだ、と考えました。
 中国では紅衛兵が壁新聞を張り出して、身近な問題の改善を訴えている。そんなニュースが
ぼくの耳にも届いていました。後の「立て看」にも繋がる壁新聞を模造紙一枚に収め、
正門前に張り出しました。ぼくを支持してくれる先生もいて、「体育祭ではおまえのために走る」と、突き出た腹をどたどたと、
失笑を買いながらもゴールまで走ってくれた先生。あなたの美しい姿をぼくは一生忘れないと誓いました。
 この闘いは何の実りもたらしませんでしたが、学校側はぼくとどこかの政治勢力とが結びついているのでは、
ということをしきりに疑っていました。その中心人物が生徒会・進路指導担当教員のAさんでした。
 それから2年後の1969年、ぼくはこの先生から分厚い手紙をもらいました。
立川高校で勃発した高校反戦運動で、彼は生徒擁護に立ったのです。不思議な感じでした。
学校の締め付けに反発したのです。ぼくとの間で突っ張っていたのも、学校の要請を受けたものでした。
彼はそれを謝罪し、学内問題の解決に関して、アドバイスを求めたのです。
ぼくは「それに関し、アドバイスはできない」と応えました。それからほぼ1年後、
このA先生から、退職の挨拶状が舞い込みました。
 すなわち、前年度の委員会の決定を頑として譲らなかったこの先生こそが、もっとも生徒思いだったといってもよさそうです。
ぼくとの抗争は立場の問題であったのです。それならそれで、理解はできますが、
ぼくなら一市井の民としての立場を大事にすべきだと考えます。




立川高校の学生のころ




 2005年8月、立川・昭和記念公園の入口近くに昭和天皇記念館が建つことになり、これに反対する集会(いらない宣言大集会)が開かれた。そこでの発言が「リレー発言集」になっているので、ぼくの分だけ(集会関連の発言は省略します)、ここに収録しておくことにします。




 立川というのは人工的な街です。とりわけ立川の北口はそうなんですね。南口も駅前は新興地で、昔はたいした土地ではなかった。村らしかったのはこの立川公民館から南、諏訪神社や晋済寺というお寺、これは立川氏の居館があったところなんですが、それから多摩川の渡しの北側ですね。川留めがあるから木賃宿がぞろっと並んでいたわけです。これらが立川の旧称である柴崎村の中心で、ぜんぶ駅の南口、それも少々はなれたところにあったんです。
 モノレールができて、南口が急速に変貌していますが、それ以前の立川を知っている人ならわかりますが、立川の繁華街は北口で、南は寂れていたんです。でも、もっと前、戦前の立川駅は南口が栄えていた。柴崎村の中心が南にあったのだからそれは当然です。戦後になっても、中心は南口で、駅前に伊勢丹デパートが進出してきました。この南口の立川の繁栄がなぜ消えたのか。まずはその話をしましょう。
 実はぼくは立川高校の卒業生でして、この学校も南口にあります。戦後、アメリカ軍が立川基地に進駐してきて、兵隊が南口に飲みに出てくる(もちろん売買春も)わけです。これが風紀を乱すという。名目はともかくとしまして、ある意味での反軍闘争というのを立川高校の生徒たちが立ち上がってやるわけですね。南口にアメリカ兵を入れないためにバリケードを築く。警官がバリケードの解除に来ると竹やぶに逃げ、夜を待つ。町の人たちが握飯を差し入れる。そんな闘いで、ある種のカルチェラタン。学生の解放区が生まれます。
 その結果、南口の商店街は火が消えたようになりまして、全部北口に移転していくんですね。伊勢丹もそうです。そして、立川基地のゲート前、高松町を中心とする繁華街が出来上がっていくんです。が、それまでの北口というのは、いわゆる軍都です。でも、都といっても軍都というのはもう広漠とした飛行場とか、関連産業の巨大な工場があるだけ。これが北口の姿でした。この辺の話をすると、軍都の形成とか、いろいろ話ができるんですけども、そこは省きます。
 で、今日のテーマに即した話に戻れば、南口の新たな繁栄は、立川高校の反軍闘争の痕跡がみごとに消し去られたことを意味します。だれもそんな時代があったことなど、もう忘れているだろうし、いまから思い出せる人はいないかもしれない。同じように、実は北口でも大事な反軍闘争の記録、大切な記念の場所というものが消し去られようとしている。すでに、その一部は消え去ったのですね。それが立川基地(現・昭和記念公園)です。
 ちょうど今年(2005年)は、第1次砂川闘争が始まってから半世紀、50年です。第1次砂川闘争というのは、朝鮮戦争が本格化する中で、アメリカ軍が接収していた立川基地が手狭(高速戦闘機にとって滑走路が短すぎた)になった。これを、すぐ線路と駅がある南側には伸ばせないから、北側に延ばすという拡張計画が持ち上がった。これに対して反対運動が起こった。これが砂川闘争で、ものすごく大規模な闘争でした。農民が立ち上がり、労働者、学生が呼応する。そして拡張計画が中止され、運動側が勝利するのです。これがちょうど50年前のことです。ぼくが7歳のときですね。
 ぼくのオヤジはそのころ、若い労働組合の闘士でした。ですから、この反対闘争にも毎日のように出かけた。ぼくはよく覚えていますけれども、帰ってくるとオヤジは、その日の戦況を話してくれました。くそ爆弾というのがありました。紙袋に肥、肥溜めの肥ですね。わかると思いますが、それを入れて封をしたやつを警官隊に投げつけるわけですね。こういう闘争をずっとやって、ついには勝利していった。これが第1次砂川闘争です。

 それから12年後、第2次砂川闘争というのが起こります。これも1次とまったく同じで、同じところに拡張しようとする計画でした。このときは、ぼくはもう既に高校三年ぐらいのときでしたので、自身が闘争の主体にならざるを得ませんでした。ですからぼくも、この拡張反対運動に加わりました。もっとも、まだ若すぎたため、引きずられるような運動で、主体的であったとはいえません。
 この拡張はベトナム戦争の激化に伴う計画。そのころの立川高校はすごかった。ひっきりなしにグローブマスターという巨大な輸送機が、もう校舎すれすれに飛ぶ。だからグローブマスターのはらがみえるんですよ、すぐそこに。そういう中で授業をしてきたんですね。ですからベトナム戦争を止める、ということは、大義名分以上にまずうるさい。授業ができないんです。それもひっきりなし。
 話を広げれば、たとえば南武線、立川から川崎に行っている電車(当時は貨物専用線)。踏切を渡ることがほとんどできない。ずーとなん十両と繋がった輸送、貨物列車ですね。全部タンク車です。すなわち、航空燃料の輸送でした。それももう、よくこんなのを引っ張れるなあ、と思うぐらい。ずーっと、ゆっくりゆっくり。全部抜けてやっと通れる。でも、うかうかしているとどこで待機していたのか反対側からもやってきます。だから南武線は一つの交通障壁。立川と国立は往来できない隣接市町だったのです。
 しかも、この輸送がもう満杯になってしまって、しょうがないもんだから山手線を経由して、新宿から立川への燃料輸送が始まった。その結果、新宿駅のヤードで、タンク車が爆発するという事件が起きたのです。ベトナム戦争が身近な脅威となる、そんなことも関連で起こってくるわけですが、いずれにしてもぼくは、この立川で反対闘争をやりました。
 第1次砂川闘争のときもそうでしたが、主要な闘争拠点は基地拡張予定地でした。いま、立川市の一部になっていますが、当時は合併前で、砂川村と呼ばれていたところです。第2拠点は、いわゆるゲート前でして、当時のメインゲート、第1ゲードといいました。殺伐とした鉄条網に囲われ、米兵が立っているという、そういう門ですけど、その前は相当広い広場でした。ここが反対運動の第2拠点。ぼくもそこで渦巻きデモなんかをした覚えがあります。そして,この闘いも結果的に勝利を収めます。拡張計画は撤回されたのです。
 だから本当なら、昭和天皇記念館が建つ予定の場所、そこには砂川闘争勝利の記念碑が建つべきだったのです。もちろん、みんなの記憶がしっかりと継承され、血肉化されていれば、べつに記念碑なんか必要ではありません。けれども、残念ながらぼくらの記憶は継承されずに失われていく。反対に、記憶を消し去り、にせものの歴史をでっち上げるために、その地にわざわざ昭和天皇記念館を造る。よりにもよって、なんたることか、とぼくは思っています。
 立川基地が返還されたのは、全国の米軍基地の中でもいちばん早いほうなんですね。それはジェット戦闘機時代に、拡張できず、時代遅れになったために返還された、と考えるべきです。そのおかげで、といいますか、立川が、軍都立川が急速に様相を変えて、昭和記念公園を含めて、平和を看板にするようなとんでもない時代になってきているんです。
 しかし実際にはまったく違う。戦争を隠し、反軍闘争を隠すために、この昭和天皇記念館も創られたし、本体である昭和記念公園もそうだったということですね。いま、立川駅の北、南で起こっている一連の事態というのは、本当はぼくらが記憶しておかなければならない大事なことをもみ消す、そういう役割を果たすんだろうなあ、と感じます。 

 《付録》
 伊勢丹が立川南口に移転したとき、その隣接地に親戚の佐藤ビルが建ちました。北口繁華街の地回りを統率する親分でしたが、オヤジと一緒に訪れるとぼくも殿様気分になれました。多摩における佐藤のネットワークをぼくは知りませんが、相当なものがあったのは事実です。

 立川氏(西党の分枝)の本領である柴崎村は、江戸時代から立川で知られていました。明治になり、町村制が布かれると、おなじ北多摩郡に柴崎村が二つ(他は現・調布市柴崎)。立川は柴崎の名を譲りました。柴崎を含む布田5宿(甲州街道の宿場で、柴崎・国領・布田・下石原・上石原)は、統一した名を調布としたかったのですが、この名は青梅郊外の村名だったためかなわず、個別の宿名を名乗っていたのです。調布が青梅の吸収され、5宿が調布を名乗れるようになった。そのため柴崎は無用になったのですが、立川で自立した旧柴崎が、柴崎に戻る動きは皆無でした。


佐藤琢磨とアラビアのロレンス

 昨日、ぼくらは立川高校の同期会を開きました。卒業依頼40周年。前回の同期会の10年後

の再開でした。幹事は佐藤利和。新宿に事務所を構える弁護士ですが、F1レーサー・佐藤琢磨

の父として有名です。その翌日(07・05・13)、琢磨は8位入賞したのです。この結果が

わかっていれば、あの会場ももっと華やいだことでしょう。

 それはともかくとして、来賓として出席した先生は8名。来賓代表として挨拶に立ったY先生

は開口一番、「こんな場にふさわしい話ではないけれど、昨日、国民投票法案(憲法改正準備法

)が成立してしまいました。昭和1ケタ台の生まれであるぼくは、この無念を一人でも多くの人

に伝えたい」と語りました。彼は英語の先生で、英語が苦手なぼくの仇敵。ぼくはこの先生と、

1年、3年の担任、浅野先生(浅野は二人いたので「三日月」と呼ばれていた)、ブラスバンド

部を結成するに当たって、尽力してくれた顧問の井上先生に個人的に挨拶しました。

 ところが、両先生とも、なかなかぼくを放してくれません。思い出話ではないのです。いまの

この社会、この時代に対する危機感なのです。ジャーナリストであるぼくに、その思いを代弁し

て欲しい、というメッセージでした。ほかの先生たちの話も耳に入って、あの先生たちもおなじ

思いであることを確認しました。Y先生の「開口一番」は参会者の顰蹙を買いました。やはり場

違いだ、というのでしょう。でもぼくは、あの時代、こういう先生に育てられたんだ、というこ

とを実感しました。

 それはともかく、ぼくが同期会に参加したのは前回、卒後30周年のときでした。それ以前の

会には出ていません。次回は5年後ということになりました。

 ここで、ブラスバンド結成について書いておきます。立川高校にブラスバンド同好会ができた

のは、ぼくが入学した前年のことです。同好会だから予算はゼロ。自前の楽器を持ち寄ってのバ

ンドですから、楽器の片寄りは目を被わんばかりでした。主旋律系のトランペット、フルート、

クラリネットばかりで、わずかにトロンボーン、スネア(小太鼓)がある程度。大太鼓は音楽室

備え付けの備品でした。バス、ホルンといったリズム系の楽器は、部費で調達するほかはないの

です。したがって、同好会のクラブ昇格が不可欠でした。
 しかし、たくさんのクラブがひしめき、予算の争奪が熾烈な学校にあって、相当な予算を必要

とするブラスバンド部への抵抗が予想されました。部への昇格は年1回開かれる部代表の会議で,

過半数の承認を取り付けなければならないのです。試合における応援を期待する運動部はともか

く、文化部の票を取りまとめなければ、部への昇格は絶望的なのです

 前年に結成された同好会のメンバーは7人。その中に八王子7中の先輩、Kさんがいました。

このKさんのたっての願いによって、7中から立高に進んだブラスバンド部員(7人のうち3人

)はみんな、とりあえず同好会に参加したのです。ぼくが2年になると、7中ブラスバンドから

新たに独りが参加。この友人がIさんで、ぼくがいまも親しくしている友人の、元連れ合い。優

れた校正者で、ぼくの本の何点かは、彼女の校正にゆだねられています。

 ともあれ、7中の色濃いブラスバンドだったからか、1年で指揮を任され、2年で部代表(部

長の補佐役)になっています。部への昇格は部代表会議で決まるので、ぼくの政治力が問われま

した。といったも、ぼくがやれることはたかが知れていて、多くのクラブとのコネクションをつ

くる以外に、手はありませんでした。
 部長は鉄道研究部と掛け持ち。ぼくは7中が結成したといっても過言ではない児童文化研究部

と仲良くし、フルートとの合奏で筝曲部と親しくなり、音楽部、民俗音楽研究部に出入りして、

ブラスバンドの存在をそれとなくアピール。演劇コンクールに打ち込んで演劇部と、音楽室より

も高層にある山岳部や天文部を巻き込み、体育祭実行委員になったことを生かして、存在をアピ

ール。
 新たな楽器の導入は年2台まで、という条件付きで、部昇格を提起。賛成多数を勝ち取ったの

です。初期予算の投入が必要なブラスバンドにとって、新規導入楽器は年2台までという条件は

相当に厳しいものです。独自に演奏会が組めないので、井上先生の伝なのでしょう。サッカーで

有名な久我山高校と合同演奏会を組織しました。

 楽器編成では久我山が圧倒していました。こちらが強みを発揮するのは、選曲と奏法、指揮で

した。しかし、その多くのものは、立川基地の自衛隊吹奏部に負っていたのです。アメリカから

くる最新の楽譜の魅力には、抵抗しがたいものがありました。いまのぼくの思想性を知っている

人からすれば、とても信じられないことかもしれませんが、ぼくは定期的に自衛隊基地を訪れ、

アメリカの音との接点を維持し続けていたのです。

 反軍、反米を語るのは簡単ですが、アメリカから流れてくるある種の魅力、自由の香りと新鮮

さ、変化に対する期待といったものを、正当に評価すべきでしょう。ぼくは6歳のとき、赤いセ

ーターを着たアメリカ人を八王子で目撃しました。色だけではないしゃれ者ですが、ぼくはショ

ックを受けました。男も綺麗でいいんだ、おしゃれでいいんだ、と思いました。立川の米軍払い

下げグッズは有名で、カーボーイ・ルックやアーミー・ルックなど、同年の少年たちを魅了しま

したが、ぼくには興味がありませんでした。

 でも、新しさ、モダンで自由な雰囲気を求めて、ぼくはアメリカの新譜「フーテナニー」を指

揮しました。アメリカのフェスタ、それは統制とは無縁な歓喜の爆発です。立川高校、久我山高

校のブラスバンド部は、ある日突如変貌しました。「フーテナニー」のリズムを手に入れ、超え

る動きを見せたのです。そう、アメリカ・コンプレックスは必要ないのです。一人一人の奏者が

爆発すればいいのです。そうなれば指揮もいりません。
 もう一つ、アメリカ軍から手に入れた新譜でみんなが気に入り、練習した曲が「ボイス・オブ

・ザ・ガン(銃声)」です。広がりを感じさせるマーチで、しゃれた歩行に似合います。実は映

画「アラビアのロレンス」の主題曲なのです。この曲を映画以外で耳にしたのは、イギリスによ

る香港の中国への返還式典の中で、でした。式典は前半をイギリスが、後半を中国が仕切るので

すが、前半のイギリスカラーを打ち出す際に、この曲が使われたのです。

 ぼくには大きな驚きでした。ロレンスはアラビヤ(アジア)の解放者か侵略者か、それはいま

、アラブにとっても深刻な歴史解釈問題なのです。アラブのトルコからの解放は、結局、アラブ

のイギリス支配を招き寄せたからです。この流れはスエズ(運河)利権とも絡み、パレスチナへ

のイスラエル建国や、中東を分割する赤線協定(アラブにはない国境意識を利用し、イギリスの

石油利権=ロイヤル・ダッチ・シェルに都合のいい国境策定協定を押し付けた)へと繋がってい

くのです。クウェートは英米が赤線協定によってイラクから勝手に分割した国家です。

 湾岸戦争の引き金になったイラクによるクウェート侵攻は、押し付けの協定への不承認を形に

しただけなのかもしれません。少なくともアメリカは、この侵攻を暗黙のうちで認めていた可能

性が大きい。手のひらを反して湾岸戦争を仕掛けたアメリカは、イギリスとの間でどんな駆け引

きをやったのか。これは少しも見えてきません。

 だが、なのです。イギリスが香港返還の式典に際して、アジア侵略、あるいは解放のシンボル

であるロレンスを持ち出した、ということは驚きです。イギリスはなお、植民地化の正当性を主

張したかったのかもしれない。式典の主題曲に「ボイス・オブ・ザ・ガン(銃声)」を選んだイ

ギリスに、ぼくはそう思いました。世界中に同時中継された式典、でも、この曲に込められた思

いにどれだけの人が気づいたかどうか。ぼくにはわかりません。



理系から文系へ転向した受験生


「サトウブンメイくん」ぼくの名を音で呼んだ先生は倫理社会の先生でした。多くの生徒を音で

呼んだのですが、「ぼくについてはその読みが正しいようです」と、名前公募の話をして以来、

哲学的な難題で、生徒の発言が出なくなると、先生はぼくの意見を求めてきました。2年生の後

期、12月のことだと思いますが、学問とは何か、という命題の中で、受験勉強とは、というの

がテーマになりました。

 発言が行き詰ったわけではないのですが、先生はぼくの発言に期待し、意見を求めました。

ぼくはその期待に応え「受験勉強は学問ではない。ぼくは受験勉強はしない」と答えてしまいま

した。そして、ぼくはこれを実践します。同級生が受験のために必死になっているとき、

ぼくは自分の学問に没頭しました。生物化学(生化学)、分子生物学、高分子化学といった、当

時の最先端科学(宇宙物理学を含む)です。最新情報は新聞ですが、その基礎になる知見は、図

書館に入る新刊でした。ぼくは図書館に入り浸ったのです。

 おなじころ、中央公論社が哲学シリーズを発刊しました。1冊目がニーチェで、2冊目がキル

ケゴール。以下、パスカルだのカントだのが、続々刊行されましたが、「受験生が哲学をやって

はいけない」という常識も聞こえてきました。でも、受験勉強とは無縁なぼくは、ニーチェもキ

ルケゴールも読みました。理科系人間であるぼくが、哲学というものに惹かれたのです。

 難しいといわれたヘーゲルの「精神現象学」でさえ、湯水のように理解できるのです。そんな

中で、生化学を目指していたぼくは、大打撃を受けました。おそらくこの延長には、遺伝子組み

換えやクローンがある。これは生命への裏切りで、白衣を着たぼくが、その協力者になるのは悪

夢以外のなにものでもない。そう考えるに至ったぼくは、生化学がある大学への願書を出しなが

らも、かぜ、遅刻という形で受験をパスしてしまいました。

 この瞬間から、ぼくは理工系人間をやめ、文科系、もっと言えば人文科学系(とりわけ社会学

)の学徒になったのです。ぼくがものを書く、文章を扱うなどということは、それまで考えたこ

ともなかったのです。ただ、文科系のジャンルの中で、あえてなにが得意かといえば政治を含む

社会問題でした(それまで気づかなかったのですが、小、中、高と社会科系のジャンルでぼくは

恒にトップクラスの成績を収めていました)。

 もっとも、社会問題は学問の世界にとどめておくべきことではありません。ぼくは急速に社会

運動に接近し、運動の中から問題を考えるスタンスを選ぶことになります。といっても、ぼくを

触発したのは実存主義哲学(サルトル、ブーバーなど)だったので、マルキシズムとは深い溝が

ありました。いまもマルクスの論理それ自体は高く評価します(というより、彼を超える論理を

提示した論客は存在しません)が、ぼくはマルキストではありません。

「原理研」のホームページは、ぼくを「折り紙つきのマルキスト」と評していますが、これはこ

そばゆいが間違いです。実存しているぼくが社会問題に直面したとき、解決の糸口は思想とか論

理学ではなく、社会そのものの内部にあると考えるのです。だから「原理」という考え方とも相

容れません(といって、ぼくを実存主義者と断定するのも間違いです。認識において構造主義は

大事だし、運動においてマルクス主義は否定できません)。

 ともあれ、こうした認識を持つに至ったぼくは、社会運動の坩堝であったあの時代に、党派(

個別利害を「原理」によって正当化する営みによってまとめ上げる組織に見えた)とは関係なく

個人として加わっていくことになります。その日々の迷いや確信、さまざまな場面での行動や思

索など、ここでは書ききれないものばかりです。が、それをもたらしたのは間違いなく「時代」

でした。あの「時代」の刺激がなければ、ぼくはおそらく、白衣を着た研究者として、ミトコン

ドリアやDNAをいじっていたのではないかと思います。