制服反対論
〜子どもを抑圧する「制服」という概念〜

(2001/8/10)


 今,子供たちの世界で,というより学校を中心とした子供たちの社会で,さまざまな異変が起こっているのは,周知の事実であろう。しかし,これは果たして本当に「異変」なのか。僕はそうは思わない。こうなる兆候は,今から10年前の僕たちが子供だった時代からあったからだ。今の状況は,なるべくしてなった状況,つまり「必然」だと受け止めている。大人たちは一様に今の状況に対し,驚き,そしておびえている。しかし,こうなる要素を作ってしまったのも,そのほとんどは大人たちが容認してきた学校制度のあり方にあると僕は思っている。その端的な例が「制服」という統率手段なのだ。

 僕は,以前から,つまり自分が中学生や高校生だった頃から,制服というものに対して反対を続けてきた。高校では「制服反対論」を文集に掲載し,職員室で物議をかもしたこともある。僕の通っていた高校は,一応県内でもトップクラスの男子校だったから,制服に関しても割とリベラルな考え方であったが,それでも全身私服登校ということは許されなかった。ほかの生徒たちは,あの忌まわしい黒いズボンをはいた上で,カジュアルなシャツなどを着て我慢していたようだったが,僕にはそういう中途半端なやり方が気に入らなかった。上着は自由なのに,どうしてズボンは制服でなければいけないのだ。そうやって,僕はただ一人,ブルージーンズで学校に通い始めた。そんな僕を見て,ある教師は激怒し,ある教師は無視した。ただ,「どうして制服でなければいけないのか」という僕の問いに満足に答えを出せた教師は一人としていなかった。

 まあ,そんなわけで,僕は以前から制服というものが大嫌いである。ある教師には「社会に出れば,みんな制服や背広を着て働くようになる。それと同じだ。」と言われたが,それは間違いだったと断言できる。何しろ,僕は社会に出てから,一度も制服や背広を強制されるような職場にいたことがなかったからだ。芝居の裏方も,雑誌の編集者も,TPOさえわきまえていれば,特に服装には文句を言われることはない。そういうわけで,僕は社会に出てからと言うもの,あまりスーツに袖を通さないでここまで来た。今後も,制服やスーツを強制されるような職場では働きたくないと考えている。僕のようないわゆる専門職は,服で仕事をやるのではない。頭で仕事をやるものだ。

 さて,自分のことはこんなところでやめにしておいて,問題の子供たちの話である。最近の子供たちのキレ方を見ていると,多分にストレスが鬱屈しているように思える。僕自身も,高校時代はストレスの固まりで,なにかあればすぐに爆発しそうな危険さを持っていたが,世の中が十年で大きく変わり,それとともに子供たちのストレスも,セルフコントロールがきかないほどに大きくなってしまっているのだと推測する。その結果,どの子供もフラストレーションが蓄積され,ある日,アッという間になにかをやらかすはめになる。昔は,不良と呼ばれるような輩が悪いことをすると決まっていたもんだが,今のキレ方はそれとはかなり違う。どの子供もフラストレーションがたまりすぎていて,いつキレてもおかしくない状態なのだ。今や,頭がいいとか悪いとか,優良生徒か不良生徒か,そういう物差しだけで,犯罪を犯すか犯さないかの可能性を示唆することはできなくなっている。そして,そのフラストレーションを形作る一番の原因は,すなわち学校にあると断言する。

 ここで断っておくが,僕は子供たちの問題を何でもかんでも学校のせいにするつもりはない。基本的には親のしつけや教育が,人格形成においては大きな影響を及ぼすはずである。しかし,キレる子供が集中している年代は,中学生・高校生の年代だ。実際に子供たちを見ていても,小学生のときには,屈託なく遊んで楽しそうにしているのに,中学に入ったあたりから,急に鬱になったり,いじめにあったり,グレたりし出すようだ。どう考えても,中学校や高校という学校制度のあり方が問題の一端を担っているとしか思えない。「ちょうど思春期だから……」というひと言でくくる教育者や評論家がよくいるが,思春期だからといって,これほどまでに子供がとち狂うわけがない。問題はこうした中等教育の学校制度にあると僕はずっと思っている。すなわち,校則による拘束,自由を奪う管理教育,そのものに原因があるのだ。そして,その管理教育の端的な例が「制服」であると僕は言いたいのである。

 果たして,制服とは何のために存在しているのか。僕にはその答えがわからない。きっと,大人である教師が,育ち盛りで力もある子供を無理に統制しようとして,何かの殻に閉じこめようとしているのだろう。服さえ同じものを着せてしまえば,どうやっても連帯感や主従の関係が生まれる。俺は教師で,お前たちは生徒だ。生徒は教師には逆らえない。そういう意識を,制服を着させることによって植え付けようとしている,そんな気がしてならない。要するに,囚人と同じだ。1個の人格としては認めてもらえていない。お前らは半人前なんだから,服の着方や選び方もしらないだろう。だったら,こちらで用意したものをあてがってやる。そういう考えなのだ。はなっから生徒のことなんて信用しちゃいない。そうやって,学校の中が何となく自由でない空気に満たされていく。

 2つ目の制服の罪は,その同一性にある。成長期の子供は,それぞれ身体の発達の度合いがまるっきり違う。ある子供は,まるで小学生みたいであり,ある子供はすでに成人のようでもある。個性云々を言う前に,これだけ体格も違えば,それにあった服装というものがあってしかるべきだろう。しかし,学校の制服はみな同じデザインでできている。大きな子供も小さな子供も,同じ定規で身長を測られ,胴回りを計測され,そしてそこには優劣が生まれてくる。身体というのは,だれしも違う特徴を持っている。背が高いのも低いのも,体重が重いのも軽いのも,いろいろいる。いて当然だ。平均的身長,平均的体重なんていうものは,あくまで統計上の平均なのであって,みんなが平均である必要性はまったくない。ただ,外見上は誰だって見た目がいいほうがいいに決まっている。そこで,服装が重要な要素となってくるわけだ。服装は何もファッションのためにだけあるものではない。着る人の体型をある程度カバーしたり,見た目をよくさせるという効果もあるのだ。服装によって,その人の印象が変わることはよくある。それは,その人自身が持っている長所をより引き立たせてくれる服装や,短所を覆い隠してくれる服装を,その人自身が知っているからにほかならない。

 しかし,同じデザインの服をみなが着るようになると,そこにはその差異がありありと顕在化する。それをきちんと,当たり前に存在する「差異」として捉えられればよいが,たいていの場合,それは差別となる。すなわち太っている人間,小さな人間,こういうのは,制服という同じ物差しの上に載せられた瞬間に「劣っている」と見なされる。当然ながら,そういう人は制服が似合わない。似合うはずなどないのだ。なぜなら,あれは「平均的な日本人の体型」にあわせて作られているから。そういう平均的でない体型の人には,どうにも大きすぎたり,窮屈すぎたりして,似合うはずもない。

 このようにして,小学生まではあれほど闊達だった子供たちも,中学に進み,制服というまさにお仕着せの概念に押しつけられて,自由さを失っていく。不自由になった人間の心には鬱屈したストレスがたまっていき,それを何らかの形で発散させたくなる。そこへ,似合わない制服を着た不格好な同級生たちが目に映る。差別が顕在化し,いじめが始まる。いじめられている本人たちも,自分たちが不格好であることをわかっているから,堂々と自分の主張を繰り広げることができない。そして,いじめはエスカレートしていく。初めは身体的な差異から始まったいじめは,やがて学力的な差異や,社交的な差異にまで及び,「平均的」以外の者をじょじょに排除し始めてゆく。これが,中学生の間でよく起こるいじめの実体ではないだろうか。そして,その元凶が制服にはないとだれが言えるだろうか?

 「しかし,制服を廃止したら,今のガキたちはどんな破廉恥な格好をしてくるかわからない。そんなことは怖くてとてもできない」。そう反論する向きも多いだろう。しかし,制服を廃止している学校のうち,一体どれくらいがそこまで破廉恥な方向に進んでいるというのだ? 実際,リベラルな校風を持った高校では,それほど破廉恥な格好をした学生を見かけたことはないし,大学を見たって,まあ程度の差こそあれ,それほど度を踏み外した学生はいない。自由になれば,それなりの責任を持って,人間は行動するのだ。不自由だからこそ,その反対を行こうとする若者が現れるわけで,制服売春だとか,ズボンダラダラファッションなどは,制服がなければ成り立たない行為ですらある。そんなことを危惧するよりも,今のいじめの問題や,子どもたちが受ける心の問題をもっと真剣に考えた方がよいのではないか。

 この問題は,僕自身が10年以上もずっと考えてきたテーマであるし,語り始めるとかなり長くなってしまうので,このあたりで取りあえずピリオドを打っておくが,あんな屈辱的な,そして前時代的な統率方法は,一刻も早く抹殺したほうがいい。近ごろ,「子どもの人権の尊重」ということが全世界的に言われているが,これは何も発展途上国だけに関係のある問題ではないと,僕は考える。日本にだって,子どもをぎゅうぎゅうに押しつけて,息苦しくさせている要因がたくさんある。これは,明らかに人権を無視した行為だ。そして,その元凶が「制服」という制度自体にあることは明白なのだ。私立の学校はともかく,公立のそれも義務教育である中学校で,こうした制服の押しつけを行い続けるというのは,まったくもって言語道断。子どもには子どもの自由があり,子どもを義務で通わせる学校にこんな屈辱的なシステムがあることは,親にとっても,屈辱的な行為だと考えるべきだ。僕は,自分に子どもができて,学校に通わせるとしたら,かならず制服のない学校を選ばせたいと思う。それは,親の責任でもあるはずだ。

(Ecrit a` 2001/8/10)


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