アルチュール・ランボー(Arthur Rimbaud)
(1854〜1891)



〜反抗する魂〜


 まずは,ランボーです。ランボーって言ってもシルベスター・スタローンの映画のヒーローではありません。19世紀末に生きた早熟の少年詩人の名前です。もしかしたら,名前くらいは聞いたことがあるかもしれません。中でも「地獄の季節」という詩集は,日本でも小林秀雄が訳したりして,ずいぶん話題になりましたから,書店に行けば訳本を見かけることくらいはできるはずです。

 でも,どうして,ランボーから始めるの?と疑問に思う人もいるでしょう。早い話が,彼は僕の卒論テーマだったからです。まあ,それだけ,思い入れもあるっていうことなんです。文学界では「早熟の天才詩人」などと言われ,もてはやされているランボーですが,ランボーの詩ははっきり言って「子供の書き殴った詩」にほかならないと僕は思います。後世に,映画界のアバンギャルドと言われたゴダールも,自作の映画内でモチーフとして引用した有名な詩「永遠」は,たとえばこんなふうです。

L'eternite'

Elle est retrouve'e.
Quoi? - L'Eternite'.
C'est la mer alle'e
Avec le soleil.

永遠

また,見つかった。
何がって?−永遠さ。
それは行ってしまった海さ
太陽といっしょに。

 まあ,これだけ読んでもよく分からないですよね。はっきり言って,韻も踏んでいないし,何らかのリズムの規則性があるわけでもありません。フランスの詩にかぎらず,一般のヨーロッパの詩というのは,リズムあってなんぼのものですから,こういうのはいわゆる詩の範疇には入らない雑言なのです。

 でも,この短い文と,行間の空間まで含めた全体から受け取るイメージというのはどうでしょう。きれいな韻を踏んだ詩もいいですが,この書き殴ったような本当に「乱暴な」言葉と言葉の組みあわせから,僕たちはなんとも言いようのない,深いイメージを抱くのです。

 その新鮮なショックとイメージは,それまでの冗長なフランス詩にはないものを持っていました。そのため,当時ではランボーの詩はまったく評価されず,後世では,フランス現代詩のさきがけと,やたらともてはやされることになりました。ランボー以降の詩を「現代詩」と呼ぶ,と定義する学者も多いのです。

 さらに,彼が詩を書いたのは17〜19歳くらいの間と言われています。これが,彼が「早熟の天才」と呼べれるゆえんです。その後,ランボーはぱったりと詩作をやめてしまったので,これを文学界では「ランボーの文学との決別」などと言って,これまたもてはやしています。

 でも,ひるがえって考えてみると,この年代の少年がこうした詩というか言葉の切れ切れをぶつけることはよくあることじゃないでしょうか。意味もなく,むしゃくしゃしたり,怒ったり,泣いたり,その反動として詩をノートに書き殴ったりした経験はだれしもあるでしょう。結局,ランボーの詩もこうした青春のほとばしりに過ぎないのではないかと僕はよく思います。僕はランボーの詩が大好きなランボーファンではありますが,純粋に文学的に捉えた場合,ランボーは早熟の天才ではなく,青春だけに生きた少年詩人だったのだと,結論つけざるをえません。

 でも,それだからと言って,ランボーの詩の評価が下がるわけでは決してありません。むしろ,彼の詩が少年期の書き殴った詩だからこそ,僕たちの誰もが必ず味わってきたであろう感覚だからこそ,彼の詩は強く僕たちの心を揺さぶるのです。そして,こうしたみずみずしい感覚を,こうした言葉の組みあわせによって表現するということ自体が,そのまま現代詩になっているのですから,ランボーがこの種の現代詩の先駆者だと言ってもいいのかもしれません。

 確かにランボーのような詩人は希有な存在なのかもしれません。彼が詩を書いていたのは,17〜19歳くらいのころだけと言われていますから,まさに彼の作品は青春そのものです。そして,彼は自らの青春とともに,詩人であることをやめました。いえ,やめるより仕方なかったというほうが正しいと思います。この時代の心境を激しく書き殴って詩にしてきた若者は,自身が歳を取るとともに詩を作る対象を見失ってしまったのでしょう。若さゆえの暴走やためらい,怒りや驚きだけを表現の中心にしてきたランボーは,「地獄の季節」と呼ばれる詩集で,文学と「決別した」のではなく,「決別せざるを得なかった」のだと僕は思っています。


 余談かもしれませんが,僕はランボーのことを思うとき,若くして亡くなったシンガーソングライター尾崎豊のことをかぶらせてしまいます。彼も,青春特有の怒り,嘆き,悲しみ,発散,そうしたものを一身に背負って,詩を作り,歌ってきた希有なカリスマ性を持つシンガーでした。昔風に言えば,彼もまた詩人であったのです。

 青春の時代はだれにでもあります。そして,そのときしか味わうことのできない独特な感覚や感情も確かにあります。しかし,それは,あくまでもその時期だけに味わえる一過性の感情であり,長続きはしないものです。それが悪いとはいいませんし,そのやるせない感情自体を否定したりもしません。ですが,それを表現者として,表現の源泉として保ちつづけるのは非常に難しいことだと思います。その頃の感情は,はかないからこそ輝いているのであり,いつか終わりが来ることが分かっているからこそ甘く,せつなく,心を打つのです。だから,彼らは表現者として長く生きることはできませんでした。

 ですが,それはそれでいいのです。文学というものは,いや芸術というものは,ときとして非常に過酷な運命を人に与えるものです。そして,その運命に巻き込まれたランボーや尾崎は,彼らの時間を精一杯生き抜き,そして光り輝く作品を残したのです。彼らは長く表現し続けることはできませんでしたが,その光り輝く一瞬を珠玉の言葉に残して,世を去っていったのです。

 ランボーという少年詩人がかつていました。そして,その詩は,僕たち現代人の心を揺さぶる何かを持っています。彼の詩は,青春の嘆きや怒り,悲しみや驚きに満ちています。ときに荒々しく,ときに冷酷に,世の中を眺めるその視線には,大人たちが忘れてしまった新鮮な感動があふれています。

 彼の詩はまさにロックです。燃え上がる熱き青春の魂です。こういう魂に共感できる人なら,ぜひ一読されてみることをおすすめします。


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