『支え』


「タイム、どうだった?」
 プールから上がりながら、あたしは尋ねた。
 でも、コーチの答えを聞くまでもなく、分かっていた。
 最近、身体が思うように動いてくれない。水が重く感じられるんだ。
「少し休め、清川。手と足がバラバラだ。焦るんじゃない。」
「はい。……コーチ。」
 あたしはタオルを肩にかけると、プールサイドに座り込んだ。
 ふう。
 思わずため息が出てしまう。
 こんなはずじゃないのになあ。夏バテなのかなあ。
 ここのところ、タイムが伸び悩んでいる。どうも調子が出ない。
 こんな事、初めてだ。
 コーチは焦るなって言ってくれるけど、夏の記録会まで、あと10日しかないよ。
 ふう。
 もう一度ため息が出る。
 グランドに目をやると、男子が陸トレをやってるのが見えた。
 2年生や3年生に混じって、あいつの姿が見える。
 頭一つ他に抜きん出てるから、すぐわかった。足が速いし、身体も柔らかい。水泳は高校になってから始めたって言ってたな。
「変なやつ。」
 ぽつりと呟いた。
 あいつと初めて会ったのは、入学して間も無い頃だった。早朝のランニング中、近くの公園で会ったんだ。まさか、その翌日に水泳部に入部してくるとは思わなかったな。
 一見地味な陸トレなんかも黙々とこなすし、上級生が言いつける雑用なんかも嫌な顔一つしないでやってる。ホント、変なやつだ。
 泳ぎ方なんかも、上級生に聞けば良いものを、あたしに聞いてくるんだ。
「なあ、こういう時の息継ぎってどうやれば良いんだ?」
「なんで、あたしにばっかり聞くんだよ。」
 或る日、逆に質問してやったら、
「だって、お前が一番速いじゃないか。」
 そんなことを、臆面もなく言うんだぜ。
 はあ。
 駄目だ駄目だ。今は水泳に集中しなきゃ。
 プールに目を戻した途端、同じ一年生の友坂ちゃんと目があった。彼女、ニヤッ(ニコッじゃなくて)と笑うと、からかうように言った。
「のぞみぃー、何を見てたの?」
「べ、別に?何も。」
「ああ、佐々木君ね。彼、練習熱心よね。」
「だから、違うって。」
「今年から水泳を始めたにしては、なかなか筋が良いって、コーチも言ってたわよ。」
「だーかーらーっ。違うって言ってるでしょ。」
 大声を上げてしまった後で、皆がこっちを注目してるのに気が付いた。
 恥ずかしいなあ、もう。
 これも、佐々木!お前のせいだ。

 練習が終わっての帰り道、その佐々木が話しかけてきた。一緒に帰ろうとしていた友坂ちゃんは、意味ありげに微笑んだ後逃げちゃうし。
「なあ、清川さん、一緒に帰らないか?」
「別に、良いけど……。」
 途中まで、帰り道も同じだし、別に断る理由も無い。でも、落ち込んでる今はあまり誰とも話したくないんだよなあ。あの後、50メートルのタイムを4本計ったけど、結果は散々だったし。
「なあ、清川さん、最近、フォームがおかしくないか?」
 そんな落ち込んでるあたしに、追い討ちをかけるようにあいつが言った。
「へ?」
「今の清川さんの泳ぎ、きれいじゃない。」
「ま、まさか、佐々木君にそんなこと言われるとは思わなかったな。」
 正直、今の言葉にはムッとした。的を得ているだけに、より一層。
「俺、入部してからずっと君の泳ぎを見てたから分かるんだ。蹴った後の足が、ちょっと引きずるような感じになってるぞ。」
「そ、そんなこと、何故君に云われなきゃならないんだよ。」
「?何怒っているんだよ。俺はただ……。」
「怒ってなんかない!」
「お、おい。」
「さよなら。」
 これ以上あいつの顔を見たくなくて、あたしは走り出した。
 うー、自己嫌悪。本当はわかってた。でもよりによってあいつに言われなくてもなあ。水泳の初心者のくせに。

 翌朝、少し気分が重かったけど、いつものようにランニングに出た。心の中とは裏腹に、早朝の空気は清々しくて気持ちが良い。
 家の廻りを抜け、坂道を下りて、公園に入ると、いつものようにあいつがいた。
 何が楽しいのか、初めて会った時以来、あいつは毎朝あたしに付き合ってランニングをしてるんだ。最初の内はどうせ続かないだろう、と思っていたけど、あいつもどうやら中学のときから毎朝走っていたらしく、苦も無くあたしに着いてくる。
「やあ、おはよう、清川さん。」
 拍子抜けするくらい、いつものように笑顔で挨拶してくる。昨日のことにこだわっている自分が馬鹿らしくなった。
「あ、ああ、おはよう。昨日は、ごめん。」
「なにが?」
「なにがって。昨日の帰り道。」
「ああ、こっちこそ、ごめん。水泳には素人なのに、偉そうなこと言っちゃって。でも、清川さん、スランプみたいだったから、なにか俺にできないかな、と思って。俺も、スランプの時ってあったから、気持ちは良くわかるんだ。」
「スランプって、スランプになるほど水泳やってないじゃないか。」
「水泳じゃないよ。小学生のときから中三まで野球をやってたんだ。」
「へえ、じゃあ、何故野球部に入らなかったんだい?」
 そんなあたしの何気ない一言に、あいつは一瞬戸惑った後、
「だって、野球部には清川望がいないじゃないか。」
 そう言って笑いながら走り出した。
「ば、ばか!」
 あいつを、追いかけるようにあたしも走り出した。
 今日も暑くなりそうだ。早くもセミの声がうるさいくらいに響いている。

 こういうのを、スランプって言うんだろうか。本当にやること全てが上手く行かない。あいつに言われたように、蹴り足に気をつかってみたけど、どうも不調の原因はそれだけではないらしい。もう、本当に嫌になる。
 こういう時は泳いで泳いで、泳ぎ尽くせば何か見えて来るのか、と思ったけど、やればやるほど悪くなっていくみたいだ。
「焦る気持ちは分かるが、オーバーワークは筋肉を萎ませるぞ。」
 コーチにそう言われて、あたしはプールサイドに上がった。
 髪の毛から、水滴が落ちる。
 悔しくて、悔しくて、自分が歯がゆい。
「気持ちだけが先行してるから、そんな泳ぎになるんだ。」
 コーチはそう言うけど、そんな風に抽象的に言われてもわからないよ。
 あーあ、これがあたしの限界なのかな。
 プールでは、男子がまだ練習を続けている。でも、そろそろ上がる時間だ。
「よーし、ラスト100メートル!」
 コーチが叫ぶ。
 学年ごとに一列に並び、まるで競技のように最後の100メートルを泳ぐのだ。まづは3年生。それに、2年、1年と続く。男子部の恒例だ。
 一年生の番になった。今年の一年男子はちょうど8人。あいつは8コース、一番端だ。
 コーチのホイッスルを合図に、一斉に飛び込んだ。最初の50メートルほどまでは、あいつも他のみんなのペースについていっていたが、その後はバテバテだった。
 今までの練習で力を使い果たしているからだろう。いつもそうだ。
 要領が良い他の子たちは、この最後の100メートルのために、適当に流しているというのに。だって、コーチをはじめ、2年、3年の先輩達がこの最後のレースには注目しているのだ。
 あいつも、馬鹿正直っていうか、なんていうか。
「佐々木も、経験が無い割りには、よくやってるよ。」
 ぼそりと、苦笑混じりにコーチが言った。多分他の誰にも聞かれないように、小さな声で言ったんだろうけど、あたしには聞こえた。
「でも、また今日もビリですよ。」
 あたしは、少し意地悪く言ってみた。
 おや、聞こえたのか、という顔でコーチはあたしの方を向き、
「まあ、誰だってあれだけ全力で泳ぎつづけたら、最後はああなるさ。それに、奴はまだフォームが甘くて無駄な力が入ってるからな。余計疲れるんだろ。」
 そう続けた。
 あたしは黙ってあいつの方を見た。あいつは最後の100メートルを泳ぎきると、プールサイドに上がる力も無く、水の中でしばらく漂っていた。

 その帰り道、疲れきっている顔のあいつに、思い切って聞いてみた。
「佐々木君……、何故いつも、そんなに一生懸命なんだい?」
「え?どうしたんだよ。急に。」
 笑ってごまかそうとしたんだろうけど、あたしのマジな顔を見て、むこうも急に真剣な顔になった。
「俺、まだ一年だろ?それに中学での経験も無いし。他のやつら、みんな中学でも水泳部だったやつらばかりでさ、少しでも追いつきたいじゃないか。」
「ふーん。でも、何故、そんなに水泳を?」
 あたしは怪訝そうな顔をしていたんだと思う。
 だって、ヘンじゃないか、あんなに、がむしゃらになって。
 そんなあたしに、あいつは、一番大事な事を思い出させてくれた。
「だって、俺、水泳が好きだから。清川だって水泳が好きだろ?だから、俺も水泳が好きなんだよ。」
 軽いショックを受けた。
「水泳が、好き?」
「違うのか?」
「違わない!」
 その後、なにを話したのかは憶えていない。その時からあいつがあたしのこと、「清川」と呼ぶようになったのにも気がつかなかった。ただ、別れ際一言だけ、お礼を言ったんだ。
「ありがとう。」
 あいつは、何故礼を言われたのか分からずに、戸惑っていたけど。
 ああ、なんか、無性に泳ぎたい気分だよ。
 記録会?自己新のタイム?それも気になるけど、もっと大事なことがあったんだ。
 水泳が好き。泳ぐことが大好きなんだ。
 明日が早くこないかなあ。
 今日は良く眠れそうだよ。久しぶりに。


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