「新亜」連載・エッセー「のびやかに」

在日韓国・朝鮮人のためのアイデンティティー情報誌『新亜』で、豊かに生きあうためのBUMsエッセー「のびやかに」の連載が終了しました。全文をBUMホームページに掲載します。ぜひ覗いてみて下さい。
1999年4月〜2000年8月


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シスコのアジア人

 明治のはじめアメリカに渡った一人の日本人の足跡を追って、先日、サンフランシスコを歩いてみた。彼ばかりではない、さまざまな理由で日本を飛び出した若者たちは多くがこの街に住み、仕事に就いた。そして、差別につき当たると、チャイナタウンの中国人の支援を受けながら、差別と戦い、チャイナタウンの隣接地に日本人町を築いた。
 日本人町に拠点を置いた日本人たちは続いて、ハワイを併合し、アジア人から選挙権を奪ったアメリカ合衆国政府に抗し、ハワイのアジア人と結んで執ような抵抗を試みた。
 その日本人町も、サンフランシスコ大地震を契機に西方に移転。チャイナタウンからの独立を果たした。が、第二次世界大戦における日系人収容で、荒れ果てた日本人町の南半分にブラック・パワーが進出。戦後しばらくすると、ここに韓国人の進出が始まった。
 サンフランシスコでの日韓の協力を今回では直接見聞することはできなかった。が、共通の課題が多く、行動を共にすることが少なくないと聞かされている。実際、ジャパンセンターの南西に当たる隣接地域にはハングルの看板が溢れていた。
 世界から見れば、日韓は極めて近い。中国ともしばしば混同される。その同質性があるからこそ、海外では互いに親密感がわく。が、反対に本国ではまた、しばしば異質性を強調する。民族性というやである。

 ところで、今号からこのコーナーに連載をさせいただくこととなったこのわたしは、フリーのライターで、戸籍制度の研究家でもある。1982年9月には指紋押捺を拒否した韓宗碩さんを支える会を組織。84年には"運動のバイブル"と呼ばれた『ひとさし指の自由』(社会評論社)を編集してもいる。
 鄭代均さんが著した『韓国のイメージ』(中公新書)は、日本人の韓国に対する関心の持ちようを五つの類型に分類。指紋押捺拒否(反外国人登録法)運動を支援した日本人を「贖罪型」とみなしている。
 たしかに外登法の問題性を「強制連行の負の歴史を無視するな」という文脈の中で語った人は多かった。この論理は多くの人の心に響いたし、なお重要な意味を持つ。
 しかし、ことを自分に限って言うならば、わたしに贖罪意識はほとんどない。強制連行があろうとなかろうと、韓さんが韓国人であろうとなかろうと、わたしは韓さんを支援しただろうと思うのだ。
 鄭さんの分類にあえて従うなら「イデオロギー型」ということになろうが、それはなにもありきたりな政治思想ではない。うまくは説明できないが、時代の流れや国家を含む大きな力に対して、人びとが少しでも伸びやかに生きあうには、どうしたらいいのか、というテーマに対する関心であるだろう。
 これを人権思想と言い換えていいが、もっと生活実感のレベルでいえば、隣人(友人や家族を含む)と生きあえる環境づくりである。つまり、わたしにとっての反外登法闘争とは、わたしが隣人といっそう豊かに生きあうための必然的な取組みだったといえる。
 サンフランシスコで一人の日本人の航跡を追ったのも、広くは同じ問題関心に基づくものだろう。そしてまた、わたしの戸籍への関心もこれと似ている。わたしの戸籍研究、反戸籍闘争もまた、国家や時代の制約を超えて、わたし自身が隣人ともっと豊かに生きあうための環境づくりにほかならない。
 日韓の同質性や異質性は丸ごと肯定したり否定すべきものではない。わたしはその両面を探求してみることに強い関心を抱いている。それが自分を知り、隣人と出会うために役に立つと思うからである。
 わたしはこのコーナーで、戸籍という観点からこの探求をしてみたい。いや、探求というにはいささか材料に欠けるところが多い。戸籍をヒントにした、ちょっとした思いつき程度に考えていただいたほうがいいのかもしれない。しばらくのおつきあいを、どうかよろしくお願いしたい。

A

『シバジ』に見る家

 『シバジ』という映画を観たことがあるだろうか。両班(ヤンパン)の血筋を守るため、代理妻に子を産ませる。その時の夫と妻、そして代理妻の心の葛藤を描いたものだ。広く養子を受け入れる日本型「家」制度とは違った、朝鮮型「家」制度(宗族制度)の悲劇である。
 もちろん私はここで「子なくば去る」といいう言葉に代表される日本型「家」制度のほうが悲劇が少ない、と言おうとしているのではない。現れ方はさまざまでも「家」制度が生み出す悲劇はどっちもどっちだということを言っている。
「あれは李朝でも特殊なケースだ」「架空の話だ」という言い方があるのも知っている。しかし、個人よりも「家(系)」を大切だと考え「家(系)」のために尽くそうとすれば、犠牲になる個人が必ず生まれる。程度の差こそあれ、それが悲劇であることに違いはない。
 ところで『シバジ』で私が注目したのは、メイン・テーマである「家」を背負った両班の運命ではない。その代理妻としての選定条件にかなった「姓のない村」の娘の運命である。というよりも「姓のない人々の村」の存在そのものである。
 監督の林権沢がこのような村を設定したのは、主題が「家」と「家」の激突になることを避けるための工夫にすぎないのか。あるいは、そのような村の存在や、そのような村の利用(代理妻などとして)は一定の現実(史実)を踏まえているのか、ということである。
 日本に「姓のない人びとの村」があったのはよく知られている(といっても誤解だらけで、江戸幕布が姓の公称を禁じた農民たちを、姓のない人々と思い込んでいる人がほとんど)。大和政権の支配下に組み込まれることのなかったエゾや琉球、南西四国や南東九州など、各地に無姓の民の村があったのである。
 姓を奪われたり、禁じられたりした人々ではなく、はじめから持っていない人々が、朝鮮にもいたのではないか。私はそんなふうに考えている。だから、明治になって「苗字」を強制された日本人と同じように、近年、姓を名乗るほかなかった朝鮮人があったと考えてもおかしくはない。
 ここでいう"近年"とはいつのことなのか、私には定かではない。だが、『シバジ』はそれ以前の社会を描き出しているのではないか、私はそう考えている。というのも、原朝鮮人は原日本人同様、無姓の民族(といえば世界中がそうなのだが)だったはずだからである。
 姓は中国が発明したもので、朝鮮も日本も世界と比べれば大昔といえる時代にこれを取り入れた。
 姓は女扁の字でわかるように、本来は母系のトーテムを表すもの。熊とか鹿などの動物名が多かった。これが「家」制度(儒教の前身で「宗法」といった)の発達とともに父系の血統表示に変化した。
 朝鮮や日本が取り入れたとき、姓はもう父系の表示になっていた。百済や大和はまだ母系の強い社会だったので、姓の考え方と矛盾を起こすことになったが、やがてこれを受入れていく。朝鮮・日本の父系化は儒教の受容、「家」制度の確立と並行して進む。
 古代中国において「宗教」とは「家」の「示し」、すなわち「家」制度である。したがって父系の「家」のしきたりを守ることは人の道とされ、人倫の基礎とされた。姓の継承こそが、その大きな柱のひとつとなる。
 この父系の継承図を中国では「宗譜」、朝鮮では「族譜」、日本では「(家)系図」と呼んだ。ちなみに琉球では「家譜」と呼んでいる。有力な家にとって、この継承図は、権力の正当な継承を証拠立てる極めて重要な文書である。しかし、一般庶民(百姓)には無縁なものである。
 したがって、朝鮮にも日本にも、無姓の民は多かった。とりわけ中国文化の受容が遅れた琉球では、明治になって日本の支配が確立されるまでは姓を持つ人々の方が少数派であったのである。
 世界には今なお、無姓の民族が少なくない。スカルノはスカルノ、メガワティはメガワティである。ヨーロッパに姓が登場するのは14世紀、イスラム世界は17世紀、東南アジアでは今世紀のことである。姓は人類にとって、不可欠なものではないのだ。

B

「済州島」の文化から

 韓国有数の名峰、ハンラ山を中心に、美しい裾野を描く島・済州島。バナナの葉陰を抜け、オレンジの畑を縫って行くと、緑の海に浮かんでいるような集落に出会う。軒を低くして石垣に守られたような家々。門を固めるひょうきんな石像・トラハルバン……。この風景とこの香り「ああ、懐かしいな」と、私は思わずひとりごちる。「ここは琉球や石垣島によく似ている」と、しみじみ思うのである。
 済州島の別名は"三多島"。石と風と女性が多いことから、こう呼ばれるようになったという。石と女性について、今、語るスペースはないが、風については語っておく必要があるだろう。そう。ここは琉球同様、台風のメッカなのである。その風を防ぐために、石垣に守られた軒の低い家が発達した。つまり、両島の建築様式の類似性は自然現象によって説明がつく。
 では、家を守るトラハルバンとシーサー(獅子)はどうだろうか。あるいはまた、女性の高い地位、儒教とは一線を画すおおらかな親族関係の組み方(沖縄本島ではすっかり衰退しているが、離島ではまだ根強い)はどうだろうか。済州島と琉球との、この共通性を自然現象だけで説明することはできない。そこには共通の文化的な素地があるのではないのか。
 そういえば私は、中国の海南島を旅したとき、寺院の守り神として、トラハルバンにそっくりの石像や、シーサーにそっくりの石像にたくさん出会っている。だからおそらく、台湾にも似たような石像があるのでは、と思うのだが、残念ながら台湾にはまだ行っことがない。
 済州島の歴史は普通、十四世紀の火山噴火による先住民族・州胡人の滅亡から説き起こされる。この白紙の島に梁・高・夫の三神人が出現し、それぞれが日本人妻を娶って、梁・高・夫の家を築いたというのである。済州島にはこの三神人の出現の地が聖地として手厚く保存されていて、観光バスも必ず停まる名所になっている。
 確かに梁・高・夫の三姓は半島には少ない姓であり、済州の固有性、独自性をさし示す伝統的、文化的な指標であるといっていい。朝鮮(韓)半島に対する文化的な差異を際立たせる貴重な指標である。
 が、一方でそれは儒教的・家父長的な「姓」のルールに済州島もまた絡め取られたことを意味している。三姓の出現はまた、済州島の固有性、独自性の解体でもあったのである。
 もちろん済州本来の伝統文化が州胡人の滅亡によって終わり、済州が半島の儒教的、家父長的な文化圏に組み込まれた、というのなら、ここで何かを語る余地はない。白紙の島にどんな文化を植えようと、それが島の固有性や独自性を奪うことにはならない。その場合は、半島に対して三姓が持つ差異性(ささやかな固有性、独自性)こそが謎になる。
 だが、済州島に吹く風やトラハルバン、母系の名残は、済州が半島の儒教文化に組み込まれきっていなことを示してはいないだろうか。琉球弧やその先に連なる東南アジア、太平洋の島々の匂いを伝えてはいないだろうか。つまり、三神人が出現する以前の州胡人の文化が、依然として名残を留めているのである。州胡人の絶滅―それは神話的な誇張であろう。
「14世紀、済州島は無人だった」というのも神話的な誇張である。だが、それ以前には儒教的・家父長的な「姓」を大切にする人間はいなかった、というのなら、それはその通りだったろう。州胡人もまた、当時の琉球人と同様、姓を持たない民族であったと思われる。
 民族国家の成立以降、伝統とか文化はとかく国家単位で語られがちである。しかし、伝統とか文化にはさまざまな深さや広がりがあって、国家や国境とは必ずしも関係がない。だが、地勢的にたまたま辺境に位置した文化は無視され、切り捨てられることが多い。
 済州島と琉球、この両文化が互いにどのような関係にあるのか、そうした研究はまだほとんどないのではないか。さまざまな地域が、それぞれの文化を豊かに交流し合うためには、辺境を切り捨ててはならない。ていねいにていねいに、互いの固有性、独自性を付け合わせていく必要がある。私はそこに国家の色眼鏡を持ちこんではならないと思うのだ。

C 「行列名」を考える

 「木は火に焼かれて土となる。土は凝固して金となり、水で選り分けられて形をなす。水はまた、木を育てる」
 今は昔、私が戸籍を研究していると知って「族譜」を見せてくれた新宿の焼肉屋のおじさんが、「五行」の話をしてくれた。中国の原素観である五行のことは「五輪の塔」などで知ってはいたが、木→火→土→金→水という順序が、このような因果で説明されるのは初めてのことだったので、目を見張った。
 五行、すなわち「陰陽五行説」の五行である。日本では「きのえ、きのと、かのえ、かのと……」という「十干十二支」の十干(五行に兄弟――え、と、を加えたもの)でもある。
 「わが民族の名前には"行列名"というのがある。各世代が五行にちなむ漢字を名につける。第一世代が木偏の文字なら、第二世代は火偏の文字を使う。偏とは限らない。熱の字の「ァ」のように、火を意味する部分が組み込まれていればいい」
 だから東達は「木」、超煕は「火」、在明は「土」、寿鑵は「金」、泰元は「水」となる。おなじ李さん同士が出会っても、行列名を持っていれば、どちらが先の世代なのかは一目瞭然なので「序列に混乱が起きない」というのである。
「韓国には長幼の序よりも上位の観念として、世代の先後の序がある」
 おじさんはそう言って胸を張った。が、歴史を長く重ねれば、なん世代か前の人がこれから生まれてくることもありうるので、ひどく奇妙な思いにとらわれたものだ。
 私はこのような名を関係指標(姓もその一つ)と呼び、個人指標としての名、と区別しているが、朝鮮は中国の姓名を取り入れながらも、全く独自の関係指標を生み出したのである。世界にはさまざまな関係指標があるが、行列名はきわめてユニークなものである。
 族譜は一族のこうした秩序を維持するのに効果的で、一族の総本家が世代ごとの使用文字を、族譜の配布を通して指定してくることもあるという。
 そのためだろう。行列名が広まったのは、族譜が一般に普及したのとおなじ十七世紀のことである。ちなみに最古の族譜といわれる永楽譜は一四二三年に始まっている。
 日本の戸籍との関係は後ほど、たっぷりと語らなければならないか、少なくとも戸籍には一族をコントロールする機能はない。長幼の序も一家族内部の序列にとどまり、一族には及ばない。日本に固有の「長男、次男、三男……」という続柄呼称は明らかに日本的なものなのだ。
 朝鮮の「家制度」は「門中」であり、一族にわたるもなのに対して、日本のそれは一家に限定されている。朝鮮の一族は姓不変の原則に立った同姓集団である。が、日本の一族は分家して一家を創立したものが新たに姓を創始するのが江戸時代までの慣わしだった。
 この違いが朝鮮の姓を限定し、日本の姓を多様化させた直接の原因で、世界でも両極を占めるものとなっている。朝鮮の姓は少数民族社会を除けば世界最少だし、日本の姓の多さは人種の坩堝アメリカに次ぐものである。
 おなじように中国の宗法をうけいれ、「家制度」を育てた日本と朝鮮だが、わずかな差異が大きな違いを生んだ。
 日本が朝鮮を植民地にしたとき、日本的な家を反映する戸籍制度を押しつけた。つまり、朝鮮は創氏改名以前に、まずは「長男、次男……」式の続柄呼称を押しつけられたのである。
 「長男、次男……」式の呼称は日本的な「家制度」を反映した差別呼称である。とりわけ婚外の子をこの序列から排除している仕組みは許しがたい。開放後、韓国政府が行った最初の仕事が戸籍記載上の「創始改名」の復旧と、「長男、次男……」式続柄呼称の廃止であった。
 行列名的な感覚が、差別呼称の廃止を生んだのかもしれない。一方の伝統が、他方の伝統の欠陥を見破る。そうして互いがその伝統を改め、高めていく。私は、伝統をそのような作用として見たい。旧弊墨守はナンセンスだと思っている。
 ともあれ、日本は今も、この差別呼称を改めていないばかりか、差別意識をまったく持たない外国人にも押しつけている。外国人登録の続柄記載(家族登録における)がそれである。
D 中国の「家」

 パールバックの名著『大地』は地方豪族「王(ワン)」家の激動の一代記で、中国における「家」が単なる観念ではない具体的な社会関係なのだということをよく表している。「王」家には「都市国家」のような環濠と城壁(少々オーバーだが)があり、多くの世帯が何代にもわたって暮らしている。つまり王家の家長は王家を超えた人々を統卒し、治めている。その原理が「家の示し→宗教」として求められ、「儒教」が生まれた。だから「修身斉家治国平天下」という支配のための統治原理(道徳観)も、それなりに存在理由があったのである。
 では、都市部の小さな「家」ではどうだったのだろうか。 私は八年前、戸籍発祥の地、唐の都・長安(現在の西安)を訪れた。「戸」とはなにか、「家」とはなにか、を知りたかったからである。
「戸籍制度は日本固有の制度。韓国、台湾の制度は日本が占領中に押しつけたもので、世界はもちろん中国にも日本のような戸籍制度はない」これが、これまで私が言ったり書いたりしてきたことの骨子である。しかし、もう少し丁寧に言えば、中国にかつてあって、朝鮮や日本が真似た「戸籍」は今の「住民登録」のようもの。そして、現在の中国の「戸口制度」は人民警察の「保衛委員会戸籍係」が管理しているため、「戸籍」と考える人もいるが、実質的には日本の警察の「巡回カード」に近い。
 そして、かつてあった唐の「戸籍」も「戸」を単位とする住所地支配で、血縁家族や一族を管理するものではない。だから、唐の制度を導入する際、大和の役人(朝鮮でも同様だったはず)は大いに戸惑ったのだ。結局は唐の役人に「戸」の特定を頼むことになる。といって、唐の人が大和の役人よりも「戸」を上手に特定できたとは思えない。が、そこはそれ。さも得意満面でやってのけたに違いない。そして大和の役人は、その手際を感心して眺めていたはずだ。
「戸」とはそもそも、「門」を共有する生活者たちの単位で、建物とか敷地のことで、「戸籍」とはそこで生活する人たちの「住民登録」なのである。唐の役人にとって「戸」という単位は具体的で明白な事実で、西安に行けば誰でもすぐわかる。というのも、城壁都市・西安にはあらかじめ「戸」があり、あり続け、今もあるから、なのである。
 石の文化とはすごいもので、1500年前の街が今もそのまま、そこにある。碁盤の目のような街路に仕切られた街区。街区をさらに分ける石積みの壁、そしてその小街区をさらに細分する石の塀。人々は街路に向かって開いている門(石壁を切った通路)をくぐって小街区を取り巻く細い路地に出る。普通の近所づきあいはこの路地で行われるので、街路からは見えない。そして、小街区をさらに区切ったそれぞれの「戸(敷地)」へはさらにもうひとつ内側の門をくぐる。
「戸」の中をどう使おうと、それは使用者の勝手である。何軒の建物を建てようと、何家族で暮らそうと、それはどうでもいいのである。「戸」は長安城ができたときから石であらかじめ仕切られていた。だから、かつてもあったし、今もある。つまり、それだけのことなのである。
 ここには深い思想も観念もない。大和の役人が勝手に空想し、唐からやってきた役人が、塀もなく、門も仕切りもない大和の農民たちの暮らしぶりに、なんとか一種の生活共同体を発見しようとした、その意欲の中に「戸」の観念がかろうじて芽生えた。おそらく、大和の「戸」の観念はこうして始まった。
 これと同様のことが「家」にもいえないだろうか。中国にも確かに「家」の観念はある。だから儒教も生まれた。しかし、儒教を純粋に発展させたのは朝鮮だとも言われる。それはなぜだろうか。環濠と城壁に囲まれた石の「家」、それは理念があろうとなかろうと、歴史的に存在し続ける。観念による支えは無用なのである。
 ミニ国家に似た小宇宙である「家」の統治技術(ノウハウ)、それは素朴な暮らしとは遠い。ところがそれを、朝鮮は血縁家族内部の精神装置に置き換え、日本はまたそれを、小さな世帯共同体の中に持ちこんだ。が、それが人びとにもたらしたものは豊かで幸せな暮らしだったのだろうか。?である。
E 西安の少数民族 

「見学歓迎」と書かれた花飾りの横断幕が、校門の上に掲げられていた。中を覗き込むと、後ろから流暢な日本語で声をかけられた。賈(べ)くんという若い回(ホイ)族の宝石加工技師だ。西安西大門に近い回族街区のど真ん中でのことだ。この門を出ると、そこからは西域。回族自治区や敦煌、ウルムチへと続く。
 賈くんによれば「西安には4000年前から回族がおり、漢族から迫害をうけてきた。唐の都が置かれてから、都の6分の1、西大門周辺を居住地として割り当てられ、押し込められたように暮らしている」という。お気づきのとおり、彼らの宗教は回教である。というより、回族が奉じる宗教なのでイスラムは「回教」と名づけられた。
 差別の歴史は4000年、社会主義になっても変わることはなかった。が、自治権は大幅に認められ、教育権も完全に回族に移った。その成果がこの学校で、各地の少数民族が見学にくる。横断幕はそのために掲げているのだという。小中一貫教育で、高校はない。しかし大学は近くの回教寺院(モスク)の中にあって、ムハンマドの教えを学ぶ。学校を案内された私は、それからいくつかの門をくぐり、抜け道を縫って、モスクへと出た。暗い大広間の中で、たくさんの人が拝礼をしている。
 教育のこと、宗教のこと……書きたいことは山ほどあるが、それは私の任ではない。表の街路を使わず、抜け道を行ったとき、私が目にしたことを書いておこう。戸の使い方に対する回族と漢族との違いについて、である。というのも漢族は戸に綺麗に収まって暮らしているが、回族は戸の仕切りをほとんど無視して暮らしているのだ。石の塀は設計変更が自由なマンションの間仕切りパネル程度にしか考えられていない。つまりそこら中に穴が開けられ、改築され、暮らしが戸からはみ出しているのである。
 抜け道が戸と戸を結び、町内の誰もが門を共有する。唐の役人を支えた戸の定義が、ここではもろくも崩れ去っている。これは唐の役人のみならず、現在の西安市政府にとっても頭が痛い問題とされている。市政府は各戸に家長を置き、区(町内)に家長会を中心にした居民委員会を組織。この"名目"自治組織の上に監視組織である保衛委員会を配置している。ところが回族街区では居民委員会が組織できていないのである。
 中国の戸籍である「戸口登録」は、居民委員会を構成する家長会が運用の主体で、戸に転出転入などがある場合は、家長が届けをする。学区の小学校前などに「戸口登録」用のポストがあって、ここに変動事項を書いて投函する。警察の戸籍課がこれを回収するのである。居民委員会がないところでは、この仕組みが機能せず、ポストもないため、届けは直接警察にする(つまりはなかなか届けない)。
 こうしたことのすべてを、賈くんは文化・習慣の違いだという。もともと中央アジアの遊牧民だった回族にとって、固定した「家」の観念はいまだにない。建物の多くは共有だし、土地に縛られて暮らす発想がそもそもないのだという。
 これに対して「中国の京都」と呼ばれる整然とした町並みに暮らす漢族は口をそろえる。回族街区は「汚い」「危ない」「乱れてる」、回族は「汚い」「危ない」「乱れてる」。にぎやかで、のびやかな彼らをそう言い捨てるのである。
 そして、制度的にはほとんどなくなった差別を、支配民族の価値観から見た偏見が再生産するのである。「そんな奴らに◯◯は任せられない」「そんな連中を◯◯には入れない」
 結局は職域が限定され、勢い、不安定だがきらびやかでしなやかな芸能とスポーツの世界に活路を見出す若者が多い。事情は西安でも北京でもおなじだという。
「日本でもおなじだ」と言おうとして、私は口ごもった。言ってしまえば出口を失う。「世界中がそうさ」と言ってみても、始まらない。何の解決にもならない。
 中国4000年の歴史。それでも賈くんたちはあきらめていない。「差別はなくなってきたし、きっとなくなる。ぼくはぼくたちの生きかたに誇りを持つ」賈くんのその言葉に、私は支配民族の秩序意識とはなんなのかを、考えざるを得なかった。
F 札幌の戸籍

「失われつつある希少動物たちの戸籍」「湖の魚たちの戸籍」「純血秋田犬の戸籍」・・・・・・、こんな具合に、この国のマスコミは登録ならなんでも「戸籍」と表現するのが好きらしい。そんな風潮の中では「戸籍」という制度の本来の姿や特徴を一口で理解してもらうのはとても難しい。
 そこで私はこの国の研究者たちに習って、「戸籍」を住所登録とは一線を引き、親子とか夫婦といった身分関係の登録簿だとしている。そしてこの登録が生物学的な事実を反映している場合、同時に血縁、血統の記録となる。だから「純血秋田犬の戸籍」などは極めて「戸籍」本来の用法に近い。
 いわゆる「血統証」というやつで、人を犬や馬並に扱おうというわけだから、その本質はいたってわかりやすい。差別的だし、非人間的で、ぞっとするという直感を抱くのは私ばかりではないだろう。そんなものを誇らしげにしている人の気が知れないし、そんな人の足元はすぐに知れる。
 だが、戸籍の本質というのはどうもそれだけではないらしい。そんなことを考えるヒントになったのが札幌の時計台の中に展示してあった「蝦夷地最古の戸籍」なるものだった。これもまた、登録なら何でも「戸籍」と称するたぐいのシロモノではあるが、明治初年に作られた現実の登録簿である。
 この種の登録簿は明治初年の蝦夷地を例に取らなくても、江戸期の開拓村のどこにでも残っているものである。いわば開拓団(屯田兵)の兵舎台帳で、部屋にあわせて罫線で仕切られた用紙に、居住者の名前が記入されている。部屋割り台帳なので、「戸籍」というよりは「住民票」に近い。
 が、ここで注目すべきなのは、この居住者一人一人に身元引受人の名前が肩書きされていることである。「身元引受人〇〇町□□△兵衛」といった具合で、居住者ではない者の名前が記載されているのである。
 思えば、この身元引受人制度は今日でも立派に生きている。たとえば留学生の受け入れ、中国残留孤児の自主帰国、親族のいない受刑者の仮出獄、など、実に多くの場面で身元引受人が必要だとされている。どんな場面であるかをよく考えてみると、在留する外国人であったり、日本人だと推定できても戸籍がなく、国内に血縁者がいない者であったり、戸籍があっても適当な身寄りがいない者であることがわかる。
 つまりこの国は、個人の身元保証をまずは親族に頼り、その証明として戸籍を利用する。しかし戸籍上の親族がいない場合には、その代替として身元引受人を要求するのである。
 戸籍を身分関係の登録簿だと説明し、その証明に役立つ制度、すなわち「みなさん(国民)のための制度」とうそぶいてきた法務省の役人や法学者たち。その言い分のしらじらしさはどうだろう。
 わたしが「戸籍なんかいらない」というと「それじゃあ犯罪が増える」とオウム返しに答える古くて頭の固い連中。人の個人情報を犯罪抑止に使おうという発想は、世界の人権潮流に逆行し、戸籍法の法体系を逸脱することになるが、ここにはうそ寒いしらじらしさはない。
 戸籍には明らかに犯罪抑止を目的とした身元引受人制度の代替としての機能がある。というより、明らかに犯罪抑止を目的として利用されている。もちろん合意の上でそう使われているというなら、それが絶対にいけないというものではない。が、それでもこうした合意はひどく悲しい。
 というのもこの合意には2つの、動かしがたい前提があるからだ。一つは単身者(個人)をそのままでは危険だとする考え方。もうひとつは家族(親族)を彼の監視役にするとする考え方、である。
 こうした考え方を前提にする限り、家長は家族の監視責任を負わされることになり、家族との親密な関係を築くことを難しくする。家庭はいきおい生活の場である以上に飼育・教育の場と化しがちになる。
 と同時にそのような監視者(あるいは相互監視者)を持たない単身者(単独渡航者を含む)が、必要以上に危険視され、排除される。孤児や単親家庭の子、外国人労働者 などが差別にさらされるのである。
 札幌・時計台の「戸籍」は悲しい展示であった。この国が犯罪抑止にばかりとらわれ、人権を無視してきた歴史がそこにある。少なくも私は親族関係をこのようなものとして組織してはならないと思うのだ。
 
G  ソウル報告(1)

 金浦空港に降り立ち、カウンターで通関書類を記入していると、若い女性が「ペンを貸してくれ」という。おやすい御用である。すぐ「どうぞ」と手渡した。御礼を言って、彼女が何かに記入し始めたとき、ハタと気付いた。彼女は韓国人で、ぼくらは互いに母国語でしゃべっていた。要はジェスチャーで了解しあっていただけなのだ。
 通関は自国民と外国人が別々で、ぼくは外国人の列に並ばなければならない。列を指差したら、彼女も焦った。慌てて返そうとするが、記入はまだ中途である。「いいからいいから、最後まで書いて」と、これはもう、精一杯のジェスチャーである。大ぶりのジェスチャーを、ぼくはイタリアで身につけた。あそこではどんな大げさな仕種をしてもおかしくない。
 初めてのソウル。ぼくはその第1歩で、この国と日本との近さを実感させられた。顔つきはもちろん、服装などの外見ではまったく区別がつかない(ガン黒、茶髪のねえちゃんは、100%日本人観光客だが)。日本の役人たちが韓国・朝鮮人敵視の胸のうちを隠しながら、在日の管理強化を正当化するための常套句がこれだった。いわく「韓国・朝鮮人は外見で区別がつけられない」。
 区別する必要があるのかどうかは別として、日本の政府はパーフェクトな個人の特定を目指してさまざまな技術を編み出した。戸籍制度もそのひとつなら、指紋押捺制度もそうである。指紋の採取・照合技術はイギリスで発達したが、これは犯罪捜査に限定された"警察指紋"と呼ばれるもの。日本はこれを、広く、人を管理・区別するために旧満州(中国東北部)で運用した。これが"行政指紋"と呼ばれるものだ。
 日本政府は台湾や朝鮮でそうだったように、満州にも戸籍制度を導入するのが夢だった。しかし、戸籍制度の支配力は親族による相互監視を前提としている。単身者には不向きな制度なのだ。かといって、中国南部からの大量の強制連行労働者によって成り立った満州経営では、個別の身元引請け人制度ではとてもカバーできなかったのである。これが満州で"行政指紋"が発明された要因である。
そしてまたこれが、戦後、在日外国人にも適用されたことはご存知のとおりである。在日1世にはなお、親族を形成していない単身者が多く、管理・区別するのが困難だとみなされたからである。反抗・抵抗を抑止する係累をあまり持たない人間は、日本にとって危険なのだ、というわけだ。したがって、1993年、この国が定住外国人から指紋を廃止したのも「親族が形成された」とみなしたからで、人道的な見地に立ったからではない。
しかし、政府をそこへ追い詰めた在日の指紋押捺拒否運動のすばらしさは、あくまでもこの制度を普遍的人権に照らして問題にしたことだろう。だから、拒否者の多くが指紋採取対象者でなくなってからも、なお残る指紋制度の撤廃を目指して闘い続けることになった。その歴史的な成果が2000年4月1日の指紋制度全廃である。
この闘いを、反差別の民族運動だとする見方もある。が、当初から一貫して支援してきた私は、これを反差別・反管理の人権運動だと位置付けてきた。そこに、日本人である私の主体的な関わりの意味を見出してきた。これは単なる在日支援の戦いではなく、私自身のための戦いでもあるのだ・・・・・・と。
H  ソウル報告(2)

「機はまだ熟していない。まずは世論形成が必要ではないか」
「いや、戦いながら世論を形成していこう」
 当初はそんな議論が激しく戦われたという。一九九八年、韓国で導入が決定した電子カードシステムに対して、多くの人権派市民運動が激しく抵抗。九九年三月、中止に追い込むことに成功すると、その余勢を駆ってこれまで採られていた指紋押捺を一気に廃止しようという声が挙がったのだ。
 そして七月には七〇〇〇人が押捺の拒否を宣言。九月には採取は憲法違反だとする訴状が憲法裁判所に提出された。
「制度の始まりは一九七〇年、北のスパイ潜入防止が目的だったので、抵抗する声もなく、定着してしまった。だから人権の視点から反対の世論を形成できればそれだけで意味がある」
 そう位置づけるのは運動の中心的な存在である金基中弁護士。そして「これには成功した」というのが運動を支えてきた各団体の一致した意見である。
 朝鮮は昔からの管理国家だったが、民衆はこれに抵抗してきた歴史を持つ。xxxx年には号牌法という身分証携帯制度がつくられたが、わづかx年で廃止に追い込まれた。
 南北分断という事態がなければ、指紋押捺制度の導入など不可能だったのではないか。私はそう思っている。
「日本とは違って、韓国では政府より民衆の感覚のほうが信用されていますから」とは「人権運動サランバン」のパク・レグン(朴来根)事務局長だ。
 ところで、ハングルで書かれたパクさんの名刺を見て、我ら訪韓団は、一斉にその漢字を聞いた。と同時に私は、漢字を尋ねられることに対するパクさんの感想を聞いてみた。
「日本では中国人と朝鮮人は漢字で記名しなければならない法律(戸籍法・外登法)があります。韓国でも自分の漢字を知らない人が増え、来日したときトラブルも増えている」
「それはおかしいですね。韓国ではウリマルの名前も増えている。漢字に変換できないんです。私も漢字で表記してもらいたいとは思いません。要は正しく呼んでもらえればそれでいい」
 返ってきたのは予想通りの答えであった。そうなのだ。前にこのページで書いた「行列名」もいまは昔。漢字への執着は韓国でも急速に薄れている。オリンピック選手などはもう北も南もカタカナで表記するほかなくなっている。
 つまり、中国・朝鮮への漢字強制制度も見直されなければならない。中国だって使われているのは簡体字だし、台湾は旧字体だ。管理のための押しつけ、強制はいいかげんにしたほうがいいだろう。
 ところで、この間、韓国であった国籍法の改正について、国民の関心ぶりを聞いてみた。日本の改正国籍法と表裏をなすような、問題の大きい改正であると同時に、韓国の儒教精神をも大きく踏み外すことになる改正でもあった。
しかし「国民の関心はほとんどなく、改正内容についても知られていない。人権団体にも問題意識はあまりない」と聞いて驚いた。
 国籍の継承を父系主義から両系主義に変え、重国籍者には選択を強制する、というもの。この場合の両系に事実婚は含まれない(国際潮流に反する)。
 日本の国籍法に対応するものなので、問題を感じない人も多かろうが、国籍の決定、という重大な問題である(北朝鮮では事実婚を含む)。在日の中でもっと論議されてよかったはずだ。
 いずれにせよ、この問題は日朝国交正常化や朝鮮統一の際の国籍確定に関係する。あるいはまた、国籍継承を証明する際の戸籍のあり方にも関係する。それなのに日本でも韓国でも民衆の反応は鈍い。
 民衆が何も語らぬまま、日韓の官僚サイドで動く政治力学には不気味なものがある。東アジアはもうすでに官僚サイドが用意する管理ネットワークに組み込まれつつあるのではないか。私はそんな危惧を抱いている。
 社会主義国を含め、管理強化にひた走る東アジア国家群。だからこそ、韓国での指紋拒否の運動は貴重だ。
七月から新しいカードに切り替わり、指紋拒否運動は正念場を迎えた。拒否者には新カードが発行されないため、カードなしで生きてみようという人も現れている。
 九月(東京二二日、大阪二四日予定)、彼らの代表が来日する。 
これからの東アジア民衆にとって、反管理の視点は重要である。彼らを心から歓迎したい。