「 新 選 組 」
多摩・自治の気風が生んだ志士たち
現代書館、フォービギナーズ・シリーズ96 佐藤文明・文 ふなびきかずこ・絵
文中の訂正
関連情報
エピソード
人名変名リスト
第1章の原文
訂正
間違いが多くてごめんなさい。このページを見てくれるといいんですが・・・・・・
2ページの表組中、「粕谷良x」は「粕谷良循」
12ページ下段右3行目「南側下水」は「南割下水」
15ページの最終コマ「源五石衛門」は「源五右衛門」
19ページ農兵隊の絵中、蔵敷農兵(東村山)は(東大和)
28ページ *近藤生家「みやがわ」は「みやかわ」説も。
(生家では前者を、親戚には後者を名乗る者も)
43ページ左、16行目、東太郎は「本家当主」というよりも「房次郎の兄」
64ページ下段注 「新選組屯所」の表札を書いたのは「本田覚庵」ではなく、歳三の兄「粕谷良循」。
114ページ左上イラスト「伊藤」は「伊東」
119ページ右落合を顕彰する「賞徳碑」は「彰徳碑」。
140ページ第4段落、「川口北丘陵」は「加住丘陵」
164ページ下から2行目、蔵敷(東村山)は(東大和)
172ページ右1行目「容保の実弟」は錯覚。よって、削除
人名変名リスト
江戸時代の人物名は複雑で、同一人物がいくつもの名前を名乗っています。それを「タテの複名」「ヨコの複名」と
いいますが、いつからいつまで名乗ったかの検証はほとんど不可能です。以下のリストはこうした時間的な問題を無視し
当時の人の複名をリスト化したものです。研究等に役立てていただければ幸いです。
なお、このリストは常時工事中で、途中で修正されることがあるのをお許しください。
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本書統一名 |
通称 |
諱 |
幼名 |
雅号 |
号 |
職名・変名 |
よみ |
戒名 |
その他 |
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佐藤彦五郎 |
彦五郎→彦右衛門(襲) |
広俊→俊正 |
蔵太 |
春日庵(襲) |
盛車 |
春日盛 |
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土方ノブ |
のぶ |
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らん→とく |
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佐藤俊宣 |
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俊宣 |
源之助 |
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玉陵 |
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佐藤信民 |
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信民 |
隆之助 |
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小島為政 |
鹿之助 |
為政 |
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韶斎 |
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あざな・士向 |
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江川英龍 |
太郎左衛門(襲) |
英龍 |
芳次郎→邦次郎 |
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坦庵 |
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佐藤芳三郎 |
芳三郎→信三 |
信房 |
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あざな・九淵 |
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近藤勇 |
勝五郎 |
義武→昌宜 |
勝太 |
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東州 |
大久保剛→大久保大和 |
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近藤内蔵之助 宮川→島崎 |
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土方歳三 |
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義豊 |
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豊玉 |
内藤隼人 |
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歳蔵 |
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沖田総司 |
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春政 |
惣次郎 |
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斎藤一 |
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山口次郎、藤田五郎 |
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近藤周助 |
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周斎 |
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島崎 |
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宮川惣兵衛 |
粂次郎(久米次郎) |
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惣次郎 |
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土方為次郎 |
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閑山亭石翠 |
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粕谷良循 |
土方大作 |
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玉州、修斎 |
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糟谷 |
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中村太吉郎 |
太吉→半兵衛 |
満道 |
太吉郎 |
玉川居祐 |
居祐翁 |
絵馬屋四世 |
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屋号・東屋 |
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本田覚庵 |
孫三郎 |
定済→定脩 |
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覚庵 |
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屋号・大観堂 |
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本田定年 |
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簡蔵 |
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退庵 |
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苔庵 |
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富沢政恕 |
忠右衛門 |
政恕 |
準平 |
冨雪亭白雉 |
扇山、松園 |
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まさひろ |
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橋本政直 |
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政直 |
道助 |
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清淵 |
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養父・又二郎 |
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石阪昌孝 |
又二郎(襲) |
昌孝 |
高之助 |
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幡斎 |
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日野義順 |
信太郎 |
義信 |
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英吉 |
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平 |
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喜一 |
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砂川源五右衛門 |
源五右衛門 |
泰忠 |
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永倉新八 |
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栄治 |
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杉村義衛 |
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近藤周助 |
周助→周斎 |
邦武 |
関五郎→周平 |
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旧姓・島崎 |
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永井尚志 |
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主水正、玄蕃頭 |
なおひさ |
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小栗上野介 |
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忠順 |
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ただまさ |
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勝海舟 |
麟太郎 |
義邦→安芳 |
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海舟 |
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榎本武揚 |
釜次郎 |
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梁川 |
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坂本竜馬 |
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直柔 |
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才谷梅太郎、取巻抜六 |
なおなり |
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「才谷屋」は本家の屋号 |
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鵜殿鳩翁 |
甚左衛門 |
長鋭 |
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鳩翁 |
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ながとし |
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松平主税助 |
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忠敏 |
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→上総介 |
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松平容保 |
_之助 |
容保 |
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左近衛権中将 |
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会津中将 |
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板垣退助 |
乾退助 |
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猪之助 |
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板垣は祖先の姓 |
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本名・乾 |
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桂小五郎 |
木戸準一郎 |
木戸孝允 |
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桂小五郎は偽名 |
たかよし |
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本名・木戸 |
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西郷隆盛 |
吉之助 |
隆盛 |
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南州 |
隆盛は父の名 |
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第1章の原文
本書では新選組結成に至るまでの前段部分について、全面的にイラストで置き換えています。
それによって、読みやすくなり、わかりやすくなった部分が多く、このシリーズの特長が生かされています。
その一方、表現し切れなかった部分が残っていますので、以下に原文を掲げておきます。
あわせてお読みいただくと、理解がいっそう進むと思います。
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ビギナーズ……新撰組
@新撰組人気の源泉
新撰組とは
将軍・徳川家茂(いえもち)の上洛に伴い、将軍警護のために江戸から京に入った浪士組が、京都南郊の壬生村に駐屯し、都の治安をひきうける。この武士団が新撰組で、当初の名は壬生浪士組、これを揶揄して壬生狼(みぶろ)と呼ばれていた。
新撰組は忠臣蔵四十七士の討ち入りにちなんで、だんだら模様の隊服をあつらえ、「誠」の文字を染め抜いた隊旗のもとに結束。諸国の志士たちが集まり激動の渦中にあった幕末の京都で、一身をなげうち、京の町と幕府とを護った。
なかでも結成1年3ヶ月後、京の町を焼き払おうと計画する長州の志士が集まる「池田屋」を急襲し、計画を未然に防いだ大手柄(池田屋事件)は、新撰組の名を一気に高める。これによって「多くの憂国、有能な志士を失ったため、日本の維新が二年遅れた」という説もあるが、反対に「倒幕派の結束を強めることになったため、維新が一年早まった」と考えるひともある。いずれにせよ幕末維新史における最大の事件だった。
新撰組の人脈
結成当所の局長は水戸藩浪士の芹沢鴨、新見錦、天然理心流四代宗家の近藤勇(いさみ)の3人で、芹沢・新見が粛清されてからは近藤勇のもとに、副長・土方歳三(としぞう)、一番組組長・沖田総司(そうじ)などが新撰組の顔となった。
近藤、土方、沖田、それに4番組組長の井上源三郎はともに武州多摩出身の天然理心流門下で、結束が固く、新撰組の中核は多摩にあった。
実際、池田屋事件で名を挙げる前の新撰組の台所は苦しいもので、隊士を養うのにも事欠くありさま。これを金銭的に支えたのが多摩の豪農たち(天然理心流門人)だった。
新撰組は多摩人脈を核とし、天然理心流道場「試衛館」にわらじを脱いだ他流派の剣客、永倉新八、藤堂平助、山南敬助、原田左之助などが加わった超実力派集団である。藤堂など、倒幕派に近い考えを抱くようになる隊士もいたが、基本的には佐幕(佐は「たすける」の意)派だろう。
佐幕に対して勤皇、あるいは尊皇攘夷(尊攘派)を対置する人があるが、両者は対立概念ではない。近藤などは佐幕であると同時に尊皇攘夷の思想を持っていた。
新撰組の落日
新撰組は鳥羽・伏見の戦争で敗走する将軍・慶喜(よしのぶ)を守護して江戸に下り、押し寄せる東征軍(官軍)を甲州勝沼で迎え撃つ(勝沼戦争)。勝利した東征軍に、江戸城が開け渡され、新撰組は上総・流山に再起を期した。
が、ここで官軍に包囲され、近藤が斬首される。土方は幕府残党とともに宇都宮、会津と転戦。函館五稜郭で榎本武揚とともに蝦夷共和国を樹立する。しかし、官軍の包囲はここにも及び、土方は弁天台場で孤立した新撰組救出のために出馬。馬上で指揮中に銃弾に倒れ、この7日後に共和国軍が降伏。戊辰戦争は終結する。
土方の死は新撰組の終焉、江戸幕府の消滅、蝦夷共和国の夢の終わりを告げるものだった。
幕末物の人気
歴史を検証する物語の中で、ひときわ人気が集めるのが幕末維新物。そのなかでも、広い層に支持されているのが坂本竜馬。そして、個人的には好悪が分かれるものの、人気の高さでは竜馬をしのぐものが新撰組関連本だといえる。
出版物の点数から見れば、坂本竜馬及び海援隊関連本は、竜馬人気ひとりに支えられているので、近藤勇、土方歳三、沖田総司(人気の順では逆になる)など、数多くのスターを抱える新撰組に圧倒されている(個人としては新撰組トップの総司より、竜馬のほうが上)。
これはウェブサイトの数でみても同様で、新撰組関連サイトは竜馬関連サイトの3倍以上(11対37)あり、包摂するサイトの比率もほぼおなじ。ただし、出版点数では1対2の沖田総司関連物と土方歳三関連物が、サイトでは逆転していて、歳三関連サイトが総司関連サイトを大きく引き離して(6対3)いる。
ちなみに新撰組関連、竜馬関連に次ぐ幕末維新物サイトで最も数が多いのは高杉晋作関連の3なので、幕末維新物のなかで、新撰組と竜馬の人気がずば抜けていることがわかる。
歳三と総司
新撰組の人気は歴史検証を超え、フィクションにも及んでいる。これをよく示しているのがコミック本の多さだろう。いわゆるコミケ(コミックマーケット)に並ぶような自家本の題材として、圧倒的に支持されているのが沖田総司。そしてこれを追うのが土方歳三である。
両者はともに、現実離れした美男子として描かれ、ストーリーの多くもまた史実とは無縁に展開される。それでもこれが新撰組ファン層の裾野を広げているのは確実で、その多くが若い女性だ。
京都の壬生寺、調布の近藤勇、日野の土方歳三の墓、板橋の勇刑場跡、函館の歳三終焉地など、新撰組隊士関連の史跡には、どこも花が絶えず、備えられている来訪ノートにはびっしりと思いのたけが書き綴られている。
その量と、中身の濃さにはだれもが圧倒される。東京・千駄ヶ谷にある沖田総司の墓は、あまりの人気にとうとう一般の墓参者の立ち入りを禁止。それでもなぜか線香は絶えることがないという。あまりに訪問者が多いため、02年から壬生寺の新撰組隊士の墓の参拝も有料化されている。
人気の源泉
新撰組の高い人気はなにに支えられているのか。よく言われるのが日本人の判官びいき、滅び行くものへのロマンだ。この場合、亡び逝くそれぞれの運命であり、江戸幕府であり、武士道であり、近世的世界である。
新撰組の場合、武士が武士道精神を失って久しいなか、武士でもない多摩の田舎の農民が、幕府に忠誠を尽くすとともに、武士道精神を貫いてみせたということが、単なる判官びいきを超えた吸引力を持っている。
また、新撰組が組織であること、魅力的な個性がチームワークとして成立している点も見落とせない。これが広いファンを集めると同時に、複雑で解明しきれない実態や歴史的評価が、作家の想像力を刺激し、深い表現を可能としている。
彼らの人脈と行動範囲の広さも人気の源泉で、九州・四国を除く全国各地に新撰組の足跡が残っており、史跡があり、研究者がある。隊士の親族、遺族(隊士の出身地は九州・四国を含む)がいて、史跡めぐりの愛好家や、市井の研究者にとっても恰好の素材なのだ。
そんななか、浅田次郎の『壬生義士伝』によって脚光を浴びた吉村貫一郎のように、新たなキャラクターが掘り起こされ、とつぜんクローズアップするかもしれない。汲めども尽きない可能性を持った集団なのだ。
個人の魅力
個人の魅力としてはそれぞれが厳しい修行を積んだ剣の達人であったことに加えて、局長・近藤勇の器の大きさ、副長・土方歳三の冷厳なまでの組織力、助勤(隊長)・沖田総司のやさしさなどが挙げられよう。
そして剣聖・総司が結核を病み、夭折したということや、「役者のようだ」と噂された好男子・歳三が、噂どおりの写真を残している(総司の写真は残っていない)ことも、新撰組人気を大きく盛り上げた要因だろう。
一時期、新撰組人気は沖田総司人気とイコールで、総司(歳三を含む)は若い女性のアイドル的存在だった。女を知らない(女遊びが繁くなかっただけで、これはウソ)総司のイメージが肥大化し、歳三との同性愛関係がまことしやかに語られるなど、この人気は歴史物の枠を越えて広がっている(つかこうへいの「幕末純情伝」や大島渚「御法度」も二人の同性愛関係をテーマにした作品)。
個人としてスポットが当たった新撰組隊士は近藤・土方・沖田のほか芹沢鴨、永倉新八、山南(やまなみ通称さんなん)敬介、斉藤一、山崎烝(すすむ)、伊藤甲子太郎(かしたろう)、吉村貫一郎、さらには島田魁(かい)、中島登(のぼり)、井上源三郎、原田左之助、藤堂平助、結城無二三(むにぞう)、河合耆三郎(きさぶろう)、大石鍬次郎などなど、10指に余る。
ビギナーズ……新撰組
A永倉新八の新撰組
勝てば官軍
「勝てば官軍」という言葉がある。勝者はいつでも正義であったかのように語られ、敗者は「賊軍」としてそしられる。これは薩長軍に敗れた幕府軍に対するその後の扱いを、江戸市民が、幕府軍への同情と、薩長軍への皮肉とを、いささかのあきらめをこめて使った言葉。実際、戊辰戦争の帰趨を決めた「錦の御旗」も、薩長軍が詐欺的手口で手に入れたもので、征東の大義名分はそうとう怪しい。しかし、結果として勝てばいいのだ、すべてが正当化されるのだ。「勝てば官軍」には、こうした意味もある。
歴史の埋葬
賊軍となった幕府軍のなかでも、新撰組は特に際立っていて、鳥羽・伏見の戦いで薩長軍が「錦旗」を掲げてからも抵抗を止めなかった。勝沼戦争で「官軍」に弓を引く「朝敵」となったのである。また、幕府降伏後の抵抗は、正式な命令のない「旧幕府脱走軍」としての行動で、薩長軍からは戦闘行為ではなく犯罪行為とみなされた。日本の未来のために幕府を支えた新撰組は、犯罪者集団のように扱われたのである。
そのため、新撰組の歴史は隠され埋められることになる。東京・府中の六社宮(ろくしゃのみや→大国魂神社)に奉納されていた天然理心流門下生一同の巨大な献額は、東征軍が府中を通過する直前に取り外され、燃やされたが、これも理心流門人か報復されるのを恐れたための措置。それに先立つ東征軍の日野通過に際しては、新撰組関係の重要資料が処分されている。
新撰組物の登場
新政府の新撰組敵視は徹底していて、地元(多摩)の顕彰運動さえ妨害する。また当事者(近藤、土方、沖田)の死は、資料の焼却同様、新撰組の実像再現に大きなマイナストなった。新撰組は次第に、古老たちの昔話の中に埋もれようとしていたのだ。
ところが1889(明治22)年7月、新撰組が屯所にしていたことのある西本願寺の寺侍・西村兼文が『新撰組始末記』を発表(刊行は94年4月)。西村は稀代の記録魔で、京都の寺宝総覧など、貴重な記録をたくさん残している(多くが国会図書館に所蔵されている)人物。そんな男の前で新撰組が活動していたというのは歴史のいたずら、というほかはない。新撰組は彼の筆によってかなりの精度で再現されることになった。
しかし、彼は新撰組に押しかけられて迷惑している西本願寺側の人物で、長州の志士たちと気脈を通じていた。そのため、新撰組をみる目は辛らつで「新撰組=人斬り集団」という図式を植え込む役をも果たしてしまう。
永倉新八
1913(大正2)年3月〜6月、永倉新八のインタビューが『小樽新聞』に連載された(タイトルは「新撰組永倉新八」で、1927年刊行)。これは元新撰組隊士サイドからの活動報告で、記憶の再現ながらもかなり正確なものといえる。
永倉は板橋の刑場近くに近藤・土方の慰霊碑を建てたり、勇の甥・近藤勇五郎やその後継者・内藤忠政に天然理心流流派の手ほどきをするなど、維新後も新撰組の記憶を大切に生きた男。彼は維新直後にも『浪士文久報国記事』という新撰組の手記を残していて、彼の手を離れたこの『報国記』をネタにした新撰組本も出されている。
浪士組の上洛から勝沼敗走まで、行動をともにした永倉の手記やインタビューは貴重なもので、その後の新撰組研究のベースになる。しかし、彼は試衛館の食客で、多摩の出身でもなければ天然理心流の門人でもない。近藤・土方らの最も奥深い部分にタッチできたとはいえない。
好悪の分岐点
坂本竜馬とちがい新撰組の人気にはかたよりがある。薩長新政府による賊徒扱いは脇に置くとしても、維新の評価を巡って価値観が分かれるからだ。薩長政権を評価する者は新撰組をよく言わず、明治維新に疑問を持つ人たちの間でも、新撰組への悪意を抱く者がある。
結局は権力の手先に過ぎない、とか、剣の腕だけで思想が見えない、とか、粛清に明け暮れていたのが実態、などというのがその理由だ。一方、新撰組を評価する人たちも、こうした指摘を丸呑みにしてしまう。真の武士道を貫くにはそれもやむをえない、幕府への忠誠とはそういうものだ、といったたぐいだ。
用語の問題
新撰組に対する評価、幕末維新史の評価の分裂は用語の問題にも現れる。戊辰戦争に際し、攻め上ってくる薩長を中心とする軍勢を「官軍」とするもの、「東征軍」とするもの。北上する「旧幕府軍」も函館に足場を築いた「蝦夷共和国軍」も、薩長支持者から見れば「旧幕府脱走軍」。「新政府」はいつ生まれ、「藩閥政治」を脱したのはいつなのか。そんなことにも対立があるのである。
再評価の再点検
1928(昭和3)年に相次いで刊行された新撰組本(子母澤寛『新撰組始末記』、平尾道雄『新撰組史録』)や、活劇の中に人情を持ち込んだ伊藤大輔監督の作品『興亡新撰組』(1930)が封切られると、それまで維新政府に統制を受けてきた新撰組の再評価が始まる。
しかし、その評価の多くは平民が武士に劣らぬ忠誠を尽くし、真の武士道を生きて見せたというもの。それは日本が戦時体制に向かおうとする時局にとって、好都合な設定だった。
実際、出征兵士のなかには、武士道の鏡である新撰組の史跡に詣でる者も現れます。そうした若者たちの姿が、壬生寺などにはよく見られた。
新たな視点
戦後、皇国史観が否定されて、歴史をとらえ返してみるチャンスが訪れた。しかし、教科書の歴史は明らかに薩長史観であり、西国史観。江戸幕府はあくまでも封建的で、文明開化を果たしたのは明治政府だ、という図式で書かれている。だから倒幕は正当で、佐幕はアナクロニズム。こうした図式の中で、新撰組も多摩の歴史も相変わらず不当に歪められたままだった。
そんななか、新たな新撰組ブームがやってくる。その火付け役を果たしたのが司馬遼太郎の『燃えよ剣』(1964)であり、その映画化(1966・松竹)、テレビドラマ化(1970・NET)である(これに先立つ司馬の『新撰組血風録』と、そのテレビ化もブームに一役買っている)。
司馬のこの作品の主役は、新撰組を事実上組織したとする知将・土方歳三。それによって新撰組は集合体ではなく魅力的な個性の集合になった(その結果、人気が沸騰したのが沖田総司だった)。と同時に、舞台が京都から一気に拡大し、多摩から函館までを取り込むことになる。土方の生い立ちから戦死までが射程に入ったからだ。
この間には、新たな事実の発掘がある。多摩に残された記録と記憶の掘り起こし、勝沼以降、函館まで行動をともにした隊士の記録(中島登日記、島田魁日記)の出現などがそれだ。
パターンの崩壊
賊軍の汚名から解放され、新撰組関係者の発言が始まる。歳三の兄の子孫・土方建(けん)は『歴史読本』(1967年4月号)誌上に「わが家系百姓にあらず」を発表した。武州の農民が侍にあこがれ、武士道を地で生きてみせたとする新撰組再評価のワンパターンが揺らいだのだ。
食い詰め浪人たちの立身出世物語、一旗挙げようと背伸びした挙句の暗転、といったストーリーで新撰組を語ることはできなくなった。
多摩では男子が生まれれば篠竹を植え、戦に備える慣習はごく普通のこと。土方が篠竹を植えながら「いつかおいらも侍になるんだ」といったからといって、それだけで彼の武士への憧れを証明する(『新撰組始末記』)ことなどできないのだ。
多摩では農民が武士であり、武士が農民である。このことを知らなければ新撰組も多摩の後援者たちも、多摩での天然理心流の隆盛も、理解することはできないだろう。
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ビギナーズ……新撰組
B多摩の気風と農民
二人の誕生
新撰組の局長となる近藤勇は1834(天保5)年、武州多摩郡上石原(調布市)の豪農・宮川久次郎の三男として生まれた。また、副長となる土方歳三も翌35年、武州多摩郡石田村(日野市)の豪農・土方隼人の四男として生まれている。この限りで、二人は多摩の農民出身であることにまちがいはない。
しかし、いずれも豪農(土方家は洪水で移築され、苦境にあったが、村では「お大尽」と呼ばれていた)であり、地域をまとめる重要な地位にあった。宮川家は立地から考えて幕府のお鷹場となんらかの関係があったはずだし、土方家は三沢十旗衆の一旗を構成する武門の家。剣をたしなむことになるのは運命のようなもの(宮川家には道場があった)だといえる。
沖田総司は1842年、江戸白川藩屋敷で藩士の子として生まれたようだが、家を継いだ姉・ミツの婿は日野の井上林太郎(井上源三郎の縁者)で、多摩の人。また、日野・井上家は八王子千人同心家なので、源三郎は「郷士」だといっていい。
多摩の地域性
多摩は全域が天領で、藩、すなわち藩士が存在しない。だれもが武士であり農民である郡(面積は日本最大)なのだ。この地はもともと武ばった所で、その在地勢力が鎌倉幕府を押し立てる。家の子・郎党の「いざ鎌倉」精神は、甲斐・武田や後北条にもうけつがれ、関東入りした徳川家康も、この在地勢力の上に幕府を築く。
幕府の天領支配は武田の家臣・大久保長安、北条の家臣・江川太郎左衛門に委ねられるが、在地勢力を信頼する彼らは、多摩の兵農分離をやらなかった(秀吉の「刀狩り」も甲州では行われたが、多摩にはない。秀吉の多摩支配は八王子城下で数ヶ月だけ。実績が挙がらぬまま家康に託された。つまり、秀吉の全国統一はまやかしなのだ)。
家康三つの血脈
関東を治めるに当たって、家康は関東三大勢力と擬制的な血縁関係を結ぶ。関東源氏の雄・新田から系図を買ってその親戚になり、武田信玄の娘・松姫を側室として要求。遺臣たちが差し出す偽者を黙って引き取り、寵愛するとともに、八王子に潜伏する松姫を密かに庇護した。さらには三島で見初めた娘を、後北条の要人である江川家(伊豆・韮山に拠点を置く地方豪族)の養女とし、この娘(お万の方)を側室としている。その子が水戸と紀州・徳川の創始者になっている。
千人同心
大久保長安が八王子(八王子市千人町)に設けた武田家遺臣による幕府防衛隊で、唯一の公的な半農半士組織(同心身分でありながら、禄が低く、かわりに農業が許された)。当初は500家で出発。関が原の合戦直前に二倍に増強され、千人同心(→八王子千人隊)となった。
その際、農業に専念していた多くの北条家臣が参加したため、多摩の人々にとって、士→農、農→士の垣根は低く、上下意識も希薄だった。北条家の滝山城(移転して八王子城に)大手防衛隊「三沢十騎衆」のひとつだった土方家からも千人同心家が生まれていて(三沢の土方家・新井の土方家―ともに日野市)、歳三の生家を「百姓」とするのは、明らかに誤りなのだ。
千人同心は日光東照宮の防衛、江戸の火の番などに当たり、幕末には北辺防備(ロシア南下への備え)のため、多くが屯田兵となって移住・開拓を行う。この特異な集団は江戸の専業武士団(旗本御家人)から「いも侍」とあなどられるが、そのため文武の備えを怠らず、幕末には唯一の実戦可能な武士団として第一次長州征伐などに活躍する。
赤蝦夷風説考
文武の備えから、千人同心の剣術熱は非常に高かったが、学問でも同様だ。屯田兵を出していたため、北方情勢、海外情勢には関心が高く、工藤平助の『赤蝦夷風説考』などは必読書のひとつ。八王子宿には間宮林蔵、近藤重蔵なども招かれている(最上徳内は八王子に居住)。
こうした千人同心の中に、幕末の俊英代官・江川英龍や腹心・斉藤弥九郎(神道無念流・岡田十松を継ぐ。剣術では英龍の兄弟子)、渡辺崋山や藤田東湖らと交わって、「異国船打ち払い令」に反対し、武備開国を唱える『献芹微集(けんきんびしゅう)』を記した松本斗機蔵(ときぞう)が現れる。
また、八王子近在からは種痘に力を入れた英龍や伊藤玄朴、高野長英に学んだ秋山義方など、開明的な蘭方医(二代目義方=佐蔵は西洋の先端医学や砲兵書を翻訳―金属活字で印刷出版、二代目義方は天然理心流門人で新撰組スポンサーでもある)が登場し、下染谷(現府中市)の医師・粕谷良循(土方歳三の兄)や下谷保(現国立市)の医師・本田覚庵(佐藤の縁者)とも交わって、日本の近代化を見据えた文化風土を築いていく。
農家の刀
刀狩りのなかった多摩では、豪農が武具を所持するのは当然のこと。新撰組のスポンサーで知られる日野・佐藤家には常時手入れの行き届いた刀剣が長持に2棹(50〜60振り?)、小野路(町田市)の小島家には約30振りが備えられていた。
また、日野宿の御用と多摩川の渡船場を預かっていた佐藤家には十手・取り縄のほか、御用ちょうちん、さす股、袖がらみといった捕縛用具も揃っていた。
甲州道中
五街道のうち、日光道中と甲州道中は産業・民政のために整備されたものではない。服部半蔵の幕府防衛構想における軍用道なのだ。特に甲州道は江戸城半蔵門の地下に張り巡らされた脱出路の延長にあるもの。江戸城が包囲された場合の秘密地下道で、四谷・大木戸の外(新宿区百人町)で地上に出る。
ここから百人隊(鉄砲隊)に守られ、甲州道を西進。砧(きぬた=世田谷区)の弾薬庫、三鷹のお鷹場で武装を整え、多摩川を渡った日野で追撃者と一戦を交え、八王子千人同心を伴って実践に備えて整備された甲府城に入り、ここから反撃。駿河で敵の後方を分断し、殲滅する、という構想だ。
上野・甲府・日光
服部半蔵の構想では、江戸城急襲のおりは地下道を利用し、一気に甲州道を下るが、余裕がある場合にはまず、第二江戸城として整備した上野・寛永寺にたてこもる。そして、反撃に出る場合には甲府、利なしとして逃走する場合には日光に拠点を置く、というものだ。
おそらくこの構想は、100年後も自動的に発動されるよう、幕府の要所要所に草(在地の忍び)が配されていたはず。幕府の崩壊は300年後で、半蔵の想定を超えていたため、型どおりの発動は不可能だった。
自治の里
甲州道は三工区に分けて建設された。半蔵門から多摩川の渡しまでを幕府(服部半蔵)が、多摩川渡しから大月の猿橋までを旧北条(江川太郎左衛門)が、猿橋から甲府までを旧武田(大久保長安)が受け持ったのだ(総指揮は長安)。
伊豆・相模・多摩の代官であった江川は、実際の工事を多摩の在地勢力である日野の総名主・佐藤家に託す。江川の多摩経営は北条家の伝統を継承したもので、自治が基本。江川代官家と佐藤名主家の関係は江戸幕府を通して、強いきづなで結ばれていた(日野宿本陣である佐藤邸は甲州路最大の屋敷で、火災再建時、幕府の融資を受けるなど、準公邸扱いを受けている)。
幕末、日野の年貢は千人同心の禄米とされ、江戸には送られず、直接八王子で換金(市が立ち、独立の米相場があった)された。八王子・日野は経済圏としても自立していた。
幕府の関東経営
家康は江戸城を全国経営の拠点とし、関東経営(甲州を含む天領支配)を大久保長安に委ねた。長安は八王子の小門町(長安が住んだのでそう呼ばれた)に邸宅を設け、関東の18代官を集住させた。が、佐渡金山、石見銀山など鉱山資源の元締めとして、幕府最大の資産家に踊り出たため、長安亡き後、謀略によってお家おとり潰しの憂き目を見る。
長安によって関東第二の都市に発展した八王子(当時は横山宿)。多摩を治める韮山の江川代官は、長安への遠慮から八王子に陣屋を設けず、江戸屋敷(芝新銭座)から手代を出張させた。その主要な出張先が日野本陣の佐藤家で、日野本陣は江川の多摩陣屋さながらだった。
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ビギナーズ……新撰組
C多摩の幕末維新
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1835 |
天保6 |
英龍、代官就任 |
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36 |
7 |
甲州郡内一揆 |
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38 |
9 |
甲州、江川代官領に |
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39 |
10 |
蛮社(尚歯会)の獄 |
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42 |
13 |
韮山塾開設 |
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46 |
弘化3 |
農兵制採用の嘆願 |
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50 |
嘉永3 |
支配地に種痘実施 |
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53 |
6 |
ペリー浦賀に来航 |
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54 |
安政元 |
韮山に反射炉築造 |
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日米和親条約、下田開港 |
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お台場築造開始 |
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ディアナ号難破、戸田回航 |
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55 |
2 |
英龍、死去。英敏、相続 |
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56 |
3 |
長崎海軍伝習所、講武所開設 |
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安政の大地震(10月) |
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58 |
5 |
日米修好通商条約 |
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59 |
6 |
横浜開港 |
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62 |
文久2 |
英敏、死去。英武、相続 |
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生麦事件(8月) |
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63 |
3 |
浪士隊、江戸出発(2月) |
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江川支配地の農兵許可 |
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日野農兵隊結成(10月) |
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64 |
4 |
水戸・天狗党の乱 |
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65 |
慶應元 |
禁門の変(7月) |
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第一次長州征伐、下関戦争(いずれも8月) |
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66 |
2 |
第2次長州征伐 |
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68 |
慶應4 |
6月29日、英武、韮山県権令(多摩郡長は佐藤俊正) |
安政の大地震
江戸幕府の危機は1782〜87年の「天明の大飢饉」に始まる。幕府の危機管理は家康以来のストック(御用金)でまかなわれていたが、この時代、それが底をつき、民衆に負担をつけ回すしかなくなったからだ。この財政危機に止めを刺したのが33〜39年の「天保の大飢饉」である。
農村の疲弊は全国的で、農民一揆が急増する。が、多摩は地域の互助組織や江川代官の救米制度などによって比較的安定した経済を維持した。江戸うちこわし(33年)、甲州・三河・盛岡の一揆(36年)、大塩平八郎の乱(37年)と、荒れる世情を見据えながら、江川英龍はつぎつぎと先手を打ち(甲州一揆の平定と改革で、英龍は領民から「世直し江川大明神」と呼ばれ、所領を甲州にも拡大した)。これが彼の名声を一気に高める。
1856年、江戸を襲った安政の大地震(M6・9)は江戸城をはじめ、多くの旗本屋敷を倒壊させたが、早々と修復できたのは多摩に所領を持つ旗本家と西南雄藩ばかり。江戸城の修復は後手に回り、町民の脱出もとどまるところを知らず。江戸の衰退はだれの目にも明らかだった。
悪化する治安
天明の大飢饉は多くの失業者(無頼の徒)を生み、治安が悪化する。1805(文政10)年、幕府は関東の治安維持のため、代官の手付、手代からなる「関東取締出役(しゅつやく)」を編成。関東の巡回(八州廻り、八州さま)に当たらせるとともに、天領の村々を寄場(よせば)と呼ぶ広域行政地区(現在の中核都市並か)に組織。寄場名主の下に地域の治安防犯体制を確立する。
日野寄場(日野市)は佐藤彦五郎俊正、小野路寄場(町田市)は小島鹿之助為政、砂川寄場(立川市)は砂川源五右衛門泰忠などが寄場名主を拝命している。彼らが自衛のため、剣術に注目するのは当然のことである。佐藤邸には天然理心流の、小島邸の近所の橋本邸(橋本本家は名主、道場があったのは橋本分家)にも天然理心流の、砂川邸には神道無念流の道場ができ、領民に手ほどきをしている。
黒船来航
ペリー来航は浦賀に近い武相の人々にも大きな衝撃を与える。1853年6月3日のことだ。このニュースは2日後には八王子千人隊の間に、5〜7日後には多摩各地の村々に、黒船のスケッチつきで届けられ、幕府の急飛脚より速かった。
話を聞きつけると、すぐ浦賀に駆けつけ、漁船を仕立てて接近を試みる者もあったが、外国に対する知識を持っていた多摩の人々には、あわてふためく、といった様子はなかったようだ。
多摩のレベル
多摩の村々は、黒船をただ恐れたわけではない。やってきた時代を把握するため、和親条約が結ばれると、条約の写しを回し、村々で検討してる。この写しは五日市憲法が発見された深沢村からも見つかっている。
江川の活躍
伊豆・相模の代官として江戸湾防備の主役に踊り出た江川英龍は、開国派老中・安部正弘を支えて反対派(急先鋒は鳥居耀蔵=ようぞう)と対決する。蛮社の獄は英龍失脚を目指し、耀蔵が仕掛けたもの。英龍が参加する開明派団体「尚歯会」(川路聖謨、藤田東湖、渡辺崋山、高野長英、小関三英)の陥れを謀ったのだ。
しかし、英龍を巻き込むことに失敗。英龍は次の老中・堀田正睦(まさよし)の条約交渉にも協力。家臣のジョン万次郎を通訳に提供しようとするが、開国反対派を刺激しないよう(反対派は万次郎をアメリカのスパイだとした)撤回する。伊豆・下田の開港も、英龍の策謀だとする一派もあった。
が、彼に代わって海防を担える者はなく、洋式銃陣訓練や反射炉の建設、雷管の発明などで反対派を圧倒する。江川塾は、各藩の有志に開放されるとともに、名主層の子弟にも開かれた。開国して共和制を採用し、国力をつけなければ攘夷は不可能だ、という彼の思想は支配地にもじわじわと広がっていく。
秘密交渉
第1次ペリー来航の際、退去交渉を任された英龍は、通訳にジョン万次郎をともないサスケハンナ艦上でペリーと協議。「日本もアメリカに土地を持てるか」と質した。「何のために」「アメリカの政治制度の研究所を建てたい」。ペリーはこれを即座に了承。土地建物の提供を約束して「友邦・日本共和国」と叫んでいる。これは江川が共和制、大統領制導入を図ったことを意味するもので、ペリーの『米国艦隊遠征記』に記されている。
ディアナ号事件
1854年、ロシアの使節プチャーチンを乗せたディアナ号が下田沖で難破。江川の家臣たちはこれを船大工のいる戸田(へた)に曳航し、研究。同型のものを建造して、使節をロシアに帰している。日本の造船技術の幕開けである。家臣たちはその際、操船技術を身につけ(ジョン万次郎はすでにアメリカで身につけていた)、海洋王国の創生期を支える(家臣の鈴藤勇次郎・小野友五郎は勝海舟とともに長崎海軍伝習一期生だが、勝より先に卒業している。二期生に榎本武揚、三期生には松本良順。榎本は福沢諭吉とともに万次郎の英語塾塾生である)。
その結果、江川英龍は高島式砲術のほかオランダ式軍事調練、海軍伝習でも日本の先端を担うこととなり、幕府陸軍・海軍の生みの親になっている。
幕末艦船と江川家臣
咸臨丸は米船ポーハタン号(幕府遣米使節)の護衛艦で、ポーハタンの正使は新見正興、監察に小栗上野介。咸臨丸提督は木村義毅、艦長・勝海舟、提督付・福沢諭吉、森田留蔵、通訳方・ジョン万次郎、教授方・小野友五郎、運用方・鈴藤勇次郎、公事方・吉岡勇平。
文久2年オランダ留学には榎本武揚、肥田浜五郎、沢太郎左衛門、赤松大三郎。慶応3年軍艦受け取り代表には小野友五郎(福沢第2渡米)。
幕府軍「富士山」艦長・望月大象、榎本軍「蟠龍」艦長・松岡磐吉、「長鯨丸」艦長・柴弘吉。
(下線は江川家臣)
お台場建造
江戸湾防備の唯一の具体策がお台場建設。これを任されたのも英龍だ。当初案は11基だったが、財政難から7基に削られ、完成は5基(2基は着工後放棄)。建造中、安政の大地震でいったん海の藻屑になるという不幸を差し引いても、江戸を守る資金の不足は、英龍に大きなショックを与えている。
お台場の基礎は松の幹を組んだもの。この松は「絹の道」の最高点に当たる鑓水(やりみず・八王子)から伐り出し(死者を出すほどの大仕事)、相模川を流したもの。海防に対する期待と失望とは、多摩の人たちにも共有されていた。
横浜開港
下田の開港は小田原・八王子という旧北条城下に大きな刺激を与えるが、横浜開港はこれとは比較にならない影響を与えた。八王子から横浜への物流(生糸・茶など)は「絹の道」を生み出し、絹の道に幕府が設けた改易所は原町田(現町田市)繁栄の基礎になる。この道を通って入ってくる欧米の文化も、目を見張るもの。綿織物の高騰などで、階層分解が進むが、総体としての多摩はさらに豊かな地域となっていく。
欧米人の自由行動が許されたのは横浜から10里以内で六郷川(多摩川)を越えないこと、とされていたため、武相南部は国際交流の舞台となり、多摩川は首都防衛の阻止線となる。多摩はこの阻止線を武士なしで防衛するという任務を負うことになった。網島(丸子)、溝口、大丸、連光寺(関戸)、日野などの渡船場の名主たちは外国奉行(小栗上野之介、池田修理など)の指揮下にも組み込まれた。
農兵隊の登用
西洋海軍の歩兵銃隊を知り尽くした江川英龍は国土防衛に農兵部隊が緊急に必要だと痛感。1846年、幕府に取り立ての許可を願う。農民の反乱を恐れる幕府はこれを直ちに却下。しかし53年、警備費削減のため、下田開港場に限って許可される。
英龍はさらに相模・多摩の防衛にも認めるよう要請。特に多摩は伝統的な郷士であって、郷土防衛の意識は高く、反乱の心配はない、とする。
横浜開港、生麦事件……イギリスは報復に江戸市中の砲撃と相模湾への上陸を示唆。幕府御家人は家人婦女子の避難先を武相国境あたりに競って求めた。武相農民を信用していたのは江川代官だけではなかったのだ。
英龍、英敏が死去し、英武が代官になった翌年の63年10月(浪士組上洛の8ヵ月後)、江川領に限って農兵が許可さる。英武の後見人(英龍の事実上の後継者)柏木総蔵に協力し、予算や調練計画など、用意万端を整えていた日野では、直ちに農兵隊が結成された。
日野農兵隊に続き、駒木野農兵隊(現八王子)、八王子農兵隊、田無農兵隊(現西東京)、蔵敷農兵隊(現東村山)、砂川農兵隊(現立川)、五日市農兵隊(現あきるの)、拝島濃兵隊(現昭島)小野路農兵隊(現町田)、日野農兵隊連光寺組(現多摩)、小野路農兵隊小山田組(現町田)などがぞくぞくと(武相15部隊)名乗りをあげた。
基本装備と調練は江川代官所が受け持つが、日々の訓練は村の指導者の下、弁当などは持ち出しで行われ、装備の拡充もそれぞれの隊が財力に応じて行っている。成人男子100人に一人を基本とし、慶応元年時点で15部隊1100人ほどが農兵となっている。
ビギナーズ……新撰組
D天然理心流と多摩
江戸と多摩の剣術
幕末、江戸では剣術が流行していた。それも、平和な時代は仕官のための型重視道場剣法が主流だったが、他流試合などが増え、次第に実践型の剣法が注目されるようになっている。
一世一代限りの流派を含め、500流派を数える幕末剣法の中にあって、神田お玉が池の「玄武館」(北辰一刀流・千葉周作)、九段の「連兵館」(神道無念流・斉藤弥九郎)、京橋の「士学館」(鏡新明智流・桃井春蔵)が三大道場と呼ばれている。
これに対して、天然理心流は江戸に道場を構えてからも「いも剣法」「いも道場」と呼ばれ、評判は高くない。しかし、『関東剣術英名録』によれば、柳剛流、北辰一刀流につぎ、神道無念流と並ぶ勢力を持っている。また、そのほとんどが武州多摩・相模出身者で占められている。
八王子千人同心は太平真鏡流、甲源一刀流を修める者が多かったが、二代目・近藤三助(戸吹村・現八王子)の代になって、天然理心流に入門する者が増え始める。三助の高弟・増田蔵六、宮岡三八、松崎正作はみな千人同心である。
この三人と兄弟弟子であった周介が三代目を継ぎ、多摩の名主層に浸透していくが、増田系も松崎系もそれぞれに、天然理心流を千人同心の間に広めていった。
天然理心流とは
天然理心流は鹿島神道流のひとつ天真正伝神道流を修めた遠州の人・近藤内蔵助長裕が寛政年間に創始した。剣術・柔術・棒術・気合術(飛礫術も含まれていたと聞く)を含む総合武術だったが、三代目・周介は剣術だけを伝授した。
流派の特徴はあくまでも実戦重視。小手先のテクニックではなく、気力・気組みで相手を圧する剣法で、練習は太めで重い木刀を用いる。実戦に近い修行が基本で、練習中も二本差を下げ、人と相対するのはもちろんのこと、1対2、2対3といった練習も怠っていない。また、道場ばかりではなく、屋外での練習をも重視している。
よく、天然理心流は本当に強かったのか、という疑問がある。新撰組の闘いはたいがいが不意打ちか大勢による包囲。卑怯ではないか、というのもある。しかし、少々ずるくても負けない、死なない。これが実戦剣法である。この流派はそための業を磨いた。
流派の流れ
初代・長裕(ながみち)の記録はほとんどないが、両国に道場を構え、多摩・相模に出稽古にきていた。二代目・三助は名主の子で、他流派を圧する腕前を持ち、戸吹(八王子)の自宅に道場を構えたため、千人同心の信望を得た。
三代目・周助は小野路に近い小山村(町田市)の豪農の出で、小山に道場を開いたため、その後(1840年)江戸に「試衛館」を構えるものの、多摩・相模の豪農たちを主要な門人としている。そのため、新撰組のスポンサーとなる佐藤彦五郎や小島鹿之助、宮川勝太(のちの近藤勇)はみな、自宅近くの道場で周助の手ほどきを受けている。土方歳三、沖田総司、井上松五郎・源三郎などもみな兄弟弟子である。
四代目を継いだのは近藤勇だが、彦五郎の腕前も相当なもので、彼が継がなかったのは名主であったからに他ならない(鹿之助は学問の人で、宗家を継ぐほどの腕ではない)。
勇が京へ発つとき、道場の後事を託したのは彦五郎だが、総司が病に倒れ、江戸に帰る際、「総司を五代目に」という勇の手紙が彦五郎に届けられる。つまり、本来ならば沖田総司が理心流の宗家を継ぐはずだったわけだ。
勇の養子・勇五郎は正式に天然理心流を修めたことがなく(門人たちと手合わせをしていただけ)、日野や小野路の道場も閉鎖されて、維新後、流派は絶えるところだった。が、どうにか勇五郎が五代目を継ぎ、警視庁の剣術師範などを勤める。また、永倉新八の記憶による天然理心流の手ほどきを受けて、内藤忠政が六代目を継いでいる。
試衛館
多摩で成功した近藤周助にとって、江戸の「試衛館」は出世の証のようなものだったろう。試衛館がどんな建物だったのかは、維新のジャーナリスト・福地源一郎が書き残しているので、かなり正確にわかっている。
ところが、その場所がどこなのか、長く論争が続いていた。というのも『新撰組永倉新八』では「小石川小日向柳町」とあるものの、多摩に残る手紙類には「市谷柳町」「市谷甲良屋敷」とあったからだ。これは1998年、永倉の手記『報国記』が発見され、そこに「市谷」とあったので決着する。永倉の記憶ちがい、またはインタビューをまとめた『小樽新聞』の誤記というわけだ。
両柳町、今でこそよく似た町並みだが、幕末のころは違っていた。小石川ならあたりは寺町で、鬱蒼としていたし、市谷なら武家屋敷の間にさまざまな職人たちが店を構える活気あふれた町。周助が流派の顔として道場を建てるなら、市谷しかない。
門人と食客
試衛館には周助の隠居部屋と勇の書斎、それに客間と食客部屋とがある。勇は妻・つね、娘・瓊子(たまこ)と市谷二十騎町に住んでいたので、ここに寝泊りしていたのは周助老人と部屋住みの沖田総司。が、井上源三郎もここで寝起きしていた可能性がある(土方歳三が寝起きした期間はあったとしても長くはない)。
また、門人ではない山南敬助、永倉新八が食客としてしばしば泊っていたのはまちがいなく、原田、藤堂などが寝起きしていたのかどうかは定かではない。しかし、他流試合や道場破りで騒がしい幕末の道場では46時中、腕の立つガードマンのいることが望ましく、食客は不可欠だった。
福地源一郎の言によれば、他流派の食客がわらじを脱ぐのは勇の人徳だそうで、いつも多くの剣客がいたようだ。次に食客と思しき人物の流派を挙げておく。
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山南敬助 |
北辰一刀流、小野派一刀流 |
仙台藩 |
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永倉新八 |
心形刀流、神道無念流 |
松前藩 |
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藤堂平助 |
北辰一刀流 |
津藩 |
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原田左之助 |
種田宝蔵院流(槍術) |
松山藩 |
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斉藤 一 |
溝口一刀流? |
会津? |
ただし山南は食客として逗留する間に天然理心流も身につけている。
助っ人
司馬遼太郎の『燃えよ剣』には助っ人が出てくる。手ごわそうな道場破りがやってくると人を走らせ、斉藤道場(連兵館)に代人(アルバイト)を頼む、というのだ。ストーリーでは塾頭の桂小五郎がやってきた、とされている。
天然理心流は実戦剣法で、道場剣法では実力が落ちる、と考え、こうしたストーリーになったのだろう。が、これは作り話で、道場剣法だとしても、沖田、永倉、斉藤一はみな超一流の剣士。桂でもかなわなかったと思われる。「試衛館」は凄腕が集まる「梁山泊」だったのだ。
もっとも、斉藤道場との関係は密だったはず。市谷と九段が至近距離だということもあるが、道場主の斉藤弥九郎(当時、日本一の剣豪といわれた)が江川英龍の腹心だったからだ。多摩に拠点を置く近藤周助、勇が領主の腹心を知らぬはずはなく、知っていて挨拶を怠るはずもない。
出稽古
多摩に拠点を置く理心流は、試衛館での稼ぎよりも、多摩各地の豪農が開いている道場に出稽古に行った謝礼のほうが大きかったにちがいない。だから周助も出稽古に力を入れたが、勇も総司や山南敬助をともない(あるいは単身で)、出稽古にいそしんでいる(歳三は佐藤道場を拠点に活動)。
道場は小山村の島崎(周助の実家)、上石原の宮川(勇の実家)ほか小野路の橋本、日野の佐藤、北平(八王子)の平、粟の巣(日野領→八王子)の井上、程久保(日野)の小宮、立川の板谷、相原(町田)の青木など、数多く、すべてが大変な豪農である。試衛館も彼らの寄付によって建てられた。
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ビギナーズ……新撰組
E佐藤道場と江川
日野宿
日野宿は古くから日野領(現在の日野市・多摩市)の中心で、多摩川と浅川の合流点に位置(日野本郷3000石)し、助郷村40数か村を束ね、多摩川の渡船場を管理していた。甲州街道南側に並び立つ上下佐藤家(東が下佐藤、西が上佐藤)が、半月ごとに交代で名主と問屋を務め、宿駅業務をする問屋場は両家の向かいにあった。
両家はほぼ同じ広さの敷地に、ほとんど同じ間取りの家を建て、下佐藤が本陣、上佐藤が脇本陣を担っていた。両家を囲むように用水が流れ、環濠の観を呈しており、表門・裏門ともに長屋門である。
長屋門は門扉の両側に部屋があり、ここに衛士が詰め、屋敷への出入りをチェックするようになっている。したがって、一宿一飯の股旅者を含め、屈強の男たちがここに居候しているのが普通。もちろん、宿中で腕の立つ者はもっと歓迎されていた。武勇伝を上げればきりがない佐藤僖四郎、中村太吉郎の二人はもっとも頼りになる家士だった。
両佐藤家には縁戚関係があるが、幕末、最後の当主は下佐藤が彦五郎、上佐藤が芳三郎だ。彦五郎が剣術を、芳三郎が家塾を開いて学問を教えていたが、本書では断りのない限り、下佐藤・彦五郎の話である。
本陣の火事
甲州一揆の反省から、江川英龍は支配地の人心一新策をとった。その結果、多くの若年名主が生まれ、日野宿でも1837(天保8)年正月、11歳で彦五郎が、8月には13歳で芳三郎が名主となっている。
彦五郎は先代の不正告発、上知令に基く御領所改革、多摩川渡船の転覆といった事件を切り抜け、47年に歳三の姉・ノブ(17歳)と結婚(仮祝言は45年)。これを機に、歳三(当時13歳)は佐藤家に入り浸るようになる。土方家の長男・為次郎も盲目だったため、俳句や和歌・狂歌といった風雅の道を進み、俳句を得意とする彦五郎を無二の友としていた。
49年正月、隣家で火事があり、本陣が焼失。その際、佐藤に根を持っていた男が乱心し、彦五郎の祖母を殺害。これを機に彦五郎は一大決心をし、翌50年、近藤周助の門に入った。54年2月には本陣の表(甲州道に面した側)長屋門の東部屋を道場に改造する。
日野の理心流門人・井上松五郎の紹介、という説が強いが、前年に入門した小野路の小島鹿之助(父の正則はすでに免許皆伝者)の手引だったろう。小島家との関係(隣接寄場名主同士)で、彦五郎の父の代から、周助の小山道場になんらかの援助をしていたようだ。
佐藤道場の盛況
佐藤道場の開設で、日野は一躍、天然理心流のメッカになる。上佐藤の芳三郎をはじめ、その弟の佐藤僖四郎、井上松五郎・源三郎兄弟、開設以前からの門人・高木長次郎・安西柳之助、『武術英名録』に名を残した原幸吉・馬場平助(浪士組→新徴組→庄内戦争)・中村太吉郎、そして安西平助(松五郎の弟、源三郎の兄)・谷定次郎・・・・・・。
道場での稽古は免許皆伝を受けた彦五郎みずからが行い、月に一度、近藤周助、後には勇の出稽古を受けている。勇と彦五郎の手合わせは激烈だったという。やがて、この出稽古に沖田総司や山南敬助が同道することが多くなる。
日野の一統の氏名を記した献額が1858(安政5)年8月、日野八坂神社に奉納された。けれど、ここに歳三の名はない。土方歳三の正式な入門はその7ヵ月後。歳三25歳のときだからだ。それまで歳三は、佐藤家の手伝いをしながら、竹刀を引っさげ、家伝の薬(石田散薬)を売り歩いていた。
歳三の入門は遅く、4年後には浪士組として江戸を出発。したがって、実力は高くても免許には至らず、佐藤道場の一門として修行中の身。試衛館のメンバーとして稽古をつける立場ではなかったのだ。
このほか日野領青柳(国立)の佐藤房次郎(浪士組)、総司の甥・沖田林太郎(浪士組→新徴組)、歳三の幼馴染み・千人同心の土方勇太郎、理心流松崎系を修めた千人同心・日野義信(彰義隊)なども佐藤道場を取り巻く日野の一統だった。
固めの杯
1855(安政2)年9月20日、近藤周助が勇をともない、小野路の小島家を訪れる。65歳になった周助が小野路に出向くのはつらいので、今後は勇をよこす、というあいさつで、「以後、兄弟のように勇を頼む」とので、鹿之助と勇は固めの杯を交わした。
また、後日、これに日野の彦五郎を加え、『三国志』の故事にならった義兄弟の契りを結んだが、この関係はその後、ずうっと親密なものとして維持される。勇が新撰組を結成してからも、佐藤・小島が熱烈な支援者だったことはよく知られている。このとき、彦五郎29歳、鹿之助26歳、勇(当時の名は島崎勝太)23歳だった。
奉納試合
近藤勇が天然理心流宗家四代目を襲名したのを記念して、1861(文久元)年8月、府中の六社宮で奉納の野試合が行われた。門人一同がうちそろう中、赤、白それぞれ36人ずつが模擬戦闘を行うもので、赤の大将には荻原糺(ただし)、白の大将は佐藤彦五郎。本陣惣大将・行司役には勇みずからが立っている。
小島鹿之助は本陣軍師役を務めるはずだったが、体調を崩したため欠席。3試合のうち2試合を白が制し、終了している。その後、府中宿の芸者を総揚げして、ドンチャン騒ぎの打ち上げを行い、これを伝え聞いた鹿之助が「後世に残る大事な席を汚した」と、彦五郎に苦言を呈しています。鹿之助は儒者で、こうしたことには敏感だった。
この試合では、赤に土方歳三、山南敬助、白に井上松五郎、本陣に太鼓役として沖田総司、鉦役として井上源三郎が参加している。
日野農兵隊
幕府に農兵の取立てを願っていた江川英龍は、右腕である柏木総蔵に準備を進めさせていた。しかし1855年1月16日、55歳で過労死してしまう(幕府開明派最大の痛手)。農兵実現のバトンを渡されたのは総蔵である。
総蔵は61年、すでに許可の下りていた(1853年)伊豆・下田の農兵隊を結成。同時に非公式ながら日野でも組織化を進めている(非公式期の記録は不明、正式許可は63年)。
隊長は彦五郎の長男・俊宣と芳三郎の長男・信民(事実上は彦五郎)で、ふたりはフランス式銃陣訓練の指導者養成のため、結成後、浦賀に派遣され、浦賀奉行の下、銃砲の扱いと練兵術の指導を受けている。
こうして日野は武州農兵隊の中心的な位置を占め、五日市や連光寺、小野路農兵隊の結成にも協力していくことになる。
ちなみに、八王子千人隊が西洋操銃術の訓練を命じられたのは1855年7月のこと。千人隊の訓練開始(指導は江川)も、浪士組が江戸を出発するよりも前の出来事なので、日野にいた歳三が、これに無関心だったとは思われない。
農兵訓練
日野農兵隊の訓練は宿内の普門寺と宝泉寺を本部とし、その境内や多摩川原で行われている。江川代官の手代・長沢綱吉、森田留蔵、太田(名不詳)の3教官が年2回派遣されるほかは、俊宣、信民の指揮による自前の訓練で、一部、千人隊士からの指導も受けている。
剣術の指導は彦五郎で、農兵隊とは別に、銃陣訓練になじまない壮年層は彦五郎が「撃剣組」を組織していた。
農兵調練の号令は「全隊進め! 止まれ! 右向け右! 前へ習え! 駆け足! 点呼!・・・・・・」など、今でもおなじみのもので、これは洋書の翻訳をベースに江川英龍が編み出したもの。江川宿の門人たち(4000人といわれた)が全国に広めた。
農兵隊は隊伍を組み、韮山遠足を挙行しているが、行進にはピーヒャラ・ドン・ドン・ドンを使った。また、柏木総蔵が訓練用にアレンジ(弦ky区は長崎で仕入れた。作詞も総蔵か?)した「農兵節(の〜えぶし)」も流行し始めていた。
農兵節のキーワード
「富士の白雪はの〜え」で始まる農兵節は富士に向かって行軍する武州農兵の行軍歌として最適だった。ここで歌われる「三島女郎衆」こそ、家康が見初め、江川の養女とした女。徳川と江川を結ぶ女で、武州農兵を奮い立たせるキーワードになっている。
韮山笠(にらやまがさ)
韮山笠は折りたたみ可能な帽子で、雨中、火縄銃の火を消さないためにかぶるもの。小田原ちょうちん同様、全国レーベルのコンパクト・グッズで、農兵の軍装にも含まれていた。
ビギナーズ……新撰組
F近藤勇と沖田総司
宮川家
近藤勇は布田五宿(調布の旧称)のひとつ、上石原の豪農・宮川久次郎の三男として、1834年10月9日に生まれた。上石原といっても甲州街道とは1.5キロも離れた人見街道沿いの家で、村はずれといっても過言ではない。
宮川家は8代将軍吉宗のころの弥五左衛門が初代だが、どういう経緯でここに住むようになったのかは明らかではない。が、その究明は重要だ。配下に束ねる農家も見当たらず、村役人でもない。なのに豪農だというのは不思議。集落ではなく、孤立した土地に舞い降りた理由があるはずだ。
久次郎は宮川家の5代目で、邸内に天然理心流の道場を設けている。したがって、ここで剣術を習ったのは彼の一族と、隣の野崎村・大沢村(どちらも三鷹市)の人たちだ。
勝太少年
勇の幼名は勝太だが、剣術の気合を子守唄がわりに育った(母は5歳のとき死亡)ためか、小さなときから腕白で「宮川の暴れん坊」で通っていた。
正式な入門は15歳。わずか7ヶ月で「目録」に進んでいる(普通は3年かかる)。目録に進んだこの年のある夜、家に数人の盗賊が侵入。気づいた兄が打って出ようとしたところ、勝太が「油断をする引き上げ時がいい」と制し、タイミングよく兄弟一斉に飛び出したため、賊は手傷を負い、なにも盗らずに逃げ出した。また、兄の深追いを制した、ともいう。
この話は近所でも評判になり、聞きつけた周助が彼を養子に取ろうと決意。養子の話は父・久次郎の二つ返事で決まり、1849(嘉永2)年10月19日、宮川勝太は周助の実家の姓を名乗って島崎勝太(島崎勇→近藤勇)になった。
ツネとの結婚
1855(安政2)年、免許皆伝を受けた勇は、60年3月、松井八十五郎の長女・ツネと結婚。勇28歳、ツネ25歳で、夫婦ともに晩婚だった。勇はツネとの結婚前にも何度か見合いをしたが「美人にはおごりが見える」と断わり、ツネを選んだという。
2年後には一粒種・瓊子(たまこ)をもうけるが、その直後に、命を捨てる覚悟で上洛してしまう。京都にいる間に2回、江戸に戻ることがあったが、ともに暮らしたのは3ヶ月程度。鳥羽・伏見戦争に破れて江戸に戻ってからも、1ヵ月半後には甲陽鎮撫隊を率いて勝沼に向かい、これが永久の別れとなっている。
明治になると、ツネは瓊子とともに宮川家に引き取られ、瓊子の死(1886年)後、56歳(1892年)で死亡している。
生家の位置
現在も近藤勇の生家跡は残っている。しかし、それは産湯を浸かった井戸などで、建物自体は1943(昭和18)年、調布飛行場の開設にともない、取り壊されている。
生家は調布市だが、府中市と三鷹市にはさまれた細い角のようなところ(当時は三鷹の中の飛地)で、勇の墓がある近くの龍源寺はもう三鷹市。生家がなぜ上石原の一部なのか理解に苦しむ(宮川家を街道奉行下に置きたいなんらかの理由があった、と考えるほかはない)。
ここは尾張家のお鷹場の入口(甲州街道からの最短距離)に当たり、ここがお鷹場に指定された時期と宮川家がやってきた時期とはほぼ一致する。これは仮説だが、宮川家はお鷹場に関係するなんらかの役目を帯びていたと考えられる。
三鷹の吉野家
宮川家と交わりの深い村は、おなじ人見街道を東に1・5キロいった野崎村で、この村の名主家が吉野家。宮川と吉野は早くから深いつながりを持ち、吉野の一族も多くが宮川の道場で天然理心流を学んでいる。
また、吉野と日野・佐藤は親戚(具体的な繋がりは不明)で、彦五郎はお役目などで江戸に出る際、ここに1泊するのを恒例にしていた(この名主家は現在、小金井の「江戸東京たてもの園」に移設)。日野から江戸まで、徒歩で日帰りするのは無理なので、前日に三鷹まできて、翌日、仕事をこなすのだ。
おなじことが小野路にもいえ、小島鹿之助は親戚である下染谷村(府中市)の粕谷家(医者)を、江戸への基地にしていた。やがて歳三の兄・良循が養子に入って、粕谷家を継いでいる。
近藤勇五郎
天然理心流5代目宗家を継いだ勇五郎は、宮川久次郎の長男・音五郎の子で、勇の一人娘である近藤瓊子(たまこ)の婿となって、近藤姓を名乗った。瓊子との間に久太郎が生まれた(この直後、瓊子病死)が、日露戦争に出征して病死。勇の直系は絶えている。
板橋で処刑された近藤の身体を掘り出して運び、龍源寺に埋めた、とされるが、異説もある。明治になって、理心流道場は一時閉鎖されるが、政府への運動が効を奏し、復権。天然理心流を継ぐことになる。吉野家の当主・泰三(天然理心流→甲源一刀流)の政治活動(自由民権)に協力していたこともある。
宮川本家
宮川家は資産運用にたけ、園芸作物や栗の栽培などを手がけて明治時代、多摩に広大な土地を手に入れる。多摩霊園のほとんどが宮川家の栗林だった。連光寺村(多摩市)の土地を、隣接する富沢家の土地と合わせ、聖蹟記念館の用地として寄付したりもしている。
沖田家の謎
沖田総司(幼名・惣次郎)は1842(天保13)年、白川藩の江戸下屋敷で生まれた。父は白川藩の足軽・沖田勝次郎(母不詳)ではないか、という従来の説に対して、日野の研究者・谷春雄は日野・井上(源三郎)家分家の林太郎ではないか、としている。
筆者もまた谷説を採る。谷氏によれば長女・ミツの夫となり、沖田家の当主となった沖田林太郎とは別人で、前者を林太郎元常、後者を林太郎房正として区別している。
沖田家の伝承では、長男・総司が大望を抱き、相続を拒んだ、とある。また、総司自身も白川藩士の子、または白川脱藩、としているが、大望を抱いたのは総司5歳のことになり、脱藩を決意できる年齢ではない。母親の名とともに、謎は深いのだ。
奥州の姉家督
混乱の元は総司が長男であるにもかかわらず沖田家を継承せず、1845(弘化2)年に勝次郎が死亡すると、翌3年にミツが結婚。夫の房正に家督を継がせたことにある。しかし、この疑問は長男が家督を継ぐもの、という思い込みを前提にしている。
白川の事情は不明だが、東北には明治の中ごろまで男女を問わす年長者が家督を継ぐ「姉家督」という習慣が根強く残っていた。つまり、長女ミツが生まれた時点で、家督は彼女に決し(ミツが他家の養女になったという記録もあるので、疑問は残るが)、総司は他家に出る運命にあったことになる。
総司が幼少から近藤周助に預けられ、試衛館の住込みとして剣の道を目指すことになったのも、これで説明がつく。姉家督の家を父系で辿ろうとすれば混乱を生じるのは当然で、藩の記録に当たっても、母から母への継承は明らかにはならない。姉家督の視点からの再調査が必要だ。
そうなると林太郎房正ばかりではなく、林太郎元常、勝次郎も入婿(正確には妻が持つ沖田家の株を、夫が行使するに過ぎないが)であった可能性が高い。ミツが近藤家(宗家とは無関係)の養女になった、というのも、通常考える「養女」ではないのだろう(彼女を「近藤ミツ」と考えるのは明治民法の発想で、明らかに誤りだ)。
惣次郎少年
天性の剣士として、惣次郎(→総司)少年のエピソードは数多く、12歳のとき、白川藩指南役に勝ったという眉つばのような話がある。が、これも、それほどに強かった、ということだろう。
入門は9歳だが10年後には「免許」が与えられ、試衛館の師範代を勤めている。多摩への出稽古は1859年ごろ(18歳)からで、62年にははしかに罹り、小野路で倒れている。ひとを付けて総司を送った後、心配した小島鹿之助は日記に「晩年必ず名人に至るべき人なり」と記した。
沖田林太郎房正
総司の姉・ミツの夫で、日野・井上一族のひとり。沖田家を継ぎ、白川藩士となるが、その後(1860年ころ)、脱藩。天然理心流の門人(この縁で、総司は試衛館に預けられた)で、義弟・総司とともに文久3年、「浪士組」として上洛。家督を継ぐ者が京に残ることを許さない近藤勇の方針に従い、江戸に戻ったものの、馬場平助とともに、清川八郎らの「新徴組」に参加。江戸の治安維持のため、剣に生きた。
ビギナーズ……新撰組
G土方歳三と日野
土方家
新撰組副長・土方歳三は1835(天保6)年5月5日、多摩川と浅川の合流点にある日野領・石田村の「お大尽」土方隼人義諄の四男として生まれた。歳三がうまれる前に父の義諄(よしあつ)は亡くなり、母・エツも彼が4歳のときに亡くなって、家を継いだ次兄の喜六(長兄・為次郎は風雅の道を歩む)夫妻が歳三の親代わりになる。
土方家の本領は浅川南岸の三沢村にあり、菩提寺を高幡不動尊(金剛寺)としているが、石田の土方は金剛寺の末寺・石田寺(せきでんじ)の檀徒で、一族(石田村は土方姓ばかり)の氏神を近くの「とうかん森」に祀っている。とうかん森は「稲荷森」の音読みで、近在の稲荷森はみなこう呼ばれていたようだ。
歳三の本来の生家はこの森の近くの多摩川べりにあったが、洪水で流され、500メートルほど西南へ移築されている。この家が「生家」と呼ばれ、1990(平成2)年まで現存。区画整理で建て直される際、生家の旧材を生かして母屋とおなじ場所に建てられたのが土方歳三記念館(40章参照)である。
石田の川欠け
かつて、多摩川の渡し場は石田にあり、ここから古甲州道、古東海道(品川・保土ヶ谷間に幹線道はなかった)が分岐していた。石田は関東要衝の地だったのだ。しかし、江戸時代の数度にわたる洪水で、多摩川の流れが変わり、石田の東隣にあった青柳村が姿を消し(多摩川北岸に移住)、石田村の岸辺が洗われだす。そのため渡船場も石田から西の満願寺(日野領)に、さらには日野宿に移される。
洪水で土地が流されることを辺りでは「川欠け」といい、「つぎは石田だ」というので、日野領では幕府に築堤工事を申請。資金不足で幕府が二の足を踏んでいる1840(天保11)年6月、歳三の生家が流された(石田一族の一部はすでに多摩川北岸に新田を開き、移住していた)のだ。
46(弘化3)年、堤防の改修工事が開始されるが、本格的な改修は明治になってから。この両改修工事は上下佐藤が請け負っているが、上佐藤(芳三郎)が主な手配をしているようだ。
ノブの結婚
歳三の運命を決定したのは、慕っていた姉・ノブの結婚だった。夫・佐藤彦五郎の母・マサはノブと歳三の父・義諄の妹、すなわちノブと歳三の叔母で、この結婚はマサが強く望んだもの。ノブの嫁入りは、歳三に佐藤家に入り浸る口実を与えたが、その翌年、歳三は江戸・上野の松坂屋に奉公に出されてしまう。
いわゆる丁稚奉公だが、多摩の良家の子弟・子女で、家を継ぐ予定のない者は、ふつう、人生修行として江戸の商家や武家へ丁稚奉公・女中奉公に出ている。
江戸での奉公
歳三は大店の松坂屋呉服店に11歳で奉公に出るが、末っ子の甘えか、もちまえのきかん気のためか長続きせず、番頭に叱られると、その日のうちに石田の生家に逃げ帰ったという。
二度目の奉公は大伝馬町の木綿問屋。歳三17歳、大人になった以上、丁稚というわけにもいかなかったのだろう。剣ならぬ鋏を持たせれば天下一品。あざやかな裁ちさばきだったとも聞く。主人の受けはよく、そのうえ美形の好男子。年頃の女たちにはちやほやされ、やがてその一人に手を出して、主人の逆鱗に触れてしまう。
またまた逃げ帰った歳三。名主の公務をうち捨てて、後始末に出ようとする彦五郎をいさめたのはノブだった。「そんなもの、自分で始末がつけられなくてどうする」と、竹を割ったような性格だったノブは、時に厳しくもあったという。
自分で始末をつけに江戸へ戻った歳三。彼が剣の道を目指したのはそれからだった。
石田散薬・虚労散
1851(嘉永2)年、大伝馬町から帰った土方歳三は、庭に篠竹を植えて「武士になって、天下に名を挙げるぞ」といい、剣術道具を引っさげて、家伝の石田散薬や佐藤家で作っている虚労散の行商をはじめている。
石田散薬は河原に生える牛革草からつくる、打ち身に効く家伝薬で、結核肋膜の特効薬・虚労散とともに新撰組御用達(虚労散は総司の常用薬であった)の薬となるが、効能の方ははっきりしない。どちらも戦後制定された薬事法で薬とはみなされず、販売は許されたが、やがて製造を中止している。
一説に、歳三はこの牛革草集めに集団統率の手腕を発揮した、とあるが、彼がその仕事に打ち込んだ証拠はない。薬売りでさえ、兄弟からは野良仕事を避ける口実と思われていたのだから、この説は眉つばだろう。武相(武州と相州を合わせ、こう呼ぶ)の天然理心流道場を渡り歩き、手合わせを願うことで、歳三は大きくなったのだ。
歳三が正式に天然理心流の門人になったのは1859(安政6)年3月、25歳のとき。日野・佐藤道場への入門だったが、それ以前から近藤勇とは旧知で、剣を合わせていたかもしれない。
歳三の恋
歳三には南豊島郡(→豊多摩郡)・戸塚村(東京都新宿区)に於琴という許婚がある。浄瑠璃をたしなむ長兄・為次郎が行きつけの琴・三味線屋の一人娘で、評判の小町美人。長唄では杵屋の名取りでもある。為次郎が彦五郎に口利き役を頼んだのである。
彦五郎もこれには乗り気で歳三に引き合わせたが、歳三は「俺にはまだやることがある。許婚ということで、勘弁してくれ」と断わった。京に出てからも、この関係は変わっておらず、歳三は手土産を持って於琴のいる戸塚を訪れている。
多摩には「おんじい、おんばあ制度」というのがあり、継ぐ家を持たない者は、他家に婿養子として入る以外、結婚は許されず、終生、生家に留まって家業を手伝う。四男の歳三も同様で、於琴と結婚すれば三味線屋の主人。さもなければ独身を通し、土方の田畑を耕すか、佐藤の「下男」となって、村役人の手伝いをするのがふつうだ。
浪士組として、上洛することがなければ、第3の道、すなわち公務の手伝い(家士として長屋門を守る、など)をして一生を終える可能性が高かったと思われる。
甥・俊宣と彦吉
1850(嘉永3)年9月、彦五郎とノブに待望の長男が生まれる(長女ナオは47年に誕生している)。彦五郎俊正の「俊」とノブの「宣」で、俊宣(としのぶ)だ。歳三は甥にあたる俊宣を、目の中に入れても痛くないほどにかわいがった。
その後、力之助、漣一郎、彦吉と生まれて、彦吉がまだヨチヨチ歩きだったころのこと。歳三が佐藤家の玄関で居眠りをしていたところ、彦吉が転びかけて、玄関脇に置いてあった普請用の石に眉間をぶつけ、火のように泣き出した。
飛び起きた歳三は彦吉を抱え上げ、座敷に上げて介抱しながら、「男の子の向かい傷だ。めでたい、めでたい」といっていたという。
大病
浪士組募集で、試衛館の剣士たちが上洛する一年前の1861(文久元)年11月、佐藤の家に身を置いていたころ、歳三は大病に罹り、しばらく死地をさまよった。
彼を必至で看病したのは姉のノブと、下染谷村の粕谷家に養子に入った兄の良循。歳三の病が尋常でなかったことは、医師・良循がほとんどつきっきりで見守ったばかりか、近在で名医の誉れ高い谷保村(現国立市)の医師・本田覚庵(佐倉順天堂の佐藤泰然と知遇があり、書面で診断を依頼するほどの仲であった)が診療に赴いていることでもわかる。彼らの手厚い看護により死地を脱することがなかったら、歳三の新撰組も副長もなかったわけだ。
覚庵の周辺人脈
相原村(町田市)の青木徳庵は覚庵の祖父・本田随庵の子で、江川英龍にしたがい、多摩に種痘をもたらした医者。徳庵の養子・芳斎(日の生まれ)は天然理心流門人で、新撰組パトロンの一人だ。
また、覚庵の義母・キンは石田村土方家の出身で、覚庵の二男・本田定年は佐藤俊宣らとともに、後日、新撰組の顕彰に奔走している。俊宣の妻・トマは覚庵の長女(定年の妹)。