『個人情報を守るために』訂正案内

 初めて一冊丸ごとワープロデータ入力とあって、校正には注意したつもりでしたが、やはり大事なところで見落としがありました。

 本書奥づけのこのホームページにアクセスするためのURLがまちがっていました。/~bunsat/ではなく/~bumsat/なのです。したがって、ここからではこの訂正も読むことができません。p170で、総背番号の抗争史に興味を持った人だけが今、このページを開いています。アクセスしながら開けなかった人にお詫びするとともに、p170から入ってきてくれれば、と願うのみです。申しわけありませんでした。

 本書p94、現行の個人情報保護法が成立したとき衆参両院でつけられた附帯決議の(1)はつぎのようなものです。
「マニュアル処理にかかわる個人情報の保護について検討すること」
 音声入力の際の誤植を見逃したものだと思います。失礼いたしました。

 本書「省庁変遷図」(p139)中、総務庁の記載に誤りがあります。「総務庁」とあるところは「総理府」が正しく、総務庁は総理府が行政管理庁を併合して1984年7月に発足します。したがって、図中、両者の合流後に「総務庁」がくることになります。
 また、p163の内閣官房3室の勢力図はあくまでも2001年の行政改革以前のものであり、行革後はこの行政の勢力を政治が押さえ込むため、この上に内閣府をかぶせ、政治サイドから4つのスタッフ組織(経済財政諮問会議、男女共同参画室など)を挿入し、新たな力関係を創り出そうとしています。が、その実力は未知数です。

 マスコミはプライバシー保護のための自主組織を持っています。放送・人権等権利に関する委員会(BRO)がそれで、連絡先は03−5212−7333です。放送によって多発する人権侵害の免罪符的な委員会ですが、これを免罪符にさせないためにも、わたしたちが有効に活用していくことが大切ではないかと思います。

 本書p198でURLを紹介した宮崎学について、彼が元自民党代議士で、自治大臣兼国家公安委員長だった白川勝彦が旗を振る新党から参議員選に立候補したことから、宮崎は公安のスパイであるという説が流れています。が、白川も公安警察の意を挺した政治家ではなく、政治の中にうごめく公安警察の動きを読み取れなかった政治家にほかなりません。また、宮崎も白川の限界を持った呼びかけに軽率に応じてしまう人物だったにほかなりません。宮崎の政治姿勢はともかく、彼のサイトはなお、覗いてみる価値があるものだと思います。


国民総背番号制導入の歴史




総背番号制は今

 1999年の8月12日、盗聴法を含む組対法3法の成立に引き続き、国民総背番号制を準備する住民基本台帳法改悪案が、委員会の採決抜きに強行可決、成立した。公明党が提案した修正案は「新法施行前に個人情報保護法を改正し、民間にも保護する義務を課す」というものだが、しょせん政治取引上の提案だったため、何のことだか意味不明な「必要な措置を講じる」という但し書き付きの法律となったのである。

 もっとも、これをどう解釈するかは、われわれ運動にも左右される。と同時に、多くの矛盾を含んだ見切り発車的な法律であるため、各人への付番は3年以内、個人カードの発行は5年以内という、施行までに長い準備期間を置いた法律になっている。つまり、法そのものを施行前につぶすことも可能なものとして存在している。したがって、運動は今なおせめぎ合いの渦中にあるのであって、けして終わってはいないのである。

 しかし、反対運動の間隙をついて、自治省の動きは早かった。自治省にとって、のどから手のでるような法律であると同時に、なお、施行までに不安を抱える法律であることから、その足固めを急いだのである。9月には都道府県に対し、新法の説明会を実施。都道府県が事情も飲み込めないうちから、都道府県が主体のシステムであるにもかかわらず、自治省のやり方を一方的に押しつけている。

 また、個人情報保護法の改正については国会開設中の7月から着手(主管は総務庁)。11月にはお粗末きわまりない中間報告をまとめ、今年中には最終報告をまとめる構えを見せている。自治省は付番を来年中には実現したい腹なのである。そして、カード発行も同時に行い、カードの利用と同時に約束しているサービス(住民票の全国取得や簡易転出入)の実行は、無期限延期する可能性も生まれている。

 都道府県の説明会の中で、これまで「10桁コード」だとしていた個人番号が、突然11桁に変更された。「10桁だとすぐパンクする」というのだが、そんなことは法案提出前に考えておかなければならないことだったのではないか。一説に、総背番号に反対する人たちの抵抗が強まり、番号変更希望者が10パーセントを超えると踏んだための緊急措置だという。これには、買いかぶりではないことを祈る。

 同じ説明会でもっと重大なことが明らかになった。これまで「専用ネットワークを流れるのは住所、氏名などの5情報+αだけ」との説明が、突然変更され「ストックはされないが住民票に関係する全情報がネットワークでやりとりされる」ことになったのである。ストックされようがされまいが、きわめてセンシティブな情報が大量にネットに流れることになる。プライバシーの漏洩が一気に現実化する。

 この点を糾すため、国会で質問した民主党の議員に対して、新自治大臣は従来通り「5情報+αだけ」と答弁。誤りを指摘されて訂正する始末。要するに、大臣を含めすべての国会議員やマスコミ記者は自治省にだまされてきたのだとの声が高まり、民主党から住基法改正法の廃止法案が提出されるまでの騒ぎになった。この法案は先の臨時国会で継続審議となり、現在も生きている。

 だが、これも運動がなければ「つるし」のまま審議には付されず、やがて朽ちていく運命だ。自治体には「こんな仕組みでは運用できない」との声が大きいものの、結局長いものには巻かれろの論理が幅を利かせ、2月の東京都を最後にすべての都道府県が「付番センター」への業務委託を出し終えた。中央集権への抵抗は形にならなかったのである。

 中央に、地方に自治省が君臨する時代、それは大政翼賛会の時代である。悪夢の再来である。これを止めるためにも、総背番号制の創出を止めさせなければならない。住基法改悪を許さない戦いとはこれなのだ。残された時間は多くない。多くの人の「本気」が求められている。

その後

 「専用回線」というのも、怪しいものであることが明らかになった。「既存の回線を、住基ネット用に占有する」というもので、実態がよくわからない。

 技術の急進によって、カードのスペックがとてつもなく安価で、高機能になってしまった。8000字を記憶する、というのは昔の話で、実際にはその5〜10倍になるとみられる。それも単なるICカードではなく、接触非接触両用型となり、アンテナコイルが組みこまれ、情報を発信することができるという。カードの進歩はこれからも限りないものと思われるが、法に歯止めが掛けられていない。

その他

 自治体が収集した個人情報を利用する際の、自治体への対価問題(システム構築を自治体に押し付け、政府機関等が無料で利用するのはおかしい。また、センターが利用料を取るのもおかしい)

 住民登録と自治体への帰属意識の関係(住民票の広域交付等が帰属意識を希薄化させ、自治体の業務に支障を生まないのか)

 郵政省の戸籍住民票交付計画と自治体の関係(郵便局の地域情報拠点化計画は自治体を無用化し、総務省の地方支配につながらないか)

 杉並区長の動き(プライバシーと費用対効果で、導入に疑問を投げかける山田区長の姿勢は正当である。住基は固有事務なので、違法性はない)

包括的個人情報保護法はなく、保護基本法も政府に現行保護法の改正を求めている(住基システム導入の前提として付帯決議されたプライバシーを守るための「措置」は保護基本法が成立したとしてもまだ存在していない)



歴史・その1

管理強化は行政の本能  これは日本ばかりではなく世界中で言えることなのだが、行政(政治権力)は放っておくと、限りなく人々の情報収集し、管理を強化しようとする。ある人に言わせると、これは「役人の本能のようなものに)なのだそうである。「本能」というのが生ぬるければ「業」とか「宿悪」という言葉もある。ともかく、何かと理屈をつけては情報収集し、管理を強めうようとするのである。
 「世界に冠たる」戸籍も、そのような者たちの手によって生み出された。そして、まるで枕詞のように語られる「世界に冠たる」という表現も、いわば役人たちの自画自賛。管理される国民の立場に立った言葉ではない。
そして、実際、この国の政治が世界に向かって、戸籍制度上いう歌行政を説明し、「世界に冠たる」制度を誇ったことなど1度もない。むしろ、その前近代的な構造をひた隠しにしながら、近代国家の体面を取り繕ってきたというのは、歴史的な真実である。少なくとも、戸籍制度に「世界に冠たる」などという枕詞を送って平然としている人たちを信じることはできない。

 この行政の「業」、「宿悪」の肥大化を阻止できるのはひとえに私たち、管理される側にある者たちである。管理の肥大化が人権を脅かすものだとすれば、肥大化を阻止する戦いは人権を守る人類的な運動であると言える。これを裏返して言えば、日本でこの肥大化を許してしまうということは、私たちが全世界の人たちに迷惑を及ぼす、ということである。その意味で、日本は大きな負債を抱えてしまっている。
 というのも、役人たちに「世界に冠たる」などという自画自賛を許し、戸籍という差別に根ざした政治支配と十分に闘って来なかった(明治期には相当の抵抗があったものの、屈服させられた)からである。そしてそれは韓国、台湾を含む北東アジアの人たちに少なからぬ迷惑をかけた。
 確かに戸籍は日本人の多くを支配の網に絡めとり、抵抗を許さぬ装置として発達した。管理する側から見れば「世界に冠たる」ものといっても過言ではないのかもしれない。しかしそれはなお、管理する側にとってパーフェクトなものだったとはいいがたい。なぜなら、人々の情報を収集し、管理を強化しようというのは行政の飽くなき欲望だからである。
 この限りない「業」からすれば、戸籍はなお物足りない。
戸籍の限界とは何か  戸籍はパーフェクトな支配システムではない。というのも、戸籍に記載している人物が、現実に活動しているどの人物なのかを特定できないからである。これを可能にするためには、現実に活動している人物それぞれに、各人の戸籍を常に表示していてもらわなければならない。そのため、奈良時代の戸籍(現在の住民票に近い)は別に「計帳」という登録簿を備え、これに各人の顔や身体の特長(ほくろの位置や傷など)を記録していた。江戸幕府は罪人の額に刺青までしている。

 戸籍制度にはこの機能がない。これが役人にとっての「戸籍の限界」なのである。このことは古くから意識されていた。この限界を超え、パーフェクトな支配システムにするためには、次の2つが必要だと考えられたのである。
 戸籍の写し(カード)を常時携帯させること
 戸籍と所持人を結ぶ写真や指紋などを登録すること
 前者は戸籍制度が整備される1,873年以前から構想されていた(神社が「氏子札」を発行し、これを生涯携帯させるもの。「信教の自由」との関係で実現せず)ものだが、1,940年、在日朝鮮人に対してのみ「協和会手帳」の常時携帯制度として実現を見た。
 後者は技術的にも予算的にも困難だったが、1,934年、満州(日本がでっちあげた中国東北部のかいらい政権)で「民籍(戸籍)代用」としてスタートした制度だが、いずれは戸籍と合体する計画を持っていた。
 1,932年版の平凡社「大百科事典」には「全世界において戸籍法に指紋法を実施するのは満州国をもって嚆矢とす。・・・・・形式的戸籍法を実態的戸籍とするのであるから、実に正確なる点においては世界一となることであろう」とある。
 これを見ても、この国の理想の管理形態がどのようなもので、戸籍はなお不完全な、物足りない制度であると考えられていたかがお分かりいただけるだろう。
大蔵省と旧内務省の対立  明治5年(1,873年、壬申の年)に登場した戸籍制度は当初「大蔵寮」が所管し、行政の基礎資料として、予算の歳出入の計画策定に利用されていた。ところが、これを親族管理の台帳に変え、支配の道具にしたのは陸軍省と内務省(所管は司法省、その後裁判所に移された)である。徴兵制(国民皆兵制)と反政府勢力の弾圧を主眼とした変革である。
 軍が統帥権を盾に、国会を超越した権力になろうとすると、内務省は戸籍や町内会、警察による国民の実質的な支配を武器に軍と競い合い、軍と同様に国会を超越する権力を目指した。これが「大政翼賛会」である。これによって日本国民は軍と内務省の二重支配下に置かれることになった。

 第二次世界大戦の敗北によって軍は壊滅し、内務省も自治省、警察庁、法務省出入国管理局などに分割され、解体された。戦後日本の再出発とはこのように、民主主義に敵対する組織の解体に裏打ちされたものだったのである。
 軍や内務省が消滅した後、日本の政府、官僚組織を牛耳ったのは、予算の配分権を握った大蔵省だった。大蔵省は「省の中の省」の地位を確保し、日本の政治をコントロールする実質的な権力として立ち現れた。
 これに対して、自治省、警察庁、法務省出入国管理局など、旧内務省勢力は「アメリカによって分割され、弱体化された(アメリカに押しつけられ、日本の弱体化を招いた、とする現行憲法批判と同じ論理)」ことを不満とし、内務省復活を画策し続ける。
「戦前の夢よ、もう1度」という旧内務官僚(たくさんの人たちが暗躍したが、現在知られている人としては中曽根康弘、後藤田正晴、石原信雄など)たちの再三にわたる野望を阻止してきたのは、戦後の権力を自認する大蔵官僚であった。大蔵省は予算措置によって、内務省の復活を阻止してきた。
 戦後復興から高度経済成長へと、大蔵省主導の日本経営は順風満帆、成功するかに見えた。その間、内務省復活の芽はなかったのである。しかし、予算の配分権を基礎とする権力は、歳入の減少によってその力を失う。高度経済成長やバブルによって、自動的に増加する歳入が消滅したとき、大蔵省の配分権限はゼロに近づき、代わって、確実に歳入を上げ(増税)、その不満を抑え込む内務省的支配が待望される。
 大蔵省の「省の中の省」の地位が揺らぐとき、それが日本の戦後体制が揺らぐときでもあったのである。この権力闘争の間に、国民総背番号制も位置しているのである。
パーフェクトを目指して  自治省を含む旧内務省の力の源泉は、地方および国民の掌握にある。戸籍(民事局)と外国人登録(出入国管理局)とを手に入れた法務省は警察庁とともに、指紋の採取を画策していた。これは日本人・外国人を問わず、である。
 1,949年には「国民指紋法」制定のため、衆議院法務委員会で論議が行われている。しかし、この法案は結局、日の目を見ず、52年、外国人に対してだけ(外国人登録法)強制された。もっとも任意の採取は警察庁を中心に積極的に実施され、東京都、和歌山県、島根県、山梨県、山口県などで相当の成果を上げているまた宮崎県では条例によって指紋押捺を義務づけた。
 愛知県ではすべての中学3年生から指紋を採取。年中行事になっていたが、60年代の末、これを「人権侵害だ」とする市民運動が形成され、70年には廃止されている。前記の各都県でもそれ以前に自然消滅(宮崎の条例は自治省からクレームがつき、廃止された)したようで、70年以降、このような採取運動を耳にしていない(捜査の必要から全校生徒の指紋をとった、という例はある)。
 52年の外国人登録の「改正」に際しては「外国人だけから指紋をとるのは問題だ」という意見が政府内部にもあった。
「特に、本件外国人登録は在日朝鮮人を主として目的とする関係上、他の一般日本人に対してはなされていないことを、これら特定人に強制する結果となり、面白からぬ結果を惹起するのではないか」(1950年、外務省照会に対する法務省民事局回答)というのである。
そして、事実「面白からぬ結果」が起こる。指紋導入に対する激しい抵抗によって、実施は3年も延期された(実施は55年)のである。その後、外国人登録における指紋押捺は定着したかのように見えたが、1,980年、再び反対の声が高まり、1993年、定住外国人の指紋押捺は廃止に追い込まれた。全外国人対する完全撤廃は2000年4月1日に実現する。
 在日外国人のこの戦いがなかったら、政府(旧内務省)はなお、「国民指紋制度」の導入をあきらめなかったかもしれない。飽くなきパーフェクト管理の夢、これは今の行政権力の中に厳然と存在し続けていると思われる。
揺らぐ大蔵省の徴税権  旧内務省の復活を阻止する大蔵省の力の源泉は言うまでもなく、財政・金融の一元支配、国家予算のすべてを掌握することにある。なかでも重要なものが国民に税負担を課す徴税権である。大蔵省は唯一の徴税権力として、地方財政をも牛耳っている。
 ところが1,960年代後半、この絶対権力に陰りがさし始めた。それが自動車関連税である。登録や車検に際しての徴税という方法は大蔵省の頭越しに地方徴税できることを示しており、実際、地方の財源として地方の直接徴収している。
 自治省、警察庁、運輸省が地方と組めば、大蔵省の独占的な権力は危機に直面する。そして、まさに大蔵省の恐れていたことがやってきた。それが「納税庁構想」である。大蔵省から徴税権を切り離し、自動車関連税の徴収と一本化して役所を作ろう、というわけである。
 この構想の背後には自治省があり、納税を一本化する道具だてとして、コンピューターがあった。自治省は60年代の後半に入ると、住民票と自動車登録検査事務のコンピューター化を画策しはじめる。1,967年、住民登録法が大幅に改正され「住民基本台帳法」になったが、この改正は住民票のコンピューター化をにらんでのものだった。
 また、自動車登録検査事務のコンピューター化は1970年に実現される。運輸省の自動車情報は警察庁と地方自治体とに即時提供(バッジシステム)されるのであるが、地方自治体は独自にコンピューターを持つのではなく、自治省のお声がかりで作られた外郭団体「地方自治情報センター(全身は全国市長会で作っていた地方行政近代化センターだが、これは自治省によって解散させられた)」に集約される。
 地方自治体は「地方自治情報センター」から「自動車税情報」を分配されるわけである。自治体はこうして、自治省のコントロール下に組みしかれた。同センターはこのほか「住民情報システムを含む情報処理についての標準システムや標準プログラム、オンラインによる情報処理システムの調査・研究、コンピューター要員の養成」を業務とし、全国の自治体に浸透していくことになる。
 自動車関連税は大蔵省の地方支配を脅かすものだった。この脅威はその後、大蔵省の分割案や、地方分権による地方財政の独立論として展開される。大蔵省はそのたびにあらゆる政治力を使って、阻止に出ることになる。
総背番号制2つの流れ 1,967年、自治省を中心とする旧内務省のコンピューター支配の動きを察知した大蔵省は、予算の効率利用(安上がり行政)のための「行政統一コード(実質的な国民総背番号制)」を導入するよう、政府に進言した。
 これは推測に過ぎないが、旧内務省系省庁が考えている国民管理のための「国民総背番号制」とは一線を引き、あくまでも行政サービスの効率化を名目にしている。だからこれは大蔵省にとって「行政統一コード」でなければならかった。
 68年8月、政府は大蔵省の進言を入れ、「電子計算機利用の今後の方策について」を閣議決定し、行政管理庁(現総務庁)をキャップとする「関係7省庁会議」を組織した。関係7省庁とは行政管理庁、大蔵省、通産省、文部省、郵政省、科学技術庁、経済企画庁。注意すべきなのは、ここに旧内務省御三家の自治省、警察庁、法務省はもちろんのこと、旧内務省系の厚生省、労働省、運輸省、建設省も含まれていないことである。
「行政統一コード」の導入にあたって、大蔵省は旧内務省系の管理官庁を注意深く排除したのである。7省庁とは、文部省を除けば戦後力をつけた経済官庁ばかりであった。
 69年の末、この「行政統一コード」構想が新聞を通じて明らかになった。マスコミはこれを「国民総背番号制」として報道し、人々の注意を喚起した。「人権にとって、危機かもしれない」というのである。
 マスコミの問題提起に対して、人々もまた敏感に反応した。1,970年に高まった「国民総背番号制」に反対する運動と、個人情報の保護を求める世論とはこうした経緯で形成されたものである。
 人々のプライバシー意識、人権意識の高まりは「行政統一コード」の早期導入にレッド・カードを出した。行政管理庁はしばらく隠密行動を余儀なくされたのである。
 おなじころ、大蔵省に出し抜かれた旧内務省御三家は、「行政統一コード」とは一線を分かつ「国民総背番号制」を、戸籍のコンピューター化によって実現しようと額を集めていた。日本政府の国民総背番号制に向けた歩みは、このように当初から二重の流れがあったのである。それは官僚たちの権力闘争のひとつだったといってもいい。
法務省と自治省の一体化  1,967年、住民登録事務が法務省から自治省に移管され、名実ともに自治体の制度になるはずだった。しかし、住民登録は相変わらず、住民票は戸籍の補完システムとしての性格を色濃く残し、戸籍の差別をそのまま踏襲していた。
 住民票に「ある程度、戸籍の代替としても利用できるものである」と、住民基本台帳法の目的を逸脱した勝手な解釈を与え、それを唯一の根拠として「婚外子」の「父母との続柄」を(長男、二男・・・・・、ではなく)「子」と記載するよう定めた「住民基本台帳事務処理要領について」と題する通達は、この年の10月4日、5省庁の連名で出されている。
「住民登録法」が「住民基本台帳法」となったため、他省庁の個人情報が集中管理されることになった。そのため、主務官庁は自治省だが実務運用にあたっては、関連省庁と相談することになっており、5省庁の連名通達になっているのである。
 5省庁とは法務省民事局、厚生省保険局、社会保険庁年金保険部、食糧庁(当時はまだ配給制度が残っていた)、自治省行政局のことである。住民基本台帳はすでに、このような個人情報のリンク台帳であったのである。
 ともあれ、これ以降、自治省は戸籍−住民票による国民管理を維持・強化するため、法務省との二人三脚を始める。法務省が画策する戸籍のコンピューター化についても同様で、自治省は常に全面協力の姿勢を崩さなかった。
 法務省の戸籍コンピューター計画は日本人すべてに13けたの個人番号を振り、相互に親族、姻族が辿れるようにして、ボタンひとつで被相続権者のリストが打ち出されるようなオンラインシステム。71年、法務総合研究所の梅田昌博(前法務省民事局第二課長補佐)の個人私案として、初めて姿を現した。
「私案」によれば、入力は「個人戸籍編成形態」をとり、家族・親族との連絡は戸籍番号(パーソナルナンバーとも呼んでいる)」による、という。また、戸籍は公開を原則とする個人情報なので、この番号には規則性を持たせ、「コード表」を「閲覧に供する」ことになっている。
 法務省はこれをたたき台に、1,970年代、80年代、2度にわたる戸籍コンピューター化のためのプロジェクトチームを結成。細部の詰めを行った。戸籍簿中にある「認印」や戸籍の訂正・削除に用いる「赤線」の始末から、「禁治産者」など、差別を生みそうな記載をどうするか(現状のまま、と決定)などまで、延べ10年近くも幅広い検討が行われたのである。
 自治省はこの間、戸籍コンピューター化の完成に期待して、ずっと待ちの姿勢を続けていた。住民票も戸籍番号にリンクされる予定だったからである。旧内務省グループにとって、戸籍番号(パーソナルナンバー)こそが「国民総背番号」でなければならなかったのである。

その2

グリーンカード制の登場 「行政統一コード(大蔵省主導による国民総背番号制)」構想が世論の激しい反対にあうと、大蔵省は態度を一転させ「納税者番号制」の検討を開始した。「統一コードによる行政の効率化」という方向を、当面は放棄したのである。
 とはいっても、「行政統一コード」が「当面の研究対象」を「社会保障、特に社会保険の仕事における統一個人コード」だとしていた、前出「7省庁会議」の方針をやや修正して、手始めに「納税者番号」からスタートする、というだけのもの。ゴールは同じ「行政統一コード」である。
 大蔵省は当初から、イタリア、オーストラリアなど、コードを納税事務に限定した「(本来の)納税者番号制」には反対だった。税務に限定された番号では、大蔵省が考える納税者を裸にし、金の流れをガラス張りにすることは不可能だ、と考えたからである。
 1,978年、政府税制調査会の「納税者番号制」の提唱を行った。不公平税制を抜本的に改めるにも、不正納税者(脱税者)を根絶するにも、納税者番号制の導入が不可欠だというのである。
 この年の暮れ「第二ロッキード事件」と呼ばれた「ダグラス・グラマン事件」が発覚する。航空機導入における政府高官の汚職(航空機疑惑)である。翌79年、5億円の工作資金の行方をめぐって国会喚問を受けた自民党の松野頼三が議員を辞職。それでも5億円の行方は闇の中に閉ざされたまま。続いて「鉄建公団疑惑」も同様の経過をたどった。自民党の金権体質そのものが、民衆の激しい批判を浴びることになったのである。
 また、79年8月には経済審議会の「新経済社会7カ年計画」が打ち出され、80年からの一般消費税の導入を答申した。
 相次ぐ疑惑事件は人々に「金の流れの透明化」「不正納税者の根絶」を、消費税導入(増税)は国民に「不正納税者の根絶」「不公平税制の抜本改正」を求める声に結ばれる。これが「納税者番号制」への期待に短絡していくのである。
 大蔵省も「納税者番号制」などという不粋な用語を引っ込め、代わりに「グリーンカード制(少数貯蓄等当利用者カード)」という名称を提唱。あれよあれよ、という間に"国民"の声は「グリーンカード一色」になってしまった。これが「国民総背番号制」の1種であることを忘れてしまったのである。
 野党である社会党・共産党も、この制度の導入を迫ることで自民党を追い詰めた。自民党もまた、金権体質批判をかわすためには、導入に反対するわけにはいかなかった。結局、自公民(自民党、公明党、民社党)の調整を経た後に法案が成立。84年から実施されることが決まった。1,981年のことである。
自民・自治省の巻き返し 当時、"国民(その実態は源泉徴収されるサラリーマン)"の「不公平税制」に対する不満は、源泉徴収されない商工業者や農民へと向けられた。と同時に、不正の温床となっていた高額預金者の利子所得にも向けられた。
 大蔵省はこの不満に対するひとつの回答として「グリーンカード制」を打ち出した。直接はマル優(少額貯蓄非課税制度=現在は廃止)の不正使用の防止策だが、将来は「総合課税」導入の受け皿にする、という触れ込みであった。総合課税によって利子所得にも均等に課税し、グリーンカードによって高額預金者はもちろん、商工業者や農家の所得も完全に把握する、というのである。
 しかし実際には、総合課税には困難が多く、グリーンカードによって完全把握されるのは少額預金者でしかないこと。商工業者や農民の所得把握には相当な費用(税金)が不可欠であること。これが伏せられていた。サラリーマンの不満が世界でも類を見ない不当な徴税法である「源泉徴収」に向かわないよう、上手に誘導されたのである。
 大蔵省は「グリーンカード・センター」となるコンピューター・センターを埼玉県朝霞の自衛隊基地に隣接する国有地に建設。5階建ての広々とした建物で、多くの職員を抱える手はずになっていた。84年はカウントダウンを迎え、大蔵省の勝利は明らかなように見えた。
 法案に賛成こそしなかったものの、野党もまた、このカウントダウンを黙認した。「総背番号制」ではないか、とする1部の批判(私もそのひとりで、議員回りをした)を取りあげようともしなかったのである。事態は絶望的だ、といってよかった。
 ところが、実施を1年後に控えた83年に事態は一変する。自民党と民社党の実力者、金丸信、春日一幸らが突然「グリーンカード制」を批判。「自由主義経済に逆行する」管理主義的な"国民総背番号制"で、これを実施すれば、管理を嫌う巨大な資金が海外に流出し、円が「金」や「外資建て債券(ゼロ・クーポン)」に化けてしまう、という主張が急速に強まった。日本経済の失速を防げ、というのである。
 この主張はあっという間に「自公民」を飲み込み、鳴り物入りで成立した制度が、実施される前に中止される、という異例の事態が出現した。「自公民」によって、廃止法案が可決されたのである。
 これに対して「グリーンカード制」は確かに危ない、と感じる野党も、喉元過ぎれば熱さを忘れる庶民ももはや、反撃する力はなかった。金権政治を隠し通すためにも、自民党は大歓迎。大蔵省は一敗地にまみれた。
「自治省にやられた」
 これが大蔵省のトップたちの共通認識だった。大蔵省主導の「行政統一コード」が実現すれば、旧内務省一派が研究している戸籍コンピューター化計画はとん挫する。国民総背番号制は国に1つあれば十分(1つに統一されるからこそ国民総背番号なのだ)で、両雄は並び立たないからである。
 金丸信、春日一幸らを操って、これだけの逆転劇を演ずることができたのは自治省以外にない。大蔵省はそう考え、地団太を踏んだ。
外国人背番号の登場  1,980年は外国人登録法の指紋押捺拒否闘争が始まった年である。鉄壁の住民管理(日本人および在日外国人)を誇る旧内務省関係省庁にとってはまさに寝耳に水。予想もしない事態が起こったのである。しかもこの運動は多くの日本人の共感を呼びながら、燎原の火のように燃え広がっていったのである。
 当時から、激増するアジア人労働者の流入に対処するため、いっそうの管理強化(出入国管理・難民認定法の改悪)を狙っていた法務省にとって、これは大きな誤算であった。しかし、既定の路線だった「在日外国人総背番号制(1,980年に登場)」のコンピューター化は運動が絶頂期に入る前に押し込むことができた(82年に法案成立84年に実施)。
 法務省・自治省・警察庁にとって、在日外国人にカード(外国人登録証)を持たせ(常時携帯義務、罰則あり)、指紋と顔写真を含め、コンピューターで管理(警察庁はすでに指紋のコンピューター照合技術をNECと共同で開発していた。現在では顔写真も可能になっている)する態勢をつくることが何よりも重視されていたのである。
 これをいずれは日本人にも適用し鉄壁の住民管理をいっそう厚くすることが期待されていたのである。
 したがって、指紋押捺拒否をシンボルとする外国人登録法の抜本改正(指紋廃止、常時携帯制廃止、重罰規定廃止)を求める運動と、大蔵省主導による国民総背番号制実現とは、旧内務省御三家の構想を根底から脅かす二大敵と考えられた。 
 警察庁の警告を受けながらも、指紋廃止に動き始めた法務省だが、常時携帯制については一歩も譲らず、警察もまた登録住所地と居住地が異なる在日外国人をこれみよがせに逮捕するなど外国人登録法の管理支配力をいっそう強化する方向を探った。指紋の代わりに戸籍同様の親族情報を登録させ(家族登録制度新設)たのも、そのひとつである。 
 こうした在日外国人対策を進める一方で、自治省は1984年、住民基本台帳法を改悪(施行85年)。[(紙の)台帳]を整備せず[コンピューター・データベース]のままでOKである、とし、自治体を超えたコンピューターによる広域処理に道を開き、住所・氏名・生年月日・性別(4情報)を打ち出したコンピューターリストを閲覧用に提供することを認めた。
 法案成立の日、国会傍聴した私の目撃したのはコンピューター業者や信用調査会社の代表者たちが挙げた喚声であり、拍手の渦であった。私はただ1人、傍聴席を後にしたのである。
 そして、1994年、法務省は戸籍法を改悪(施行は95年)。戸籍事務のコンピューター処理に道を開いた。だがこれは尼崎市や船橋市など、コンピューター業者とタイアップした自治体が独自に進めた戸籍事務のコンピューター化にタガをはめ、将来の混乱を防ぎ、統一していこうというもの。法務省のコンピューター計画を推進するもの、というより、推進を妨げる恐れを排除する、という消極的なものだった。
 これによって、戸籍コンピューター計画はかえって、実現までに時間がかかるものであることが明らかになった。戸籍をベースとする国民総背番号制の実現には、なお20年を必要とする。これが法務省の判断である。私はこれを30年と踏んだ。
大蔵省にチャンス再び  大蔵省の「統一行政コード」計画は自治省によって寸前で阻止されたが、大蔵省にも大きなチャンスが残された。というのも「税負担の公平性のためなら、納税者番号制もやむなし」という声が、国民各層に相当浸透したからである。
 これらは主に「源泉徴収」という日本独特の徴税制度によって、ほぼ完ぺきに自動徴収(給料からの天引き)されているサラリーマン層の不満を、源泉徴収の廃止ではなく、サラリーマン以外の人たちの所得の完全捕捉へと向けさせることに成功した大蔵省の勝利だった。
「源泉徴収」というやり方は納税者の納税意識を削ぎ、その結果、税の行方(予算)に関心の薄い、政治離れ人間を大量に生み出してしまう。そして、それはまた労働の対価としての賃金の意味をも歪めてしまう。働いた者がまるごと受け取ることによって、中間搾取を監視する労働者としての自覚が生まれる。「源泉徴収」がこの自覚をないがしろにした結果、多くの「天引き制度」が給与体系に組み込まれ、これに黙々と従うサラリーマンを生み出した。
 この国のサラリーマンは納税義務者でもない。納税義務者は事業主なのである。サラリーマンを愚弄するこんな制度をそのままにしながら、そこから生まれる不満を操る。こんなことは日本以外の国ではおよそ考えることもできない。
 ともあれ、「納税番号制もやむなし」という強いエールを受け、大蔵省は、これまで比較的受け入れられやすい、と考えてきた「福祉行政」に関する番号(年金番号)をベースにした「統一行政コード」づくりから、「納税者番号」をベースにした「統一行政コード」づくりに方向を転換する。
 先の7省庁会議の流れを持つ経済官庁は「基礎年金番号」の導入を支持したが、その第一の目的に「納税者番号制に利用できる」ことを挙げるようになった。この主張が鮮明にされる契機となったのが、1989年の「関係(13)省庁連絡会議」の発足である。
納番制をめぐる綱引き  この会議は1988年12月、政府税制調査会の「納税者番号等検討委員会」が納税者番号制の必要を強調した報告書をまとめ、これを受けて89年の2月に発足した。正式には「税務等行政分野における共通番号制度に関する関係省庁連絡会議」と称している。
 この会議には前述した7省庁会議(ただし行政管理庁は総務庁行政管理局に移行)の構成メンバーのほか、旧内務省トリオや外務省、厚生省、労働省の計13省庁が参加。「行政統一コード」と「(旧内務省系の)国民総背番号制」構想のドッキング、大同団結のように見える。
 しかし、納税者番号という、大蔵省にとって中庭のようなテーマを扱う場に、旧内務省系の足場が築かれたのである。これは大蔵省・厚生省による「基礎年金番号」構想に黄信号がともったことを意味する。
 これにあわてた大蔵省は、巻き返しを図るため、90年の「税制問題等両院合同協議会」の席上「大蔵省として、納税者番号制は税の公平のためにも欲しい制度である」である、と表明。「社会保障番号(基礎年金番号)が望ましい」と明言した。
 厚生省の前身は内務省なので、本来、経済官庁ではなく管理官庁である、といっていい。そのため、前の7省庁会議に厚生省は含まれていない。
 しかし、厚生省は前身を内務省に持つ他の官庁(労働、運輸、建設)とは違って、戦後、アメリカの政策によって分割された省庁ではない。戦争準備のために、戦前から分離独立した省庁なので、「内務省復活の夢」を抱く旧内務省出身者が省内にいるわけではない。この点で旧内務省トリオ(自治、警察、法務省入管局)とは一線を引いている。
 また、1970年代前半に盛り上がった福祉国家への期待感の中で、厚生省予算が巨額化するにつれて、大蔵省の厚生省支配が強まっていく。厚生省としても「もちつもたれつ」で、大蔵省に擦り寄る必要が強くなる。大蔵官僚出身者が厚生大臣になる、という慣例もここから生まれた。
 1,970年代の後半には、厚生省も経済官庁化(本体が管理官庁である点は変わっていない)し、すっかり大蔵省の手の内に入る。こうした中で「基礎年金番号を納税者番号として利用する」というシナリオが描かれていく。

その3

抜け出した年金番号  92年1月、政府税調の「納税者番号等検討小委員会厳格年は納税者番号を「年金番号を利用する北米方式か、出生時に付番する北欧方式に絞る」ことを決定。納税者番号を、他の行政番号とリンクせず、税務処理に限定して利用しているイタリアやオーストラリアの方式を最終的に捨て去った。
 税の公平性を名目に、納税者番号を国民総背番号制に利用しようと、いうのである。この点では、大蔵省・自治省の思惑は一致している。
 92年5月、社会保険庁は年金番号の一元化に向けて始動。9月の「納税者番号等検討小委」の席上、「95年に一元化する」と表明した。
 これに対抗するように、同じ92年9月、自治省の「異動情報ネットワーク部会」は住民基本台帳の個人番号を「95年度をめどに一本化する」と発表した。先行する社会保険庁(大蔵=厚生連合)の北米方式に、何とか追いつこうという自治省版(旧内務省トリオ)北欧方式のもがき、である。
 翌93年、社会保険庁が「社会保険事業将来構想」を策定。その中で、基礎年金番号を十桁とし、「95年に実施」することを打ち出した。
 これに対して、自治省は自治体職員の年金である「地方公務員共済」の一元化に激しく反対した。地方公務員の安定した共済年金を、国民年金など、他の不安定な年金制度と統合すること許さない、というもの。一般的には地方公務員の権利擁護(外から見れば)発言のようにも見えるが、そうではない。年金番号の一元化を妨害し、基礎年金番号の95年実施を阻止しようとしたものである。
 自治省のこの作戦にうまく乗せられたのが自治労である。自治労はかつて、全電通とともに「国民総背番号制」の導入阻止に大きく寄与したことのある労働組合である。70年代にも「年金手帳」の統一化に際して、通し番号の採用を阻止した実績がある。基礎年金番号の導入阻止という目的では、自治省・自治労の労使は利害が一致したのである。
 が、問題はその後、である。税の公平性の確保には納税者番号制が必要だ、との声が連合(日本労働組合総連合会)など労組の中に広がると、自治労は「納税者番号制が必要なら、それは住民票方式(北欧方式)」という主張に傾いていく。
 しかし、大蔵省、厚生省による年金制度の抜本改正の流れを前にして、自治省の抵抗には限界がある。制度の統合は段階的としたものの、番号の一元化は避けられず、「利用の合理的運用」を主張する大蔵省・厚生省に押し切られてしまうのだった。
 94年4月、社会保険庁は「95年1月から基礎年金番号の利用実験のスタート」を決め、兵庫県の芦屋市、尼崎市を実験場に選んだ。97年の本格利用開始をにらんだ実験で、自治省は土壇場に追い詰められることになる。
総合課税の先送り 94年5月、大蔵省は「納税者番号に関するアンケート」を実施。その結果、プライバシーに対する懸念が多く出された。それにもかかわらず、その年の12月、総合課税の導入先送りと、納税者番号制の早期導入の方針を決定した。
 もともと納税者番号の必要性は、不公平税制の是正、すなわち総合課税(キャピタルゲインを含む)の導入を前提に、考えられてきたものなのである。ところが、その前提である総合課税を「早期導入は困難」とし、それとは切り離して「納番制」を導入しようというのである。
 「納税者番号制」の採用が現実のものとなると、総合課税の導入による不公平税制の是正は、大蔵省にとって、やっかいな課題となる。番号は欲しいが、お荷物(課題)は背負いたくないのである。
 実際、総合課税は徴収に多くの費用負担や人的手数を伴う課税方式であるのは事実である。また、国民の過剰期待(あおったのは大蔵省自身だが)にこたえるパーフェクトな公平性は確保できない。
 が、この見送りはそうした筋に沿ったものというよりも、単に、従来の「取りやすいところから取る」大蔵省の"さじ加減"を手放したくない、という都合から打ち出されたものと思われる。
 大蔵省はこの時点ですでに「国税総合管理システム(KSKシステム)」の採用を決定。96年4月からの本格稼働に備え、予算措置をも終えていたのである。つまり、厚生省・自治省の北米方式対北欧方式の抗争が、どちらに決着しようとしまいと、大蔵省自身で、イタリアやオーストラリアがやっているような「納番制」をとることは可能なのである。
 96年から稼働しているKSKシステムとは、各税務署の情報を集中管理し、納税者の番号割り当てを全国的に一元化したもので、引っ越しても変わらない、というもの。すでに名寄せなどで十分な力を発揮している。
 つまり、大蔵省がここでいう「納税者番号制の早期導入」というのは、イタリアやオーストラリアが実施しているような単なる「納番制」ではないことになる。税の公平性の確保には関心が薄いものの、徴収の確実性を高める管理強化のためには何でもやりたい、というのである。
 この大蔵省のやり口に、うまく乗せられたのが連合(日本労働組合総連合会)である。連合は96年、総合課税を見送った大蔵省になおも秋波を送り、特別減税(消費税が5%になったための緩和措置)を要求するとともに、納税者番号制の早期実現を、重点政策のひとつに位置付けた。
 総合課税の展望を打ち出すこともなく、手段であるべき徴収方式を、政策の目的に掲げたのである。これは本末転倒、倒錯であるとしか言いようがない。しかも、イタリア、オーストラリア方式の納番制ならすでに導入済みである。連合は本来なら、これ(KSKシステム)をどう活用するかを検討すべきだったのである。
自治省の反撃始まる  土壇場に追い込まれた自治省は、大逆転を狙って、94年8月「住民記録システムネットワークの構築に関する研究会」を急きょ、発足させた。自治大臣直属の私的諮問機関で、東京大学法学部の小早川光郎教授を座長とする14人の委員からなる研究会だが、5人の学者を除けば全てが自治省とその周辺の管理側人脈で占められ、市民の代表は皆無であった。いかにも付け焼き刃的な印象をまぬがれない。
 実際、この委員会は自治省の指示の下、わずか5回(うち1回は挨拶、1回は視察)の会議を開いただけで「住民基本台帳ネットワークシステム」の構築に向けた「中間報告」を発表するのである(報告は95年2月23日付だが、マスコミの発表の解禁は3月1日17時、新聞は2日朝刊だった)。
 この間、日本の政治の舞台裏で、何か見えぬものがうごめいていた。政府・自民党の行政改革の柱として取りざたされていた大蔵省の分割(財政と金融の分離)案が、大蔵省の巻き返しで日の目を見ないことが決定的になる。反対に、発表された自民党の行革案では自治省が総務庁や厚生省に分割吸収され、姿を消すことになっていたのである。
 この案は大蔵省のサジェスチョン(通産省が本当らしい)によるものとして激怒した自治省は「自治省の解体」を支持する自民党の議員を1人ひとり呼びつけ、「解体を撤回しないと、選挙で落選させるぞ」と脅迫した、というのである。
 自治省はすでに全国の知事や大都市の首長の座を一手に握り、選挙事情に明るい(違反者の摘発はその力のほんの一部)警察庁を抱えている。内務省時代には「大政翼賛会」を組織し、反対者を完全に締め出す「翼賛選挙」を取り仕切った実績もある。
 この自治省が本気になって「選挙で落としてやる」というのだから、議員が震え上るのは無理もない。橋本行革はしだいに、力のある省庁の「焼け太り」の様相を見せ始める。
 97年に成立した「行政改革法」で、自治省は結局、一切の分割を免れ、総務庁と郵政省を吸収することになる。巨大権力の成立である(警察庁もこれまで自治大臣の兼任だった国家公安担当大臣を独自に出すなど、巨大化し、旧内務省勢力の"わが世の春"が約束された)。
 94年の暮れごろから、大蔵省高官の不祥事が取りざたされるようになる。厚生省の高官もまた血液製剤の許認可をめぐって、大きな不正のあったことが明るみに出始める。大蔵省・厚生省はこれを「自治省の報復」ではないか、と恐れ、浮き足立つのである。
土俵際でのうっちゃり  1995年、この年はまさに大変な年明けになった。1月17日、阪神淡路を襲った大震災は多くの人の命を奪い、財産を焼き尽くした。
「人命優先」を掛け声に、救出活動の先頭に立った警察は、人命よりも"死者の管理"即ち身元の確認を優先した。そのためには海外の救助部隊も自衛隊も邪魔だった。また、日赤(日本赤十字社)の被災者救援も、「公平な救援」を追求するあまりに"被災者管理"に走った。救援物資の多くは配られることなく野積みにされたのである。
 旧内務省シフト(日赤もその一つ)の崩壊である。それにもかかわらず、警察の失態は自衛隊出動の遅れのせいにされ、日赤の失態はボランティア称賛の声にすりかわってしまう。その上、救出・救援の遅れを命令系統(社会党の首相と国土庁の指揮)の不備に求め、「内務省の復活論」さえもが公然化する(同様の声は「地下鉄サリン事件」に続く一連のオウム真理教事件の中でも増幅された)。
 自治省にとって天佑だったのは、この震災によって厚生省が計画していた芦屋、尼崎での「基礎年金番号制」の利用実験がとん挫してしまったことである。厚生省は97年の本格実施をテストなしに迎えなければならなくなってしまった。
 94年12月、自治省は突然、住民基本台帳法の通達を改正。95年3月1日から"婚外子"の続柄による差別を廃止する、と発表した。これはいうまでもなく、その日に発表される「住民記録システムネットワークの構築に関する研究会」の「中間報告」のツユ払いが目的である。
 住民基本台帳を総背番号制のベースにする以上、そこに国連からも廃止を勧告されている差別が残っていてはうまくない。それまで、国連勧告を無視していた自治省の豹変である。
 これに対して厚生省は「勝手に通達を変更するなど、許しがたい」と激しく抵抗した。確かに住民基本台帳法の基本通達は厚生行政にも密着しているため、連名で出されるのが筋である。自治省は明らかにルールを踏み破ったのである。
 しかし、「差別を維持せよ」という厚生省主張はあまりにも薄ら寒い。自治省は越権行為を非難する厚生省に対し、涼しい顔でやり過ごすことができた。かつて、婚外子の続柄差別を利用して"未婚の母"に対する児童扶養手当の打ち切りを画策したことのある大蔵省=厚生省はスネに傷を持つ身。「続柄表記」で自治省と渡り合うには限界があった。
 それどころか、95年には大蔵省、厚生省の高官が相次いで逮捕。・起訴されるという前代未聞(巨悪を叩く検察は、大蔵と二人三脚。一体とまでいわれていた図式が崩れた)の事態が沸き起こる。トカゲのしっぽ切りで不祥事を乗り切ってきた日本官僚制の常識が崩れ去ったのである。いきなり頭に切りかかられたため、手足に当たる下級官僚はすくみ上がった。
 法務・検察という、旧内務省勢力の底力を思い知らされたのである。この年の6月、厚生省は、自治省の意を汲んだ自治労との交渉の席上で「基礎年金番号は、年金分野に限って利用されるもの。国民総背番号制とは無縁だし、納税者番号制と結びつくものでもない」と回答。後に、同様の念書を自治省に差し出している。
 自治省の勝利――このニュースは全国の自治体にも波紋のように広がった。「国民総背番号制は北欧方式になる」――この噂は、もう確定した事実でもあるかのように、筆者のもとにも飛び込んできた。国民が議論すべきことが、やくざのような裏手法によって決まっていったのである。95年5月のことである。
基礎年金番号の崩壊  1997年1月、厚生省(社会保険局)は予定通り、全国の年金加入者ひとりひとりに対して「基礎年金番号」を設定し、通知した。「これがあなたの基礎年金番号です。大切にご保管ください」といった文面で通知されたものだが、これを受け取った方は、なぜ大切なのかもわからず、キツネにつままれたような思いを抱いた人がほとんどだった。
 鳴り物入りで「総背番号制」の完成を祝うはずだったものが、こっそりと裏口から忍び込むありさまだったのである。
 考えようによっては、これで日本の「国民総背番号制」は完成した、ということができる。残るは年金未加入者に対する付番システムを法的に確立する(現行法のままでは不可能)ことだけである。
 しかし実際のところ、十分な使用実験もせず、いきなり本番を迎えたこの番号は、重複や錯誤を大量に抱え、「生涯不変」がうたい文句の番号を保険局自身が毎日のように修正しなければならない異常な事態に陥ってしまった。
 このままではとても「国民総背番号制」に転用できるしろものではなくなってしまったのである。後に当時の政務次官が「十分に考え抜いたつもりだったが失敗だった」と漏らしたように、「基礎年金番号」は自壊してしまったのである。
 その最大の原因は降ってわいた地震ではない。自治省の「住民基本台帳番号」の急追を恐れて、完成を急いだことにある。そのため年金未加入者対策など、法改正が必要な事案を先送りし、法改正によらない自前の「個人情報管理システム」をデッチ上げようとしたことにある。
 そのため、個人情報の保護措置がおざなりになり、不正利用の防止規定や罰則規定などの手だてが何一つ図られていなかった。これは明らかに主権者をないがしろにした"やり口(従来通りの)"だったのである。
 自治省はこの点を衝いた。OECDの国際基準を持ち出し「厚生省の番号制度はこの基準をクリアしていないではないか」というのである。この意外な角度からの攻撃に、厚生省は沈黙するほかはなかった。こうして「基礎年金番号」は、当面、厚生省内部の年金事務の合理化(コンピューターによる統合管理)に限って用いられるもの、となった。
 では自治省の「住民基本台帳ネットワークシステム」は、今日の国際的な個人情報保護基準をクリアしていると言えるだろうか。1,998年3月、自治省の「住民基本台帳法改正案」上程を閣議決定する直前に開かれた自民党の政策部会では、本当に灰皿が飛んだという。厚生省の族議員が自治省案の上程に激しく抵抗したからである。
 そして3月10日、閣議決定による即日上程が行われたが、この時も、厚生大臣が最後の抵抗を試みた。この閣議決定に際しては、こう条件がつけられている。この「住民基本台帳ネットワークシステム」は、住所の確認事務に限って用いられる、というものである。
 こうして「基礎年金番号」の巻き返しのチャンスが首の皮1枚で残されることになった。大蔵省が納税者番号として何を利用することになるか。その結論はまだ出されていない。

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