「……よ、よし君……あの……」
クラブを終え、昇降口に向かっていた俺−知場 芳久の後ろから、控えめに呼びかける女の子の声がした。
それは、俺にとっては聞き慣れた声だった。
振り返ると、そこに立っていたのは、同じクラブの清川 望さん。
少し顔をうつむけがちにして、もじもじしながら俺の方を見ている。
「あれ、清川さん。どしたの? ……俺に、用?」
すると彼女は、ますます顔を下に向けて……
「……う、うん……えっと……その……」
何か言いたそうなんだけど、なかなか言い出せずにいるようだ。
よくよく見ると、うつむいた顔がほんのり赤く染まっている。
……それにつられてか、自分の顔も赤くなるのを感じてしまう。
高校に進んでから入部した水泳部で、彼女と知り合ってからもう三年目。
超高校級スイマーともてはやされる彼女と、ろくに経験もないまま水泳を始めた俺とでは、言わば月とスッポンのようなものだったのだが……
ふとしたきっかけで話をするようになり、なぜかお互い気が合ってつきあい始め、今に至っている。
運動が得意で、男勝りと言えるほど明るく快活な彼女に、俺は内心魅かれるものを感じていた。
……その彼女が、いつからか俺の前で今のような表情を見せることが多くなった。
練習のときプールの中で気持ちよさそうに泳いでいる時の彼女とは、まるで別人の様な表情であり、正直言って始めはとまどってしまったものだった。
でも、やがて俺はそんな彼女に、それまでとは違った魅力を感じるようになってきて……
以前よりも強く彼女を意識するようになっていたことに気が付いた。
……もちろん、そんなことは、本人の前では照れくさくて口に出せないでいるが……
「……清川さんも、今帰るとこなんだろ? もし良かったら、一緒に帰らない?」
思い切って俺が促してみると、彼女はパッと顔を上げた。
その頬がさっきよりも赤くなっているのに気付く。
「え、えぇっ?! ……う、うん……で、でも……」
また少し、彼女の顔がうつむいた。
「?」
「……そ、その……め、迷惑じゃない? あたしなんかと一緒で……」
普段の元気な彼女からは考えられないほどの、小さな声。
……ふと「可愛い」と思ってしまった俺だが……彼女に失礼だろうか?
「そんなことあるもんか。かえって……嬉しいくらいだよ……」
……俺の顔も、やはり赤くなっていたに違いない。
彼女の表情が明るくなる。
「ほ、ホントに? よ、良かったぁ……じゃ、じゃあ一緒に……帰りましょ?」
「ああ。」
そして彼女は、俺に並びかけてきた。
「実はね……あたしも『一緒に帰らない?』って言おうと思ってたんだ……で、でも……なんか、恥ずかしくて……だから……よし君の方から言ってくれて……嬉しかった……」
照れくさそうな顔をしながらも、心底嬉しそうに彼女は言う。
……何と応えたらいいものやら、俺は黙って頭を掻くだけだった。
西の空が赤く染まりつつある中、校門に向かう俺と清川さん。
だが、二人並びながら歩いてはいたものの、お互いに交わす言葉はほとんど無かった。
どちらからともなく話しかけようとはするのだけれど……
その度に何となく気恥ずかしくなってしまい、口ごもってうつむいてしまう……
そんなことをお互い何度も繰り返すだけだった。
(せっかく久しぶりに一緒に帰れたのに、こんなんじゃダメだよなぁ……)
そうは思うのだけれど、なかなかきっかけが掴めずにいた。
……ふと周りを見回すと、校門の脇に立っている桜の木が、薄いピンクの花を咲き誇らせているのが見えた。
満開……と言うには、まだ少し早いようだけれど。
春を象徴するかのごとき明るい色の花を見て、ふっと心が和む。
「……あっ。ほら見て、清川さん。校門の桜が……あんなに綺麗に。」
自然と出てきた呼びかけに、彼女もその桜の木を見上げて応える。
「ああ、ほんとだ……いつの間にか、もうこんなに咲いてたんだね。」
(……ふう。ようやく、会話らしい会話が出来たな……)
心の中で、そう苦笑いしてしまう。
「気候も穏やかで暖かくなってきたし……やっと春が来た、って感じだねぇ。」
「そうだね……いい季節になってきたよね……」
そうして二人、立ち止まってしばしの間、桜の花を見上げていた。
何気なしに、横に立つ清川さんを見てみると……実に穏やかな表情で花を眺めている。
(……前にも、こんな清川さんを見たような……)
それは、いつか中庭で花壇を見てたとき。
花の種類もろくすっぽ判らなかった俺に、熱心に説明してくれた時の表情……あれと同じものだったことに気付いた。
(……清川さんって、本当に花が好きなんだなぁ……)
俺はつくづく、そう思った。
……そろそろまた歩き出そうと思っていたとき、突然清川さんが俺に訊ねた。
「……ねぇ、よし君。ちょっと……時間、余裕あるかな?」
「……? ああ、別にかまわないけど……?」
すると彼女はニッコリと微笑み……
「良かった。じゃあさ、ちょっと寄り道したいところがあるんだ……もし良かったら、付き合ってくれない……?」
……今まで何度か一緒に下校したことがあったが、こんな風に誘われたのは今日が初めてだった。
「う、うん……いいよ。」
特別急ぎの用も無かった俺は、少しとまどいながらもそう応えた。
「ホント? ありがと。……あ、心配しないで。そんなに時間のかかる場所じゃないから……じゃあ、行きましょ。」
そう言って彼女は歩き出した。無論、俺も後についていく。
紅くなりかけている陽光に照らされた通りを進み……
やがて幾つめかの交差点で、彼女はいつもの帰り道とは別の方向に曲がった。
その通りは今まで通ったことが無かったので、先に何があるか、俺には全く見当が付かなかった。
「ねぇ、清川さん……いったい、どこに行こうってんだい?」
そう問いかけると、彼女は少し悪戯っぽく笑って応える。
「ふふ……いいところ、よ。あとは、着いてからのお楽しみにしといて。」
……そうして10分ほど歩いたろうか。
何度めかの曲がり角を曲がった時、それまで周りが住宅に囲まれていた通りの景色が、不意に開けた。
「さあ、着いたわ……こっちよ、よし君。」
そう言って、駆け出す清川さん。
「あっ……待ってくれよ。」
俺は彼女に遅れまいと、小走りで後を追った。
ややあって、立ち止まった彼女に追いつく。
……そこは、ちょっとした野原だった。
近所の公園ほどの広さだろうか? 地面には青草たちが、春を感じてかまばらに芽吹き始めている。
そして、見回してみると、少し離れた奥の方に一本の木が立っているのが見えた。
あまり大きくはなかったが、先ほど見ていた校門の前の木のように、薄いピンクの小さい花が数多く咲き乱れている……それは、桜の木だった。
「へぇ、こんなところにも桜があったんだ……」
普段、桜と言えば、さっき見た校門前の木や、中央公園の艶やかな桜並木しか目にした記憶が無かった。
確かにそれらは華やかであり、綺麗でもあった。
だが、今目の前に立つ桜の木……
ほとんど何も無い野原の中にひっそりと立ち、それでも春の訪れを表現するように精一杯咲き誇っているこの木に、俺は今まで見た桜とは違う美しさを感じ、少しばかりの感動を覚えていた。
背景となっているやや薄暗くなりかけた空、そして白い花々を照らす夕日……
それらの風景も、この桜の美しさをいや増しているように思える。
「……せっかく来たのに、何もないところでがっかりしたでしょ?」
桜の木に歩み寄りながら、清川さんが話しかけてきた。
「いや……そんなことはないよ。」
それは俺の正直な気持ちだった。彼女の後を追うように、俺もゆっくりと歩く。
「ここはね……あたしのお気に入りの場所なんだ。」
つぶやくように、それでも俺にはっきりと聞こえるように彼女が話す。
「周りにほとんど何もないから、風がよく通るのよ。だから、天気の良い日の帰りには、よくここで風に吹かれて……それが、とっても気持ちいいんだ……」
木の下に立ち止まって、彼女は振り向いた。
「それに……ほら、ここは高台になってて、この木の向こうは見晴らしがいいし……」
言われて彼女の後方を見通すと、なるほど、きらめき市の市街や、遠くの山々が見渡せる。
「春には、こうやって桜も見られるし……そしてもう少しすれば、この野原一面にも色んな草花が咲き出すのよ……」
そう言って、木を見上げる彼女。
「……つらいことや、ムシャクシャすることがあったときは、ここに来て花を見ながら風に当たっていれば……いつの間にか気持ちが穏やかになるんだ。」
その言葉通り、彼女は実に穏やかな顔をしていた。
「ここは、あたしにとって……ちょっと特別な場所ってわけ。」
彼女はもう一度、俺の方に少し目を向けた。
「……だから今までここのこと、誰にも教えたことなかったんだけど……よし君には教えてもいいかな、って思ったから……今日、ついて来てもらったんだよ……」
彼女の頬が、傍らの桜の花のように薄赤く染まる。
……俺は、何だかとても嬉しかった。
今まで知らなかった彼女の、また新たな一面を垣間見られたような気がしたから。
そして、それを見せてもらうことが出来た自分に、ちょっとばかりの優越感をも感じていた。
「そうか……何だか光栄だなぁ。清川さんの大事にしている場所に、今こうして一緒に居られるなんて、さ……」
感慨を込めて、そうつぶやいてみる。
「や、やだ、そんな大袈裟なもんじゃないわよ……でも……」
「でも……?」
心持ちうつむく彼女。
「うん……何だか……ね。今日は……ここ、いつもとは少し違って見えるような気がするの。いつもより……綺麗で……よし君と……一緒に居るから……なのかな……」
「……えっ?」
……彼女の顔は、夕日の色に負けないほど真っ赤になった。
「や、やだ……あたし、何言ってんだろ……」
……その時、一陣の春風が、俺たちを包むように吹き渡った。
それは清川さんの言った通り、とても爽やかな風だった。
夕日に照らされた桜の花が春風にそよぐ。
ショートカットの髪を風に揺らして、その花をふと見上げた清川さん……
その表情は、何とも言えないほど穏やかで……桜の花に、とてもよく似合っていると俺は思った……
「ほら……いい風が吹くでしょ。……どうしたの?」
言葉を無くして、じっと彼女を見つめていた俺に、彼女は問いかけてきた。
「い、いや……今の清川さん……その……とっても素敵だったから……カメラでも持ってきていれば良かったなぁ、って……」
「……!」
彼女は、再び顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。
「ば、馬鹿……そんな……恥ずかしいじゃない……!」
……ややあって、彼女の小さな声が聞こえた。
「……でも……嬉しい……ありがとう……」
……俺も顔が熱くなるのを感じて、つい無言で、あさっての方を向いた。
……また、さっきと同じ爽やかな春風が吹いてきた。
夕日は地平線に沈みかけ、すっかり暗くなってきた空には星がまたたき始めている。
「……さ、さあ、そろそろ帰りましょう、よし君……」
俺の方に歩み寄りながら、彼女が言った。
「うん。……っと、そうだ、清川さん。今度の日曜日、クラブは休みだけど……予定、空いてる?」
彼女を見つめながら、俺は訊いてみる。
「えっ……? そ、そうね……特に、予定は無いけど……?」
「じゃあさ、日曜日にもし天気が良かったら、この野原でお花見をしようよ……二人で。」
彼女は少し驚いた表情をして……やがてニッコリと微笑んでうなずいてくれた。
……二人の側を通り過ぎる風が、少し暖かさを増した気がした……
【Postscript】
「知場君と清川さん」シリーズ(?)の2作目です。
これを書く前に、私しばらく「トゥルー・ラブストーリー」にハマっておりまして(^^;、その影響がまざまざと窺えるSSになってしまいました(笑)(<デートの帰りに、女の子のお気に入りの場所に立ち寄る……というあれですな)
ちなみにTLSではのぞみちゃんと綾音ちゃんと育美ちゃんがお気に入りで……ってそんな話はどーでもいいですね(^^;ゞ(TLSについては「よもやま」で書くかも知れません)
……ホントは、「野原の中で風に吹かれる清川さん」が書きたかっただけなのに……どこでどう間違ったのか(^_^;(笑)
(作品初出) 97/04/21 NIFTY-Serve内ときメモSSパティオ「ときめき文庫」
◇この作品への感想は、きゃのん(cannon@seagreen.ocn.ne.jp)までお送り下さい。