私が中学1年の頃に父親が原付免許を取った。その一年後は自動二輪免許を取りC72というホンダのビジネス車を購入して通勤に使っていた。
その頃、佐賀県の基山近くの「日ノ隈山」においてモトクロスレースが毎月開催されていた。父が操縦するC72の後に乗って見に行っていました。初めて見に行ったときは町中で見るバイクのイメージと違い、「オートバイってこんな事もできるんだ」と感心しましたね。
だって、アップダウンの激しい中をシフトチェンジしながら走ることが出来るだなんて不思議に思えたし、ジャンプもするんですから驚く他無かったです。

ただ、バイクレースを見たのはその時が初めてではなくて、私の記憶にはそこで飲んだ「オレンジジュースソーダ」〜今で言う100%ジュースみたいなもの〜の記憶の方が強いのだが、小学2年生になるのだろうか、福岡の東に「雁ノ巣」というところがあり、ここにアメリカの駐留軍の駐屯地があって、そこで「第2回クラブマンレース」が行われた。そのレースを父の仕事仲間の方と見に行ったのですが、それには後に活躍する名ドライバー、ライダーが沢山出場していたらしい。

日ノ隈山でのレースは毎回に見行っていましたが、福岡市の南区「白水池」にレースが移る頃になると私も高校生、早く免許を取りたくてうずうずしていて、16になった後二輪の免許を取るために、休みの日に父が勤めていた役場の敷地内で練習をしたのですが、飲み込みが悪い私は自動二輪免許合格に3回も掛かってしまった。
2回目の時の方が「合格した」と思ったんですが、結果は3回目に出ました。免許を取ってからはもう父の後ろに乗る必要はありません、当時人気車種だったホンダのCS90を中古で手に入れ、学校から帰ると毎日乗って、月に1000キロお小遣いの1000円全部をガソリン代に使い、それでも修理が必要だったりすると足りないから、郵便配達や引っ越しのアルバイトは欠かせませんでした。

当時は下手くその上、道路も砂利道が多くあってよく転んでいました。CB125のフロントタイヤを交換して次の日に道路工事の窪んだ穴に前輪を激しくぶつけパンクさせたときは悔しかった。そのCBは夏休み前に中古で買ったもので、熊本の阿蘇へ1泊ツーリングに行ったのが初めてのロングツーリングでした。
高校2年になって※「南米商会」の藤井さんのモトクロス仲間の方からスズキAS90を改造したモトクロッサーを中古で4万円で譲ってもらい、初めて練習に行ったのは「広川」にあるスズキが管理していたコースに行きましたが、アップダウンが激しくて1周するのに相当時間が掛かったし、転倒も数えることができないくらいでしたね。午後になると少しはマシになったのですが、それでも私が2周する間に他の人は3周以上回るくらいの差があり、ただただ疲れた1日でした。

それが半年が経つと上手くなるもので、町中を走っても転ぶことが極端に少なくなりました。
免許取って間もない頃にCB750(K0)に初めて乗ったとき、借り物だからと言うこともあるがこわごわ、Uターンするでも倒さないように一苦労。それがモトクロス初めて半年たつ頃になるとそんな怖さはどこへやら、ノーヘルで夜中に160出す「ばかちん」になっていましたね、それも雨上がりだったような。

※南米商会:現在福岡市早良区藤崎でスポーツサイクルを専門に扱っているショップ。そこの藤井社長が久工大の先輩で、当時はバイクを扱っていて店先に置いてあったモトクロッサーを通学のバスから見ていて、見に寄ってからのお付き合い。

モトクロッサーはもちろん、町乗りのバイクも自分で全部修理しました。友人がプラグのねじを潰したことがあって、私と同じCS90だったこともあり、シリンダヘッドを分解し学校の先生から教えてもらったボーリング屋に持ち込みねじ穴を修正、組付けをやってあげたこともあります。(バイト料は1000か2000円もらったかな、それでもバイク屋でする修理代の半額以下)

AS90の整備・改造、CS90の調整等、勉強せずにバイクばっかりいじっていたので学校の成績が下がって、結果母親が学校に呼ばれまして、事情を聞いた先生からしかられたこともあるほどでしたね。当時、夜11時頃まで毎日やっていましたから。そんなことがあってから、授業時間中だけでも集中して勉強するようにして成績も少しずつ戻っていきました。

高校3年の時、、学校から推薦入学で「久留米工業短期大学」に行けば2級整備士資格が取れると持ちかけられて「ならばそれがいい」と進学を決めました。2年間、乗り換え3回、片道2時間弱の通学を続けた2年生の7月、就職先を探す時期になって、父は福岡での就職を希望していて、昔勤めていた職場に縁故就職出来ないか動いていたのですが、公務員なので辞める人は少ないために空きも無く、私は就職先をホンダにするかヤマハにするか悩んでいました。
当時もホンダは二輪車でトップの会社で実力主義、ヤマハは4サイクルを作り始めて間が無く、「いろんな事にチャレンジしていく会社」との印象があって、私は後者を取りました。就職試験は学校からまとまってヤマハ本社へ受けに行きましたが、のどかな田舎町に「エーッ!就職したらこんなところで働くのかよー」と思いましたが、運良く就職することが出来ました。
ヤマハ発動機に入社したのは昭和49年です。短大を卒業しなければ2級整備士の受験資格がありません。学校予定の卒業式より試験日の方が一日早かったため、卒業式はその前に変更になりました。
私の入社式は3月26日、これに合わせて入寮しておかなくてはなりませんから、試験会場となった短大から直接行けるように荷物持参での受験です。

受験したのはガソリンとシャーシーの2級、ディーゼルエンジン2級ですが、ディーゼルは学校での授業時間が規定に達していない為実技免除にはならないのは残念です。先生からも「ディーゼルの試験は難しく、合格率も低い」と、聞いていましたが、実際に試験受けると一番簡単でしたし、3科目最後だったこともあり途中退室し、出発することにしたくらいです。後日、すべての合格通知が来ました。

3月26日、私の社会人としての第一歩の日である。
入社式の後、研修を行うためにバスで3時間ほど離れた施設に行った。(どこだったのかなー、場所は不明だが、凄く山間のところで、施設は新しかった)
そこで社内規定や就業規則、守秘義務などの説明を受けた。守秘義務?「開発物語」は駄目?、28年も前のことだから大丈夫!?
時効!・・、まあ、入社3ヶ月はいわゆる試用期間、正社員ではないから会社は自由に解雇できる、不祥事を起こせばそれまでだ。要するに責任ある仕事や社用車の運転などは出来ない。

その研修で胸に付けるネームカードには配属先が書かれていて『おっ、技術部か、よかったー』。