季節は、春だった。
桜の花が鬱陶しいくらいに舞っていた。
やっと寒さも和らぎ、木々も緑色を取り戻した季節。早朝の清々しい空気はこれからの高校生活を暗示するように新鮮で、そしてどこか頼りない。
日課である朝のランニングを終えた後、俺は真新しい学生服に身を包むと、ゆっくりと学校への道を辿った。
私立きらめき高校。本来なら胸を躍らせながら行かねばならないのだろう。
登校途中で同じ中学だった友人達と挨拶を交わす。少しぎこちない挨拶。まあ、それもしょうがないだろう。自分自身、まだ振っきれてないのだから。
今日は始業式とホームルームだけ。授業は明日からだ。
何故俺はこの高校に来たのだろう。始業式の間、そんな事をずっと考えていた。もちろん答えはない。その答えは1ヶ月前に無くなってしまった。
ホームルームの後、俺は足早に出て行こうとした。今は口を聞きたくない奴が同じクラスだったからだ。
だけど、奴の方が一足早かった。
「おい、佐々木君、ちょっと待ってくれよ。」
そいつの名は矢本弘幸。長身で、(といっても俺より2センチほど低いが)よく日に焼けてる男だ。同じ中学ではない。となりの学校だった。
「なんだよ。俺は急いでるんだ。」
対応が無愛想になったのはしかたないだろう。本当に不機嫌だったんだから。
だが、矢本は気にせずに話を続けてきた。
「まさか、君と同じクラスになれるとは思ってなかったよ。これからグランドに行くんだろ?一緒に行こうぜ。」
「行かない。」
「え?」
「俺は、グランドには行かない。」
「何言ってるんだ?野球部の練習、今日から新入生でも参加出来るんだぜ?」
「だから、俺は野球部には入らないんだ。」
吐き出すような俺の台詞に、矢本は怪訝そうな顔をした。
「な、なぜだ?俺は、君と一緒なら甲子園も夢では無いって思って、今まで、、。」
「知らなかったのか?俺、肩を壊して、もう投げられないんだ。ごめん、じゃ。」
最後の方は泣き声になっていたかもしれない。逃げるように教室を出る俺の背中に、矢本は呼びかけた。
「投げられなくても、野球は出来るだろ?ピッチャーだけが野球じゃないぜ?」
わかってないな。投げられなければどこのポジションだって守れないんだよ。
俺は足早に、家路についた。
春とはいえ、早朝はまだ寒い。息も白くなる。
ジョギングシューズの紐を締め、俺は日課であるランニングに出た。何故こうも毎朝俺は走っているのだろう。もう必要無いのに。
きっと、これが最後の絆だかろうか。
いつもの道から外れ、今日は近くの公園を通ってみた。
朝露に芝生が濡れて、緑に光っている。
ふと見ると、ゴムボールが一つ、うす汚れて落ちていた。
右手でそれを拾い、投げる動作をしてみる。
ゆっくりと振りかぶり、モーションをつけて、キャッチャーの胸元へ。
バットが空を切り、審判が右手を上げる。
ふっ。
虚しくなるだけだ。
そう思って、振り返ったときだ。
「へー、君、野球をやってたんだ。」
?
にっこりと微笑んで、タオルを肩にかけながら、トレーニングウエアに身を包んだやつが、そこにいた。ショートカットにしてるから、男かと思ったが、その体形は紛れも無かった。それに、こんな奇麗な男がいるかよ。
「あ、ああ、前に、ちょっとね。」
恥ずかしい所を見られたな、という思いが沸いてきた。正直、今は誰とも話したくなかったのだ。
だけど、その女の子は人と話したい気分ででもあったのだろう。気軽に話しを振ってきた。
「まさか、君も毎朝走っているのかい?でも、それにしては見かけないなあ。」
「いつも、川沿いを走ってるからな。」
「へえ、あ、まさか、君もきらめき高校の生徒なのかい?」
「ああ、そうだけど、君も?」
「うん。わたし、清川望っていうんだ。よろしくな。」
「き、清川。君が?」
「私のこと、知ってるのか?」
「知ってるも何も、有名じゃないか。」
じじつ、今年きらめき高校に入学した生徒で、彼女の名前を知らない者はいないだろう。
水泳界のホープで、中学生の記録を全て塗り替えてしまった子だ。
水泳には興味の無かった俺でさえ、その子のニュースを聞いたのは、一度や二度ではない。
名前だけは、知っていた。もちろん、同じ高校の一年生であることも。
でも、俺の目の前にいるのは、少し小柄で、どちらかというと華奢で、よく笑う普通の女の子でしかなかった。
「へえ、わたしが有名ねえ。で、君の名前は?」
「俺?俺は佐々木健也。よろしくな。」
「ああ、よろしく。」
汗を拭きながら、その子は、にっこりと微笑んだ。
「随分走ったみたいだね。そんなに汗かいて。」
「ああ、私、毎朝50キロ走ってるんだ。」
そう言って、いたずらっぽくウインクした。
「ええ?50キロ?」
「はは、このジュース、飲みかけだけど、もういらないから、あげる。じゃ。」
思わず差し出されたジュースを手にとってしまった俺は、遠ざかっていく清川望を呆然と見詰めるしかなかった。
毎朝50キロ走ってるというのが、本当のことなのか、彼女流の冗談なのか、結局わからなかった。
風がふいた。まるで、彼女のように涼やかで、気持ちがよかった。
「水泳か。」
おれは、ぼそりと呟いた。
水泳だったら、肩を壊していても関係ないな。
俺は手にしたジュースを一気に飲み干すと、彼女の後ろを追うように走り出した。
答えが、見つかった気がした。