『痛み』


 「ああーっ、今回は悲惨だなぁ〜」
 「きゃあっ、前より10番も上がってるぅ〜。お小遣いアップは間違いなしね!」
 「むう、数学が悪かったのが響いてるなあ」
 「赤点だぁ〜。地獄の補習だぁ〜。あははははー。」
 掲示板の前では、生徒たちが達悲喜こもごもの声を上げています。
 今日は、きらめき高校の中間試験結果と順位の発表日なのです。
 そんな中で。
(成績、少し下がっちゃった…。今回は結構頑張ったんだけど…)
 栗色のストレートヘアをそっと揺らすと、美樹原愛はがっがりしてため息をつきました。彼女の周りでは、互いの成績をからかいながら生徒達がわいのわいのと楽しそうに騒いでいます。いつも引込み思案で目立たない彼女に気をとめる人など誰もいません。
 (そういえば、詩織ちゃんとあの人はどうだったんだろう?)
 愛は顔を上げると、気になる2人の成績を探して眼を凝らしました。
 (詩織ちゃん、やっぱり頭いいなあ。上から見たらすぐ見つかったし。)
 (それと、あの人は…)
 あの人…。
 彼のことを考えただけでこんなにもドキドキしてしまうのは何故なのでしょう。
 そのドキドキする胸を抑えながら愛は一生懸命に掲示板の中から彼の名を探し、しばらくしてようやく見つけたのでした。
 主人 公。
 (あっ、この間よりずっと上がってる。)
 (主人くん…。よかったね。)
 (すごいなあ。入学したとき主人くんはギリギリの成績で合格だったって詩織ちゃんは言ってたけど、もう詩織ちゃんと並びそうなくらいになってるんだ。)
 (それに比べたら…)
 (それに比べたら、あたしなんていつまでも昔のまま…)
 自分自身が恥ずかしくなって彼女がそっと俯いたときです。
 「みっきはーらさん。」
 ふいにかけられた声の主は紛れもなく、さっきまで愛が一生懸命に探していたその人でした。あっという間に愛の小さな体が硬直します。
 「ぬ、主人くん…」
 「テスト、お疲れ様」
 「は、はい。」
 彼の前だと、どうしても声が上ずってしまいます。
 緊張でカチコチになってしまう受け答え。
 そんな自分の態度が彼を嫌っていると誤解されないだろうかといつも心配する愛ですが、そんなことにも気づかずに彼は嬉しそうに話し掛けます。
 「今回のテストは手応えがあったから結構良かったよ。美樹原さんはどうだった?」
 「わ、わたし、78番でした…」
 「あ、えーと…」
 会話が途切れ、気まずい沈黙が2人の間に流れました。公は口をパクパクしています。彼は、てっきり愛が自分より成績が良かったと思って話していたのです。
 ぎこちなくなってしまった雰囲気を冗談ではぐらかそうと愛は無理矢理笑顔を作りました。
 「あ、あの…だめですね、あたしったら…」
 愛にしては一生懸命冗談めかして言ったつもりだったのですが、声が震えてしまい、ますます自分がみじめに思えてしまいます。
 と、公は急に真顔になり首を横に振りました。
 「そんなこと、ないよ。」
 見ると、さっきの屈託のない笑顔が、落ち着いた優しい微笑みに変わっています。
 愛の小さな胸がいきなりドキンと大きく高鳴りました。
 「頑張れば、次はきっといい成績取れるよ。」
 さっきまで落ち込んでいた愛のみじめな気持ちを溶かしてくれるような優しい笑顔がそこにありました。
 「は、はい…」
 心の中に、あたたかいものが広がっていきます。
 嬉しくて思わず涙ぐみそうになるのをこらえて愛は精一杯の笑顔を作りました。
 「あ、あの…ありがとうございます…つ、次は頑張ります!」
 「そうそう。お互いがんばろうね。サインはブイッ!」
 また、屈託のない笑顔に戻った彼は右手でVサインを作ると「それじゃ…」とその場を離れていき、それを見送る愛は胸のそばで小さく手を振りました。
 (ありがとう、主人くん…)
 ほんのわずかな会話でした。
 だけど、さっきまで曇っていた愛の心は幸せで一杯です。

 でも、ささやかな幸せに輝いていた愛の笑顔はたちまちこわばってしまいました。
 「主人くん、今回は良かったわねえ」
 愛のよく知っている赤い髪の少女が、さっき別れた彼に楽しげに話し掛けてきたのが見えたのです。
 (詩織ちゃん…)
 「まだまだ詩織にはかなわないよ。」
 「でも、すごいじゃない。この間より20番も上がっているでしょう?」
 「幾何の最後の問題をトチらなかったらなあ、もう少しいけたんだけど。」
 (幾何の問題…)
 愛は思い出しました。幾何の問題は難しくて、自分は最初の1問を解くのがやっとだったのです。
 「あそこは2つの公式を組み合わせて解くんだって、後で気がついたよ。」
 「あれは難しかったわね。あたしもテストの制限時間ギリギリになってやっとそれに気がついたのよ」
 自分の頭では到底ついていけないような公と詩織の会話を、愛はぼう然となって聞いています。
 キ〜ンコ〜ン。
 「あっ、予鈴だわ」
 掲示板の前でわいわいしていた生徒達は三々五々それぞれの教室に戻っていきます。
 愛もトボトボと歩き出しました。
 公と別れた詩織は愛を見つけて「あっ、メグぅ〜」と近寄ってきました。
 「メグ、今回はちょっと残念だったね。でも、次、頑張ろうよ」
 「うん。ありがとう、詩織ちゃん」
 詩織は、愛が元気がないのはテスト結果が振るわなかったからだと思っているようです。
 (いいなあ詩織ちゃん。頭いいし、美人だし、おまけに公くんと幼なじみで…)
 自分のことのように心配してくれる詩織を嬉しく思いながら。それでもやっぱり羨ましくて、愛は悲しくなるのでした。


 彼女、美樹原愛には友達らしい友達がいません。
 愛は内気で自分から人に話し掛けることが出来ないのです。たまに話し掛けてくれる人がいても「あの…えと…」とおどおどしてばかり。
 愛も、このままではいけないと思って幾度となく人に話し掛けたり、色々な行事に参加しようとしたのですが、人前に出るとどうしても上がってしまって話すことさえろくに出来ず、何かしようとすると不器用でモタモタしてしまいます。集団生活の学校の中で愛は皆をイライラさせてしまうことが何度もありました。
 最後はどうしようもなくなって「ごめんなさい…」と涙ぐんでしまう愛は、周囲から次第に敬遠されてゆき、いつのまにか一人取り残されるようになったのでした。

 そんなときでした。
 お昼休みに一人でお弁当を食べている彼女に「ねえ、私の卵焼きをあげるから、貴方のロールキャベツくれない?」と話し掛けてきたのが藤崎詩織だったのです。
 彼女は愛の隣のクラスだったのですが、愛の様子を見てほっておけなくなったのか、それからというもの色々と世話を焼くようになったのでした。
 「美樹原さん、あたしっておせっかいかなあ?」
 「ううん、そんなことないです…」
 寂しくてたまらなかった愛にとって、それはどんなに嬉しかったことでしょう。
 詩織は容姿端麗でスポーツも勉強も出来る、まさに才色兼備の女性でしたが、偉ぶった様子などかけらもなく、修学旅行や運動会などことあるごとに真っ先に愛の側に来て一緒に行動するようになりました。
 そして、何をするにも自信がなく、隠れがちな愛を「大丈夫、私もついてるから」と励まし、背中を押してくれます。
 試験が近づくといつも一緒に勉強しようと誘ってくれ、休日はウィンドウショッピングにも誘ってくれます。そんな詩織を愛は「詩織ちゃん」「詩織ちゃん」と頼るようになり、詩織もそんな愛がかわいくて仕方ないらしく、「メグ」「メグ」とまるで自分の妹のように大切にしてくれるのでした。

 そんなある日のこと。
 「詩織がいつも”私のメグ”っていってるのって…君?」
 進路指導についてのアンケート用紙を持っていったとき、選出されたばかりのクラス委員、主人公はそういって愛に話し掛けてきたのです。
 「愛って書いてメグミって読むんだ…」
 「は、はい…」
 消え入りそうな声で答える愛に、彼は感心したように言いました。
 「いい名前だねえ。」
 「あの、あの…」
 何と答えていいのか、おどおどする愛に気がつかない公は大仰にため息をついていいました。
 「オレなんて主人公なんて冗談みたいな名前だろ?まあ、脇役って名前でないだけマシだけどさあ。」
 「わき…やく…さん?」
 一瞬きょとんとした愛は思わず吹き出してしまいました。
 「ご、ごめんなさい。笑っちゃって…」
 あわてて謝る愛を見た公は嬉しそうに微笑みました。
 「よかった。」
 「え?」
 「美樹原さんていつもしょんぼりしてるからさ。実を言うとずっと気になってたんだ」
 「…!」
 かあっとなってしまい、その後彼が何と言ったのか、自分が何と答えたのか、愛は覚えていません。
 しかし、詩織の幼なじみという主人公は、同じクラスの中でもひときわ大人しい愛に好感を持ってくれたらしく、それからというもの、時々愛に話し掛けてくれるのでした。
 いいえ、話し掛けてくれるばかりではありません。
 愛が日直になったときのこと。愛は、授業が終わったので黒板を消そうとしてしましたが背が低いので黒板の上まで黒板消しが届きません。困っていると、そこへ「オレがやってやるよ」公がやって来て代わってくれたのです。「困ってるときはいつでも言ってよ」と照れくさそうに笑って彼は去っていきました。
 詩織が風邪をひいて学校を休んだ日など、愛は一人ぽっちで弁当をひろげるしかありませんでしたが、そこへ公が「美樹原さん、オレの煮っ転がし上げるから何か恵んでくれ!」とやって来たのです。2人きりで食べるのが恥ずかしくて愛が真っ赤になっていると「あ、そうだ…ちょっと待ってて…」とどこかへ行き、戻って来たときは彼の悪友、早乙女好雄と好雄の妹の優美を連れて来ました。早乙女兄妹は気さくで愉快な兄妹でした。
 「よかったらどうぞ…」と、愛がおずおずすすめたお弁当のおかずを「オレの!」「優美の!」と取り合い、そんな微笑ましいやりとりに愛の顔にも思わず笑みがこぼれました。
 「あたしにも早乙女さんたちのような兄妹がいたら毎日楽しいだろうな…」
 「美樹原さん、詩織がここに居たら絶対”メグはあたしの妹よ”って言ってるよ。」
 「優美、藤崎先輩って美樹原先輩と何かあやしいなあって思ってたんだ…」
 「うわあ、美女2人がもったいねえ。美樹原さん、やっぱり男がいいよ。オレなんてどう?」
 「えっ?あの…」
 「お兄ちゃん!優美の冗談にかこつけて何ナンパしてんの!!優美ボンバーッ!」
 「うぎゃあ〜!優美やめろおッ!」
 初めて食べる、笑い声の絶えないお昼ご飯。初対面の2人を前にした愛でしたが、緊張するよりもついつい笑ってしまって、本当に楽しいひとときになりました。
 それ以来、2人とも愛に出会うたびに「あっ先輩!元気ですか?」「美樹原さん、また一緒にお弁当食べようよ」と、話し掛けてくれるようになりました。
 ただ、お弁当を食べおわった帰り際に好雄が公に聞こえないようにそっと「上手く行くといいね…」と言ったのはどういうことなのか、そのとき愛には分からなかったのですが…。

 いつも一緒にいてくれる詩織となにくれとなく自分を思いやってくれる公、愛は心の中でこの2人にどんなに感謝したことでしょう。
 愛にとって、きらめき高校の中で詩織と公はかけがえのない大切な友達なのでした。

 でも、主人公は自分にとって「友達」なのだろうか?と、最近、愛の心の中にそんな疑問が芽生えてきたのです。

 公は、スポーツや勉学で、次第に目立つようになってきました。サッカー部では2年生のメンバーで最初にレギュラーの資格を与えられています。勉学では、いつのまにか順位表の最後尾からトップグループに名を連ねるようになっています。クラスでは委員に選ばれ、6月の運動会ではクラス対抗リレーのアンカーを勤めて優勝しました。
 また、真面目なばかりではありません。
 悪友の早乙女好雄と休み時間に階段の踊り場でラップを踊ってみんなを笑わせたり、紐緒結奈と共謀して文化祭では軍事用の人工衛星をハッキングして大騒ぎを起こしたりしています。
 女の子の噂もちらほらあって、サッカー部のマネージャーで運動部のアイドルといわれている虹野沙希が彼の気を惹こうと熱烈なアタックをしているらしい、という話を愛も聞きました。幼なじみという割にはどちらかというと疎遠だった詩織も最近では彼と仲良くなっており、愛は気になって仕方がありません。

 一方の愛はスポーツは苦手で、勉強も然程良くはありません。これといった特技もなく、性格だって明るい訳でもないのです。自分には何のとりえも魅力もない。愛にはそう思えて仕方ありません。
 (わたし、何が出来るんだろう…)
 (もっと明るくて、もっといろんなことが出来たら…)
 今まで、何度そう思ったことでしょう。
 (私が、詩織ちゃんだったらなあ…)
 もしも自分が、こんないじいじした女の子ではなく、どんなときでも凛として何でも出来る詩織みたいな女の子だったら彼とだってもう少し親密になれるのかも知れないのに…そう思って、愛は一人赤くなりました。
 こっそり彼を盗み見ると、授業中だというのに2つ前の席にいる公は教科書を立ててその影ですやすやと眠っています。
 思わず、愛は微笑みました。
 その時です。
 「よし、明日はこの問題を1番から順番にこの列の席に解いてもらうからそのつもりで準備しておくように」
 数学の教師、生徒が騒ぐたびに「何事ぞ!」と叫ぶのでナニゴト先生というあだなの付いた先生が愛と公のいる列を指名したのです。
 (ええっ…!)
 難しい幾何の問題が宿題になったので愛はあたふたしましたが、ハッと気がついて思わず眠っている公を見ました。
 彼は明日、自分が黒板の前で幾何の問題を解かなければいけないことなど知らぬげに気持ちよさそうな寝息を立てています。
 成績が良くなったとはいえ、さすがの公でもいきなり、黒板の前に立たせられてすぐに問題を解くまでは出来ないはずです。
 (公くん!)
 (公くん、起きて!)
 (明日、幾何の問題が当るんですよう!)
 必死になって声をかけようとする愛ですが、授業中では声らしい声も上げられず、ましてや内気な愛の声は声になりません。ちょっと考えれば、授業がおわってからでも彼にそう伝えればいいだけのことなのですが、動転した愛はそんなことにさえ気づきませんでした。
 (ど、どうしよう…)
 まるで自分のことのように愛はおろおろしましたが、ふいに眼を輝かせました。
 (そうだわ!)

 彼女が思い付いたのは、自分が彼の問題を今日のうちに解いておいて、翌日彼にそのメモを手渡そう、というものでした。愛にしてみれば大胆なことを思い付いたものです。
 (な、何だかすごく恥ずかしい…けど、わたしに出来るかな…?)
 でも、もしかしたら、こうして彼のピンチを救ったのがきっかけで、彼との仲が深まるかもしれません。
 彼女の頭の中に
 (ありがとう、美樹原さん。助かったよ…)
 (ううん、いいんですこれぐらい…)
と、明日の光景が思い浮かんで、思わずポッとなってしまいました。
 (そうなったら嬉しいな…なんて恥ずかしいっ!)
 一人真っ赤になりながらもウキウキする愛でした。
 ところが…。


 「よ、よく考えてみたら…」
 その夜。
 自分の部屋の中で、愛は目玉をぐるぐるさせて机の前に突っ伏していました。
 「あたし、幾何ってダメだったんだわ…」
 机には様々な参考書が散らばっています。
 その上で愛はクラクラする頭を抱えて途方に暮れていました。
 「ここはこの公式を使うのかな?…ダメ…全然違う…」
 (ど、どうしよう…)
 (このまま問題が解けなかったら明日、公くんが…)
 (詩織ちゃんに電話で教えてもらおうかな…)
 思わずそう考えた愛は、ぶんぶんと頭を振りました。
 (ダメよ愛、詩織ちゃんに頼ってばっかりじゃ…)
 ここで彼女に頼ったら、もう二度と自分ではなにもできなくなる気がします。
 (人に頼って彼を助けたら、あたしが助けるってことじゃなくなるもの…)
 (このままじゃいつまでも変わんない。自分の力で何かしなきゃ…)
 夜もすっかり更けてきました。
 ふと足元を見ると、さっきまで愛を心配そうに見ていた愛犬ムクは、いつのまにかじゅうたんの上で気持ちよさそうに眠っています。
 愛はそっとムクの上に毛布をかけてあげるとまた机に向かいました。
 (がんばらなきゃ、公くんのために…)
 愛は眠い眼をこすりこすり、公が当たる幾何の問題と一生懸命取っ組み合うのでした。
 …そして、朝がやって来ました。


 「メグおはよう…ってどうしたの!?」
 「詩織ちゃん…おはよう…」
 「おはようじゃないわよ!メグ、具合でも悪いの?」
 教室に入ろうとした愛と顔を合わせた詩織がびっくりするのも無理はありません。
気持ちのいい朝というのに、愛は夢遊病者のようにぼへら〜っとしています。おまけに目元には紫色のクマがどんよりとかかっているのです。
 「だ、だいじょうぶ…詩織ちゃん。ちょっと…夜更かしして…お勉強してたの」
 「そ、そうなの?でも無理しちゃダメよ。具合が悪くなったらちゃんと保健室に行くのよ」
 授業を告げるチャイムが鳴ったので仕方なく、詩織は心配そうにそう言うと自分の教室に戻っていきます。うまい具合に1時間めは先生の都合で自習になっていました。普段は真面目に自習する愛ですが…
 (ダメ…もう眠くてたまんない…)
 次第に目がトロンとなって、しばらくすると昨日の公のように机の上で眠ってしまいました。
 (美樹原さん、どうしたんだろう…)
 そんな様子を離れたところから見た公は、普段の愛らしからぬ様に首をかしげました。
 (でも、眠っている美樹原さんてかわいいなあ…。)
 栗色の髪を机の上にひろげてすやすやと寝息を立てている愛。
 今日の数学の授業にやって来るピンチも、そのために昨晩愛が健気に奮闘していたことも知らない呑気な公でしたが、愛のかわいらしい寝顔に思わず微笑みました。
 そして…。

 「何っ!?幾何の問題が当たってたのか?」
 とうとうそのときがやってきました。
 昨日のうちに自分が担当する問題を解いてきた他のクラスメート達は、一人づつ黒板の前で問題の答えを書いていきます。公を除いて…。
 「どれだ、どの問題なんだ…?」
 あわてて教科書をめくり、自分が解かなければいけない問題を見た公は愕然となりました。
 「ど、どうしよう…」
 とても、すぐに解けそうな問題ではありません。まさに絶体絶命です。
 情けない顔でうろたえている公の背中を、そのとき誰かが遠慮しながらそっと突つきました。
 「?」
 振り返ると、そこに、耳まで真っ赤になった愛がいました。
 「あ、あの…」
 緊張で今にも倒れてしまいそうになりながら愛は小さなメモを差し出しました。
 「あ、あの…あの…こ、これ、主人さんの…問題のこ、答えです…」
 「へ…?」
 思いがけない愛の助けに公は一瞬きょとんとして差し出された小さなメモを見つめます。それは昨日、愛が必死になってやっと解いた解答のメモでした。
 愛が震えているので、手にしたメモ用紙も小さく震えています。
 愛はもう、恥ずかしくて消え入りそうでしたが、次の瞬間、公の顔はぱあっと輝きました。
 「ほ、ほんと!?」
 「は、はい…」
 「ありがとう!うわあ、助かったよ!」
 恥ずかしさが吹き飛ばされ、愛の心の中に喜びの竜巻が巻き起こります。
 「美樹原さん、ありがとう!じゃあ、これ借りてくね…」
 公は嬉しそうに愛の手からメモを受け取ると黒板の前に向かいました。
 (よかった…)
 まだドキドキのおさまらない胸に両手を当てて愛はそっと瞳を閉じました。
 (よかった…公くんの役に立って…)
 ところが。
 「ん?主人、この公式の使い方は間違っているぞ」
 ナニゴト先生が、黒板に愛のメモを書き写している公のところに割って入って来たのです。
 (!)
 愛は自分でも、顔から血の気がひいてゆくのを感じました。
 「お前、この問題をよく読んでなかったな。問題の条件に当てはまる公式はこっちだぞ。」
 一生懸命解いた問題だったのですが、愛が公に教えた答えは間違っていたのです。
 「あちゃー、そうですか。すみません…。」
 公の様子に、愛は申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。
 ナニゴト先生も苦笑して「そそっかしい奴だな。まあ、難しい問題だし、いいだろう」と許してくれたのですが。
 (どうしよう…あたし、公くんに恥をかかせちゃった…!)
 愛は、このまま消えてしまいたいような気持ちでした。
 (ゴメンなさい…)
 (ゴメンなさい、公くん…)
 「おい、美樹原。6番の問題はお前の担当だがどうした?」
 ナニゴト先生の声に、愛はハッとして、そのとき初めて気づきました。
 彼の問題だけを解くのに精一杯で、自分が解かなければいけない問題があったことも忘れていたのです。
 「あ、あの…」
 おずおずと立ち上がった愛は、もうこれ以上ないくらい惨めな気持ちでした。
 教室中の視線を浴びているようで体の震えが止まりません。公がどんな顔で自分を見ているのか考えるともう、顔を上げることも出来ませんでした。
 「あの…わたし…忘れました…」
 蚊の鳴くような小さな声でつぶやいた愛は、そっと眼をつぶって涙をこらえました。


 「メグぅ〜。あれ?先に帰っちゃったのかな〜」
 放課後、いつものように一緒に下校しようとやって来た詩織は、愛の姿が見当たらないので首をかしげました。教室のなかは誰もおらず、ガランとしています。
 「さっきまで如月さんと話し込んじゃったから、先に行っちゃったのかな?でも私に黙って帰るなんてことはないし…」
 クラブに行く日を除けば詩織は放課後に必ず愛を迎えに来ます。そして、愛がそんな詩織を放って帰るような女の子ではないことを詩織はもちろん知っていました。
 しかし、愛はクラブに入っている訳ではないので、放課後は帰るしかないはずです。
 (どこにいるのかしら?)
 他に彼女のいそうなところを詩織は思いつきませんでした。
 (時間を置いてから、また来てみよう。そうだわ、ちょっと部室にでも顔を出してみようかしら。)
 「ちょっとクラブの部室に顔を出してから来ます。待っててね。詩織」
 詩織はメモ用紙にそう書くと愛の机の上に置いて教室を後にしました。

 それからしばらくして、ガランとした教室に愛が戻って来ました。
 彼女は今まで職員室に呼ばれていたのです。
 ナニゴト先生から叱られると思っておどおどしていた愛ですが、すっかり打ちしおれてしまった愛をナニゴト先生は「何かあったのか?」と心配してくれたのでした。
 「美樹原はこの間のテストもいまひとつだったみたいだから気が滅入っていたんだろう。まあ、調子が悪いときもあるさ。そう気を落とすな」
 「…すいません。」
 「今日忘れた問題だけ解いて先生のところに持って来なさい。分からなかったらいつでも聞きに来ていいぞ。」
 普段は大人しくて真面目な愛に、ナニゴト先生も最初から叱るつもりはなかったようです。大きな手で愛の頭を優しくポンとたたいて励ましてくれましたが、愛の心は晴れませんでした。
 力なく戻って来ると教室には誰もいません。
 (問題を解いて、持っていかなくちゃ…)
 遠くからクラブの喧騒が聞こえます。サッカー部の公は今ごろ、グラウンドで元気に走り回っているのでしょうか。
 机の上を見ると、詩織の残したメモがありました。
 (あ、詩織ちゃんが戻って来るまでに問題を解かなくちゃ…。こんなみっともないところ、見せられないもの…)
 のろのろと教科書を広げ、とりあえず自分が解きそこなった問題をノートに写した愛でしたが、そこで不意に目頭が熱くなりました。
 (ばか、愛のばか…)
 (公くんの役に立ちたかったのに…)
 (あたし、何をやってもダメなの…)
 どうして、自分には何もないのだろう。
 悲しくて、どうしようもなく悲しくて愛の眼から涙が落ちそうになったその時です。
 「美樹原さん」
 (え…?)
 顔を上げると、そこに公が笑顔で立っていました。
 「あ、主人くん…」
 「美樹原さん、今日当たってた問題を解かなきゃいけないんだね」
 黙ってうなずく愛に
 「よしよし、今日のお礼にこの公様が特別にヒントを教えてあげよう」
 冗談で包んだ言葉の裏のやさしさに、愛の心は張り裂けそうでした。
 「あの…今日は…ゴメンなさい…」
 「とんでもないよ!美樹原さんが教えてくれなかったらオレ、何にも出来なかったもん。例のナニゴトハンマーが炸裂してただろうなあ。本当に助かったよ」
 「…」
 「ええとそこの問題はね、確かここの公式を…」

 ぽとっ

 ノートの上に落ちて小さくはじけた一滴の涙。
 公が思わずハッとして見ると、愛は俯いて身体を震わせています。その瞳に一杯の涙が浮かんでいました。
 「あ…」
 公は、急に自分のしていることに気がついたようでした。手で髪をかきあげながら困ったように言いました。
 「ゴメン。オレ、おせっかいだったね…」
 「ち、ちがうの!」
 愛は、泣きじゃくりながら途切れ途切れに声を絞りだしました。
 「公くん…は…どうして、こんなに、愛のこと…かまってくれる…の…?」
 「…」
 「わたし…何にも…出来ないし…何…やっても…ダメ…なのに…」
 涙が頬を伝い、流れていきます。愛にはもう、崩れ始めた心を押しとどめることが出来ませんでした。
 公は、黙って愛を見つめています。
 しゃっくりあげる愛は、公をまともに見ることも出来ず、顔に手を当てました。
 「ホントは、あたし…公くんが今日問題忘れるの…分かってて…」
 「…」
 「公くんが、喜んでくれるの…見たくて…でも、あたし…ばかだから…」
 「…」
 「あたし…あたし…何にもいいとこ…ないのに…」
 こらえても、こらえても涙がにじんできます。
 そのときでした。
 「オレ、美樹原さんのいいところ知ってるよ。」
 ふいに、公が言いました。
 「えっ?」
 驚いた愛は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げました。
 どこか哀しみを湛えたような公と視線が合います。
 「…去年のクリスマス、にさ…」
 「去年…の…?」
 突然の公の言葉に、愛は涙に濡れたままきょとんとしました。
 そんな愛にうなずくと、公は静かに話し始めたのでした。
 「伊集院のクリスマスパーティーで、オレ、帰りに…」


 その日のことを公はよく憶えています。
 クリスマスパーティーが終わって伊集院邸を出ると、外はすっかり夜の帳に覆われ、雪がしんしんと降っていました。
 「わあ、ステキ!ホワイトクリスマスね!」
 「でも、すごく寒いな。うう、ブルブル。早く帰ってコタツに入りたいよ。」
 「もう、公くんったらムードがないんだから…!」
 「ははは…でも、せっかくのプレゼント交換があれじゃあな〜。トホホ…」
 公は、家が隣同士の詩織と一緒に帰路に就いていました。伊集院邸のクリスマスパーティーは豪華で楽しかったのですが、プレゼント交換で当たったのが伊集院のブロマイドだったのでそれだけがどうにも不満でした。
 「何であいつのが当たるんだよ…」と、公は歩きながらぶつぶつぼやき、横にいる詩織は「まあまあ」と苦笑してなだめていました。
 と、ぼやいてる公の視線の先に何かが入ってきました。
 (!)
 「…?公くん、どうしたの?」
 ふいに足を止めた公に、詩織が不審そうな顔を向けました。
 そして、公の向ける視線の先を見て思わずハッとしました。
 雪がうっすらと積もった小さな公園のなか、一人の女の子が泣きながら土を掘っていたのです。
 「美樹原さん…」
 公のクラスの中で目立つこともなく、口をきいたこともないクラスメート。
 「痛かったでしょ?…寒かったでしょ?」
 泣きながら土を掘る愛の傍らに血まみれになった犬の死体が横たわっていました。
 彼はきっと、すぐ近くの大通りで車に跳ねられてしまったのでしょう。
 一生懸命に土を掘る痛々しい愛の手は既にあかぎれであちこちから血がにじんでいました。そして、きっと犬を抱きかかえてきたのでしょう、着ているコートも血で汚れていましたが彼女はそんなことを気にかける様子は少しもありませんでした。
 愛は土を掘りおえると自分のコートを脱ぎ、あかぎれの手で涙をぬぐいました。犬の死体をコートでやさしくくるんで抱きかかえます。そして自分の掘った中へそっと置いたのでした。
 「今日は寒いから…このコートを着て天国にいってね…」
 もう一度涙をぬぐうと愛はそっと土を被せました。
 「こんなことしか出来なくて…ゴメンね…」
 この聖なる日に失われた生命を悼むかのように、犬の眠る地面と愛の上に、雪が、静かに降り積もっていきます。
 愛は、土を被せおわると両手を合わせ、そっと眼を閉じました。
 公と詩織は、そんな愛の様子を身じろぎもせずに見つめていました。
 2人には、雪の中そっと祈る愛の姿が、何か触れてはならない尊いもののように思えて声をかけることさえ出来ませんでした。
 しばらくして立ち上がった愛は寒さに急に気が付いたのか自分の身体を抱きしめました。そして、曇った空をそっと見上げると歩き出し、雪のちらつくなかに消えていきました。何度も何度も振り返りながら…。

 愛の姿が見えなくなったとき、ふいに、詩織は見守っていた公の肩に顔をうずめました。
 肩が震え、かすかに泣き声が漏れてきます。
 「…」
 震える詩織の華奢な肩をそっと抱きしめる公も言葉がありませんでした。
 そうして、2人は雪の降り積もる公園の中に、ただ、立ち尽くしていたのでした…。


 「あのとき…オレ…こんな純粋でやさしい女の子がクラスメートにいるんだって初めて気が付いて…」
 「…」
 「だから…上手く言えないけど、美樹原さんはダメな女の子なんかじゃないよ。」
 「…」
 「オレはそう思ってる。詩織もきっと…」
 そういって、公は上目遣いにそっと愛を見ました。
 愛は薔薇色に染まった頬に両手を当てています。
 俯いたまま、愛は今にも破裂しそうな自分の胸の鼓動を聞いていました。
 (ねえ、私の卵焼きをあげるから、貴方のロールキャベツくれない?)
 (美樹原さん、あたしっておせっかいかなあ?)
 (大丈夫、私もついてるから)
 (愛って書いてメグミって読むんだ…)
 (美樹原さんていつもしょんぼりしてるからさ。実を言うとずっと気になってたんだ)
 (頑張れば、次はきっといい成績取れるよ)
 (困ってるときはいつでも言ってよ)
 今までのことが、ひとつひとつ頭の中に思い浮かんできます。愛が2人と友達になったのは偶然ではなかったのです。2人は聖夜に見た愛の優しさに心を打たれ、友達になりたいと思って近づいてくれていたのです。
 愛の眼から涙がこぼれました。
 だけど、それは悲しくて流れていたさっきの涙ではありませんでした。
 (あたしの…)
 (あたしのことを、見つめてくれてた人がいたんだ…)
 (あたしを、そんな風に思ってくれてた人が…)
 (嬉しい…)
 「美樹原さんは…やさしいから、それでいいんだよ。」
 静かな声で公は言いました。
 「‥‥‥」
 「大丈夫、今がダメでも少しづつ前に歩こうよ。オレも詩織も、美樹原さんのいいところ見ちゃったからおせっかいを焼きたいんだ。」
 愛は涙に濡れたままはにかんだように黙ってうなずきました。
 開け放した教室の窓からそっと風が吹いて来て、愛のほほをやさしく撫でてゆきます。やさしい時が流れるのを2人は感じていました。
 今まで真面目な面持ちで愛と向かい合っていた公は、そんな自分が急に照れくさくなったのか、視線を逸らして下を向き、まるで悪戯を見つかった子供のようにエヘヘと笑いました。
 「いや、あの…オレさ…」
 笑いに紛れて何か冗談でも言おうと思ったのでしょう、公が顔を上げた瞬間…
 (…え?)
 天使のような吐息と共に、公の頬にそっと愛の唇が触れました。
 突然の、ほんの一瞬のことでした。
 「…ありがとう…」
 ささやくようにそう言うと、愛は身を翻し、パタパタと教室を駆け出していきました。
 (美樹原…さん…)
 公はぼう然としています。
 夕暮れ迫るきらめき高校の校舎。
 やがて、美しい黄昏の光が差し込んできて、教室のなかに一人佇む公の姿を照らしたのでした。


 授業の始まりを告げる鐘の音、昼休みのざわめき。正門の前で声を交わす友達。
 学校帰りに立ち寄る喫茶店のお茶の甘い香り、たわいもなく、だけど果てもなく続く楽しいおしゃべり。
 たった3年間の時のなかで出会う人や思い、出来事。そのときはたいした意味もなく思えたことが、時が過ぎ、いつかそっと振り向いたとき、それが触れぬほど眩しいメモリアルとなって蘇ることに彼等はまだ、気づきません。
 振り返ることを知らずに彼等は「今」を駆け抜けてゆくのですから…。
 そして、時はとどまることを知らず、それぞれの心のドアを開けてゆきます。


 あの日の後…愛は公に唇を触れたことがもしかしたら噂になるのでは、と思ったのですが、誰もあのときの公と愛を見たものはなく、そして公も誰にも告げることはなく…やがて時が流れてゆきました。
 「メグ、何か大人になったみたいね。」
 しばらくした頃、ふと、詩織が愛に言いました。
 「き、急にどうしたの?詩織ちゃん。あたしどこか変った…?」
 「どこってうまく言えないけど、何となく、ね…」
 (あたし、少しは変われたのかな?)
 愛は自分を振り返りました。でも、自分のどこが成長したのか分かりません。
 だけど…。
 (もしかしたら…)
 (もしかしたらあたし、気が付かないうちにかわったのかな…?)
 (みんな、こんな風に少しづつ大人になるのかな…?)
 今も人と上手に話すことが苦手で、どうしても詩織の影に隠れがちな愛ですが、詩織が何を言おうとしているのか、愛にも分かるような気がしました。
 それは、もしかしたら大人へのステップなのかも知れない、と愛は思いました。自分をやさしく見つめてくれる公と、そしてもう一人、自分のそばにいてくれる詩織にとっても…。
(詩織ちゃん、あたしのこと見てくれるから、あたしが少しづつ変われたのに気づいてくれたんだ…)
(ありがとう、詩織ちゃん。ずっと友達でいてね…)
 「詩織ちゃん、ありがとう…」
 愛がそっとささやくと、詩織は気が付いたようにこちらを向きました。
 「? メグ、いま何か言ったの?」
 「…ううん、何でもない。」
 目を閉じると、愛は静かに微笑みました。
 「何でもないの…」


 やがて次のクラス編成替えがあり、愛は詩織と同じクラスになりましたが、公とは別れてしまいました。
 以前のように、愛が公と親しく口をきく機会はあまりなくなってしまいました。
 それでもたまに廊下などで出会うたび、公は愛にやさしく微笑んでくれます。

 そして、愛はそんな彼の微笑みを感じるたびに何故かしらくすぐったいような切ないような、そんな気持ちがして胸が痛むのでした…。

                                          End


コメント:
地味でささやかなテーマの作品ですが、恋に友情に輝いている彼等の高校生活の
ときめきを感じていただけたら幸いです。
美樹原さんの感じた「痛み」がどんな心の痛みなのか、感じていただけたらと思
います。
書いてて恥ずかしくなりましたが、よろしかったらご感想など聞かせて下さい。
私の作品を読んで下さってありがとうございました。

◇この作品への感想は、かじわらさん(kajiwara@algolab.co.jp)までお送り下さい。

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