『雨の帰り道』


by.きゃのん



 ……今日こそ、今日こそはと思って、あたしは彼に声をかけた。
 なのに……やっぱりダメ。
 彼の顔を見ただけで、またいつもの様に胸がドキドキ、喉がカラカラになってしまって……
『一緒に、帰らない?』
 たった一言、彼にかけたいその言葉が、どうしても出て来ない……
 ……そして結局、やっと絞り出した言葉は、これもまたいつもと同じ。
「……やっぱり……な、何でもないの。そ、それじゃ!」
 その場をごまかし、あたしは彼に背を向けて、校門目指して走り出す。
 後ろから彼の呼ぶ声が聞こえたような気がするけど、あたしは立ち止まらなかった。……立ち止まる事が出来なかった。
 ……多分、今のあたし、とってもみっともない顔してる。そんな顔、彼には見られたくなかったから……

「……どうして、言えないんだろう……」
 帰り道を一人、トボトボと歩きながらあたしはつぶやいた。
 もうすっかり秋も深まり、すれ違う風は冷たく吹き付けてくる。
 その冷たさが、ただでも落ち込んでいるあたしの気持ちを、ますますブルーなものにさせた。
「……こんなの、あたしらしくないよなぁ……でも……」
 ……もう同じ事を何度繰り返したんだろう。
 同じ水泳部の彼……知場 芳久君と、あたしから誘って一緒に帰る……
 そんなに難しい事なんかじゃない。
 ただ一言、たった一言、思い切って口に出せばいいだけの話。
 でも……いざ彼に面と向かって言おうとすると、変に緊張してしまって……
 結局は、今日の様に一人で帰る羽目になってしまう。
 ……以前は、こんなんじゃなかったのに。
 彼とちゃんと一緒に帰る事が出来たし……
 ただの友達同士って感じで、緊張感のかけらもなく、他愛もない話をしながら歩けたのに……
(いつからなんだろう……彼の笑顔が、まぶしく感じられるようになってきたのは……)
 ……いつの頃からか……彼と会う度、ふと彼の事を考える度、なぜだかあたしの胸は妙にドキドキするようになっていた。
 練習の時なんかも、つい彼の泳ぎに目が行ってしまって……監督に怒鳴られる事も最近ではしょっちゅう……
 その度あたしは、そんなあたし自身に驚いてしまっている。
(これって……一体何だろう? こんな気持ち、何て言えばいいんだろう……?)
 こうして色々考えているだけでも、胸の内が切なくなってくる。
「彼……きっと変に思っているんだろうなぁ……こんなあたしの事。」
 ため息と一緒にそうつぶやくと、何だか急にとっても悲しくなってきて……

 ポツリ。

 あたしの頬に、冷たいしずくが落ちて来た。
(えっ? あたし……泣いてるの?)

 ……そうじゃなかった。
 落ちて来るしずくは瞬く間に数を増し、やがて……

 ザアアァァァ……

「……や、やだ。雨じゃない!」
 辺りはみるみるうちに暗くなり、激しい雨音が耳を打った。
「まいったなぁ……今日降るなんて言ってなかったじゃない……傘、持って来てないよぉ……」
 思い切って走って帰ろうかとも思ったけれども……
 あまりに雨の勢いが強すぎて、家に着く頃には水に落っこちたみたいにずぶ濡れになるのは確実だった。
 今の季節だと、下手すると風邪の一つもひいてしまうかも知れないし……
(しょうがない、そこら辺で小止みになるのを待ってようか……)
 そういう結論に達し、あたしは近くの家の軒下へ、大急ぎで駆け込んだ。

「まったく……泣きっ面にハチ、ってこの事かなぁ?」
 少し濡れた髪や制服をバッグから取り出したタオルで拭きながら、つい愚痴る。
 雨はますます強くなり、頭上の屋根に激しく叩きつけて、滝のような勢いで目の前に落ちて来る。
「こんな急に天気が崩れるなんて……こういうの、『女心と秋の空』、だっけか?」
 一通り拭き終えて、タオルをしまいながらあたしはつぶやいた。
(『女心は変わりやすい』、ねぇ……でもまさかこのあたしが、そんな言葉に縁があるとは思ってなかったんだけどなぁ……)
 ……いつのまにか、以前とは変わってしまった、彼に対するあたしの気持ち。
 これって、ひょっとして、変わりやすい『女心』のせい?
(だとすれば……他人からは『男っぽい』と言われるこのあたしも、一応は『女心』ってヤツを持ってた、ってことなのかな。ははっ……)
 ……思わず、苦笑いしてしまう。

 ……だとすると。
 あたしの持ってる『女心』も、変わりやすいものだとするならば……
 今感じているこの気持ちも、やがては変わることがあったりするのかな……?
 また以前の様に、彼とただの友達同士として、付き合うことが出来るかな……?
 そうなれば、今よりは楽になるかも知れない。
 今のように、彼の顔を見る度、苦しい思いをしなくても良くなるのかも知れない。
(でも……でもそれって……よくわかんないけど……何だか……悲しい、な……)
 あたしはふと、暗い空を見上げた。
 秋の雨は止む気配も見せず、ただただ降り続いている……

「清川さん。」
 ……声とともに、突然あたしの横合いから傘が差し出された。
「きゃっ!」
 思わず、驚きの声を上げてしまう。
 急に差し出された傘にびっくりしたのと、あたしにかけられたその声がとても聞き覚えのある声だったから……
「よ……芳久君……!」
 声の方に顔を向けるとそこには、さっき昇降口で別れた彼……芳久君が、広げた傘を片手に立っていた。
「あれ……驚かせちゃった? ごめんごめん……」
「う、ううん……こっちこそ……ところで……どうして……?」
「いや……急に雨降ってきただろ? たまたま傘置き忘れてたから良かったんだけど……で、急いで帰ろうと思って近道したら、ここで雨宿りしてる清川さんを見つけたから……でも、ちょうど良かったみたいだね。」
 そう言って彼はニッコリと微笑む。
 あたしは、また急に胸がドキドキし始めたのを感じた。
「……清川さん、傘……持ってないんだろ?」
「えっ? ……う、うん……」
 すると彼は、軽く頭を掻きながら……
「じゃあさ……俺の傘に入って帰らない?」
「……え、ええっ?」
 あたしは、また驚きの声を上げてしまった。
「そ、そんな……い、いいよぉ、もうすぐ……止むだろうしさ……」
「そうかなぁ……? この勢いじゃ、しばらくは止まないと思うよ? ……それとも……」
 彼の表情が、少しばかり曇る。
「やっぱり……俺と一緒じゃ……嫌かい?」
「……!」
 困った様な彼の言葉に、あたしは慌ててかぶりを振った。
「う、ううん! そんなことない!」
 そして、小さな声で付け足す。
「た、ただ……ちょっと……照れる、けど……」
 それでも、彼の顔がパッと明るくなった。
「そ、そっか! じゃあ、一緒に帰ろうか!」
「……うん……」
 あたしは小さくうなずいて、彼の傘の下に入った。
 ……胸のドキドキは治まらないけど……
 何だかとても……嬉しいな……

「……清川さんとこうして一緒に帰るのって、久しぶりだね。」
 降り続く雨の中、一つ傘の下で帰り道を歩きながら彼が話しかけてくる。
「……そ、そうだね……」
 でもあたしは、生返事しか出来なかった。
 こうして彼の隣にいるだけで、胸が痛いくらい高鳴っている。
(……ほ、本当にどうしちゃったんだろ、あたし……)
 嬉しいのと恥ずかしいのとがごちゃまぜになってしまって、あたしの心はかなり混乱してしまっていた……
「……でもこれって、相合い傘、ってヤツだよね……何だか嬉しいなぁ……」
 ぽつりとつぶやいた彼の言葉に、あたしは耳まで熱く火照るのを感じた。
 心臓が、爆発してしまうかとも思った。
(……だ、だ、誰も、見ていない……よね……)
 思わず、辺りを見回してしまう。
 幸いにも、通りを歩いているのは、あたし達二人だけだった。
(……ほっ……)
「……どうしたの?」
 ふと、彼と視線が合ってしまい、彼は不思議そうに尋ねた。
「あっ……! な、何でもないよ……」
 あたしは慌てて、彼の顔から視線を外して下を向いた。
(……な、なんか……彼の顔を見るのも……恥ずかしい……)
「………………」
 そうしてあたしは下を向いたまま、何も言えずにただ歩く。
 彼も、それ以上は何も訊かず押し黙ってしまい……
 耳を打つ雨音だけが、辺りを包んでいた。

「……清川さん。」
 しばらくしてから、彼がおもむろに口を開いた。
「ちょっと……聞きたいことがあるんだけど……」
「……な、何?」
 うつむいたまま、あたしは応える。
「……あのさ……」
「……?」
 彼は少しの間言いにくそうにしていたけど……やがて思い切った様に言った。
「……俺さ……なんか……清川さんに嫌われるような事、したのかな?」
「え、えっ?」
 思いも寄らない彼の言葉に驚き、足を止めて彼の方を向く。
「ど、どうして、そんな……」
「い、いや……だってさ、なんか最近……清川さん、俺の事……避けてるみたいだったから……それで……」
「……?!」
「例えば……さっきみたいに、昇降口で俺と会うと慌てて帰っちゃう事が、最近何度もあったから……俺……なんか清川さんに悪い事してたのかな、って……」
「……! そ、それは……!」
 あたしは、すっかりうろたえてしまってた。
 自分のはっきりしない行動が、よりにもよって彼にこんな誤解を抱かせていただなんて……全く思ってもみなかった事だったから……
「……もし、俺が、知らない内に清川さんの機嫌を損ねるような事、してたり言ったりしてたんだとしたら……」
 彼は片手を顔の前に立てた。
「この通り! 素直に謝るからさぁ……機嫌、直してくれよ、ね?」
 彼のそんな姿を見て、自分に対する情けなさと、彼にとても申し訳ない気持ちで、心の中が一杯になった。
「ま、待って! 謝んなきゃいけないのは、あたしの方なの……!」
 慌ててあたしは、彼に向かって頭を下げた。
 傘からはみ出た身体に雨が当たったが、構ってなんかいられなかった。
「えっ? な、何を謝るの?」
「あたし……今まで、『一緒に帰らない?』ってあなたを誘おうと思ってただけなの。でも……いざあなたの顔を見たら、照れくさくって……どうしても言い出せなくて……それで……つい……」
「そ、そう……だったの……」
「でも、そのせいであなたがそんな風に思っていたとは全然気づかなかったから……あなたが悪いんじゃない! はっきりしなかった、あたしが悪いの……本当に、ごめんね……!」
 そしてもう一度、深く頭を下げた。
「……清川さん……いいよ。顔、上げてよ……」
「えっ……?」
 彼の穏やかな言葉に、あたしはゆっくりと顔を上げた。
 見上げた視線の先には、彼の微笑んだ顔があった。
「よかった……俺、ホッとしたよ。清川さんが怒ってたんじゃない、って判って。」
「うん……ごめんね……」
「いいって……それとさ、だからさっき誘った時も、ちょっと不安だったんだ……あのままやっぱり断られてたら、俺どーしようかって思ってたから……」
 彼はそう言って、照れくさそうに頭を掻いた。
「ううん、ほんとはね……誘われて、とっても嬉しかった。ありがとう……」
 今度は、そう、素直に言えた。
「そ、そう? よかったぁ……」
 彼はまた、本当に嬉しそうに笑った。
 あたしも、少しぎこちなかったけど、笑った。

 降り続く雨は、さっきよりはいくらか勢いが弱まったみたい。
 そしてまた、あたし達は歩き始めた……相合い傘で。
「で、でも……やっぱり……なんか……照れちゃうね、こういうのって……」
 あたしが言うと、彼は今度はニヤリと笑った顔になって……
「そうかい? そんな女の子っぽい清川さんって、ちょっと意外だったなぁ……」
 そう意地悪っぽく言った。
「……こ、こら! じゃあ今まであたしを、何だと思ってたんだよ!」
 照れ隠しに、つい口調が乱暴になる。
「はは……ごめんごめん。でも……」
 彼は少し顔を赤らめて、あさっての方を向いた。
「そんな清川さんって……可愛いと……思うよ。」
「え、えぇっ……!」
 あたしは再び耳が熱くなるのを感じた。
「ば、ばぁか! 余計……照れちゃうじゃない……!」
 そうは言いながらも、彼の言葉がとっても嬉しかった……

 その瞬間、あたしには判った。
 あたしが、彼に対して抱いている気持ちが何なのかを……
(……そっか……そうだったんだ……)

「雨、止んだね……」
 彼が傘をたたみながら、言った。
 そう、いつの間にか、あれだけ激しく降っていた雨も止んでいた。
 西の空には、沈みかけている夕日が、雲の切れ間からのぞいている。
 ……そしてここは、あたしの家と彼の家との分かれ道。
「じゃ、ここで……」
「うん……ありがとう、今日は。傘に入れてもらったりして……」
「どうってことないさ。それより……」
「……何?」
「また……こうして一緒に帰らない? もし、嫌じゃなかったら……」
 あたしは、それを聞いて、とっても嬉しくなった。
「う、うん! いいよ……いいわよ。」
「そう? よかった……あ、今度は走って帰っちゃうのは、ナシだぜ?」
 彼は片目をつむって、悪戯っぽく言った。
 あたしは、クスッと笑って応えた。
「わかってるわよ……でも、たまには走りながら帰るのも、いいんじゃない? トレーニングのつもりでさ。」
「げぇ! 勘弁してくれよ〜! クラブの練習だけでたくさんだって!」
 彼のうんざりしたような言葉に思わず吹き出してしまい、やがて二人とも大笑いしてしまった。
「……じゃ、また明日ね。」
 彼は自分の家の方に歩き出して、片手を上げた。
「うん、また明日。」
 あたしも片手を上げて応え、彼と反対の方に歩き出した。

 少し歩いてから、あたしは後ろを振り返った。
 夕日を浴びた、彼の後ろ姿が小さく見える。
 それを見ながら、あたしは自分の気持ちを、あらためて確かめていた。
(……あたしの、今のこの気持ちは……恋。)
 そう。あたしは、彼に恋をしているんだ……
 そして多分、この気持ちは、ずっと変わらない。それは、例えるなら……
 彼の後ろ姿に微笑みかけ、また、前を向く。
 空には夕日がぽっかりと浮かび、道路の水たまりが、照り返しでキラキラと黄金色に輝いている。
 ……とっても、綺麗な景色。明るく、輝いてる今の景色。
(……これが、今のあたしの気持ちなんだ。)
 ……まだ治まらない胸のドキドキも、今は心地よく感じられた……

−Fin−



【Postscript】
私の初めての(形となった)SSです。ほぼ1年振りに引っぱり出してきて手直ししました(^^;
要するに、ときめいちゃうと一緒に帰ってくれなくなる清川さんを、自分なりに何とかしたい(笑)と思って書いてみたものだったんですが……
良くも悪くも、この作品によって私のSSのスタイルが決められたような気がします(^^;……色々バリエーション書けなきゃイカンのでしょうけどねぇ……
ちなみに、この作品に登場する「彼」−知場芳久君ですが、私がときメモ初プレイしたときの主人公名だったりします。
で、その時めでたく清川さんをゲットして以来、清川さんのお相手は彼ってわけです(^^)

(作品初出) 96/10/26 NIFTY-Serve内ときメモSSパティオ「ときめき文庫」


◇この作品への感想は、きゃのん(cannon@seagreen.ocn.ne.jp)までお送り下さい。


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