RD250・350のテストの一貫で谷田部行き。
テスト部品とテスト車両を夕方トラックに積み込み翌日浜松から新幹線で東京へ、山手線に乗り上野駅で降り常磐線で取手駅まで、そこから谷田部高速試験場までタクシーで30分かかる。行き始めの頃から「筑波学園都市」の工事が始まっていてタクシーに乗るたび道が変わっていた。
東京と言えば「東京弁」。でも常磐線上野駅のホームでは駅構内のアナウンスがちょっと違う、ここは「東北の入り口上野駅」である。初日はまだ別のメーカーがテストをしているので行動範囲も制限される。取り敢えず宿舎で5時になるのを待ち食堂で夕食を取る。(どこのメーカーも極秘車両を持ち込んでいるのでお互いのマナー)

翌日になるとトラックで送ったテスト車両が到着しているので早速テストの準備。事前の打ち合わせに従い走行を始めます。そこには東京モーターショーでベールを脱いだ「RZ201」・・・ロータリーエンジンを積んだバイクも走る。RZ201のエンジン開発は私がRDのエンジンをテストしていたベンチのお向かいでやっていて、なかなかガードが堅くエンジンなんて見せてくれないし、エンジンテストのOさん(愛称:はるさん)は馬力も「ムニャムニャくらい」とはぐらされるし、ベンチ室入り口ドアは固く鍵が掛けられ・・、機密扱いでした。

開発自体、部署が異なる研究部でやっているので無理はない。担当スタッフも極少人数でやっていたが、ロータリーの良いところは高回転でのトルクが厚く同程度の出力であるXS650が200km/hを越えるのがやっとなのに、RZ201は220km/hを安定して出していた。しかし、排気温度が相当高いのと当時の社会情勢はオイルショックで燃費の悪いバイクを作ることなど出来ない、そんなご時世でロータリーの開発は昭和52年で終わった。
でもね、そのエンジン開発は、ボート業界ではライバルとなっているヤンマーと提携していたんです。XS650のエンジン下部を使い、その上にロータリーエンジンを載っける形でした。

それはともかく、そんな高速で走るバイクもあれば100km/hがやっとのバイクまで種種雑多、常にバックミラーでの後方監視は怠れ無い。8月のテストでは一日目は耐焼き付き性のテスト。補助的に走っていた7月とは違い全面的に一つの仕事を担当して走る、内容は新しいシリンダとピストンで慣らしを行いながら最高速まで徐々にスピードを上げ問題が出ないかをテストする。Aさんは温度計を「巡礼さん」のように首から下げ速度毎の温度計測を行っていたようです。

50kmから走りはじめ2周おきに速度を10kmずつ上げる(だったかな?)、80kmからは4周する。その都度プラグの焼け具合を記録するため交換していく。さすがに100kmを越すと何時焼き付くか分からない、不安要素が全くないわけではないからクラッチには必ず指を掛けておく、特に速度を変えた直後は要注意で、ヤマハコースで走っている内に先輩達から教えられたことを忠実に守る。
一日目は終日この仕事にかかりっきりになった。二日目は最高速での耐久テスト。最高速のまま周回できる谷田部でスロットルを開いたまま走り続けるのはもどかしい物がある。そこで焼き付きの心配が殆ど出ない3周目以降は2cm幅位に切ったチューブをスロットルに巻き付けもう一方の端をウインカーランプに巻く。こうするとハンドルの付け根を両手で掴んで走ることができる。

頭はタンクにぴったり付けているのでミラーも横目でチラリと見て後方確認が出来るように内側下向きにする”谷田部仕様”、同じRDが横に並ぶと個体差で僅かに速度が違う、遅いバイクに乗ったときはタンデムシート部分まで腰を引くと2〜3キロ速度が上がりこれで追いつける。で、この状態ではたとえ緩い谷田部の400Rカーブでもバイクを傾けないと曲がらない。そこで左回りのこのコーナーではハンドルを右に切る、するとバイクはジャイロ効果の反力で左に傾き曲がり始めるが、ハンドルが切れ込もうとするので常にハンドルの左側を押すように支えたまま、出口では逆にハンドルの右側を押しながら腰を戻すとバイクは直立する。初めは怖々乗っていた最高速での試験もコーナーで上手く回るこつを掴むと慣れてくる、慣れてくると160km以上で走って居ても睡魔が襲ってくる、特にコンクリート舗装の上は熱気が立ちこめ、夏場のテストは36度以上に気温が上がって追い打ちを掛けてくる。

そんなときは小さくてもあごに力を入れてあくびをすると少しは眠気が取れるようだ。そんな中でも後ろからXS650等の高速車が来ていないのを見計らって45度バンクを走ってみる。コーナーは幅が20m程ありその半分くらいから徐々に傾斜(バンク)が付き、最上部は45度の傾斜がある。そこを走るとRD250/350では速度が足りず左コーナーにも関わらず右ステップが接地してしまう!
このバンクを安定して走るには最低180km/h以上出ていなければ上がれない。 (因みに自動車も同様で、150km位でハンドルを右に切ってもズリズリ下に落ちてしまう)

このようにして走った後のテスト車両でヤマハコースで走ると、上手く走れない。左周りの谷田部を走った後はタイヤが片減りしていて駄目。4時を過ぎるとそろそろ帰り支度。テストに使った部品を箱に詰め、車両と共にトラックに積み込む。仕事を終え早めの食事をとり宿舎に戻る。当時の谷田部出張の日程はゆっくり出来たもので、夕刻までに磐田本社に戻れば良く、その間出張中とは言え自由行動が出来た。ただ、あまり遅く戻ると先輩達が先に戻っていたりするので程々に・・・。