この文章は、ネット友人である佐藤良平氏提供のものです。著作権も氏に帰属します。
作品の本質に深く触れますので、新鮮な気持ちで映画を観たい方は読まないで下さい。
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解題:アニメ映画『ユンカース・カム・ヒア』の魅力 (第一稿:98.07.15)
執筆:佐藤良平
実を言えば、私も久しく『ユンカース』を観ていないので、先に「以下の文章には誤りが含まれているかも知れません」と前置きすることを許して下さい。
また、文章の性質上、ネタバレしている箇所が多いので、作品を観る前に読むのは正直言ってお勧めできません。
【いきいきとした人物を描くために】私が『ユンカース』の作画を人に説明する時、必ず引用するシーンがある。
それは、開巻まもなく、主人公のひろみが帰宅してからの一連の場面だ。彼女は玄関からキッチンに行って冷蔵庫を開け、牛乳のパックを取り出す。ここまでは確かに丁寧な作画だが、まだ驚くほどではない。しかしだ。主人公はパックからコップに牛乳を注いでパックを冷蔵庫に戻し、コップから牛乳を飲む。そして、ひろみがテーブルの上にコップを置くと、牛乳が残した白い跡がコップの内側に残るのである。
これは、日本のアニメにおいては全く例外的な作画である。こんな場面は『ユンカース』の他にはスタジオ ジブリの作品ぐらいでしか見ることができない。
なぜかというと、わざわざ手間をかけてやる必要がないのだ。クロースショットで撮らずに後ろ姿でゴマ化すか、飲むという動作のカットを省くことによって、描かずに済ませば良いのである。いや、それより、そんなややこしい場面を作らないように脚本を書くことだって簡単なのだ。
しかし、敢えてこういう作画を実行したことにより、観客は主人公を身近に感じられるようになる。見かけはセルに描かれた人間なのだが、奇妙なことに、まるで本物の人間を見ているように錯覚するはずだ。ひろみという人物が観客に向かって何歩も近づいてくるような効果を挙げている。
観客というものは、自分が日常的にやりつけている動作なら良く知っている。だから、そういう動作がアニメで描かれた時に不自然な動きをすると、たやすく「こりゃヘンだぞ」と気付いてしまう。
それがたとえば「身一つで空中を飛ぶ敵と時速500kmという猛スピードでスレ違いつつ、自分の手のひらから発射する電気ショックで敵を倒す」などという動作は、誰もやったことがない。だからこそ、アニメではそういう場面を平気で描けるのである。
日常的な芝居を担当するアニメーターには、高度な観察力と描画力が要求される。ある意味で、これは日本のアニメ界に最も欠けている要素の一つなのだ。
【レイアウトの特色】『ユンカース』では画面レイアウトのパース(遠近法)がきちんと取れているので、作画のごまかしが効かない。たとえば、ひろみの部屋は床が板張りで、板目は厳密に遠近法に従っている。手前にいる人物は奥へ行くと見かけが小さくなり、手前に戻ってくると再び大きくなる。同じ場所に戻ってきたら、カット頭の時点と同じ大きさになっていなければおかしい。これは、アニメのシロウトが見ても容易に指摘できる点である。
制作側としては、観客に弱みを見せたくないし、描くのも面倒だから、この種のレイアウトを極力避けるのが普通だ。そのうえ、仮に上首尾に描くことができたとしても、観客から見れば当り前の事を当り前にやっているようにしか見えないという、労のみ多くて功少ない作業なのである。
『ユンカース』の絵面は、極めて地味なものだ。キャメラは基本的にフィックス(固定されている状態)である。アングルやキャメラワークに凝りまくった「新世紀エヴァンゲリオン」などと比べると、まるで小津安二郎の映画のようだ。
佐藤順一監督は『ユンカース』が公開された後に「僕の作品では画面の内側、それも真ん中だけで芝居をやっているから、画面の外まで広がりを感じさせる動きがないんです。今後、改善していきたい」と語っていた。
実は『ユンカース』の佐藤監督と「エヴァ」を撮った庵野監督とは互いに学び合う間柄である。庵野監督は『ユンカース』を観て佐藤監督の静的な作画に感銘を受け、逆に佐藤監督は庵野監督の作品を観て「もっとダイナミックな絵づくりをしなければ」と反省したという。
【美術について】『ユンカース』をジブリ作品と比較して言えば、背景美術のスタイルが違うことが目立っている。ジブリ作品の多くは、あくまで重厚な、油絵っぽい厚塗りの場合が多い。それに対して『ユンカース』では、パステル調というか水彩調というか、ごく淡いトーンで統一されている。
佐藤監督が『ユンカース』の美術によって与えた示唆は重要である。それまでは「美術は、より細かく描き込む方が望ましい」「細かく描けば描くほど、作品のリアル度が上がる」という風潮が、ジブリの諸作品によって浸透していたからだ。そこに「別の方法論もありますよ」と言わんばかりに『ユンカース』が登場したのである。
セルの人物に合わせるには『ユンカース』ぐらい比重の背景で充分なのであって、ジブリの作業は「過ぎたるは及ばざるが如し」ではないのか、と私は考えている。。セルと美術のマッチングという観点からは、むしろ『ユンカース』の方法論が適しているのではないか。
私は元来、ジブリが得意とする厚塗り調の美術には懐疑的である。美術の絵は幾らでも描き込めるので、クォリティを上げようとすると無闇に細かい絵になる。しかし、実際に動くセルの部分は簡素な描き込みや塗り分けしかできない。よって、密度が濃すぎる美術の上にセル画のキャラクターが置かれると、最終的な画面では違和感を覚えてしまうのだ。
公開当時、佐藤監督は「現実の一部分を切り取ってきたというより、『ユンカース』という映画全体を一冊の絵本のような形で見せたかった」と述べている。画面を見る限り、監督の意図は見事に成功していると言えるだろう。
なお小説版では、ひろみの自宅があるのは代官山という高級住宅街である。劇場版で世田谷区に変更されたのは、佐藤監督のアイディアによる。これも、ひろみを観客に身近な存在として感じてもらいたいという意図からなのだろう。愛敬がある東急世田谷線の車両や、世田谷の沿線風景が登場するという点でも、『ユンカース』は貴重な映画である。いわば、世田谷の「ご当地映画」とでも言うべきか。
【キャラクター設定について】この作品は、最初からアニメオタクの皆さんを相手にする必要がなかった。それは非常に幸福なことだったと言える。主人公をはじめ、登場人物には派手なところが一つもない。もちろん、アニメ的なデフォルメが施されてはいる。しかし「いわゆるアニメ」に出てくるキャラクターとは、ぜんぜん違う。
主人公の女の子にしたって、お目々がパッチリしてるわけではないし、小学生ばなれしたグラマーな体型でもない。役処にしたって、無敵の美少女戦士でも、人類の未来を背負って苦悩するヒーローでもない。本当に、そこいらにいる普通の子だ。
アニメの制作現場では、アニメを作るとしたら「いわゆるアニメ」の方が圧倒的にラクなのだ。量的にたくさん作られているぶんだけ、現場のスタッフが制作に慣れているからである。しかし、そこから一歩でも離れて「いわゆる」の世界から外れたことを始めると、無数の困難が待ち構えている。一つのカットを完成させるにしても、いつも描いている動きとは別種の動きを研究して描かねばならないから、能率が悪い。
例えて言えば、「いわゆるアニメ」が大量生産の既製服だとするなら、『ユンカース』で行われた作業の多くはオーダーメイドで服を作らせる作業に匹敵したと想像されるのだ。お金も時間も余計にかかる。それを承知で、敢えて日常描写に神経を使った『ユンカース』は、たいへん貴重な作品だと言えよう。
主人公の「12歳」という年齢は、非常に微妙な設定だ。主人公のキャラクター設定では「スカートをはいていても、構わずに足を開いて座ってしまうことがある」という細かい指定があったと記憶する。精神面においては、14歳という年齢では「親に甘えたい」という気持ちはナンセンスになってしまうが、まだ12歳なら許される上限なのではなかろうか。
同居している青年(圭介)に対して主人公が恋心を抱くのは、おそらく「年上の人を好きになることで自分が背伸びしたい」という子どもっぽい気持ちの表れと、「不在がちな父親の代わりになってほしい」という欲求が混ぜこぜになっているためで、大人が持つ恋愛感情とは別種のものなのだろう。
圭介は恋人に「なるべく相手をしてあげるようにしている」と言う。しかし、この言葉が主人公を二重の意味で傷つけていることに気が付かないという演出が、圭介の若さを上手く表現している。ひろみは「所詮、自分は子ども扱いされているんだ」と思い知らされた上に、「親が不仲だということを、家庭外の他人から気遣われている」という負い目を感じたはずだ。主人公が圭介の恋人を撃退できれば落着する、というほど簡単な話ではないのである。
もっとも、圭介は圭介なりに主人公を大切に思っているのであって、母親に直談判する場面では大人な一面を見せる。登場するキャラクターを一方的に貶める演出をせず、愛をもって扱っているのだ。ここのあたりのバランスの取り方が好ましい。
【作品の構成について】この作品を観て私が最も感銘を受けたのは、劇中に流れる時間的な構成の上手さであった。夏に始まってクリスマスでクライマックスを迎え、翌春に終わること。主人公が小学6年生で、中学校に進む時点で作品が終わること。この2点は絶対に外せない。
作品全体が持っている「季節が冬に向かって寒くなっていくのとシンクロして、両親の仲が冷えていく」という構造の妙は、高く評価されるべきだ。これは優れて映画的な発想であり、これを思い付いた時点で作品の成功は約束されたと私は考える。
主人公の良き時代の思い出は(実際には劇中の7年前という設定ではあるが)「夏」のイメージに集約されている。もちろん、夏という季節は作品がスタートした時点の季節でもある。
作品の始め頃では、主人公の境遇には格別の問題がないように見える。しかし実際には、家庭の危機が迫っている。
主人公は、自分が祝福されるべき誕生日の夜に、両親の間にある亀裂を知る。この「悲喜の逆転」は、クライマックスで繰り返される。
圭介の真意を知って悲しむ主人公が枯葉の散り敷いた公園で涙する場面は、季節の進行と主人公の心情をオーヴァーラップさせて表現しており、実に秀逸だ。
天気はラスト近くのクリスマス・イヴの夜に急転直下し、東京では珍しい大雪となる。空模様に歩調を合わせて夫婦仲の方も急激に冷え、最悪の状態となる。ひろみは洋子に圭介を明け渡すことで気持ちを吹っ切り、自分が抱えている問題を正面から見据えるようになる。
最後の奇跡の場面では、冬景色のように冷え切ってしまった両親の仲を、主人公が大切にしてきた正にその場所で、かつて家族が幸福であった季節=夏にもう一度復帰させるという、これ以上望めないほどの視覚的な判りやすさを以って表現することに成功している。「訪れる人も絶え、潮騒の呟きの中に、在りし日の家族の情景を封印した思い出の浜辺。家族が家族であった時代の記憶が寄せては返す、追憶の浜辺…。ようこそ、大洗海水浴場へ!」(押井守監督作品『御先祖様万々歳!』第四話「捲土重来」より)。
作品のラスト、ひろみは中学校に上がって、彼女が子ども時代から一歩抜け出したことを暗示する。ひろみの家庭にも再び春が来たのだ。家族関係が100%復旧するわけではないものの、現状維持から徐々に良い方向に変わっていきそうだという余韻を残して、作品は終わる。
【魔法の設定】この種のストーリーでは、外してはならない約束ごとが幾つかある。
主人公が飼っているペット(ここでは、仲間=「コンパニオン」と呼ぶ)には不思議な能力がある。その能力は、他者に知られてはならない秘密である。人生経験に関しては、飼っている本人よりコンパニオンの方が長けている。コンパニオンの性別は、主人公の性別の逆である。二人は協力しあって問題を解決していく。
魔法が使える回数は3回だけ。それも、1回目は愚かな用途のために浪費してしまい、2度目は1回目の間違いを正すために使われてしまう。3度目の魔法は、きちんと成功する。魔法を使い切ってしまうのと引換えに、コンパニオンは特性を喪う(本作の場合は、言葉を話せる能力。これは宮崎駿監督による同種の作品『魔女の宅急便』と同じ)。上記の各ポイントは、このタイプのストーリーでは定石と言えるもので、佐藤監督は基本を忠実に守っている。
これが、もし無限に奇跡を起こせるとしたら、ユンカースの役割はドラえもんのそれになってしまい、ひろみは何時まで経ってもちっとも精神的に成長しないという結果になるだろう。
ただし、スタッフロールが終わった後、コンパニオンが特性を喪失したのはフェイクだったという事実が示され、ハッピーエンドが明かされる仕掛けになっている。これは、原作小説との整合性を確保するという狙いもあるのだろうが、個人的には佐藤監督のサーヴィス精神の表れだと解釈している。
【この映画が訴えたい事とは?】佐藤監督にとっては、映画『ユンカース』が初の劇場用オリジナル長編作品となった。たしかに『ユンカース』は全くのオリジナル企画ではなく、木根尚登氏の小説が原案として存在している。しかし、劇場版『ユンカース』は小説版から基本的な設定を借りるに留まっており、内容は佐藤監督のオリジナルと言ってよいものだ。
小説版はライトな読み物として書かれており、主人公の両親が離婚するといった暗いシチュエイションは描かれていない。すでに両親は別れており、離婚は「過去のこと」として済まされている。
『ユンカース』をアニメ化するにあたって佐藤監督がやったのは、単に面白おかしいエンターテインメントとしてストーリーを組み立てるのではなく、小説版の設定に含まれている現象の中で一番ビターな部分を絞り出して、それを観客に提示することであった。「主人公の両親は、どういう経緯で離婚せねばならなかったのか」「その時、主人公はどう感じたのか」「離婚を防ぐことはできなかったのか」という、極めてデリケートで、しかも現実の世界で増えつつある事象を取り扱うことになったのである。
フィルモグラフィを見れば判る通り、佐藤監督はこれまで一貫して子ども向けの作品を中心に手がけてきた。「アニメは子どもに見せるものである」という姿勢を、作品作りを通して貫いてきたのだ。その意味では、かつて『どうぶつ宝島』や『長靴をはいた猫』といった良質な子ども向けの長編アニメをコンスタントに作ってきた東映動画の伝統を引き継ぐアニメ演出家なのである。佐藤監督は、どちらかと言えば「アニメーションの人」というよりか「TVマンガの人」というポジションに近い。
その佐藤監督が、子ども向けの作品という体裁を取り、子どもを主人公に据えながら、実は大人に向けた映画『ユンカース』を撮ったというのは、非常に興味深いことであった。テーマ的に言えば、従来の佐藤監督作品を見慣れた目には「おやっ?」と思わせるものがあったのだ。
【子どもが子どもでいられるという事の大切さ】しかし、佐藤監督は大人向けの作品を撮っても、子どもの側に立つことを止めたわけではなかった。むしろ、子どもに向けた作品を作る手をちょっと休めて、大人の人々に「いま、子供たちはこう思っているんだよ」と語りかけているように思えるのだ。
劇中で「ひろみは自分のことを理解してくれている」と母親が言う。もちろん主人公は、自分が置かれたシチュエイション全体を理解しようと、涙ぐましい努力をする。しかし、最終的に彼女は理解することができない。できるわけがない。ひろみと両親は、文字通り親子の間ほど歳が離れているのだから。
娘が自分を理解できると母親が思い込むのは、単純に母親が身勝手だからである。ひろみの母親は、自分自身に余裕がないために「自分が12歳だった頃、今の私の娘と同じシチュエイションに置かれたとしたら、私はどう感じていただろうか」と素直に想像することを怠っているだけなのだ。
私は『ユンカース』を初めて試写で観てからしばらくの間、ひろみの「はーい」という返事が耳について離れなかった。口答えすることなく、いつでも「はい」「はい」と言うことを聞く、親から見て手間のかからない子どもであることを象徴しているセリフだからだ。
こういう子どもは、親にとっては便利な存在であろう。しかし「親が便利だと感じている親子関係は、子どもの側が犠牲を払うことによって成立している」という負の可能性を忘れてはならない。
この文章では、父親の行為を責めないことで母親のみを取り上げる結果になった。もちろん父親にも問題はある。しかし、この作品を観終わって印象づけられるのは、やはり父親よりは母親の責任の重さだ。『ユンカース』が制作された当時は、女性の社会進出が推進されており、ややもすると反対意見が封じられていた傾きがあった。
それは、母親が働いて家を空けることを子どもがどう思っているのかを、誰も子どもに聞こうとしなかったからだ。その時代の社会的風潮によって、子どもの側の意見が封殺されたと言えるかも知れない。佐藤監督は『ユンカース』を撮ることによって、子どもの側の気持ちを代弁したかったのではないか。
現代社会において、子どもは一刻も早く大人の論理に馴染み、効率的に行動できるようになることを期待されている。劇中のセリフを借りて言えば「しっかりした子」になるよう望まれているのだ。しかしながら、当然至極の話なのだが、人間には子ども時代が絶対に必要なのである。実際に子どもである時分に子ども時代をやれなければ、一生のうちで一体いつになったら子ども時代をやることができるのだろう?
不幸なことに、ユンカースのような変わった犬は、そんじょそこらにゴロゴロしているというわけではない。だから、ユンカースが起こしてくれたような奇跡を体験することは、現実に離婚に直面しつつある多くの家庭にとって不可能事でしかない(…はずだ)。そのかわり我々は『ユンカース』という映画を観ることによって「そうだよな。そうなんだよ」と思うことが可能になるのである。
ユンカースが実現する奇跡の場面を、劇中の当事者は「夢」として体験している。映画もまた夢の一種だとするならば、ドリーマーとしての観客に対して、『ユンカース』という映画自体が一つの奇跡のごとく作用し得るのではないだろうか。
【出演者について】上で述べたようなシリアスなテーマを扱いながらも、決して深刻になりすぎず、適度な遊びをサーヴィスしてくれるのが、佐藤監督の持ち味である。いちいち詳しく述べるのは遠慮しておくが、そこらへんの楽しみも上映の際に確認していただきたい。
世界でもトップクラスの出演料を要求する超有名な俳優(に似たキャラクター)に出演してもらうことだって、セルアニメなら簡単だ。なにしろ、絵に描くだけでいいんだからね。極東でひっそり作られた地味な家庭劇アニメに出演させられているとは、シュワルツェネッガー本人だって夢にも思うまい。セルで描かれたシュワルツェネッガーとしては、『ユンカース』の出来が世界一ではないだろうか。「すばらしい」。
キャストの選択および声優の演技には賛否両論があった。しかし個人的に言うなら、キャストの皆さんは健闘していると思う。木根氏の父親はイイ味を出しているし、中島啓江も適役ということでハマっている。
だが『ユンカース』の魅力を高めるのに最も貢献したキャストは、何といっても主人公を演じた押谷芽衣である。佐藤監督も誉めていた。彼女の存在感は、厳密に言えば「プロとしての演技」とは違うのかも知れない。しかし、あの雰囲気、あの喋り方には換え難いものがある。彼女ではなく、名の通った声優が芝居気たっぷりに主人公役を演じていたとしたら、これほど素直に感動することは出来なかったのではないかと思う。
映画『ユンカース』を作るにあたっては、声の出演に関しても「いわゆるアニメ」を避けたかったのではないか、というのが私の考えだ。声優の芝居というのはアニメの作画と同じで、ある種のパターンを確立することによって成り立っている。アニメの作り手は作品を通じて、受け手に「こういう演技をしたら、こういう感情を表現しているんですよ」という反応を刷り込む。つまり、演技の記号化である。
演技の記号化を進めていくと、アニメ作品における声優の演技は無数の記号の組合せになっていく。使われる記号の頻度が高ければ高いほど、記号そのものが洗練され、進化していくのだ。
しかし、アニメで表現されにくい芝居については、記号化がなおざりにされる。いざ必要に迫られてそういう芝居をするにも、定型の演技パターンが存在しないので、演じ手も受け手も戸惑ってしまうことになる。
映画『ユンカース』には「いわゆるアニメ」が取りこぼしてきた、あるいは描くのを避けてきたシチュエイションや芝居が数多く含まれている。それらの場面を味わうためだけでも、この作品を観る価値は充分にある。
【その後の『ユンカース』と、これからのこと】このようにして『ユンカース・カム・ヒア』は、ハイ・クォリティな傑作アニメーション映画として完成した。
作品の評価は正しく下された。『ユンカース』は1995年度の毎日映画コンクールでアニメーション映画賞を獲得したのである。この時『ユンカース』の対抗馬として最終選考まで残ったのは、強敵のジブリ作品『耳をすませば』であった。同賞に関しては、ジブリ作品はその年まで何らかの形で必ず賞を獲っていた。ジブリの実績からいっても、衆目の予想は『耳』の受賞ということで一致していたが、その年は『ユンカース』に軍配が上がった。
毎日映画コンクールは、アニメーションに与えられる賞として権威がある大藤賞をその一部門に有していることで名高い。歴代のアニメーション映画賞も、地味だがクォリティが高く、通受けする作品が受賞してきたことで知られている。
しかし残念ながら、一般的な意味において『ユンカース』が恵まれた映画であったとは言えない。種々の事情によって、劇場公開は小規模なものに留まることとなった。ロードショウ後は一般の劇場から離れ、公民館などでの巡回上映で観られるに過ぎなかったのである。その機会も近年はほとんど与えられず、すでに半ば幻の作品と化していたのだ。
名作の誉れ高い『ユンカース』ではあるが、今日に至るまでヴィデオソフトやレーザーディスクの形では一度も発売されていない。本当に惜しい。
私が思うに、この作品をシリアスに必要としている人は、必ず存在している。ひょっとしたら結構たくさんいるんじゃないかと思うほどだ。『ユンカース』を必要とする人が多いということ自体は、必ずしも喜ぶべきではないかも知れない。それでも、『ユンカース』を観て気持ちがラクになったり、良い方向に考えを向けたりできるようになれば、それは作品にとっても幸福なことなのではないか。
さまざまな理由から、現状では『ユンカース』が届くべき人の下に届いていないという印象が強い。たとえば、ジブリの作品を喜んで観る人なら『ユンカース』も同じように楽しめるはずである。しかし、作品の知名度において、あるいは経済的な成果の点で、彼我の差はあまりに大きい。
わずか一回限りの上映ではあるけれども、今回きちんとした劇場で公開されることを、私は心から喜びたい。これが一つのキッカケとなって、映画『ユンカース』が再評価されることを期待している。もしLDが発売されたら、私は買ってからしばらくの間、毎晩のように『ユンカース』を観るだろう。
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